All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 91 - Chapter 100

高級マンションの一室。玄関を入るなり、姿月はすぐにリビングのローテーブルの引き出しを開けた。中にはまだ数台のスマホが入っている。そのうちの一台を取り出し、田中に電話をかけた。電話はすぐにつながった。「姿月さん……」受話口から聞こえた声はどこか気まずげで、罪悪感が滲んでいる。「田中さん、どうして急に辞めたの？」姿月はいつも通りの柔らかな声で気遣った。「深雲が言ってたよ。実家で何か急用ができたって。もし手助けできることがあれば、何でも言ってくださいね。だって……」姿月は鏡の前で髪を整えながら、目元に誇り高い光を宿しつつも、声色には一切それを感じさせない。「田中さんは、母とも遠い親戚筋だし、深雲もあなたのことを家族同然に思ってるから」その言葉を聞いて、田中はますます罪悪感に駆られた。「姿月さん、あなたもご主人様も本当にいい人たちです。私は……」田中は、自宅で元気に遊ぶ孫たちを見つめながら、景凪のことを思い出して、背筋に冷たいものが走る。言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。「姿月さん、本当に実家で用事があって……どうしても戻らなきゃいけなくて。もしよかったら、前に毎月余分にいただいてた四十万円、返します」「……」姿月の美しい眉目に、ほんの少し冷ややかな影が差した。もともと田中を鷹野家に雇ったのは、辰希や清音の様子を細かく報告させるためだったし、必要とあらば、二人の子どもが寂しさを感じているタイミングで素早く駆けつけるためだった。だからこそ、二人の子どもたちの心の中で、特に清音にとって、これほどまでに大きな存在になれたのだ。田中は、姿月にとって実に便利な駒だったのだ。「そんなこと気にしなくていいよ。あれは私が田中さんへの、ささやかな感謝だから。それに、本当に急用なら、引き留めたりしないわ」姿月は優しく言った。田中は感動して言った。「姿月さんは本当に綺麗で、心まで優しい人ですね。ご主人様と早く幸せになれるよう、心から祈ってます。お二人こそ、一番似合ってますよ」姿月は口元に微笑みを浮かべ、何か言いかけたが、先に田中が声をひそめて忠告した。「姿月さん、あの景凪には気をつけて！」それ以上は何も言えず、「孫にご飯作りますから」と言い訳して、そそくさと電話を切った。「景凪……」姿月はその名前を繰り返し、嘲るように冷たく

「……」景凪は包丁を握る手にぐっと力を込めた。「景凪」深雲が顎を彼女の首筋に乗せ、低く艶のある声で囁く。「もう料理はいいよ。さっき出前を頼んだから」「……」ほのかに、深雲の体から女物の香水が漂ってきた。この香りは、景凪には馴染み深いものだった。目覚めたその夜にも、そしてその後会社でも感じたことのある香りだ。それは、姿月が愛用している香水だ。景凪は込み上げる吐き気を必死で抑え、腰に回された深雲の手を見下ろした。この手は、ほんの数時間前、別の女を抱きしめ、撫でていた手……「うっ」もう我慢できず、景凪は勢いよく深雲を突き飛ばし、ゴミ箱の前へ駆け寄って吐き始めた。今日もろくに食事をしていなかったこともあり、吐き出されるのは苦い胆汁だけ。深雲の顔色がわずかに青ざめ、目に見えて気まずさが漂う。自分の妻を抱きしめて、吐かせるなんて？しかも、これが初めてじゃない！結局、深雲はしぶしぶながらも水を用意し、景凪の背を優しくさすってやった。「大丈夫か？具合悪いのか？」「……」心配そうな深雲の顔を見て、景凪は思わず寒気を覚えた。本当に感心する。ここまで「いい旦那様」を演じてきて、きっと本人も自分の嘘に酔っているのだろう。ならば、彼がそうしたいなら、こちらもとことん付き合ってやろうじゃないか！「ごめん、汚しちゃってないよね？」景凪は不安げに、そして自責の念を込めて言った。「先生に聞いたんだけど、目覚めた後は胃腸がすごく弱くなってて、吐き気も普通のことらしい。しばらくは養生しなきゃいけないって……ごめんね、深雲……」なるほど、そういうことか。深雲の心から、わずかにあった不快感が消えていった。痩せて骨ばった景凪の顔をじっと見つめ、ほんの少し眉をひそめる。それは、本心からの心配の色だった。「なら、ちゃんと休まないと」そう言いながら、彼女を抱き寄せようと手を伸ばす。だが、景凪はどこか拒むような素振りを見せる。「深雲は潔癖症でしょ。今、吐いたばかりで……きっと汚いよ」そんな言い訳では、深雲を退けることはできない。「お前を嫌うわけないだろう」深雲は慈しむように彼女の頬をそっと撫でる。「俺の景凪は、どんな姿でも絶対に汚くなんか見えない」そう言って、彼は景凪の拒絶を許さず、強く抱きしめた。「…

西都製薬本社ビルの休憩ラウンジで。斯礼は、手に持った企画書を何度も見返しながら、すでに三時間も待たされていた。黒光りする大理石のテーブルには、彼の不機嫌そうな顔が映り込み、焦りと苛立ちが隠しきれない。このA市で、斯礼は深雲ほどのカリスマではないが、名家の御曹司として、市長ですら頭を下げる存在だ。まさか三時間も待たされるとは、人生で初の屈辱だった。その時、後ろから足音が近づいてくる。「鷹野さん、お待たせしました」スーツ姿の悠斗が、申し訳なさそうに頭を下げる。「すみません。黒瀬社長の会議が長引いておりまして、本日は特に重要な案件で……」さっきまでの仏頂面を消し、斯礼は深くうなずく。「いえいえ、黒瀬社長のお忙しい中、お時間をいただけるだけで光栄ですよ」そう言って、斯礼は企画書を手に立ち上がる。だが悠斗は、穏やかな笑みを浮かべて首を振った。「企画書はこちらでお預かりします。黒瀬社長は会議で疲れたので、本日はお目にかかれません」斯礼の作り笑いが一瞬固まる。だが、目の前の悠斗がただのアシスタントでなく、黒瀬社長の右腕であることを知っている。ここで無礼はできない。「そうですか……では、お手数ですが、よろしくお願いします」「お気をつけてお帰りください」握手の際、斯礼はさりげなく封筒を悠斗の手に押し込んだ。「影山さん、どうかこのこと、よろしく頼みますよ」悠斗は斯礼が立ち去るのを見届けると、自分の掌をちらりと見た。そこには一枚の銀行カードが収まっていた。ふっと鼻で笑うと、そのまま企画書と一緒に、ゴミ箱へ放り込んだ。電話を取り出し、恭しく報告する。「社長、彼は帰りました」……その頃、景凪は一人で夕食を終えていた。雲天グループとの共同開発を持ちかけてからというもの、深雲の心ここにあらずという様子は明らかだった。食事の途中、明岳から電話が入り、深雲はそのまま席を立ち、急いで出て行った。景凪は気にしない。一人でゆっくり食事を済ませ、テーブルを片付け、辰希と清音のための栄養満点の食事をせっせと用意する。すべて整え、二階へ運ぼうとしたその時。部屋のドアをノックしようとしたまさにその瞬間、中から勢いよく開いた。「清音が、熱出してるみたい！」辰希が焦った顔で叫ぶ。「えっ？」景凪は慌てて食事を置き、清

この夜、景凪は清音の看病にかかりきりだった。薬湯を飲ませて、何度も体を拭いてやり、気づけば夜中の三時まで付きっきり。ようやく清音の熱は完全に下がり、ほおにも血色が戻っていた。景凪は清音の脈を診て、もう大丈夫だと確信すると、どっと疲れが押し寄せる中、自分の寝室へと戻った。スマホを見ると、深雲から三時間前にメッセージが届いていた。【今夜は実家に泊まる。夜は帰らない】とそれだけ。景凪は返信する気にもなれず、画面を閉じようとしたが、新しい友だち申請が目に入った。二時間前に来たものらしい。どう見ても新規のサブアカウント。アイコンはデフォルトの灰色のシルエット、名前は「自渡」。思い返せば、昼間、千代が「新しいサブ垢作ったから、夜に追加するね」なんて言っていた。多分これだろう。景凪は申請を承認した。すぐにメッセージが来た。【まだ寝てないの？】【そろそろ寝るところ。そっちも早く休んでね、おやすみ】ハートのスタンプを二つ添えて送る。しばらく「入力中」と表示されていたが、数分待っても返事はなかった。きっと千代は撮影現場なのだろう。景凪はもう気にせず、バスルームへシャワーを浴びに行った。出てくると、千代から【おやすみ】とだけシンプルな返事が届いていた。寝る前、景凪は子どもたちの寝室を覗いた。すると、清音がいつの間にか辰希のベッドで寝ていて、双子の兄妹が手をつないで眠っている。その光景に、景凪の心はとろけそうになるのだった。翌朝、景凪は少し遅く目を覚ました。部屋を出て扉を開けると、朝食の香りがふわりと漂ってきた。典子が選んでくれた家政婦の桃子（ももこ）がすでに来ていて、朝食を整えていた。辰希と清音はテーブルについて、すでに食事を始めていた。清音の顔色もすっかり良くなっていて、景凪は心底ほっとした。「奥様、おはようございます」と桃子が声をかけてくれる。丸い顔に優しい目元、前に典子の庭で会ったことのある人だ。「桃子さん、おはよう」と景凪も微笑んで返す。桃子がいてくれれば、明日から安心して会社に行ける。景凪がテーブルについて座ると、辰希と清音がちらりと目を合わせた。清音は何か言いたそうなのに、なかなか言い出せず、時折こっそり景凪を見ている。結局、朝食が終わるまで何も言わなかった。景凪は急かさない。いつかきっと

月曜日の朝、景凪と深雲は同じ車で会社へ向かった。この日は運転手が休みだったため、アシスタントの海舟が運転手役を買って出て、迎えに来てくれた。スーツ姿の景凪を一目見た瞬間、海舟の目には明らかな驚きが走った。しかし自分の目線があまりにも真っ直ぐすぎたことに気づくと、すぐに視線を落とし、景凪と深雲のために後部座席のドアを開けてくれた。会社へ向かう道中、海舟は思わず言った。「良かったです。また奥様と社長が一緒に出社されるのを見られて、嬉しいです」景凪は淡く微笑みながら答えた。「海舟、これから平日は穂坂部長と呼んでください」「奥様」なんて呼び方、今の景凪には耳障りでしかなかった。働くこと、そして自分の実力だけが、彼女の唯一の誇りであり、支えなのだ。半分うつむき加減でメールを確認していた深雲は、景凪のこの言葉を聞くと、ふと彼女の方を見やった。景凪の化粧は薄く、髪もシンプルにまとめている。その姿は五年前と大きく変わらないはずなのに、なぜか今目の前にいる景凪は、記憶の中よりもずっと魅力的に見えた。「景凪、今日は本当に綺麗だ」その言葉には、心からの想いがこもっていた。深雲は手を伸ばし、景凪の耳元に落ちていた髪をそっと耳にかけてやる。指先の温もりが、ほんのりと彼女の頬に残る。車内は狭く、逃げ場がない。あまりに露骨に避ければ、かえって不自然だ。景凪は目を伏せ、恥ずかしげに深雲の手を下ろした。「もう、やめて」ほんの少し甘えた声で。自分で自分が嫌になるほどだ。だが、深雲はまるでそれが嬉しいかのように微笑み、景凪の手をぎゅっと握ったまま、ずっと離そうとしなかった。「……」最悪。運転席の海舟は、バックミラー越しにこの光景を見て、満足そうに微笑む。顔には「最高の夫婦愛を目撃した！」と書いてあった。七年連れ添った社長夫婦、やっぱりこの二人は特別だ。ようやく仲直りできたのだろう。やっと会社に着くと、景凪は深雲にまた触れられるのを恐れて、風のように足早に歩き出した。「深雲、私はそのまま開発部に行って企画案の準備をするね」まるで待ちきれない様子に、深雲の表情も自然と和らぐ。景凪がこれほどまでに仕事に打ち込むのも、やはり自分のためなのだろうか。深雲は片手をポケットに入れ、ゆっくりと景凪の後を歩いていく。会