All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

「ありがとう。ママはもう全然悲しくなんかないよ」景凪は真剣な表情でそう言う。神様に感謝している。こんなにも可愛い二人の子どもを授けてくれたことに、たとえ清音が今はまだ自分を好きになってくれなくても、少なくとも辰希がいる。それがどれだけ自分の慰めになっていることか。ダイニングへ行くと、すでに典子が主席に座っていた。眉間にしわを寄せ、どうやら誰かのせいでご機嫌斜めの様子だ。「ひいおばあちゃん」辰希が素直に声をかける。「おお、なんていい子なんだい、辰希」典子は、辰希の顔を見るや否や、険しい顔が一気に笑顔に変わった。「おばあさん」景凪も丁寧に挨拶する。典子はさらに嬉しそうな表情を見せた。「さあ、辰希も清音も、こっちに座って。景凪も早くおいで」典子は景凪に手招きし、続けて深雲の方をきつく睨む。「深雲、何をぼーっと座ってるの?景凪の椅子を引いてあげなさい」深雲は立ち上がり、景凪のために隣の椅子を引く。典子はようやく満足げにうなずく。その様子を斜め向かいから見ていた伊雲は、内心、景凪はまた典子の前で猫を被って……と舌打ちしたくなる。しかしそれを口に出せるはずもない。典子は歳を重ねても耳も目も確かで、しかも会社の株やこの屋敷まで全てを握っている。何より、孫嫁の景凪のことを実の孫娘である自分以上に可愛がっているのだ。もしこの場で景凪に突っかかろうものなら、本当にこの家から追い出されかねない。「深雲、景凪におスープをよそってあげなさい」典子がそう言うと、深雲はためらわず従う。景凪が手を伸ばすと、お椀が小さいせいでどうしても深雲の手に触れてしまう。深雲はちらりと景凪を見て、静かに言う。「熱いよ。俺が持つから」「……」景凪はそっと手を引き、深雲がお椀を自分の前に置いてくれるのに任せる。典子はそれを見て、とても満足そうだった。「景凪、体調が整ったら、深雲ともう一人、可愛いひ孫を産んでおくれ。男の子でも女の子でもいい。子どもは多いほど福があるんだし、うちには余裕もあるんだから」この話題には、景凪もどう答えていいかわからず、苦笑いを浮かべて素直にスープを口に運ぶしかなかった。典子は、それを照れていると思ったのか、テーブルの下で深雲の足を小突く。深雲は困ったように言う。「おばあさん、そういうことは自
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第112話

景凪は思わず苦笑いした。目の前の深雲の顔――あれほど長い年月、心から愛し、何度も夢にまで見たその顔。かつては目を閉じても細部まで描けたほどなのに、今はどこか遠い他人のように思える。「どうして私が、おばあさんに説明しなきゃいけないの?」家に入り込み、我が子を奪った女――その人のために、なぜ自分が弁解しなければならないのか。自分は確かに優しいけれど、聖人じゃない。深雲は眉をひそめ、失望の色を浮かべた。「景凪、お前は姿月に対して敵意が強すぎる。お前がいなかったあの数年、仕事と家庭を両立できなくて、ずっと彼女が助けてくれたんだ……」その一言一言が、まるで彼女への責めのように響く。彼女は難産のせいで昏睡し、無力に眠り続けるしかなかった。それを「いなかった」と言い換えるなんて、まるで彼女が無責任な母親だったかのように。あの五年間、地獄のような苦しみを味わってきたのは、いったい誰だったというのか。深雲の指先の煙草が静かに燃え尽き、灰が雪のように舞い落ちる。景凪の目の奥で、静かに降り積もる。「もういいわ」景凪はついに黙っていられなくなり、冷たい声で遮った。「おばあさんの前で、姿月のことは一言も庇わない。あなたがどうしたいかはあなたの勝手、私はもう関わらない」「景凪、どうしてそんなに冷たくなったんだ?」深雲の目は半ば氷のようだった。説明する気にもなれない。何を言っても、深雲の心の天秤は既に姿月の方に傾いているのだから。景凪が背を向け、歩き出そうとしたその時、ふと清音の姿が目に入る。彼女は庭の東屋の外で、ぬいぐるみを抱え、さっきの会話をすべて聞いてしまった様子だった。深雲に対してはもうどうでもいい。でも、清音だけは違う。「清音……」景凪は思わず動揺し、彼女の方へ歩み寄る。だが清音は、抱えていたぬいぐるみを力いっぱい景凪めがけて投げつける。「来ないで!姿月ママをいじめる悪い人だもん!大嫌い!」深雲も景凪の態度には不満だったが、娘が実の母親に暴言を吐くのは許せなかった。「清音、そんなこと言っちゃダメだ」それでも清音は怒って顔をそむけ、そのまま駆け出していく。足元に転がったぬいぐるみを見つめながら、景凪の胸は重く、痛んだ。やっと少しずつ、清音が心を開いてくれるようになったのに、姿月のせいで、また親子の距離が遠ざか
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第113話

清音は典子の腕の中からぴょんと飛び降り、景凪の後ろから入ってきた深雲のほうへ飛び跳ねていく。「パパ、家族写真を撮るんだって。先生が言ってたよ」「うん、じゃあ撮ろうか」深雲は、どこかに行こうとする清音の手を引き止め、少し離れた場所にいる景凪をちらりと見やる。「ママも誘って一緒に撮ろう」家族写真なら、家族みんなが揃うのが当たり前だ。清音は明らかに乗り気じゃなかったが、深雲の拒否を許さないまなざしとぶつかり、仕方なく口を尖らせて景凪の前にやってくる。「パパが……一緒にって」渋々そう呟くと、景凪の反応も見ずにさっさと走り去っていく。最後に中村がカメラを持ってきて、みんなの写真を撮ることになった。典子は当然のように真ん中の席に座り、両隣には辰希と清音が典子に寄り添う。その隣に文慧と明岳が並び、伊雲がその横に。景凪と深雲は後ろに立つが、二人の間にはわずかな距離がある。写真が撮れ、中村がまず典子に見せると、典子はあからさまに不満げな顔をした。そして深雲をきつく睨む。「二人の間がこんなに空いて……もう一人入れそうじゃないの。知らない人が見たら、仮面夫婦だと思われちゃうわよ!」典子は二人の間の微妙な空気をすぐに見抜く。この夫婦関係で、いつも主導権を握っているのが深雲だということも、長年の勘でわかっている。きっとまた、深雲が景凪を困らせたに違いない!「このバカ孫!景凪をちゃんと抱き寄せないでどうするの!」典子は深雲を睨みつける。景凪は気まずそうに何か言いかけたが、深雲の手が先に伸びてきて、彼女の背中越しに腰を抱き寄せる。少し力を入れて、景凪を自分の胸元へ。深雲は景凪を見ず、典子に困ったように視線を向ける。「これでご満足ですか、おばあさん?」典子は渋々ながらも満足そうにうなずく。「まあ、それならいいわ。深雲、うるさいようだけど、奥さんを大事にする男だけが大成するのよ、覚えときなさい」深雲は笑って「肝に銘じます」と答える。「……」景凪は言葉に詰まる。二人の距離はあまりに近く、ほとんど景凪の体は深雲に密着していた。典子がカメラの方を向いている隙に、少し離れようとしたが、腰に回された大きな手がぐっと力を込めて、身動きを封じる。深雲は少し身を屈め、唇がほとんど景凪の耳元に触れるほど低く囁く。「もう一度動いたら、お
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第114話

「もう戻りなさい。みんなをあまり待たせちゃだめだし、明日は辰希と清音たちも学校あるでしょ?」「大丈夫、数分くらい急がなくても平気です」景凪は典子の薬の飲み具合をもう一度尋ね、手首にそっと触れて簡単に脈を診る。景凪の中ではもう結果は見えている。「花子さん、前の薬の中のこの二つ、半分に減らして、あと半月続けてください」そう伝えてから、景凪はようやく席を立つ。景凪の姿が遠ざかるのを見送ると、典子の優しい眼差しは、じきに心配と少しの怒りに変わる。「まったく、頭にくるわ!深雲のあのバカ、あんな狐みたいな女の肩なんて持って!私の可愛い景凪が、きっと胸が痛かったに違いないのに!」花子は慌てて典子の背中をさすり、お茶を差し出す。「花子!」典子は彼女の手をぎゅっと握り、声を落として囁く。「あの姿月って女、本当にただ者じゃない気がするの。ちょっとちゃんと調べてちょうだい」景凪の深雲への想い、この何年も典子はずっと見守ってきた。そしてこの縁談を強く勧めたのも、ほかでもない典子だ。大事な孫嫁は、自分の手で守る――典子の心は、そう決まっていた。帰り道、深雲がハンドルを握り、景凪は助手席に座っている。後部座席には二人の子どもたち。辰希は、一緒にプログラミング大会に出る仲間と電話中だった。話題は、景凪が修正してくれたポイントについて。「うわ、辰希、すごいのは知ってたけど、ここまでとは!」向こうの相手も天才肌らしいが、声からして辰希より少し年上の十代の青年のようだ。辰希はそっと前の景凪を見て、彼女が目を閉じて眠っているようなのを確認すると、ちょっぴり誇らしげに小声で答える。「すっごい人に教わったんだ!」目を閉じたままの景凪の口元が、ほんのり上がった。清音もタブレットで宿題をやっている。「パパ、写真、森屋先生に送ったよ」「ああ」深雲は淡々と返す。その時、彼のスマホが光り、新着メッセージが届く。深雲は画面を見てから、助手席の景凪を一瞥し――彼女が眠っていると見て、車内の温度を二度上げた。やがて車が別荘に着くと、景凪はタイミングよく「目を覚まし」、シートベルトを外す時に室温が上がっていることに気づく。少し意外そうな表情。普段、外に誰もいないときや完璧な夫を演じる必要がない時、深雲はこんな細やかな気配りはしない
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第115話

姿月はカメラの正面に映っていて、顔ははっきりと写っていた。幸い、深雲の方は三分の一ほどの横顔しか映っておらず、しかも笑っていたせいで外から見れば判別はつきにくい。だが、それはあくまで他人の場合。リアルで深雲を知る者なら、写真の男が誰なのか一目で分かる。さらにスクロールすると、コメント欄はお祝いムード一色だった。深雲の目が一瞬、冷たく光る。彼はすぐさま海舟に電話をかけた。「ネットのトレンド、明日までに全部片付けろ。絶対に景凪に見せるな!」今のこのタイミングで、景凪には全身全霊をかけて研究に集中してほしいのだ。電話を切り、深雲は怒りを抑えながら姿月にコールを入れた。この写真は姿月のスマホにしかないはず。なのに、どうしてネットに流出したのか?彼の脳裏に、海洋公園で姿月がスタッフと接触していた場面がよぎる。おそらく、あのとき流出したのだ。コール音が二度鳴ったところで、相手が応答した。「深雲、こんな時間に電話なんて、もしかして清音が私に会いたがってるの?」姿月の、いつもの優しい声が受話器越しに響く。「ネットのトレンド、どういうことだ?」深雲は眉をひそめ、低い声で問い詰める。「俺たちのツーショットを、海洋公園のスタッフに渡したのか?」「ツーショット?なんのこと?」姿月は無邪気に無実を装い、「ちょっとネット見てみるわ」と答える。深雲はじっと説明を待つことにした。だが、説明は来なかった。代わりに、突然、電話の向こうから姿月の悲鳴が聞こえる。「きゃっ!」「姿月?」深雲はすぐに不安に駆られ、何度も彼女の名前を呼ぶ。「姿月!どうした、返事をしてくれ!」しかし返事はない。その時、アイクリームを忘れて取りに戻った景凪は、部屋の前で深雲の焦った声をはっきりと聞いてしまう。ドアを開けようとした手が途中で止まり、結局、静かに踵を返して書斎に戻った。席に着いてパソコンを開いた瞬間、横のスマホに深雲からのメッセージが届いた。【暮翔のところで急用ができた。ちょっと行ってくる。無理せず、先に休んでくれ】下のガレージから、車のエンジン音が聞こえてくる。深雲はもう、姿月のもとへ向かったのだ。これで二度目。深雲は夜中にもかかわらず、すべてを投げ捨てて姿月の元へ駆けつけている……しかも、彼女が目を覚ましてから、
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第116話

景凪に関してだけは、相葉教授はあからさまに贔屓している。「景凪のことなら、どれだけ忙しくても時間を作るさ」相葉教授は眼鏡のつるを指でつまみ、少し迷いつつ口を開いた。「景凪、最近、蘇我先生が学校に再雇用されたこと、知ってる?もし時間があれば、顔を出してあげなさい」「……」蘇我教授の話になった途端、景凪は言葉を失い、黙り込む。しばらくして、彼女はうつむき、罪悪感を滲ませながら呟く。「蘇我先生は、きっともう二度と私に会いたくないと思います。私も、とても顔向けできません」相葉教授はどうしようもないといった顔でため息をつく。あの頃、自分は景凪を大いに評価し、何とか自分の研究室に引き入れたかった。だが、その話が蘇我先生の耳に入るや否や、翌朝には椅子を持って自分の研究室前に陣取り、出待ちしていたのだ。あの年配のやんちゃ坊主が、開口一番こう言ったのを思い出す。「相葉教授、君女の身でなかなかやるな。一手譲ってやるから、勝負しようじゃないか!」相葉教授は呆れつつも、笑いをこらえきれなかった。結局、二度と景凪を引き抜こうとしないと約束し、保証書まで書かされた。ようやく蘇我先生は、むくれた顔で椅子を引いて帰っていった。だがその後も、相葉教授は密かに景凪との連絡を絶やすことはなかった。ただ才能を愛でるだけでなく、本当にこの子のことが好きだったのだ。もちろん、たまには蘇我先生の愚痴もこぼしたりして。まさかその景凪が、突如としてすべてを捨て、結婚へと走るとは……あの時、蘇我先生は本当に一気に歳を取ったようだった。「景凪は蘇我先生にとって何よりも誇りの弟子だった。彼は君を後継者にと育てていたんだ。景凪も情に厚い子だし、蘇我先生のことは恩師であり、父親のようにも思っていただろう。でも言っておく、蘇我先生はもう六十だ。もう、何度も七年をやり直せるほどの時間はないんだよ」「……」景凪は体をビクッと震わせた。あの日、大学の門前で見た、白髪混じりの蘇我先生――涙がこぼれそうになった。師弟の二人、もう七年もすれ違ったままだ……「分かりました、相葉教授。ご心配なく。ちゃんと機会を見て、蘇我先生に謝りに行きます。全部私が悪いんです。どんな罰でも受けますから、どうか先生が許して、また私を弟子として認めてくれるなら……」相葉教授は満足げにうなずいた。
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第117話

詩由は、怒りを滲ませながらも焦った声で叫ぶ。「リーダー、早く来てください!今朝、会社に来たら、向かいに新しく開発二課ができてた!姿月がそこの部長になってて、それだけじゃなく、うちの開発部の人たちを引き抜いた上に、研究室の備品まで持っていこうとしてる!」景凪の表情がわずかに翳り、低い声で答える。「五分で着く」景凪は足早に開発部へ戻る。エレベーターを出ると、向かい側のかつて空き部屋だったオフィスが既に片付けられ、開発二部のプレートが掛かっているのが目に入った。社員たちがバタバタと荷物を運び込んでいる。窓際にいた何人かが景凪に気づいたが、気まずそうに目を逸らして知らん顔をする。景凪の目が冷たく光る。深雲は、姿月には本当に目がないらしい。たった一晩で、彼女のために開発二部を立ち上げてしまったのだ。視線を戻し、景凪は研究室へ向かう。ドアの前にたどり着く前に、真菜の高圧的で嫌味な声が耳に飛び込んでくる。「詩由、あんた本当に景凪の忠犬だよね!一人で止められると思ってんの?さっさとどきなよ。今はもう、うちとあんたらの部門で研究室を共用することになったんだから!二人しかいないくせに、こんなにたくさんの機材を独り占めして、うちら二部は何を使えばいいわけ?」詩由は悔しさで目を真っ赤にして叫ぶ。「ひどすぎるよ!うちのリーダーが今、大事なプロジェクトやってるの知ってるでしょ?機材を持っていかれたら、研究なんてできないじゃん!」詩由は必死にドア枠にしがみついている。小柄な彼女の前には、数人の警備員を従えた真菜が立ちはだかっている。真菜は鼻で笑う。「何してんのよ、さっさとこいつを引き剥がしな!」警備員が動こうとしたその瞬間、女性の冷静で凛とした声が響く。「やめなさい」振り返った真菜は、そこに歩み寄る景凪の姿を見て怯んだ。以前、彼女に平手打ちされた頬が、まだ痛くような気がする。景凪の鋭い視線に、真菜はさらに怯え、警備員の陰に慌てて身を隠す。「穂坂部長、これは鷹野社長のご指示なんですよ?私たち下っ端を困らせないでくださいね」警備員の陰から顔を出し、真菜は嫌味たっぷりに付け加えた。「まったく、鷹野社長は本当に姿月だけには特別なんですから!」深雲の指示だって?景凪は冷ややかな声で問い返す。「社長が、私の実験機材を運び出せと?」「
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第118話

二週間……あの日、深雲が彼女に与えた猶予は一週間だった。二週間も経てば、もうとうに時効というものだ。「もし私が渡さないって言ったら?」景凪は一歩も引かない毅然とした態度で言い放つ。「姿月、もうこんな奴に構う必要ないわ!」真菜が警備員を呼ぼうとする。姿月はそんな彼女をたしなめるように睨む。「真菜、景凪さんは社長夫人よ。いくらなんでも、それは失礼じゃない?」景凪は、二人の茶番を無表情で見つめている。彼女はスマホを取り出すと、「深雲に電話するわ。本人の口から聞きたいから」と言い放つ。姿月はにこやかに微笑む。「景凪さん、ご自由にどうぞ」ちょうどその時、開発二部から戻ってきた社員たちが野次馬のように集まり始める。彼らの視線は一斉に景凪に向けられ、皆それぞれ思惑を秘めている。騒ぎ見たさもあるが、何より本妻である景凪に対して、鷹野社長がどんな態度を取るのか、確かめたかったのだ。この数年、姿月は会社で深雲に寵愛されているが、所詮は秘書にすぎない。景凪こそが法的に守られた、正真正銘の社長夫人なのだから。もし社長の心の中で、景凪という本妻にまだ居場所があるのなら、彼らも姿月と景凪のどちらにつくか、再考せねばならない……景凪は深雲の番号を押し、通話が始まると場の空気は一層静まり返った。誰もが、着信音が繰り返されるのを固唾をのんで見守っている。だが、一分ほど待っても、深雲は電話に出なかった。最後にスマホから流れたのは、無機質な音声案内だった。「おかけになった電話は、現在おつなぎできません。しばらく経ってからおかけ直しください……」真菜がクスクスとあざ笑う。「おやおや、穂坂部長、社長は奥様の電話も無視しちゃうんですか?」「真菜、やめなさい」姿月は口元をわずかにほころばせながらも、さも気遣わしげに言った。「景凪さん、きっと社長は忙しかったんだよ。私からかけてみるね」そう言って姿月は自分のスマホを取り出し、深雲の番号を押した。耳に当てて、皆が固唾をのんで見守る。景凪自身も、思わずその様子を見つめてしまう。思わずスマホを強く握りしめている。深雲に期待しているわけではない。でも、七年も夫婦でいたのだ。少なくとも会社でまで、こんな仕打ちはしないはずだ……しかし、次の瞬間。姿月のスマホから、聞き馴染みのある低
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第119話

昨夜、深雲は慌ただしく姿月の家へ駆けつけた。すると、彼女はバスルームで倒れていたのだった。幸いにも、長風呂して低血糖になったせいで、慌てて立ち上がったときに気を失っただけで、命に別状はなかった。深雲は姿月をベッドに運び、人中を少し押すと、姿月もようやく目を覚ました。彼女は涙ながらに、まるで春の雨に濡れる桜のように儚げに訴えた。「その……スタッフの人が私にLINEを教えてほしいって言ってきて、断ったんだ。でも、一歩引いてちょっとだけスマホを貸してって頼まれて、つい警戒せずに貸しちゃって……そしたら、私の知らない間にアルバムの写真を盗まれてて……私、その人にはちゃんと説明したの。私たちは夫婦じゃないって。深雲、私のこと信じて……今すぐ公開で動画を撮って、誤解を解くから!」そう言って必死にスマホで動画を撮ろうとする姿月を、深雲はそっと制した。涙で濡れた彼女の顔に、深雲も少しばかり心を痛めた。「もういいよ、この件は海舟に任せてある。姿月がわざとじゃなかったのなら、もう水に流そう」そう言って、深雲は姿月の無事を確かめると、帰る準備をし始めた。出がけに、典子の件はもう解決したこと、そして彼女を第二開発部の部長に推薦することも伝えた。姿月はとても嬉しそうに、今まさに進めようとしているプロジェクトの話を自ら切り出した。深雲はしばらく、その新薬開発プロジェクトの話に耳を傾けた。確かに将来有望な内容だった。そんな中、姿月が飲み物を注いで深雲に渡そうとしたとき、うっかり彼の服にこぼしてしまった。「あ、ごめんなさい。シャワー浴びてきて。服、持ってくるね」深雲は以前から仕事が忙しく、辰希や清音がたまに姿月の家に泊まることもあった。伊雲が子供たちを迎えに来るついでにシャワーを使うことも多く、だからこそ、姿月の家には深雲の着替えも常備されていた。シャワーを終え、着替えてリビングに戻ると、姿月はもう夜食を用意してくれていた。時刻はもう午前二時を回っていた。深雲はもう帰るのも面倒になり、結局その晩はソファで夜を明かすことにした。もちろん、ちゃんと一線は守って。翌朝、出社する道すがら、姿月が研究室でどうしても使いたい機器があると話していたことを、深雲はしっかり覚えていた。今の景凪のプロジェクトは、西都薬品との提携にも関わる大切なも
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第120話

詩由は、周囲で手のひらを返して媚びへつらう社員たちを見て、今にも爆発しそうだった。昨日まで、あいつら一人一人がまるで借りてきた猫みたいに、景凪の前では縮こまってたくせに!「お前ら、いい大人が恥ずかしくないの?リーダーが今やってるプロジェクトは……」「詩由!」景凪がタイミングよく詩由の袖を引き、口をつぐませる。姿月の瞳に、ほんの一瞬、鋭い光が浮かぶ。彼女は冷ややかに景凪の美しい横顔を見つめながら、ゆっくりと前に出て、「善意」を装って声をかけた。「景凪さん、安心して。私はこの研究室のスーパーコンピューターを二週間だけ借りるだけ。他のものには手を付けないから」その言葉に、景凪は眉をひそめた。さっき抑えていた怒りが、詩由の胸に再び湧き上がる。「ダメだ!絶対にダメ!」詩由は即座に拒否する。このコンピューターには、景凪のプロジェクトの最高機密がすべて詰まっているのだ!姿月は何も言わず、隣にいた真菜をチラリと見るだけだった。すると、真菜はすぐさま察して、甲高い声で叫ぶ。「なにボサッとしてるのよ!さっさと中に入って、パソコン持ってきなさいよ!私たち開発二部の午後の仕事の邪魔なんだから!」さっきの深雲の一言もあり、数人の警備員は遠慮なく詩由を押しのけてコンピューターを運び出し始める。もし景凪が咄嗟に手を伸ばして支えなければ、詩由は壁に頭をぶつけていたかもしれない。詩由はもう一度止めようとするが、景凪に腕を掴まれて動けなくなる。「リーダー!」景凪は首を横に振った。今の自分たちには、もうどうすることもできない。深雲の盲目的な寵愛のせいで、社内の空気はすでにすべて姿月の味方になってしまっている。結局、景凪はただ呆然と、彼らが研究室のコンピューターを姿月の元へ運んでいくのを見ているしかなかった。「リーダー、どうすればいいの?」詩由は泣きそうな声で言う。「なんでこんなに酷い目に遭わなきゃいけないの?あの姿月、絶対わざとだよ!」あのスーパーコンピューターは、彼女たちにとって命より大切なものだった。「もう、泣かないで」景凪は優しく涙を拭い、詩由の手を引いてオフィスの奥へ連れて行く。ドアを閉めてから、景凪は声をひそめて言う。「ちょっと、いいもの見せてあげる」景凪が取り出したのは、一見ごく普通のノートパ
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