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All Chapters of ゆりかごの中の愛憎: Chapter 31 - Chapter 40

52 Chapters

マンションでの逢瀬

多摩さんが洗濯物を干し終え縁側から戻ると、菜月が困り顔でダイニングチェアーに座っていた。腰を半分上げては下に戻す、大きな溜め息が漏れた。「菜月さん、どうなさったんですか」「忘れたの」「忘れた?なにを忘れたんですか?」 菜月は目の前で小さな長方形を作って見せた。「なんですか、それ?」「マイナンバーカードを忘れて来たの」「忘れて来た?」「御影のマンションに、忘れて来たの」 菜月はもう一度、大きな溜め息を吐いた。「取りに行けば宜しいじゃないですか」「なんとなく、気が重いの」「それなら、多摩が着いて行きましょうか?」「いいの?」「勿論ですとも」 あの陰鬱で、辛い思い出しかないマンションに戻るには二の足を踏んでいた。そこで、多摩が付き添ってくれるというので重い腰が上がった。「車は、冬馬に出させましょうね」「え、佐々木さんに?忙しいんじゃないの?」「湊さんから、いつも側に居るようにと頼まれたそうですよ」「湊が」「はいはい」 湊は、如月倫子の異常な雰囲気を鋭く感じ取り、菜月の安全を確保するため、綾野の家から外出する際は可能な限り佐々木が側に付き添うよう指示を出した。倫子の行動にはどこか不穏な影があり、湊はその危険性を見過ごすことはできなかった。そこで今回は、菜月が御影のマンションへ向かう際、佐々木に加えて多摩さんも同行することになった。 佐々木は冷静沈着な性格で、どんな状況でも的確に対応できる信頼の置ける存在だった。一方、多摩さんは温和な物腰ながら、鋭い観察力を持ち、細かな異変を見逃さない。菜月自身は、二人に守られていることに少し気恥ずかしさを感じつつも、どこか安心していた。御影のマンションに近づくにつれ、街の喧騒が静まり、緊張感が漂い始めた。「いいお天気ですねぇ」「うん」「久しぶりのご自宅ですから、ゆっくりなさって下さいね」「う、うん」 菜月は返答に困った。多摩さんは、菜月が賢治から受けたドメスティックバイオレンスの数々を知らない。ルームミラーには菜月の痛々しい姿を慮った佐々木が映ったが、車窓を眺める多摩さんの横顔は和やかで、眩しい太陽に目を細めていた。(多摩さん、びっくりするだろうな) 菜月の胸は痛んだ。ところが、503号室の駐車場には賢治の黒いアルファードが駐車していた。多摩さんは首を傾げた。「あらあらあら、賢治
last updateLast Updated : 2025-07-09
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マンションでの逢瀬②

 5階で扉が開くと、まるで如月倫子が手を広げて待っているかのような錯覚に足が竦んだ。見上げると佐々木も緊張をした面持ちをしていた。「・・・菜月さん、私が行きますか?」 菜月は一瞬迷ったが、室内が不倫の証拠になる状況下にあるかもしれないと考えた。「賢治に見つかったら、佐々木さんが不法侵入で訴えられるかもしれないから、私が行く」「分かりました」 菜月は玄関の外でパンプスを脱いだ。玄関の鍵は、音を立てないようにジリジリと時間を掛けて回した。静かに解錠された音がした。息を殺してノブを掴むと、そこには、赤茶の賢治の革靴の隣に黒いピンヒールが揃えてあった。(このハイヒール!) これは、以前、如月倫子がマンションを訪ねて来た時に履いていたピンヒールと同一の物だと思われた。菜月は携帯電話を取り出すと、録画ボタンを押した。画面には黒いピンヒール、菜月はゆっくりと廊下を進んだ。(・・・汚い) ふと脇を見ると、バスルームの洗濯機には使い回しのバスタオル、脱ぎ捨てた衣類、生乾きの臭いに顔を顰めた。よく見ると廊下の隅には綿埃や髪の毛が溜まり不衛生極まりなかった。「・・・・だ・・・よ」「そ・・う・・で」 リビングから話し声が聞こえて来た。1人は賢治だが、もう1人の声は低くなにを話しているのか聞き取る事は難しかった。然し乍ら、この声色は忘れもしない深紅の口紅。(如月倫子が居る) 菜月の、携帯電話を持つ手が小刻みに震えた。身体中の血が逆流している、後頭部にジンジンとした痺れが広がってゆく。すりガラスを一枚隔てた場所に、あの異様な雰囲気の女がいると思うと武者震いがした。(賢治さんと如月倫子は、許さない!) 足裏に細かい砂の粒を感じながら、摺り足で廊下を移動した。それは、近付くごとに鮮明になり会話の内容を録音する事が出来た。「倫子、今度、食事にでも行かないか?」「いつ?」「金曜日、いつものホテルで」「菜月さんが居ないのに、たまには他の日でも良いじゃない」「いつもの部屋が空いてないんだよ」「仕方ないわね」「ごめんよ」 賢治と倫子が金曜日、いつものホテルで、いつもの部屋で逢瀬を重ねていた事実が、菜月の胸に重くのしかかった。その光景を想像するだけで、胃が締め付けられるような感覚に襲われた。どのホテルなのか、菜月には見当もつかなかった。都心の高級ホテルか、郊外
last updateLast Updated : 2025-07-09
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鹿威しの庭

「お母さん、ただいま」 3人が帰宅すると、ゆき が庭で洗濯物を取り込んでいた。それを見た多摩さんは、慌てて「申し訳ありません」と下駄を履いた。「多摩さんがいないからびっくりしちゃった」「申し訳ありません、書き置きの1枚でもすれば良かったですね」「今度からそうして頂戴」「はい、はい、はい」 多摩さんが代わりにタオルを取り込み始めると、 ゆき は菜月に、「どこに行って来たの?」と微笑んだ。「御影の」「え?」「御影のマンションに忘れ物を取りに行ったの」 ゆき の顔から笑顔が消え、戸惑いの表情が浮かんだ。「多摩さんとお部屋に行ったの?」「佐々木さんと行ったの。多摩さんは車でお留守番」「そう、それなら良かったわ」「うん」 ゆきのやや強張った面持ちが、ふっと和らいだ。彼女は、醜く荒れ果てたあの部屋に多摩さんが立ち入らなかったことに心から感謝していた。あの散らかった部屋、埃と乱雑な生活の痕跡がむき出しの空間を、誰かに見られるのは耐え難い恥だった。玄関先で多摩さんと立ち話をしていると、引き戸がゆっくり開いた。現れたのは湊だった。ノートパソコンを手に顔を上げた湊は、ゆきと多摩さんの顔ぶれに一瞬たじろいだ。「なっ、なに。母さんまで。菜月、なにしてるの」「お帰りなさい」「湊さん、お帰りなさい」「佐々木まで!なにかあったの」 菜月は小声で湊に向き直った。「御影のマンションに行ってきたの」「佐々木と?」「はい、私がお連れしました」「そう、ありがとう」「いえ」 そこへ、タオルの山を抱えた多摩さんが顔を出した。「湊さん、おかえりなさい。私も行きましたよ」「多摩さんが、御影のマンションへ!?」「はい、行きましたが」 驚いた湊は菜月の顔を見た。菜月は首を縦に振った。「多摩さんは、菜月の部屋に入ったの?」「賢治さまのお車があったんです。なので多摩は冬馬の車で留守番でした」「そうなの、良かった」「なにが良かったんですか?御影のお部屋を1度は拝見したかったのに!」「それはまた今度、ね」「はい、はい、はい!」 少し膨れっ面した多摩さんの後ろ姿を、湊は安堵の溜め息で見送った。それは、幼かった菜月を我が子のように慈しみ育てて来た多摩さんに、菜月が受けたであろう暴行の痕が残るあの部屋を、決して見せてはならないと思ったからだ。そこで、多摩さ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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Queen

 都会の喧騒は遠くかすんでいる。 高層階ホテルからの景色は煌めき、薄暗い室内に揺らめく影を投じていた。倫子はソファに腰を下ろし、グラスに注がれた赤ワインを手に、物思いにふけっていた。彼女の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、しかしその奥には燃えるような情熱が宿っていた。 賢治は、部屋の入り口に立っていた。背の高い彼のシルエットは、ドア枠に溶け込むように静かだったが、その存在感は圧倒的だった。3ヶ月前、2人は偶然を装った必然で、同窓会で再会した。 1週間に一度の限られた逢瀬。抑えきれぬ想いが今、部屋の中で静かに爆発しようとしていた。「倫子・・・」 賢治の声は低く、かすかに震えていた。彼は一歩踏み出し、彼女のそばに近づいた。倫子はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。彼女の黒いドレスは、体のラインを優雅に際立たせ、肩から滑り落ちそうなほど軽やかだった。彼女の視線が賢治の目に絡みつき、言葉を超えた何かで会話が始まった。「会いたかったわ」 倫子は囁くように言ったが、その声は途中で途切れた。賢治の手が彼女の頬に触れ、冷たい指先が温かい肌に溶け合う瞬間、二人の間にあった壁は崩れ去った。彼の手は彼女の髪をそっとかき上げ、首筋へと滑らせた。倫子の呼吸がわずかに乱れ、彼女の指は無意識に賢治のシャツの裾を握りしめた。次の瞬間、賢治は倫子を引き寄せ、唇を重ねた。それは穏やかなキスではなく、抑えきれぬ欲望と喜びが混ざり合った、激しいものだった。 倫子の手は彼の背中に回り、強く抱きしめた。二人の体はまるで磁石のように引き合い、互いの熱を感じながら、部屋の中心へと自然に導かれていった。ベッドの端に腰掛けた倫子は、賢治のシャツのボタンを一つずつ外していった。彼女の指先は震えていたが、それは緊張ではなく、抑えきれぬ情熱の証だった。 賢治の胸板が露わになり、倫子の視線は彼の肌を這うように動いた。「もう、あなたからは離れられない」「倫子」 彼女の声は小さく、しかしその言葉は二人だけの空間を満たした。賢治は彼女のドレスの肩紐をそっとずらし、肌に触れるたびに倫子の体がわずかに震えた。彼の手は彼女の背中を滑り、優しく、しかし確かな力で彼女を引き寄せた。二人はベッドに倒れ込み、シーツの冷たさが一瞬だけ彼らの熱を和らげたが、それはすぐに再燃した。 倫子の髪がシーツに広がり
last updateLast Updated : 2025-07-09
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チェックメイト

バサっ 湊のデスクは”資料”が山と積まれていた。賢治のアルファードのカメラSDカード:吉田美希との不適切な行為や毎週金曜日の行動履歴が記録。クレジットカードの請求明細書:不倫に関連する可能性のある支出の証拠。菜月のマンションでの録音:賢治と如月倫子の会話が記録。マンションリビングの写真:賢治と如月倫子の親密な様子。如月倫子からの小包の伝票:口紅やその他の品物の筆跡。 賢治と吉田美希、如月倫子との不倫行為の証拠は有り余るほど揃っていた。然し乍ら、あともう1枚、決定的な証拠が必要だった。(ホテルの部屋に出入りする画像が欲しいな) 湊が会議室で”資料”をまとめていた時だった。内線の電話が鳴った。それは社長である、賢治からだった。「湊、ちょっと手伝って欲しい事がある」「事務の久保さんはいないんですか?」「男手が欲しいんだ」「男手?」「荷物が重いんだ」 賢治が湊になにかを依頼することは、これまで一度もなかった。訝しげな面持ちの湊は、賢治の言葉を預かり、”資料”をアタッシュケースに丁寧にまとめた。書類の束は、まるで秘密の層を重ねるように整然と収まり、金属の留め具がカチリと音を立てた。湊はケースを手に、スチール棚の奥に隠された施錠装置を慎重に操作し、堅牢な錠に鍵をかけた。その動作は、まるで何かを封印する儀式のようだった。 螺旋階段を降りると、そこにはペットボトルの入った段ボール箱が、まるで要塞のように高く山積みになっていた。埃っぽい空気の中、湊は一瞬立ち止まり、賢治の意図を測りかねるように目を細めた。なぜ今、こんな依頼を?資料の内容と、この物資の山は何か関係があるのか?(コーヒー?)「おう、湊、これを南営業所まで運んでくれないか?」「私が、ですか?」 男手が欲しいと言ったが、事務所には男性の営業社員が数名、困り顔でこちらを見ていた。賢治から見れば湊は部下かもしれないが、仮にも部長という立場だ。一般職の社員の前で、山と積まれた段ボール箱を運ぶ謂れはなかった。「失礼ですが、これから管理物件のオーナーとの面談があるのですが」「営業所から向かえば良いじゃないか」「ですが、アポイントメントの時間に間に合いません」 すると賢治は顔を赤らめて声を張り上げた。事務所内の従業員たちは皆、肩をすくめた。「俺の言う事が聞けないのか!」「いえ、そうい
last updateLast Updated : 2025-07-09
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切り落とす勇気

 菜月は佐々木の運転する車で、静かな街並みを抜けてとある場所へと向かった。 目的地は、白壁にアイビーの蔦が這うこぢんまりとしたヘアーサロン。菜月が1ヶ月に1度、決まって訪れる特別な場所だ。車が停まり、菜月が降りると、柔らかな陽光が蔦の緑を照らし、穏やかな雰囲気を醸し出していた。木製の扉を開けると、ウィンドウチャイムの軽やかな音が店内に響き、懐かしい香水の匂いが鼻をくすぐった。このヘアーサロンは完全予約制で、客は菜月だけでいいという店主のこだわりが息づいていた。 店内は静謐で、鏡台の前に置かれた小さな花瓶に季節の花が活けられている。菜月はいつもの席に腰かけ、鏡越しに自分の姿を見つめた。佐々木は車で待機し、彼女の時間を邪魔しない。湊の事故の報せが頭をよぎったが、菜月はそれを振り払うように軽く首を振った。ここでは、ただ自分と向き合う時間が欲しい。店主が微笑みながらハサミを手に現れると、菜月の心は不思議と落ち着きを取り戻した。チャイムの余韻が、まるで時間を止める魔法のようだった。「綾野さま、いらっしゃいませ」「こんにちは」 線が細く上背のある男性ヘアアーティストが、菜月を白い革の椅子へと案内した。「回しますね」ゆっくりと半回転する椅子、鏡の中には厳しい面持ちの菜月の姿があった。「今回はお早いんですね」「ちょっと、気分転換がしたくて」 美しいラインの指先が、菜月の髪をひと束摘んだ。天井にはシーリングファンが回り、背の高いオリーブの樹が葉を揺らしていた。心地良い音楽が、静かな空間を創り出している。ぎしっ「いつものように毛先だけ揃えますか?」「いえ」 菜月の髪は、薄茶色で絹糸のように滑らかで美しい。緩やかな巻き毛は肩甲骨を覆うほど長く、光を受けると柔らかな金色の輝きを放った。湊はかつて、その髪を「天使の羽根みたいだね」と恍惚の表情で眺め、指でそっと触れるたびに目を細めていた。 菜月がヘアーサロンの鏡台に座ると、店主がその髪を丁寧に梳き、彼女の美しさを引き立てるようにハサミを動かした。白壁に這うアイビーの蔦が窓から差し込む光に揺れ、菜月の髪と調和するように輝いた。予約制の静かな店内では、ウィンドウチャイムの音が時折響き、穏やかな空気を紡ぐ。菜月は鏡越しに自分の髪を見つめ、湊の言葉を思い出した。あの事故以来、湊の声は聞こえないが、彼の視線が髪に宿っているよ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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指紋採取

 湊の部屋は東向きで、昼間はやや薄暗い。時折、椎の木の木漏れ日が障子に光と影の模様を織りなし、静かな空間に柔らかな動きを与えていた。湊は鎮痛剤の影響で、切れ長の一重瞼を閉じ、右腕には白い包帯がきつく巻かれ、右頬と額には大きな絆創膏が貼られた痛々しい姿だった。 布団に横たわる彼の顔は、事故の衝撃を物語るように青白く、菜月の心に細かな波紋を立てた。彼女は短く刈り上げた髪を無意識に触り、湊の「天使の羽根」という言葉を思い出した。あの髪を自ら切り落とした決意が、今、湊の無力な姿を前に揺らぐ。障子の光が彼の顔に落ち、まるで儚い絵画のようだった。 賢治の依頼、如月倫子の影、事故の謎が頭をよぎるが、菜月はただ湊の手を握った。その冷たい感触に、彼女の胸は締め付けられ、過去の依存と新たな自立の間で心が揺れた。部屋の静寂の中、椎の木の葉音だけが、そっと時間を刻んでいた。(絶対おかしい!慎重な湊が事故を起こすなんて!) 今回の交通事故は自損事故として取り扱われた。湊がブレーキを踏めなかったのは後部座席に積んでいた清涼飲料水の荷崩れが原因で、事件性はないと事故現場に立ち会った警察官はそう判断した。「少し、腑に落ちない事があるんです」然し乍ら、県警捜査一課に所属する湊の友人、竹村誠一は疑念を抱いた。「菜月さん、ちょっと」 プライドの高い賢治が、湊に頭を下げる事など1度も無かった。事務所に居合わせた従業員に尋ねると、皆、口を揃えて「自分で運ぶから手を出すな!」と社長に怒鳴られたと言う。そして、湊と賢治は6箱の段ボール箱をBMWに詰め込んだ。「はい」 竹村誠一は、事務所にあったメモ帳に、ボールペンを走らせた。そこには目を疑う文字が並んでいた。それは、あるはずのない、25本目のペットボトルについてだった。「湊さんは、持ち込んではいない、と証言しました」「それじゃ、ブレーキに挟まったあれは?」「誰かが作為的に準備した物だと思われます」「まさか」「心当たりはありますか?」 咄嗟に脳裏に浮かんだのは、賢治と如月倫子だった。けれど今、ここで2人が警察に捕まってしまっては”報復”は成り立たない。菜月は、なんとしても賢治と如月倫子が冒した不倫行為を明るみに出し、社会的に抹殺したいと考えた。「菜月さんも同じだ」「なにがでしょう」「湊さんにこの件を尋ねた時、同じ顔をしました」
last updateLast Updated : 2025-07-09
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待ち伏せ

 金曜日の夕暮れは雨が降っていた。(湊は、寝ているわね) 菜月は、怪我で横たわる湊を気遣い、ニューグランドホテルへは自分一人で行くことを決めた。椎の木の木漏れ日が障子に揺れる部屋で、湊の包帯と絆創膏に覆われた姿が胸を刺す。如月倫子がどんな人物であれ、公の場で大それたことをしでかすはずはない。そう自分に言い聞かせ、菜月は心を決めた。 変装とは程遠いが、女性らしいぽってりとした赤い唇を隠すため、色味の薄い化粧を施した。鏡に映る短く刈り上げた髪と控えめな顔立ちは、まるで新たな自分を試すようだった。湊の「天使の羽根」の言葉が一瞬よぎるが、彼女はそれを振り払い、バッグに最小限の荷物を詰めた。賢治の依頼、事故の背景、倫子の思惑が頭を巡る中、菜月は一人で立ち向かう覚悟を固めた。ホテルのロビーで何が待つのか、確信はない。それでも、湊をこれ以上巻き込みたくないという思いが、彼女の足を前へ進ませた。障子の光が背中を押すように、菜月は静かに部屋を出た。「菜月さん、お出掛けですか?」 夕飯の支度をしていた多摩さんと廊下で鉢合わせし、菜月は飛び上がって驚いた。「お友だちに会いに行くの」「あらあらあら、珍しいですね」 菜月は、シルクの白いシャツに袖を通し、濃紺のパンツを履いていた。「あらあらあら、菜月さんがズボンを履かれた姿は初めて見ました」「変かしら?」「いえ、髪型も短くて男の子みたいですが、多摩は好きですよ」「ありがとう」 確かに、その姿は中性的な印象を醸し出し、普段の菜月からは程遠かった。「そのお荷物は何ですか、随分重そうですねぇ」「う、うん」「お出掛けでしたら、冬馬を呼びましょうね」「あ、いいの。タクシーを呼んでくれる?」「はい、はい、はい」 多摩は廊下を小走りに茶の間へと向かった。(確かに、重いわ) 菜月は肩に掛けた黒い革の鞄を覗き込んだ。そこには郷士が愛用している一眼レフカメラが入っていた。(お父さん!壊したらごめんなさい!) 菜月を乗せたタクシーはニューグランドホテルの車寄せで停まった。「ありがとうございました、2,900円になります」 タクシーの後部座席のドアが閉まり、菜月は緊張のあまり唾を飲み込んだ。(ここで、賢治さんが!) ニューグランドホテルの回転扉で一回転した菜月は、顔を赤らめて頸を掻いた。エントランスには、オープ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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待ち伏せ②

「菜月」「は、はい」「これはどういう事なの」「だって」「だってじゃないでしょ!」 怒った湊は、菜月の手からスプーンを奪い取り、苺パフェの主役を口に頬張った。「あっ!いちご!」「いちご!じゃないよ!」「だって」 機嫌の悪い湊は、左の中指でテーブルの上をトントンと叩きながら菜月を睨み付けた。「勝手な事しないの」「だって湊が」「右手が怪我してるからって言いたいんでしょう」「だって、カメラが使えないじゃない」「とにかく!」 スプーンが菜月の目の前でぐるぐる回った。「うっ」「それならそれで出来る事だって有るよ」「どんな事」 少し落ち着いた湊は、テーブルに届いたブラックコーヒーの白いカップに口を付けた。「ちゃんとよく聞いて」「う、うん」 湊は声を潜めた。「賢治さんと如月倫子の写真は、とにかく1枚でも多く撮る事」「う、うん」「2人が並んでいる事が前提だよ」「分かった」 そして湊は、身軽な菜月が2人を追尾し、客室の部屋番号を確認する事を提案した。「その部屋番号を僕に教えて」「分かった」 そして、フロントで待機している湊が2人の客室に隣接する客室をリザーブする。「それでどうするの?」「賢治さんと如月倫子が部屋から出て来た所をカメラで撮るんだ」「出来るかな」「出来るかな、じゃなくてするんだよ」「う、うん」 不安げな菜月の手のひらを、湊がそっと握った。「気付かれないように」「うん」「無理しないように」「うん」その時、湊の表情が変わった。「菜月」 湊はコーヒーカップをゆっくりとソーサーに戻し、上機嫌で苺パフェを頬張っている菜月の腕を掴んで強く揺さぶった。「な、菜月」「ん」「カメラ、カメラ」「あっ」 ドアボーイがお辞儀をした隣には、焦茶のスーツの賢治が如月倫子を探して佇んでいた。その焦茶のスーツは、賢治が菜月と結納を交わした時に着ていた物だった。菜月は、この1年が次々と穢されてゆく感覚に陥った。(賢治さん)カシャ 人待ち顔の、賢治の面差しを連写する、菜月の腕は怒りに震えた。カシャ ソファに座る賢治は左手首の時計を気にしていた。約束の時間から10分が過ぎていた。賢治は脚を組み、肘を突いて携帯電話を弄り始めた。カシャカシャ ドアボーイが恭しくお辞儀をした。「菜月、あれが如月倫子だね
last updateLast Updated : 2025-07-09
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待ち伏せ③

エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。「菜月」「湊、びっくりしちゃった」 湊に手を引かれた菜月は、賢治に見つかる事を恐れ2018号室を何度も振り返った。けれどそれは杞憂に終わった。湊がカードキーをドアノブに翳すとカチっと軽い音がして、2011号室の扉に緑のランプが点った。「この部屋はどうしたの?」「僕たちの作戦会議の部屋だよ」 壁の電源スイッチにカードキーを差し込むと、夜景の中に温かなオレンジの明かりが灯った。2人の姿が大きな窓に映った。「あああああ、ドキドキした!」 湊が振り返ると、床に座り込んだ菜月がいた。その首には、黒い一眼レフカメラがぶら下がって揺れていた。「菜月、お疲れ」「う、うん、本当に疲れた!緊張した!」 湊が菜月の前に、室内履きスリッパを置き、微笑んだ。「あ、ありがとう」「どういたしまして」 湊は菜月の首からストラップを外し、窓際のソファに腰掛けた。「どう、ちゃんと撮れてる?」 湊は、菜月が撮影した画像を1枚、1枚、確認した。そのどれもが、賢治の不倫行為の証拠となるものばかりだった。「すごいよ菜月、これなら興信所のスタッフに採用されるよ」「本当!?良かった!」 やや薄暗いが2018号室に入る賢治と”女”の後ろ姿が写っている。ただ、如月倫子の顔が曖昧だった。「如月倫子の顔が欲しいな」「ごめん」「菜月のせいじゃないよ、こんな角度じゃ僕でも無理だよ」「うん」「如月倫子が部屋から出る瞬間を撮ろう」「でも、いつ?」 賢治と如月倫子が入室した時刻は20:20。2人が情事を終えて客室の扉を開ける時刻など、皆目分からない。「賢治さんはいつも23:00過ぎには帰って来ていたんだよね?」「でも今は、私が家に居ないから泊まりかも」「そうだね」 長丁場になる事は予想が付いた。「泊まりだとしたら明日の朝」「でも油断は出来ないね」「うん」 菜月と湊は客室の扉を10cmばかり開け、廊下の様子を窺った。そこに人の気配はなく、菜月と湊の2人しかいないような気さえした。「これじゃ不審者だね」 そこで一眼レフカメラを手にした湊が閃いたとばかりに廊下に出た。「ちょっ、ちょっと湊!どうしたの!」 湊は廊下に置かれた観葉植物の鉢植えの中にカメラを忍ばせ、シャッターを押した。1回目は気に入らなかったらしく、2回目の撮影は
last updateLast Updated : 2025-07-09
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