傷を抱く医師と俳優の、夜明けの約束~触れられなかった心が、やがて重なるとき のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

21 チャプター

熱が残る夜

玄関の鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。澪はそのまま扉にもたれかかり、ゆっくりと息を吐いた。薄暗い室内に、夜の気配がじわじわと染み込んでくる。外は雨こそ降っていなかったが、湿り気を帯びた風が建物の隙間を抜けて、わずかに窓を揺らしていた。靴を脱ぐ動作が妙に重たく感じた。足元の感覚が鈍っている。玄関マットの縁につま先を取られそうになりながら、澪は無言のままリビングへ向かった。シャツの第一ボタンに指をかける。けれど、うまく外せなかった。手元がかすかに震えていた。指先をそっと見つめると、爪の内側まで赤みが差しているような気がした。陽真に触れられた場所ではない。なのに、その感覚が、手全体に残っていた。シャツの襟を掴むようにして、引き寄せた。胸元に残る熱を閉じ込めるようにして、布地に爪を立てる。だが、熱は消えない。むしろ内側からじわじわと上がってくるようで、肌の下にこもったものが、全身ににじむように広がっていく。浴室へ向かう足が、廊下で止まった。目の前の壁に掛けた鏡が視界に入った。澪はふと、そこに映る自分を見つめた。頬が、赤い。そんなはずはなかった。何もなかった。触れられそうになっただけで、唇は重なることなく終わった。それでも、顔に熱が残っている。息を浅く吐き出し、額に手をあてた。火照っているのか、それともただの羞恥か。区別がつかない。いや、区別したくなかった。額から手を滑らせて、鏡に映る目を見つめる。いつもなら感情を遮断するはずのまなざしが、わずかににじんでいた。光の加減か、それとも本当に揺れているのか。確かめようとしても、見ている自分の目から逃れられない。まぶたを、閉じた。深く、強く、息を吸ってから、再び吐く。その動作にすら乱れがあった。心が落ち着かない。誰かに見られているわけではない。ひとりきりのはずなのに、どこかで視線を感じるような居心地の悪さが、身体の奥でくすぶっていた。耳の奥で、陽真の声がこだまする。「あなた自身は、誰かに触れたいと思ったことはあるのか」低く、湿った声。あのとき、確かにその言葉に、心が一瞬、揺れた。拒絶したはずだった。手で
last update最終更新日 : 2025-08-11
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閉じられた部屋と開かれたノート

インターホンの音が鳴ったとき、澪はソファに座っていた。薄いブランケットを膝にかけたまま、読みかけの専門書に目を落としていたが、音は思考を途切れさせるには十分だった。画面を見ずとも、誰が来たのかは分かっていた。部屋には時計の針の音しかない。窓の外には雲が重く垂れ込め、薄曇りの空が都市のビル群に鈍い光を落としている。夏の終わりが近いせいか、空気にどこか湿りがあった。再びチャイムが鳴る。澪はゆっくりと立ち上がり、足を引きずるようにして玄関へ向かった。ドアを開けると、そこに立っていたのは陽真だった。彼は何も言わなかった。ただ、視線だけで「いいですか」と問いかけてくる。澪は無言のまま、その視線を受け止め、ゆっくりと体を横にずらしてドアを開いた。陽真が室内に足を踏み入れたとたん、少しだけ呼吸が変わったのを澪は感じた。彼の視線が部屋の中をなぞる。まるで音も色も匂いも取り去ったような空間。白と灰を基調にしたインテリア。装飾のない壁。書棚には書籍しかなく、写真や雑貨の類は一切ない。生活感ではなく、整理という名の拒絶。陽真は声を発さずにリビングへ進んだ。窓辺の椅子に腰を下ろし、しばし外の景色に目を向けていた。遠くの空に、鳥の群れが小さな黒い点となって揺れていた。「いつもこうなんですか」陽真がぽつりと呟いた。「何が」澪は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぎながら応じた。「部屋の中が。こんなにも…静かすぎる」返事はなかった。澪は水を持って陽真の前に置き、自分も椅子に腰を下ろした。距離は少しだけ開いていた。間に置かれたローテーブルには、何も乗っていない。まるで、何かを置くことすら許されていないかのように。「君がこういう部屋をつくるとは思わなかった」陽真は言った。感情を探るような口調だった。「誰かと暮らした痕跡がまったくない」「そういうものを、必要としたことがないだけです」澪の言葉はいつも通り平坦だった。しかし、その奥にある何かが、今日はやけに脆く感じられた。沈黙がふたりの間に落ちた。その沈
last update最終更新日 : 2025-08-11
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冷たい光のなかの過去

窓の向こうには、くすんだ空が広がっていた。夜に差し掛かる手前のその色は、灰と藍が混ざり合い、境界のないまま沈んでいく。カーテンは閉じられておらず、ぼんやりとした光が部屋の中を鈍く照らしている。リビングの灯りはまだ点けられておらず、その仄暗さが、かえって言葉を交わすには十分な静寂を保っていた。陽真は黙ったまま窓辺に立ち、澪はソファに腰を下ろしていた。互いに視線を合わせることなく、それでも同じ空気を吸い、同じ沈黙を共有していた。「…小さい頃は、感情を出すと叱られたんです」唐突に澪が口を開いた。静かすぎて、声が空気に溶けるようだった。陽真は顔を向けずに、わずかに肩を動かしただけでその声に反応する。「喜ぶと騒がしいと言われて、泣くとみっともないと怒られた。だから、最初は努力して“黙っている”ようにしてた。でも、そのうち、黙っているだけじゃ足りないと気づいて…」言葉がゆっくりと、けれど確実に空間に染み込んでいく。「表情まで無くした。母は、それで安心したみたいだった」陽真が振り返る。澪の顔は、相変わらず感情を見せていなかった。だが、その目の奥にだけ、微かなひび割れのような揺れがあった。「笑うのも、怒るのも、泣くのも…結局、全部“母のために”しか存在できなかった。自分がどうしたいかなんて、考える余地がなかったんです」その言葉に、陽真はソファへゆっくりと腰を下ろした。互いに正面を向かず、少しだけ角度をずらしたまま座る。視線は交差しない。だが、距離は縮まっていた。「…触れられるのも、当然のことだと思ってた」澪の声がさらに低くなる。鼓膜の奥をくすぐるような、静かな重さだった。「まだ十代にもならない頃。母は“あの人”をよく家に連れてきた。わたしの部屋にも、よく来た。何がどう間違っているのか、わからなかった。だって、母はそれを許していたし…何より、それで母が笑っていたから」陽真が短く息を吸ったのが、澪には聞こえた。
last update最終更新日 : 2025-08-12
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誰も癒せなかった演技

陽真は床に座り、背を壁につけた。薄く冷たいフローリングの感触が、肌を通して意識に届く。腕を膝に乗せて組み、天井の隅をぼんやりと見つめていた。向かいには澪がいた。正面ではなく、少し角度をずらして腰を下ろしている。彼の視線は陽真を見ていない。だが、それでもそこに“聞く意思”があると、陽真には分かった。部屋の空気は変わらず静かで、時計の音さえ耳に届かない。まるで時間が止まっているかのような錯覚に陥る。カーテンの隙間から差し込む街の明かりが、床に淡く広がり、その中でふたりの影が重なっていた。「高校のとき…」陽真の声が、部屋の沈黙を割って落ちた。「親友がいたんです。同じ演劇部で、同じ夢を見ていた。僕よりも才能があって、真っ直ぐで、情熱的で。正直、嫉妬していた。でも、それ以上に…彼のことが、すごく好きだった」言葉の調子が変わった。吐き出すような速さはなく、過去を掘り起こすように、慎重に、途切れ途切れに。「ある日、突然死んだ。交通事故だった。バイクで走ってた夜道で、居眠り運転の車に巻き込まれたらしい」陽真の指が膝の上でわずかに動く。握り締めるでも、離すでもなく、空中に何かをなぞるような仕草だった。「葬式に出たけど、泣けなかった。泣くタイミングが分からなかった。みんなが泣いてる中で、僕だけが表情を失ってて…まるで、“舞台でどう振る舞えばいいのか”を探ってるみたいだった」言葉が止まり、陽真は目を閉じた。「不思議だった。好きだったのに、何も感じない。悲しいはずなのに、身体が動かない。心がどこにあるのか分からなかった」しばらく沈黙が続いた。澪は言葉を挟まなかった。ただ、変わらずその場に座っていた。それが、陽真にはありがたかった。「後で気づいたんです。自分の感情を、芝居の中でしか出せないことに。舞台の上なら泣けた。劇中の“友人の死”には、涙が出た。でも、現実の死には、心が応えなかった。僕は…本当の悲しみに触れたことがないのかもしれない」言葉の最後がかすれ
last update最終更新日 : 2025-08-13
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夜をくぐる

寝室のドアが静かに閉じられた。部屋の空気は昼間よりもわずかに温度が高いようで、ベッド脇の小さなランプの灯りが、天井と壁に柔らかな光と影の模様を描いていた。遠くで風がビルの外壁を撫でる音だけが、微かに耳に届く。ふたりは言葉もなく、ただ隣に並んで座っていた。距離はほとんどなかった。陽真の手の甲が、澪の膝に触れそうで、触れない。その間に流れるのは緊張でも、期待でもなく、ただ静かな呼吸だった。澪がわずかに指を動かすと、陽真の手がそっとその上に重なる。その動きには逡巡がなかった。だが、乱暴さもない。ただ相手の温度を確かめるように、慎重に、ゆっくりと触れる。澪は逃げなかった。目を伏せたまま、身じろぎすらせずに、ただその触感だけを受け入れていた。陽真の親指が、澪の手の甲を撫でる。白い指先が微かに震える。肌に伝わるぬくもりが、まるで初めて触れる雪のように慎重で、儚かった。「寒くないですか」陽真が囁く。澪は何も言わず、首を横に振った。言葉はもう必要なかった。ただ、そのままの静けさのなかで、ふたりの間だけが夜に沈んでいく。陽真は指を絡めたまま、ゆっくりと澪の手を引いた。澪の身体が自然と動く。ふたりの距離がなくなり、陽真の顔が近づく。その眼差しは、澪の中に踏み込もうとしながらも、どこかでためらいを抱えている。澪は、わずかにまぶたを下ろす。陽真が澪の指先に口づける。濡れた唇の温度が、皮膚に吸いつくように感じられた。やわらかな感触が、ゆっくりと手のひら全体に広がっていく。澪の心臓が、かすかに鼓動を早めた。「……」澪は何も言わなかった。陽真は、澪の手の甲から手首へ、そして袖口の中に指を差し入れて、ゆっくりと肌をなぞった。澪は小さく息を呑む。抵抗することはしなかった。けれど、自分の感情がどこにあるのか、もう分からなくなっていた。陽真はさらに身体を近づけ、澪の首筋に頬を寄せた。髪に唇が触れる。わずかな湿り気と熱が、ゆっくりと皮膚の奥へ沈んでいく。澪の肩が微かに震える。陽真の指が顎の下に添えられ、顔を向けさせる。ふたりの視線が、交わった。澪の目は濡れていた。けれど、そこには&l
last update最終更新日 : 2025-08-14
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割れた鏡に映ったもの

浴室のドアを閉めた瞬間、澪は静けさに包まれた。部屋の奥にわずかに残る夜の温度。シャワーの蛇口をひねると、水音が白いタイルに落ちて、遠くの世界を遮断するようだった。裸足のまま床に立ち、湯気に包まれながら、ゆっくりと服を脱いだ。袖を抜く指先に、うっすらと熱が残っている。シャツを脱ぎ捨てたとき、腕の内側に、陽真の指が通った痕がまだ消えずにいた。湿った空気の中、澪は鏡の前に立つ。曇った鏡に映る自分の輪郭は、不鮮明で、どこか現実味が薄かった。額に手を当てる。肌が火照っているのは、浴室の熱のせいだけではない。陽真に触れられた部分が、皮膚の下でまだ疼いている。あの夜、唇が、指が、自分の上を通りすぎていった感覚が、体の深部にまで染み込んでいた。澪は指先で鎖骨をなぞる。そこも、陽真の指が通った場所だ。目を閉じてみても、温度だけが抜け落ちずに残る。触れられることを拒まなかった。拒めなかった。その事実が、胸の奥に静かな波紋を生んでいる。けれど、本当はそれよりもずっと重いものが、今も心に沈んでいた。「心を寄せないまま抱かれるのは、演技と同じです」陽真が寝室で最後に残した言葉。その一言が、鋭い刃のように澪の内側を切り裂いていた。澪は、鏡を見つめる。曇った表面に、自分の輪郭が滲んでいる。頬も、目元も、唇も、普段通りの無表情を保っているように見える。けれど、内側ではひどくざわついていた。言葉の裏にある“痛み”が、全身に広がっていく。自分は、なぜ彼を拒んだのか。なぜ、あの熱を受け入れきれなかったのか。濡れた髪をかき上げる。水滴が頬を伝い、顎の先から落ちていく。その冷たさにさえ、陽真の手の熱が勝っていた。澪は、鏡の前でふと目を閉じた。誰かを見返すことが、こんなにも怖いとは思わなかった。誰かと心を通わせることが、これほどまでに自分を脅かすものだったとは、今まで想像したことがなかった。ずっと、誰にも触れられない場所に閉じこもって生きてきた。母の目を避け、過去のすべてをしまい込んできた。けれど、陽真はその箱のふたを、優しく、けれど容赦なく開けてしまった。シャワーの湯を肩にかける。熱が、冷
last update最終更新日 : 2025-08-15
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遠くから聞こえる声

秋の午後、雨上がりのくもり空から降りる光は薄くて冷たく、クリニックの待合室にぼんやりと差し込んでいた。湿気を含んだ空気が床にまとわりつき、乾かない記憶と湿った感情を呼び起こすような、不安定な静けさが辺りを包んでいた。澪はいつものように診察室へ入り、カルテと向き合っていた。姿勢はいつも通りに整えられている。けれどその表情には、小さな揺らぎが見え隠れしていた。集中しているようにも見えるが、どこか視線は上の糸を探すように浮遊していた。小さなテレビから、ドラマの音声が漏れていた。聞き慣れた台詞が、遠くのスピーカーからかすかに響く。陽真が演じる役が、画面のなかで静かに語りかけている。澪の耳にはその声が、まるで誰かを模写するかのように馴染んでいた。言葉のイントネーションや間のはざまに、「彼は、僕に似ている」と感じてしまった。それは、ただの俳優の模索ではなく、見られているという実感だった。澪の指先がペンを握りしめた。患者が入室した。緊張を微かに抑えた足取りで、扉を閉じた。その人は、話しはじめる前に澪を見て、静かに言った。「先生は、自分を守るのが上手ですね」その言葉は、温かくも冷たくもない声で、澪の胸に静かに落ちた。まるで、深い湖畔の底に小石を投げ込んだような音が、静寂の中に響く。澪は一瞬、視線を止めた。呼吸が、軽く乱れた。避けようとしても、声を返すことができなかった。ただ、胸の奥に沈んでいたものが、かすかに揺れた。続けざまに、患者の言葉が続く。「誰かに触れられないようにしている、そんな感じがします」その一言で、澪は勢いよく心の扉を閉じたくなった。手のひらに汗が滲む。声を出そうとして飲み込むと、喉の奥が苦しくなった。曇った視界の奥で、小さな涙が待合室の窓に反射する光を捉えた。こぼれそうになるのを、瞼で止めた。けれどその莞爾の震えが、自分でも止められない証だった。診察室の空気にわずかな緊張が戻った。澪は冷静に診察を続けた。だが、内側では、蓋をしていた何かが亀裂を起こしはじめていた。患者の目はすでに澪自身ではない。自分が作り上げてきた殻の向こう側を観察している存在だった。その視線に晒された瞬間、澪の中に立っていた防壁が、一部だけ崩れ落ちたような感触があっ
last update最終更新日 : 2025-08-16
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台詞に宿る痛み

秋の夜、照明が落とされた撮影セットに響くのは、静かな機材の音だけだった。空気には人工の温度と湿度が満ち、セットの奥に積まれたライトスタンドが長い影を落としている。窓もない空間で、時間の感覚が歪んでいた。深夜とは思えない沈黙と緊張が、役者とスタッフを包んでいた。陽真はセット中央に立ち、台本を胸に抱えている。彼が演じているのは、澪をモデルにした精神科医。澪の冷静な表情、整った言葉遣い、そのすべてを陰で模倣するように演じているはずだった。けれど、セリフを口にするたびに、胸の奥が締めつけられるような感覚が増していった。「あなたは、誰にも心を見せないんですね」その言葉を口にした瞬間、陽真は言葉を詰まらせた。読み込んできたはずの台詞だった。けれど、今はその言葉が自分自身に向けられているように感じられた。役としての台詞が、いつしか自分の内面を照らす照明になっていた。カメラが回る、その前で彼は微かに震える唇を抑え、呼吸を整えた。吸って、吐いて。動作は止めずに続けたが、言葉の背後にある意味が、重く胸に落ちてきた。彼がモデルにした存在が、目の前で言葉を囁いているような錯覚。まるで自分自身が舞台上の虚構に溶け込んでいくような、恐ろしくも耐え難い痛みだった。シーンが終わると、拍手もなくスタッフが動き始めた。陸続きの暗転のように、セットの明かりが明滅する。陽真は台詞カードを手放し、立ったまま深呼吸を繰り返していた。息切れしているのか、息をするたびに胸が痛い。撮影が終わった後の控室。陽真は机の上に山積みにされた台本を開き、目を伏せた。冷房の風が薄い袖を揺らす。誰もいない室内に、自分の心臓の音が鳴っているようだった。「演じることでしか、この痛みに触れられないと思っていたんだ」声は震えていた。つぶやくように漏れたその言葉は、自分自身に向けられていた。陽真は思い切り、台本を机に叩きつけた。紙が散り、ページがばらけて、台本は床に散乱する。ページの一枚一枚が、彼の内側の亀裂を映し出すようだった。「こんな演技、もうしたくない」と、低くつぶやいた。誰にも聞こえていないわけではなかった。ドアの向こうから声が聞こえる。マネージャーが
last update最終更新日 : 2025-08-17
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静かな崩壊

秋の夜はしんと静まり返り、澪の自宅リビングには照明もテレビも何もついていなかった。帰宅直後の体に重さが沈み込み、彼はそのままソファへ腰を下ろした。背中に当たる布地の感触すら、いつもより冷たく感じられた。天井を見つめたまま、時間の感覚は宙に浮いた。薄暗がりが体の輪郭を滲ませ、夜と自分の境界が曖昧になっていく。しばらく沈黙のまま座っていると、無意識にリモコンに手が伸びた。手元の微かな動きが、沈んだ心臓の鼓動と共鳴していた。テレビに火を入れると、陽真が主演するドラマが最後のシーンを迎えていた。画面の中の人物は、澪とは無関係な他人のはずだった。けれど、その声、その表情、その間合いが…すべて澪を模しているように感じられた。「あなたは、誰にも心を見せないんですね」あのセリフが、暗闇の中で澪の耳元に囁かれる。画面の中の陽真が、冷徹で、だが確かな寂しさを纏っている。深夜の部屋に、その声が響いていた。スクリーン上で繰り返される彼の表情に、澪は心臓が締めつけられるのを覚えた。まるで、自分の内側を誰かが解体し、パーツごとに観察しているような痛みだった。テレビを消そうと指を伸ばしながらも、止められなかった。代わりに澪は膝を抱え、腰をすぼめて沈み込む。部屋は暗く、静かすぎて自分の吐息が耳に響いた。それでも画面を見続けてしまうのは、恐いもの見たさだったかもしれない。自分がどう見られているのかを知りたかったのかもしれない。言葉が次々と画面から降りかかる。「感情を持たない」「誰にも寄せない」。それは、あの日聞いた患者の言葉よりも深く、澪を切り裂いていく。胸の奥がひりひりと痛み、呼吸が浅くなった。肩を落とし、体が一瞬反応を止めたように凍りついた。でも同時に、そこには安堵もあった。「誰にも触れられていなかった」という孤独を、初めて誰かが理解してくれていたような感覚。台詞の中にある冷たさと、そこに込められた温度。その矛盾が、澪の中で静かに溶け合っていった。澪は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。胸の奥が震えた。心を見られていたこと、知られていたこと、そして理解されるほどの痛みを誰かが背負っていたことを、受け入れるような衝撃だった。涙は出なかった。ただ、瞼にほんのわずかな熱が滲んで
last update最終更新日 : 2025-08-18
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報道と鼓動

昼下がりの光が、ブラインド越しにゆるやかに差し込んでいた。クリニックのスタッフルームは、いつもより静かだった。診察がひと段落した時間帯、数人の看護師がコーヒーを片手に、それぞれの休憩を楽しんでいる。電子レンジが小さな音を立て、誰かの弁当が温められている最中だった。澪はテーブルの端に座り、薄い湯気を立てるコーヒーを両手で包んでいた。普段通りの昼休みの風景。けれど、内側では言葉にできないざわつきが、深いところで波を立てていた。「先生、これ…」そう声をかけたのは、若い看護師のひとりだった。彼女はスマートフォンの画面を澪の前に差し出した。何気ない日常の話題として、それを共有したのだろう。だが、画面に映る見出しに、澪の視線がすぐに奪われた。「葛城陽真、主演ドラマ降板を検討か」活字が、呼吸を止めるように胸に刺さった。コーヒーのカップを持つ指先が、わずかに震える。震えを隠すように澪は目を伏せたが、震えは簡単には収まらなかった。スマートフォンの画面はすぐに引っ込められ、別の話題に移っていったが、澪の中にはその一文が深く残ったままだった。なぜ、降板を検討しているのか。記事には明確な理由は書かれていなかった。制作との方向性の違い、過密スケジュール、体調の問題…どれもがもっともらしい建前として並べられていた。けれど、澪は違うと感じていた。あの台詞を口にした彼の震え。その後の沈黙。あれは演技の一環ではなかった。コーヒーに口をつけようとしたが、唇がカップに触れる前に、手がわずかに傾いた。中の液体がすこし波立つ。その揺れに、心の底に沈めていた何かが共振する。声を発さず、感情を殺してきたはずのこの身体が、彼の名前一つで反応してしまう。手を静かに膝の上に置き直し、指先に力を込める。けれど、その力はわずかで、すぐに抜けた。コンクリートの床が冷たく、やけに硬く感じられた。自分の存在がそこに沈み込んでいくようだった。澪の視界には、まだあの役の姿が残っていた。自分のようで、自分ではない。けれど、確かに“誰かが自分を見てくれていた”という感覚だけは、皮膚の内側に焼きついて離れなかった。陽真の目が、声が、仕草が
last update最終更新日 : 2025-08-19
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