傷を抱く医師と俳優の、夜明けの約束~触れられなかった心が、やがて重なるとき

傷を抱く医師と俳優の、夜明けの約束~触れられなかった心が、やがて重なるとき

last updateÚltima atualização : 2025-09-02
Por:  中岡 始Completo
Idioma: Japanese
goodnovel16goodnovel
Classificações insuficientes
34Capítulos
1.1Kvisualizações
Ler
Adicionar à biblioteca

Compartilhar:  

Denunciar
Visão geral
Catálogo
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP

感情を抑え、静かに日々を送る精神科医・朝倉澪。 その診察室に現れたのは、舞台の上で生きる若き俳優・葛城陽真だった。 心の奥に誰にも見せない痛みを抱えながら、陽真は「演じること」でしか感情を表現できずにいた。 一線を越えることを恐れ続けてきた澪と、本当の自分を見てほしいと願う陽真。 触れたいのに、怖い。けれど、離れたくない。 拒絶と欲望のあいだで揺れながら、ふたりは少しずつ互いの心と身体に触れていく。 「君といると、誰でもない自分でいられる」 静かな夜を重ね、痛みを抱えたまま、それでも求め合うふたりが辿り着く場所とは――。

Ver mais

Capítulo 1

雨の匂いと予約外の来訪者

Harika Putri Ayyara berdiri di depan pintu ruang CEO dengan dada membusung dan dagu terangkat. Ia menarik napas dalam-dalam. Hari ini adalah hari pertamanya bekerja sebagai sekretaris pribadi Alister Ardiwijaya, CEO Ardiwijaya Grup yang terkenal perfeksionis, disiplin, dan katanya bisa mencium kesalahan dari jarak satu kilometer.

“Tugas pertama adalah ketuk pintu dengan anggun,” gumamnya, mencoba menyemangati diri sendiri.

Ia mengangkat tangan untuk mengetuk pintu. Sayangnya, ujung lengan bajunya tersangkut di gagang tas. Saat ia menarik tangannya dengan sedikit tenaga, pintu terbuka lebar, dan Harika kehilangan keseimbangan. Ia terjerembab ke depan dengan posisi hampir sujud, kepalanya nyaris mencium karpet mahal yang sepertinya lebih mahal dari gaji bulanannya.

Tepat di depan meja kerja megah, seorang pria berjas rapi dengan wajah setajam patung Yunani menatapnya tanpa ekspresi. Alister Ardiwijaya. Pria yang dikabarkan lebih kejam dari spreadsheet akuntansi dan lebih dingin dari pendingin ruangan di ruang meeting.

Harika buru-buru berdiri dan merapikan bajunya. Ia tersenyum lebar seolah-olah baru saja tidak mempermalukan dirinya sendiri.

"Selamat pagi, Pak Bos!" sapanya ceria, berharap bisa menyamarkan insiden barusan.

Alister tidak menjawab. Matanya melirik jam tangan mahalnya, lalu kembali menatap Harika.

"Kau terlambat dua menit tiga puluh tujuh detik," katanya datar.

Harika berkedip. Detiknya juga dihitung?!

"Eh macet, Pak," jawab Harika spontan, meskipun sadar itu alasan basi.

Alister menaikkan sebelah alisnya. "Macet di mana? Aku datang dari tempat yang lebih jauh darimu dan tetap sampai tepat waktu."

Harika mencari alasan lain. "Saya tadi membantu nenek menyeberang jalan, Pak."

Tatapan Alister semakin tajam. "Kau naik motor, Harika."

"Astaga. Dia ini cenayang atau bagaimana?!" batinnya.

Harika tertawa gugup. "Iya, Pak. Tapi, eh saya tadi sempat berhenti sebentar untuk beli roti buat sarapan. Eh, maksud saya, buat energi supaya bisa bekerja dengan baik."

Alister tidak merespons. Ia hanya menatapnya dalam diam, lalu akhirnya berkata, "Aku tidak suka alasan. Aku suka ketepatan waktu, kerapian, dan kesempurnaan."

Harika menelan ludah. Ini baru lima menit pertama, dan rasanya sudah seperti wawancara tahap akhir di perusahaan multinasional.

"Baik, Pak! Saya akan lebih disiplin!" katanya penuh semangat, mencoba menciptakan kesan profesional.

Alister mengangguk. "Bagus. Sekarang, buatkan aku kopi. Hitam, tanpa gula, panasnya pas."

Oke, ini mudah!

Harika langsung melesat ke pantry, bertekad untuk membuktikan bahwa dirinya bukan sekretaris abal-abal. Ia mengambil cangkir terbaik, menuangkan air panas dengan hati-hati, dan memilih kopi hitam tanpa gula. Misi berhasil!

Dengan penuh percaya diri, ia kembali ke ruang kerja Alister dan meletakkan cangkir di atas meja.

Alister menatap cangkir itu. Ia mengangkatnya perlahan, menghirup aromanya, lalu menyeruput sedikit isinya.

Hening.

Satu detik... Dua detik... Tiga detik.

Alister menutup matanya, menarik napas panjang, lalu....

"Ini teh."

Harika membeku.

Alister membuka matanya lagi dan menatapnya tajam. "Kau membuatkanku teh."

Harika melirik cangkir itu. Benar saja. Itu bukan kopi. Itu teh hitam.

"Astaga. Bagaimana bisa aku salah ambil?!" pikirnya.

"Oh! Mungkin ini teh paling hitam yang pernah ada, Pak!" katanya sambil tertawa canggung, berharap humornya bisa menyelamatkan keadaan.

Alister tidak tertawa. Ia hanya meletakkan cangkir itu dengan perlahan, seolah-olah sedang mengendalikan diri untuk tidak melemparnya keluar jendela.

"Harika," katanya dengan nada lelah. "Jika kau tidak bisa membedakan kopi dan teh, aku khawatir dengan masa depan perusahaan ini."

Harika menahan napas. Baru hari pertama dan sepertinya kariernya sudah di ambang kehancuran, tapi Harika Putri Ayyara bukan tipe yang menyerah begitu saja.

"Pak, saya janji tidak akan salah lagi!" katanya penuh tekad.

Alister menghela napas panjang. "Baiklah. Aku beri kau kesempatan kedua. Sekarang buatkan kopi yang benar."

Harika mengangguk mantap dan bergegas kembali ke pantry. Kali ini, ia memastikan untuk mengambil kopi. Kopi hitam. Tanpa gula. Panasnya pas.

Dengan bangga, ia kembali ke ruangan Alister dan meletakkan cangkirnya.

Alister menatapnya lagi, mengangkat cangkir, menghirup aromanya, lalu meminumnya.

Hening lagi.

Alister perlahan membuka mata. "Harika."

"Ya, Pak?"

"Aku minta kopi tanpa gula."

Harika mengangguk. "Iya, Pak! Itu tanpa gula!"

Alister menatapnya tajam. "Lalu kenapa rasanya seperti ada garam?"

Harika berkedip. Garam? Ia buru-buru mengambil cangkir kosong tadi dan memeriksanya. Matanya membelalak saat menyadari sesuatu.

Astaga. Itu bukan gula. Itu garam!

Wajahnya langsung pucat. "Eh mungkin kopi dengan garam bisa jadi tren baru, Pak?"

Alister menutup matanya lagi, menarik napas panjang seolah-olah sedang menenangkan diri.

"Aku hanya butuh kopi biasa, Harika. Hanya kopi hitam biasa. Bisakah itu terjadi tanpa insiden tambahan?"

Harika menegakkan bahu. "Bisa, Pak! Saya akan buatkan sekarang juga!"

Expandir
Próximo capítulo
Baixar

Último capítulo

Mais capítulos
Sem comentários
34 Capítulos
雨の匂いと予約外の来訪者
薄曇りの午後、診察室の窓にかすかに残る雨のしずくが、灰色の光をぼんやりと反射していた。外来の患者がすべて帰った後、朝比奈澪(みお)は無言のままカルテを閉じ、一日の終わりを静かに確認していた。クリニックの中は湿り気を帯びた空気に包まれ、雨上がり特有の匂いがまだ微かに残っている。時計は午後四時をまわっていた。カルテの整理を終え、ペンをペン立てに戻したときだった。小さく、控えめなノックの音が響いた。診察時間は終了していたはずだと、澪は眉をわずかに寄せ、扉の方へ視線を向けた。「失礼します」ゆっくりと開いた扉から現れたのは、長身で整った顔立ちの男だった。黒いコートの襟を軽く立て、濡れた髪を無造作に指で撫でている。彼の後ろには、スーツ姿の男性が控えていた。「突然すみません。葛城陽真と申します」そう名乗った男は、わずかに微笑みながら、深く頭を下げた。テレビやスクリーンで見慣れた顔だと、澪はすぐに気づいた。人気俳優、葛城陽真。だが実際に目の前に立たれると、画面越しとは違う、静かな存在感があった。「取材の件で…こちらのクリニックにご相談に伺いました」隣の男性が慌ただしく名刺を差し出す。マネージャーらしい彼の言葉を聞きながら、澪は応接スペースの椅子を指さした。「どうぞ。おかけください」声は冷静に、抑揚なく響いた。内心では、なぜこの男が自分のもとを選んだのかと、わずかな疑問が芽生えていたが、それを表には出さない。陽真はコートの袖を静かにたぐり寄せ、椅子に腰を下ろした。その動作は無駄がなく、身体の使い方そのものが一つの演技のように洗練されていた。濡れたコートの裾を整える指先さえも、計算されているように美しかった。「現在、連続ドラマの主演を務めていまして。精神科医役を演じるにあたり、実際の臨床現場を知っておきたくて。制作側からの提案で、専門の先生にご意見を伺うことになったんです」静かに話す声は、落ち着いていながらも柔らかく、聴く者を心地よくさせる響きを持っていた。だが、澪はその口調の奥にわずかな違和感を覚えた。言葉の選び方も、視線の動きも、完璧すぎる。まるで舞台の上にいるような話し方
Ler mais
仮面をかぶった問診
診察室の空気は、外の湿気と違い、どこか乾いた静けさに包まれていた。陽真が腰を下ろしてから、すでに五分以上が経っていた。澪はデスクの前に座り、彼の向かいでカルテを片づける手を止め、薄い観察者の視線を送る。陽真はそんな澪の視線に、まるで照れたように笑みを浮かべた。「先生、少しだけお時間いいですか。脚本、今日持ってきたんです」そう言って、陽真は鞄から二つ折りにした台本を丁寧に取り出した。表紙には仮題が印刷されている。手に持ったまま、彼はまるで宝物でも扱うようにそれを撫で、ページを開いた。「このシーンなんですが…初めての患者と向き合う精神科医が、相手の沈黙をどう受け止めるのか。台詞に書かれていることよりも、その場にどう在るかが重要だと思って」澪は黙って彼の言葉を聞いていた。陽真の声は相変わらず静かで、よく通る。俳優としての意識が研ぎ澄まされた声音は、落ち着いていて、それでいてどこか誘い込むような柔らかさがある。「診察室って、他の空間と違って、時間の流れが独特ですよね。沈黙も、表情も、音のないやりとりのひとつになるというか」「沈黙は情報です。患者が言葉にしないものにこそ、焦点を置く必要がある。目線、手の動き、呼吸の変化。それらをどう読み取るかが、診る側の役目です」澪の声は低く、緩やかで、まるで無風の湖面に言葉を置いていくようだった。陽真は台本を閉じ、両手で挟むようにして膝の上に置いた。顔を上げたその目に、澪はわずかな変化を感じた。「患者の話す内容よりも、話さない沈黙の方が重要…ということですね」「そうです。言葉はしばしば、自己防衛のために選ばれる。むしろ、話していないときの状態の方が、本音に近いこともあります」「なるほど…」陽真は椅子の背に軽く寄りかかり、天井を見上げるようにして呼吸を吐いた。その姿勢は無防備なようで、どこか演出されたもののようにも見える。彼は、自分の動きひとつが“他者にどう映るか”を常に意識している。そんな印象を澪は受けていた。「先生は、そういう相手と日常的に向き合っている。だから、自然と感情を抑え
Ler mais
観察と予期せぬ接近
階段を上がりきった先には、小さな鉄製の扉があった。クリニックの屋上へとつながるその扉は、普段なら施錠されているが、今日は澪が鍵を外していた。業者が換気設備の点検に来ていたためだった。澪自身は滅多にこの場所に上がることはない。だから、陽真がそこに立っていたことは、意外だった。「少しだけ、ここにいさせてもらってもいいですか」陽真がそう言ったとき、すでに彼は手すりにもたれかかり、薄い夕焼けに照らされた空を見上げていた。ジャケットは脱いで腕に掛けており、シャツの袖口が風に揺れている。夏の終わりが近づくこの季節、日が落ちるのは思っているよりも早い。空は淡く色づき始めていて、陽真の横顔をやわらかく染めていた。澪は一瞬、断ろうとした。もう診察は終わっている。職務としてのやりとりは完了したのだから、これ以上の接触は本来不要だった。だが、足が勝手に止まり、そのまま屋上へと歩を進めていた。コンクリートの床を踏む音が、ゆっくりと二人の間に近づいていく。「先生も、よければご一緒に」陽真が振り返らずにそう言った。その声に特別な感情の色はなかった。むしろ、ただそこにある自然な響きだった。だが、その自然さが逆に澪の足を止めさせた。澪は黙って横に歩き、隣のベンチに腰を下ろした。手すりに背を向けるようにして、空を見上げる。雲は薄く、太陽の輪郭がぼんやりと透けていた。「…ここは静かですね。都内とは思えないくらい」「防音がしっかりしているだけです。実際は、向こうの幹線道路の音が絶えず聞こえているはずです」「でも、それも聞こえないふりができるなら、静けさになります」陽真はそう言って笑った。ベンチに腰かけると、背筋を伸ばし、目を細めながら空を見ている。その横顔は、光を受けてなめらかな輪郭を浮かび上がらせていた。頬の線は鋭くも穏やかで、瞼の奥にわずかな疲労の影が差している。だが、その静けさがかえって美しさを強調していた。彫刻のようだ、と澪は思った。人間の表情というよりも、感情を排して形に昇華された、完成された美。だがそれが、逆に心を遠ざけているようにも見えた。「先生は、何か演じたことはありますか」
Ler mais
夜の影に差す熱
階段を下りる足音が、静まり返ったビルの壁に淡く反響していた。診察の終了時刻を過ぎた館内にはもう人の気配はなく、わずかな蛍光灯の光が、段差ごとに夜の影を縁取っている。薄闇に溶けこむようにして歩く澪の後ろを、陽真の足音が一定の間隔を保って追いかけていた。無言のまま数階を下り、ようやく一階のフロアが近づいたとき、澪の背後からふと声が届いた。「先生」階段の踊り場で立ち止まり、澪は振り向く。数段上にいる陽真の顔は、ちょうど階段の非常灯の淡い光を受けていた。その表情は、上から見下ろす角度でありながらも、なぜか儚さを帯びていた。「少しだけ、お話をしてもいいですか」「話すことは、もう終わったはずです」澪の声は乾いていた。何の温度も帯びていない、診察室での対応と変わらない言い回しだった。それでも陽真は、すぐには引き下がらなかった。「今日のことを、ありがとうございます。とても参考になりました」「それは良かったです」そのまま澪が踵を返そうとしたとき、陽真が数歩、音を立てずに階段を下りた。その気配に、澪の動きがわずかに止まる。「次は、先生のことを知りたい」その声は、囁くように小さかった。だが、言葉そのものの輪郭が、澪の背に強く刺さった。「あなたの…内側を知りたいんです。どうしてそんなふうに、人と距離を取るのか。どうしてそんなふうに、感情を凍らせてしまえるのか」振り向いた澪の瞳は、薄暗がりのなかで細く揺れていた。「それは、あなたに関係のないことです」陽真はその返答に、ふっと小さく笑った。だがその笑みは、いつもの計算された表情とは異なっていた。口元は確かに笑っているのに、目だけがどこか寂しげに沈んでいた。「関係なくはない気がしたんです。あなたと話していると、言葉よりも沈黙の方がたくさんのことを語っているようで。見ているはずなのに、何も見せてもらえていない…そんな気がしてしまう」「それがあなたの職業病か、個人的な執着かは知りませんが、どちらにしても私を素材にしないでもらえますか」
Ler mais
スクリーンの中の“彼”
雨音が窓を打っていた。乾いたガラスに触れる水の粒が、静かに、けれど絶え間なく音を立てていた。澪の部屋は、医師としての生活を反映するように整然としていた。余計な装飾も、無駄な家具もない。白を基調とした壁に、書棚と、デスクと、ベッド。最低限の機能性と清潔さだけが支配する空間。湿った空気のなか、シャワーを終えた澪はグラスに冷たい水を注ぎ、ソファに腰を下ろした。室内の灯りは控えめで、手元だけを照らすスタンドライトが、小さな円を描いている。薄手のグレイのTシャツ一枚の肩に、冷気が静かにまとわりつく。彼はテレビを点けるつもりも、映画を観るつもりもなかった。ただ、いつものようにニュースを確認し、早めにベッドに入るはずだった。だが、無意識のうちに手がスマートフォンに伸びていた。検索窓に打ち込まれていたのは、「葛城陽真」の名前だった。自分でも、その理由ははっきりしなかった。職業的な興味、そう片づけることもできた。だが、画面を見つめる指は、その言い訳に対してどこか鈍く、動きに迷いがあった。検索結果に並んだ数々のドラマや映画のタイトル。彼が主演、または主要キャストとして出演してきた作品は多い。澪はその中から、数年前に話題になったという一本を選んだ。静かなヒューマンドラマ。演技派として評価を高めた作品らしい。再生ボタンを押すと、冒頭から淡いピアノの旋律が流れた。映像は落ち着いたトーンで、街並みと人々の営みを映していた。やがて、陽真が登場する。役どころは、重い家庭環境を背負った教師。冷静な語り口と、内に抱えた情熱とのあいだを行き来する人物だった。画面の中で陽真は、完璧だった。目の動き、指先のふるえ、口角の緩め方まで、まるで計算し尽くされたように自然だった。セリフを話していないときでさえ、表情は常に意味を持っていた。だが、澪はその完璧さのなかに、奇妙な“過剰さ”を感じ取っていた。例えば、生徒を諭す場面。優しさをたたえた微笑みの奥に、わずかな硬さがある。それは演技に必要な緊張ではなく、まるで表情そのものが壊れるのを抑えているかのような、不自然な張り詰めだった。そして、ふとした場面で彼が見せる哀しみの演技には、脚本に書かれていないような痛みが
Ler mais
診察室に響いた微かな揺らぎ
朝の光は、夏の終わりを告げるように柔らかく、やや鈍色がかっていた。薄く雲がかかった空から射す陽は、真夏の刺すような鋭さを失い、窓越しに淡く室内を照らしている。クリニックの診察室は、まだ開院前の静けさに包まれていた。清掃が終わったばかりの床にうっすらと光の筋が落ち、壁際の椅子の影が整然と並んでいる。澪はいつものように扉を開け、ゆっくりと室内へ入った。白衣の袖に腕を通しながら、無意識の動作で机の上を確認する。昨日、退勤前に片づけたはずのデスクに、ひとつだけ見慣れない紙の束が置かれていた。それは、数日前に陽真が持ってきた台本の一部だった。脚本の一節に、赤ペンでいくつかの書き込みがある。修正なのか、それともただのメモなのか、その文字はラフで、しかしどこか切迫した筆致だった。ページをめくると、その中の一枚に、太く一行だけ書かれた言葉が目に飛び込んできた。――誰が演技で、誰が本当か分からないその言葉に触れた瞬間、澪の手の動きが止まった。まるで空気の流れまでもが一瞬、凍りついたようだった。文字は荒れてはいない。だが、どこか抑えきれない衝動のようなものが滲んでいた。整った筆跡のなかに、不安と迷いと、ほんのわずかな祈りのようなものさえ感じ取れる。澪はその紙を指でなぞるように持ち上げ、光に透かした。裏には何も書かれていない。だが、その一行があまりにも重く響いていた。目を閉じると、陽真の声が浮かんだ。夜の階段で、触れかけてきたときのあの声。「あなたのことを知りたい」と告げた、あの低く沈んだ響き。あの時の陽真の眼差しを、澪は忘れられなかった。哀しみとも執着ともつかない、ただ真っ直ぐなまなざし。演技であってもおかしくはない完璧さだった。だが、その裏にあるものが、今になって澪の中で静かに揺れ始めていた。彼の演技のなかに、どれだけの“本当”が混ざっていたのか。スクリーンの中で笑うあの表情に、どれだけの“嘘”と“真実”が交錯していたのか。澪は机の前に立ったまま、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、夕暮れの屋上での横顔。雨音の夜にスクリーンで見た、痛みをなぞるような微笑み。どれもが輪郭を曖昧にして、記
Ler mais
夜のガラスに映る横顔
時計の針が午後八時を回った頃、クリニックの診察室にはすでに人の気配はなかった。照明のいくつかは落とされ、ランプスタンドの柔らかな光が、木目の机と白い壁を淡く照らしている。雨こそ降ってはいないが、湿気を含んだ夜気がガラス越しにじわりと染み込んできていた。澪はデスクの上に並べた資料を確認していた。診察はすでに終わり、あとは書類をまとめるだけ。いつも通りの夜。余計な感情も、予定外の変化もない…はずだった。ノックの音がしたのは、そのときだった。「どうぞ」短く返すと、扉が静かに開き、陽真が顔をのぞかせた。白いシャツの上に黒のジャケットを羽織り、手には折りたたんだ台本を持っている。彼は一礼して室内へと入ってきた。「遅い時間にすみません。今日、撮影が早く終わったので…少しだけ、お時間をいただけますか」「脚本の確認ですか」「ええ。役の解釈について、先生に相談したくて」澪は頷き、資料の山をわきに寄せて、机の前を空けた。陽真は椅子を引き、静かに腰を下ろす。その所作には隙がなく、だがどこか緩やかで、場の空気を柔らかくする力があった。「このシーンなのですが、主人公が患者に向かって“何も言わなくても、分かっている”と伝えるんです。これは、医師としてあり得る態度ですか」陽真は台本の一節を指差しながら言った。澪はそれに目を落とし、少しの沈黙のあと答えた。「言葉としては成立しています。ただ、臨床の場では“分かっている”と明言することはリスクになります。患者の心に入り込みすぎると、逆に信頼を損ねることもある。寄り添うことと、侵入することは違うので」「なるほど…じゃあ、“言いたくなったら、話してください”の方が現実的?」「そうですね。患者の沈黙を“何かが語られている”と受け取るのが医師の立場です」「そういう姿勢、澪先生そのものですね」陽真は微笑んだ。その口調は軽やかだったが、視線はまっすぐだった。感謝や礼儀だけではない、もっ
Ler mais
一線の崩れ
クリニックの廊下はすでに灯りを落とし、非常口の緑色の光だけが静かに光を落としていた。診察室のドアは半開きのまま、中にはまだかすかなランプの灯りが揺れている。時間は午後八時をまわっていた。ふつうなら完全に閉めて帰るはずの時間だったが、今日はなぜか、足が自然とその扉の前で止まった。「…もう少しだけ、この部屋で話せませんか」背後から届いた陽真の声は低く、けれど決して強引ではなかった。押し込むような力もなく、どこか確かめるような余白を残していた。澪はすぐには振り返らなかった。扉の取っ手にかけた手にわずかに力を込め、それからゆっくりと身体を回した。「話す内容は、まだ残っているのですか」「そうですね。質問、というより…話したいことがあるという感じです」その答えは曖昧だった。だが、澪の中に、なぜかそれを否定するだけの強さが残っていなかった。ほんのわずかに息を吸い込み、彼は無言のまま頷くと扉を押して中に入った。陽真も続いて部屋に入る。ドアは静かに閉じられ、室内はさらに音をなくした。蛍光灯はすでに落とされており、唯一残されたランプの明かりが、白い壁にやわらかな影を描いている。澪は椅子を引いて腰を下ろし、デスクの上に手を置いた。陽真は対面の椅子ではなく、斜め横の位置にある補助椅子を選び、ゆっくりと腰かけた。その距離は、いつもより近かった。わずかに身を乗り出せば、指先が届く程度の距離。澪はそのことを意識しないようにしていたが、肌の感覚が先に反応してしまっていた。沈黙が落ちた。陽真は、すぐには何も言わなかった。台本も出さず、資料も広げず、ただじっと澪の横顔を見つめていた。澪はそれを感じながらも、視線を合わせないよう、意識的にデスク上のペン立てやカルテの角に目を向けていた。「先生はいつも、完璧に整ってますよね」陽真がようやく口を開いた。声は穏やかで、あくまで無色透明だった。「髪型も、言葉の選び方も、姿勢も。診察中だけじゃなく、こうして普通に話しているときでも、乱れることがない」「感情を乱す必要のない場面で、乱す意味がないだけです」「それは
Ler mais
観察される側へ
診察室のランプが静かに灯る。外は雨、細い粒がガラスをなぞり続け、街の音をぬぐっていた。閉院後の時間。廊下の明かりはすでに落とされ、非常灯がひとつ、ぼんやりと緑色の光を足元に落としている。外界と切り離されたこの部屋には、陽真と澪のふたりきりしかいなかった。澪はカルテを閉じ、机の角に揃えたまま、手を止めていた。いつもより遅く残っていた理由は、陽真からの「もう一度、話がしたい」という一本のメッセージだった。内容には何も書かれていなかったが、なぜかそのひとことが拒めなかった。予定されていない再訪。けれど、それを断つ理由もまた、どこか曖昧になっていた。診察室のドアが開いたとき、澪はすでに椅子に座っていた。陽真はコートの濡れた裾を払いながら中へ入り、扉を閉める。その動作が妙に静かで、緊張のようなものが室内にひたひたと満ちていった。「こんばんは」そう告げた陽真の声は、落ち着いていた。だが、それは演技で整えた声ではなかった。湿った空気に馴染む、低く柔らかな声だった。「また来たんですか」澪の返答には、かすかに疲れのような響きが混じっていた。それでも、彼は追い返さなかった。陽真は澪の正面ではなく、斜め横の椅子に腰を下ろした。診察という名目すらもう必要としていないことを、ふたりとも暗黙のうちに理解していた。「先生」陽真が呼ぶ。その声音は先日よりも低く、澪の意識をなだらかに包み込むようだった。「今度は、先生のことを聞かせてほしい」「またですか。私は何も話さないと、何度も…」言いかけた言葉の上に、陽真の指が重なった。指先が澪の右手にそっと触れた。拒む余裕を与えないほどの、微細な動きだった。暖かく、しっとりとした体温が、肌の上を滑るように落ちていく。だが、その触れ方には乱暴さも強引さもなかった。沈黙の中にゆっくりと注がれる、意志のようなものだけがあった。「今度は、あなたを見せてください」囁くように言った声が、澪の耳に届く。その声は、耳の表面ではなく、鼓膜の内側へと直接染み込んでくるようだった。澪は身を引こうとしたが、その動
Ler mais
凍りついた沈黙
診察室には、まるで時間が止まったかのような沈黙が広がっていた。わずかに軋んだ椅子の音、澪が突き飛ばした反動でずれたテーブルの端が壁にかすかに触れる音、そして、ふたりの間に流れる湿度の高い呼吸の音。そのどれもが、あまりに生々しく耳に残っていた。澪は立ち尽くしたまま、背中を陽真に向けている。肩が、かすかに上下していた。白衣の布地がそのたびに引き攣れ、後ろ姿に浮かぶ線の美しさが、かえってその震えの深さを際立たせていた。陽真は唇を噛み、言葉を探していた。だが、出てくるものは何もなかった。澪の反応は予想外ではなかったはずだった。それでも、その拒絶の激しさと、そこに込められた“痛み”に、胸をえぐられるような感覚を覚えていた。言葉にならない感情が、喉の奥に溜まっていく。謝罪では済まされない。けれど、何も言わなければ、それはそれで何かを見捨てるような気がした。それでも陽真は、言葉を選べずにいた。静かな時間が、ふたりの間を無遠慮に流れていく。「…帰ってください」背中越しに届いた声は、かすかに震えていた。喉の奥から無理やり引き出されたようなその声は、澪がすでに自分の限界を超えていることを語っていた。陽真は一歩だけ足を踏み出しかけて、やめた。手を伸ばしたい衝動を、寸前で止めた。触れてはいけない、これ以上は本当に壊してしまう。澪の背中は、そう語っていた。彼はただ、その背中を見つめていた。濡れたように見える黒髪が首筋に貼りつき、白い肌とのコントラストが妙に艶やかだった。触れようとした指先の熱が、まだ自分の手の中に残っている。それが苦しくて、そしてひどく後悔を滲ませた。言葉をひとつ飲み込んで、陽真は息を浅く吐いた。「…わかりました」それだけを静かに残し、彼は背を向けた。扉へ向かう歩みはゆっくりで、あえて足音を立てないようにしていた。ドアノブに手をかけたとき、一度だけ振り返る。澪は動かなかった。背筋を伸ばしたまま、ただその場に立ち尽くしている。どこにも逃げず、どこにも行けずに、ただそこに
Ler mais
Explore e leia bons romances gratuitamente
Acesso gratuito a um vasto número de bons romances no app GoodNovel. Baixe os livros que você gosta e leia em qualquer lugar e a qualquer hora.
Leia livros gratuitamente no app
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status