「兄さん、一週間後、私も一緒に海外行くから」電話口の田村明人(たむら あきと)は思わず声を詰まらせた。「お前、聴力を失ったとき何度も海外での治療をすすめたのに、あれだけ嫌がってただろ。今になって聞こえるようになったってのに、なんで急に旦那を捨てるって話になるんだ?」「翔平と離婚するって決めたの」「あんなに仲良かった夫婦だったのに……なんでだよ?」高橋彩音(たかはし あやね)はわずかに笑った。どこか、寂しげな雰囲気が漂っていた。彼女と高橋翔平(たかはし しょうへい)の結婚は、そもそも最初から間違いだった。ひとりは貧しい山村から出てきた、冷たく見える音楽の天才。もうひとりは名家に生まれ、何の苦労も知らず育った御曹司。二人は、元々まったく違う世界の人間だった。でも五年前のコンサートで、翔平は彼女に一目惚れして、猛烈にアプローチしてきた。水仕事ひとつしたことのないような彼が、キッチンに立って、彩音のために工夫をこらした弁当を作ってきた。毎朝と毎晩、決まった時間に【おはよう】と【おやすみ】のメッセージが届いた。彼女は病気になれば、風邪をひいただけでも、ずっとそばにいて看病してくれた。告白を何度断っても、翔平は二年間変わらず彼女を想い続けた。冷静で理知的だった彼女も、ついに心を動かされて、恋に落ちた。交通事故に遭ったとき、翔平を守るようにして彼女は重傷を負い、その代償として、いちばん大切な聴覚を失った。そのときの彩音は、心が壊れかけていた。将来がどうなるかは怖くなかった。ただ、翔平の負担になるのが怖かった。翔平は周囲の反対を押し切って、病院で彼女との結婚式を挙げた。結婚式当日、翔平は涙を流しながら、彩音の手のひらにひと文字ずつ、誓いの言葉を書いた。[彩音、俺が君の一生の耳になる]最初は冷ややかな目で見る人もいて、「罪悪感で結婚しても長続きしない」なんて言われたこともあった。けれど結婚後の三年間、翔平はすべてを行動で証明した。彼女ときちんと向き合うために手話を学び、その上達ぶりは彩音が恥ずかしくなるほどだった。彼の家族が彼女を見下したときには、継承権を放棄して独立し、家族が認めるまで折れなかった。誰が見ても、翔平は本気で彩音を愛していた。彩音自身も、それを信じていた。だから、翔
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