玄関の鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。澪はそのまま扉にもたれかかり、ゆっくりと息を吐いた。薄暗い室内に、夜の気配がじわじわと染み込んでくる。外は雨こそ降っていなかったが、湿り気を帯びた風が建物の隙間を抜けて、わずかに窓を揺らしていた。
靴を脱ぐ動作が妙に重たく感じた。足元の感覚が鈍っている。玄関マットの縁につま先を取られそうになりながら、澪は無言のままリビングへ向かった。
シャツの第一ボタンに指をかける。けれど、うまく外せなかった。手元がかすかに震えていた。指先をそっと見つめると、爪の内側まで赤みが差しているような気がした。陽真に触れられた場所ではない。なのに、その感覚が、手全体に残っていた。
シャツの襟を掴むようにして、引き寄せた。胸元に残る熱を閉じ込めるようにして、布地に爪を立てる。だが、熱は消えない。むしろ内側からじわじわと上がってくるようで、肌の下にこもったものが、全身ににじむように広がっていく。
浴室へ向かう足が、廊下で止まった。
目の前の壁に掛けた鏡が視界に入った。澪はふと、そこに映る自分を見つめた。
頬が、赤い。
そんなはずはなかった。何もなかった。触れられそうになっただけで、唇は重なることなく終わった。それでも、顔に熱が残っている。
息を浅く吐き出し、額に手をあてた。火照っているのか、それともただの羞恥か。区別がつかない。いや、区別したくなかった。
額から手を滑らせて、鏡に映る目を見つめる。いつもなら感情を遮断するはずのまなざしが、わずかににじんでいた。光の加減か、それとも本当に揺れているのか。確かめようとしても、見ている自分の目から逃れられない。
まぶたを、閉じた。
深く、強く、息を吸ってから、再び吐く。その動作にすら乱れがあった。心が落ち着かない。誰かに見られているわけではない。ひとりきりのはずなのに、どこかで視線を感じるような居心地の悪さが、身体の奥でくすぶっていた。
耳の奥で、陽真の声がこだまする。
「あなた自身は、誰かに触れたいと思ったことはあるのか」
低く、湿った声。あのとき、確かにその言葉に、心が一瞬、揺れた。拒絶したはずだった。手で
夜の底が静かにほどけていく。行為の余韻がまだ身体に残るなか、澪と陽真は毛布をゆるくまとってベッドに並んでいた。外では雨が小降りになり、わずかに空が白みはじめている。部屋のなかには灯りをつけていなかったが、カーテン越しの青い光が、ふたりの輪郭をやさしく浮かび上がらせていた。澪は仰向けになり、静かに呼吸を繰り返していた。腕は額の上に伸ばされ、まだどこか余韻に沈んだまま、微笑んでいる。ベッドのなかは肌の熱と香りが満ちていたが、それは不快なものではなく、ただ幸福の名残としてそこに在った。陽真は横向きになって澪の顔を見つめていた。乱れた前髪の隙間から額の白さがのぞき、長い睫毛がほのかな影を落としている。澪の唇は行為のあとの安堵でわずかにゆるみ、頬にはまだうっすらと赤みが残っていた。しばらく、何も言葉は交わさなかった。互いの肌と鼓動の気配だけが、静かに重なり合っていた。毛布の下で、ふたりの足が無意識に触れ合い、温度がゆっくりと溶けていく。夜のあいだに積み重なった不安や痛みが、少しずつ遠ざかっていくようだった。澪は目を閉じ、深く息を吐いた。夜の静けさのなかで、何も考えずにいられることが、これほど穏やかなものだとは思いもしなかった。心の奥に、何か柔らかなものが沈殿していく感覚があった。陽真がそっと顔を近づけ、澪の額にやさしくキスをした。その一瞬のために、澪は再び目を開く。カーテンの向こう、窓の外がゆっくりと白みはじめているのが見えた。「これからも、こうしていられたらいいな」陽真の声は低く、震えを含んでいた。そこには切実な願いが、誤魔化しも装いもなくにじんでいた。澪は、しばらく黙っていた。けれど、ゆっくりと微笑みながら、ためらいのない声で答える。「うん」ふたりはそれ以上、言葉を交わさなかった。もう何も確かめ合う必要がない。夜が明けていくその時間のなか、ふたりのあいだには、静かな幸福だけが横たわっていた。澪は目を閉じた。まだ身体に残る熱と、指先に触れた生の感触を確かめるように、静かに息を吐いた。――もう、誰かの手を拒む必要はない。
ベッドの上、毛布の下でふたりの身体が寄り添っている。夜の雨はまだやまず、微かな水音が静寂をやわらげていた。灯りは最低限しかつけていない。互いの輪郭だけが浮かび上がり、そのほかのものはすべて影のなかに溶けていく。陽真の手がゆっくりと澪の頬を撫でた。澪は目を閉じ、その手に顔を預ける。ふたりのあいだには、もう余計な気遣いやためらいが残っていなかった。ただ、静かな安心と、やわらかな期待だけが満ちていた。「好きだよ」陽真がそっと囁いた。澪はゆっくりと目を開け、微笑む。眉の力が抜け、頬に淡い赤みが差している。これまでに見せたことのない、柔らかい表情だった。陽真はその澪の顔を、まるで初めて見るもののようにじっと見つめていた。指先が、額から髪、耳の後ろ、顎の輪郭へとたどる。澪は何も言わず、その動きに身を任せている。呼吸が少しだけ深くなり、吐息が陽真の首筋にかかった。肌と肌が触れ合う音が、静かに重なっていく。触れるたびに、澪の鼓動がひとつ、またひとつと確かに伝わってくる。陽真は演じることを、完全にやめていた。どこにも“他人の目”を意識する影はなかった。ただ自分として、澪の身体を、心を、大切に扱っている。澪は腕を伸ばし、陽真の背にそっと手をまわす。指先が肩甲骨のあたりをなぞり、背中の温もりを確かめる。その仕草にも、もうためらいはなかった。ふたりのあいだの空気は、どこまでも穏やかで、どこまでも澄んでいた。「陽真」名前を呼ぶ声は、いつもよりも低く、柔らかい響きだった。その声に呼応するように、陽真が澪の髪に顔を埋める。唇が首筋をたどり、肩先にそっと触れた。澪は静かに目を閉じ、わずかに喉を震わせて息を吐いた。陽真が囁く。「怖くないよ」澪は短く返し、陽真の手を自分の手で包む。そのあたたかさに、互いの安心が重なっていく。愛撫は丁寧で、急ぐことはなかった。指先が、胸元、腹部、そして腰へと時間をかけて降りていく。どこかに迷いが残るなら、それごと抱きしめるような優しさだった。ふたりの身体が重なり合うとき、澪の頬には、穏やかな安堵の色が差していた。触れられることで生まれる悦びも、寄り添う
深夜二時。静かな雨の音が遠くで続いていた。澪の部屋には、ごく薄い灯りがともっている。ベッドサイドのスタンドだけが、白いカーテンと天井に淡い陰影をつくり、微かな風がカーテンの裾を揺らしていた。ベッドの上で、澪は仰向けになったまま天井を見つめていた。身体は毛布に包まれているが、どこか輪郭だけが浮いているような感覚が残っている。隣では陽真が静かに寝息を立てている――はずだった。しかし、その気配にわずかな違和感を覚え、澪はそっと視線を横に向けた。陽真は、澪の方に体を向けて目を開けていた。暗がりのなか、その輪郭は曖昧だが、頬の線や額の形が月明かりに照らされてかすかに浮かんでいる。眠っていないのだと気づいた瞬間、澪は自分の心臓が一度、大きく跳ねるのを感じた。しばらく何も言わなかった。言葉が要らない沈黙のなかで、陽真がそっと手を伸ばしてくる。澪の髪を、指先でひと房だけすくい、優しく撫でる。まるで、壊れ物に触れるような繊細な動きだった。「眠れない?」声にはならなかったが、そう尋ねているような視線が澪を射抜いていた。澪は小さく頷き、そしてふたりはただ、しばらく見つめ合う。カーテンが風に揺れ、微かに肌寒さが部屋に満ちる。毛布の内側では、互いの体温が確かに伝わっていた。「…髪、伸びたな」陽真が、ほとんど呟くように言った。「そうかな」「うん。こうしてると、前よりずっと柔らかい気がする」陽真の手がもう一度、澪の髪を撫でる。暗がりのなかで、それだけが際立って実感された。澪は目を閉じ、陽真の手のぬくもりに意識を預けた。そのまま静かに、時間だけが流れる。深夜の静けさは、すべての音を吸い込み、外の世界とふたりを切り離している。やがて、陽真がもう一度、澪の顔を覗き込む。その距離がごく近いと気づいた瞬間、自然に唇が触れ合った。それは、求めるでもなく、慰めるでもない、ただお互いを確かめるような、そっとしたキスだった。長くも短くもないその接触に、澪の呼吸がほんの少し深くなる。陽真の指が、頬から首筋へと移動する。澪は微かに身体をすくめたが、すぐに肩の力が抜けていく。
朝の光はやわらかく、カーテンの隙間から滲むように部屋に入り込んでいた。夜の雨がすっかり上がり、雲の切れ間からのぞく淡い空が、ベランダの手すりをゆっくりと照らしていた。鳥の鳴き声と、遠くを走る車の音が交じり合いながら、静かに一日が始まっていく。澪はキッチンでふたつのマグカップにコーヒーを注ぎ、そのまま窓辺に立っていた陽真の背中に目をやった。肩にかかる薄いシャツが、朝の風にふわりと揺れている。髪の毛の先まで光を吸って、彼の輪郭はどこかやさしく溶けて見えた。「熱いから、気をつけて」そう言いながら、澪は陽真の隣に立って、カップを手渡した。「ありがとう」陽真が受け取る手に、触れた熱がわずかに伝わる。その感触が、やけに遠く感じられた昨夜のことを、ほんの少しだけ思い出させる。ベランダに出ると、朝の空気が頬をなでていった。澪は手すりに寄りかかり、陽真はその横に立ったまま、コーヒーの湯気を見つめていた。話すべきことはたくさんあるはずだった。けれど、この静けさが壊れるのをどちらも望まなかった。マンションの下の道路には、登校中の学生たちが小さく見える。窓を開け放った家のベランダから、布団を干す気配も聞こえた。そんな当たり前の朝が、なぜか胸にしみていく。「不思議だよな」陽真がつぶやいた。「何が?」「昨日まで、心が擦れて、うまく言葉にできなかったのに。今は、こんなふうに並んでる」澪は答えずに、湯気の向こうにぼんやりと目を向けた。カップの底に広がる黒い液体に、自分の眉間がうっすらと映っている。「澪」「ん?」「お前といると、自分を変えようって思える。でも、変わらなくてもいいって思えることもある」「矛盾してるな」「そうだな。でも、どっちも本当だよ」陽真が微笑んだ。あの頃の笑顔とは違う、飾り気のない素の表情。澪のなかに、静かに何かがほどけていくのを感じた。「お前がいてくれて、よかった」言った自分の声に、自分がいちばん驚いた。けれど、もう引き戻すことはしなかった。その言葉は、ようや
夜は深く、窓の外では風が遠くのビルの隙間を抜けていた。澪の部屋の照明はすでに落とされていて、ベッドサイドの小さなランプだけが、部屋の輪郭をぼんやりと照らしていた。薄手のカーテンがわずかに揺れ、街の明かりがその向こうに滲んでいる。陽真はベッドに横たわったまま、視線だけで天井を見つめていた。隣には澪がいる。身体の距離は数十センチと離れていないのに、その空間に言葉の届かない緊張が滲んでいた。「…最近さ」陽真がぽつりと口を開いた。「ずっと、遠慮してたんだと思う」澪はすぐには返事をしなかった。呼吸を整えるように、ゆっくりと空気を吸い込んでから、声を出した。「どういう意味?」「お前に触れるとき、何を言ってもいいのか、どこまで踏み込んでいいのか、ずっと迷ってた。怖かったんだよ。壊しそうで」澪は天井を見上げたまま、唇をわずかに動かした。「壊すのは、俺のほうだと思ってた」陽真が身を起こしかけたが、途中でやめた。代わりに寝返りを打って、澪の背に向き合う形で横になる。「澪はさ、自分が壊れるより、相手を壊すことを恐れてる。そう見える」「それは…」「違うか?」澪は言葉を探したが、見つからなかった。沈黙のなかで、心臓の音がやけに大きく聞こえた。寝室のなかにあるすべてのものが、今にも壊れてしまいそうなほど静まり返っていた。「俺、ちゃんと話したいって思ってた。もっと、お前のこと、知りたいと思ってる。でも、踏み込むと、嫌われそうで…」「俺もだよ」澪が低く呟いた。「お前のことが好きだから、怖いんだ。踏み込みすぎて、壊してしまうことが。だから、言わないままにしてること、たくさんある」「俺も、ある」それっきり、ふたりの会話は止まった。言葉を重ねるほど、互いのなかにある不安や迷いが浮かび上がってきてしまうようで、もう何も言えなかった。ベッドのなかで、ふたりは背を向け合った。掛け布団のわずかな膨らみが、ふたりの間に橋のように置かれて
窓の外には春の雨が降っていた。重たくもなく、かといって軽やかでもない、ただ静かに街を濡らす雨だった。澪の部屋のなかは、エアコンの微かな風が巡っていて、観葉植物の葉がゆっくりと揺れていた。リビングのソファには、ふたりが並んで腰かけていた。澪の手元には、コンビニで買ってきたビールと、小皿に盛られた総菜が並んでいる。陽真は足を組み、テレビのニュース番組をぼんやりと眺めていた。「このコメンテーター、いつも噛むよな」陽真がつぶやくように言った。澪はグラスを唇に運びながら、頷いた。「たぶん緊張してるんだ。生放送、苦手なんじゃないか」「生で人前に出るのが苦手って、致命的じゃない?」「そんな人、いっぱいいる。得意なフリをしてるだけだ」「……俺もか」陽真がわずかに笑った。その言葉に含まれたものに、澪はすぐには反応しなかった。代わりに、テーブルの端に置かれた観葉植物を指差す。「それ、育ってきたな。前はこんなに背が低かった」「気づいた? 水の加減、まだ掴めてないけどな」「悪くない。ちゃんと呼吸してる」陽真は植物に目をやり、葉の縁を指先で軽く撫でた。その仕草に、澪の視線が一瞬だけ吸い寄せられる。けれど、言葉にはしない。ふたりの肩が、いつの間にか触れ合っていた。動こうとする気配はなかった。以前なら、このわずかな接触すら、どちらかが意識して避けていたかもしれない。でも今は、そうではない。身体が触れているという感覚が、息苦しさではなく、ただの“実感”としてそこにあった。「舞台の次の公演、決まったんだ」「うん。知ってる。SNSで告知されてた」「見てくれてたんだ」「もちろん」言葉は少ないが、温度があった。陽真は少しだけ身体を澪に傾けて、首筋に額を寄せた。澪は動かない。肩に重さが加わるたびに、自分の呼吸の深さが変わっていくのを、どこかで感じていた。「忙しい?」陽真の声が、肌にかかるように低く響いた。