All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

翌朝。景凪が階下に降りると、台所では田中が忙しく立ち働いていた。景凪はゆっくりと歩み寄り、「おはよう」と声をかけた。「奥様、おはようございます」田中は言葉こそ丁寧だったが、振り返ることもなく、まるで景凪をまだ目の見えない人間として扱っているようだった。ちょうど今朝届いたばかりの高級なツバメの巣を手にしている。景凪は腕を組んでドア枠にもたれ、軽く口元に笑みを浮かべて言った。「今日のツバメの巣、おいしそうね」その一言で、田中の手がピタリと止まる。驚いたように振り返ると、景凪はサングラスもかけず、以前とは打って変わった澄んだ瞳でじっと彼女を見つめていた。田中の顔色が一瞬で青ざめる。無理に笑顔を作りながら尋ねた。「奥様、その……お目の方は……」「昨日、有名な先生に診てもらって、薬を使ったら、今朝はもう見えるようになったの」そう、今朝になって治ったばかり……田中は内心冷や汗をかきながらも、何事もなかったかのように話を続けた。「ええ、これはおばあさまがわざわざ選んで送ってくださった最上級のものです。辰希くんと清音ちゃんは成長期ですから、こういう物を食べるといいんです」景凪は口元に笑みを浮かべたまま言った。「そういえば、お孫さんも辰希と清音と同じくらいの年齢だったわよね?もしツバメの巣が余ったら、持って帰ってあげてもいいのよ」「い、いえいえ、それはいけません!」田中は慌ててかぶりを振った。「私がそんなことできるわけありません。ご主人様からいただくお給料だけで十分すぎます。毎月六十万円もいただいてますし。これは全部、辰希くんと清音ちゃんのためのものです。うちの孫たちにはもったいないですよ」景凪はその必死な様子を見て、ますます意味ありげに微笑んだ。「あなたみたいに『正直』な人、なかなかいないわ」柔らかく微笑んでいるのに、田中の背中にはじっとりと冷や汗が流れた。景凪はそれ以上何も言わず、階段を上がって清音を起こしに行った。辰希のベッドは空っぽだった。まだ幼いのに、彼はとても規律正しく、休日でも朝寝坊はしない。今頃は地下のトレーニングルームで、深雲と一緒に運動しているのだ。清音はまだ眠そうに目をこすり、やってきたのが景凪だと分かると、ますます不機嫌そうに布団の上でごろごろ転がり、蹴りまくって朝の機嫌を爆発させる。
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第82話

「パパ、早く食べてよ!三人で海洋公園に行くんだから!」清音が元気よく声を上げる中、深雲はミルクを辰希に注いでいる景凪を見て、何か言いかけた。「景凪……」けれど景凪は先に彼の視線を受け止め、自分から口を開いた。「清音が教えてくれたわ。学校の決まりで、保護者はひとりだけなんだって。三人で楽しんできて」「わかった」深雲は素直にうなずいた。ミルクを飲んでいた辰希は、そのやり取りを聞きながら、グラスの向こうで小さく眉をひそめた。またパパ、嘘ついてる……出発のとき、景凪は二人が外で長く遊ぶだろうと心配して、上着を二枚用意して持たせようとした。「いやだ、こんなダサい上着!」清音は嫌がって、上着を放り投げると、そのまま車へと駆け出していった。だって、姿月ママがエルサの可愛いショールを持ってきてくれるって言ってたもん。こんなダサい上着なんか絶対着ない!景凪は小さくため息をつき、落ちた上着を拾おうと屈んだ。すると、辰希の小さな手が先に伸びてきて、上着を抱き上げた。「辰希……」さらに、彼女が自分用に用意したもう一枚の上着も受け取って、ちょっと照れたように早口で言った。「ありがとう」その一言に、景凪はしばらく呆気に取られたあと、ふわりと微笑んだ。「ママの方こそ、ありがとう、辰希」辰希の耳が少し赤くなり、車へと向かった。車窓越しに、辰希は、景凪がまだ玄関先で手を振っているのが見えた。柔らかな日差しの中、彼女の全身からはやさしい空気が溢れている。これが「ママ」なのかな。ママ。辰希は心の中でその言葉を呟くと、ちょっとくすぐったくて、全身に鳥肌が立った。でも、なんだか、悪くない気もする。 この女の人はとてもやさしくて、自分や清音を見るその瞳は、今にも涙がこぼれそうなほどに温かい。「お兄ちゃん、どうしたの?」清音が不思議そうに覗き込み、辰希が二枚の上着を抱えているのを見て、ぷくっと頬をふくらませた。ぜったい、あの悪い女が無理やり持たせたんだ!清音は怒ったように、辰希の腕から上着を奪い取り、力いっぱい後部座席に投げ捨てた。辰希は眉をひそめて、注意しようとしたけど、清音はすぐに耳をふさいで「聞きたくない!」とそっぽを向いてしまう。仕方なく、辰希はそれ以上何も言わなかった。深雲は車を発進させ、三人を
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第83話

ちょうど玄関まで歩いた田中は、その言葉に振り返り、思わず自分の耳を疑った。「奥様、今のはどういう意味ですか?」田中は信じられないという顔で、慌てて景凪の前まで駆け戻り、急に弱々しい声で訴え始めた。「私、この家で二年も働いてきました。どんな仕事も文句ひとつ言わず、精一杯やってきたのに……どうして、こんな……」景凪はもう、そんな芝居に付き合う気はなかった。スマホを取り出し、無言で画面を田中の目の前に差し出した。田中は訳も分からず画面を覗き込む。そこに映っていたのは、ここ数日自分が台所で食材をこっそりすり替えている瞬間の証拠映像だった。さっきまでの被害者ぶった表情は、ピタリと止まった。年老いた顔が強張り、歪む。「まだ言い訳はある?」景凪はソファにもたれ、片手で頭を支えながら冷ややかに見下ろした。その笑みは一見やさしく見えるが、圧倒的な女主人の風格が漂い、その澄んだ瞳には人を威圧する力が宿っている。「……」田中は手のひらを握りしめ、顔を引きつらせて突然キッチンへ走り込むと、隅々まで探しまくった。やがて、人目につかない奥の棚から親指ほどの小さな監視カメラを見つけ出す。「ここに隠してたのか!」景凪が戻ってきてから設置されたに違いない。まさか、毎日律儀に出入りしていたのに、こんな小道具を見抜けなかったとは……しかし、目の見えないはずの景凪に、どうやってこんなことができたのか?「やっぱり、あんた、最初から目が見えてたんだな!」田中はカメラを握りしめ、景凪の前に投げつけてきた。「今すぐご主人様に全部話してやる!あんた、ずっとみんなを騙してたんだって!」「ふっ」景凪は鼻で笑い、眉をひそめて田中を見た。「家のものを盗んでた家政婦が、女主人に逆らえると思ってるの?どこからそんな度胸が湧いてくるのかしら」田中の目に、ほんの少し勝ち誇った光が浮かぶ。何か言い返そうとした瞬間、景凪がその名を口にした。 「姿月、でしょ?」「そうよ。だから?」もう隠す気もない。田中は景凪の正面にどっかりと座り、足を組んで冷笑を浮かべた。「あなたはたった二年の奥様、姿月さんはこの家に五年もいるのよ。ご主人様にとっても、子供たちにとっても、あなたよりずっと大切な存在じゃない」景凪の顔に変化はない。ただ、子供たちの話になった時だけ、ほんの一瞬だけ目に翳り
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第84話

田中は、決して自分の二人の大事な孫を賭けに使うようなことはしなかった。この瞬間、彼女はようやく気づいた。景凪という女は、見かけ通りの柔弱な存在ではない。むしろ、恐ろしいほどの強さを秘めているのだと。景凪を前にして、田中の膝はガクガクと震え、ソファに崩れ落ちるように座り込んだ。先ほどまでの高飛車な態度はどこへやら、今やすっかり意気消沈している。「奥様、わ、私は……奥様の言う通りにします」その目に映る景凪は、まるで人を飲み込む大蛇か、荒ぶる神のようだった。景凪はソファに背を預け、冷ややかな声で言った。「今日の会話、一言でも外に漏れたら、どうなるか分かってるわよね」田中は孫たちの写真を見て、もう強がる余裕もなく、「奥様、ご安心ください。絶対に口外しません」と平伏した。景凪は一枚のキャッシュカードを机の上に滑らせた。「これに四ヶ月分の給料が入ってる。ここ二年、辰希と清音を世話してくれた苦労への感謝も込めてるわ」田中はお金に文句を言うはずもなく、恐縮しきりでカードを受け取った。「ありがとうございます、奥様!」恩威両方を巧みに使い分ける。こういうタイプの人間には、これが一番効くのだ。景凪は立ち上がり、乱れた台所を一瞥する。「帰る前に、きれいに片付けておいてね」それだけ言い残し、彼女は階段を上っていった。田中の問題が片付いた今、景凪は来週から本格的に会社へ復帰する予定だ。新しい家政婦も必要になる。景凪は電話を手に取り、典子に連絡して誰か信頼できる人を紹介してもらおうと考えた。深雲も異議はないだろうし、典子が信頼する人なら自分も安心できる。だが、番号を押す前に千代から電話がかかってきた。景凪が出るより早く、千代の興奮した声が耳に飛び込んできた。「景凪、聞いてよ!最高のニュースがあるんだから。伊雲が今、ネットでめっちゃ大人気!今、送った動画見て!」景凪は何が何だか分からないまま、千代から送られてきた動画を開くと、思わず吹き出しそうになった。動画は短く、伊雲が明岳に平手打ちされて地面に倒れるシーン――それを誰かが十五秒のネタ動画に加工していた。千代は大喜びで続ける。「この動画、どこから流出したのか分からないけどネットで大バズりしてるの!伊雲、完全に有名人だよ!自業自得だよね、だってあなたを殴ったんだから
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第85話

景凪は海洋公園に向かう車の中で、典子に電話をかけた。まずは自分の目が回復したことを伝えると、典子は嬉しそうに声を弾ませた。「よかったわ、本当に仏様のおかげだねぇ。うちの景凪は、やっぱり福のある子だよ!」景凪は苦笑いを浮かべるしかなかった。もし本当に福があるのなら、どうして深雲なんて男と結婚して、こんなに苦しい思いをしなければならなかったのだろう。だが、そんなことを典子に言うつもりはなかった。この家で自分を本当に可愛がってくれるのは、典子だけなのだから。「おばあさん、来週の月曜から会社に復帰します。それで、家に二人の子どもがいますから、新しい家政婦をお願いしたいんです。一日三食と、子どもたちの面倒だけ見てもらえれば」「そんなの、もちろん大丈夫さ。花子に声をかけて、腕のいい人を送るよ」典子は快く了承してくれた。「景凪、今は家にいるの?」「いえ、今は海洋公園に向かっている途中です……」その時、隣にいた花子がタブレットを差し出してきた。画面には、清音が送ってきた写真――辰希、清音、そして深雲が、海洋公園の入り口で並んで撮った家族写真だ。清音はプリンセスのワンピース、辰希はイケメン少年そのもの。そして深雲は、カジュアルな服装で子どもたちの隣に立ち、カメラに向かって優しく笑っていた。【曾おばあちゃん、みんなで遊びに来たよ!】典子はその写真を見て、目尻にしわを寄せて嬉しそうに微笑んだ。ふたりの可愛い曾孫の姿に、たまらず頬が緩む。きっと景凪も、家族と合流するために海洋公園に向かっているのだろう。五年も昏睡していた景凪と深雲の関係を心配していた典子は、ようやく肩の荷が下りたようだった。「そうかそうか、いっぱい楽しんでおいで。思いっきり遊んできなさい」景凪は、本当は友人に会いに行く予定だと言いかけたが、典子の言葉に口を噤んだ。「じゃあ、おばあさん、ゆっくりお休みください。お薬は忘れずにね。近いうちにまた脈を診に伺います」典子はため息交じりに言った。「あなたと深雲が仲良くしてくれるだけで、薬なんていらないよ。できれば、もう一人、可愛い曾孫が増えたらいいねぇ!」景凪はその言葉には答えられなかった。自分と深雲が、今さら元に戻れると思えなかったからだ。「おばあさん、そう心配なさらずに。その時はその時に……おばあさんはお体を
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第86話

かつて、「Z時代」はある大手IT企業の目に留まり、共同開発の話が舞い込んだ。しかし、景凪はすでに別の道を選ぶ覚悟ができていたので、その話から身を引いた。その時、共同開発者の郁夫は、契約金の半分を景凪に分けようとしたが、彼女はそれを断った。その時の郁夫がどれほどお金に困っていたか、景凪はよく知っていた。彼のプライドを傷つけたくなくて、景凪は笑ってこう告げたのだ。「これはただのお金じゃないよ。私の出資金だと思って。私があなたに投資するってこと。将来、大きな会社を作ったら、その時は株をちょうだい」そんな昔のやりとりを思い出して、景凪はふと遠い目をした。懐かしさと、どうしようもない後悔が胸の奥に渦巻く。大学を卒業して結婚を選び、全ての時間や情熱を深雲のために費やした。そのせいで、かつての友人たちとも疎遠になってしまった。郁夫が今どうしているのかも、もう分からない。「そうそう、Z時代です!」咲苗は目を輝かせて言った。「景凪さん、どうしてあんなすごいシステムの権限持ってるんですか?あれ、一般人には絶対手に入らないって聞いたけど……」「ええと……昔、Z時代の初期テスターだったから、特別にインストール権限があるのよ」景凪は、もっともらしく答えた。まさか自分が創始者のひとりだなんて、口が裂けても言えない。Z時代を郁夫に全て託したのは、もう七年前のこと。自分はすっかりその世界から離れた。もうこのシステムに自分の名前が残ることもない。幸いにも、咲苗はパソコンに疎いタイプ。景凪の説明をすんなり信じ、深く追及することはなかった。その頃、ブランドイベントはすでに始まっていた。会場は千代の熱狂的なファンでごった返し、メディアも大勢押し寄せて、賑やかさは最高潮だった。咲苗に案内されて、景凪は最前列のVIPシートへ。やがて千代が、黒いフリンジドレスに身を包み、ステージに登場した。ファンたちの絶叫が会場を揺らした。「みなさん、こんにちは。鐘山千代です」キラキラと輝く千代を見上げながら、景凪は誇らしさと、そして少しの切なさを感じていた。自分が植物状態で苦しんでいた五年もの間、千代はひとり芸能界で戦い続けてきた。どれだけ大変だっただろう……景凪は千代の写真を十数枚撮った。ファンが大勢いるから、イベントが終わる前に静かに席を立つことにし
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第87話

景凪は、胸の奥を押しつぶすような痛みに目を閉じた。てっきり、まだ二人の子どもが自分に心を開いていないから、一緒に遊びたくないのだと思っていた。だから、わざと嘘をついて自分を誘わなかったのだと……だが、真実は違った。彼らは最初から姿月と一緒に出かけるつもりだったのだ。家族ぐるみで、自分を騙していた……景凪は心が張り裂けそうになりながらも、必死で目を逸らさず見つめ続けた。「パパ、これ食べて!」清音が走り寄ると、電話中の深雲の袖を引っ張った。背伸びして手に持ったアイスを差し出す。深雲は甘いものが苦手なはずだが、娘が差し出すものならと、優しく身をかがめて一口だけ舐めた。次に清音は、そのアイスを姿月の方へ向ける。姿月は深雲に一瞥を送り、髪をかき上げ、頬を紅潮させたまま、深雲が舐めた同じ場所にそっと口を付けてかじった。「……」景凪は思わず吐き気を覚えた。深雲もこの光景に気付いていたのだろう。姿月と視線を交わし、困ったような、だがどこか甘やかすような微笑みを浮かべた。まるでお返しでもするかのように、姿月は自分の飲みかけのジュースを深雲に差し出し、かわいらしく首を傾げて「飲んで?」とねだる。結局、深雲は断りきれず、姿月が飲んだストローから一口だけ飲んだ。「……」景凪は、こんなにも誰かに優しい深雲の表情を、かつて一度も見たことがなかった。昔、二人が付き合い始めた頃、喉が渇いた景凪が深雲の飲み物を一口もらったことがある。深雲は何も言わなかったが、その後、彼はそのドリンクに二度と口をつけなかった。潔癖症だと思っていた。だが、それが違うと、今なら分かる。自分は、彼にとって特別に許したい相手ではなかったのだ。景凪は力なく手を開き、掌に冷たい汗が滲んでいた。滑稽だ。自分がどれだけこの愛に必死だったか。結局、ピエロだったのは自分だと、皮肉な笑みが口元に浮かぶ。深雲は電話しながらも、ふいに自分の鼻先を指でトントンと指した。姿月は不思議そうに首をかしげたが、深雲はポケットからハンカチを取り出すと、彼女の鼻についたクリームを優しく拭ってやった。そして、また何事もなかったかのように電話に戻った。姿月は恋する少女のように微笑み、幸せそうな顔をしている……なんて、恥知らずな二人だろう。景凪が冷笑を浮か
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第88話

一方、海洋公園にて。姿月は清音を抱っこしながら、イルカとのふれあいタイムを楽しんでいた。清音は無邪気な笑い声をあげ、楽しそうにイルカを見ている。そのそばで深雲が姿月のバッグを持ち、優しく見守っていた。「パパ、姿月ママとの写真撮って!」清音がくるりと振り返り、深雲に甘える。深雲は素直にスマホを取り出し、二人の写真を撮った。近くにいたスタッフは、その様子に思わず感嘆する。「お客様、ご家族揃って本当に素敵ですね。皆さんお綺麗で、仲も良くて羨ましいです」スタッフはそう言いながら、「もしよければ、お写真を一枚、来週の親子イベントの宣伝用に使わせていただけませんか?」と提案してきた。「お気持ちだけで結構です」深雲は丁寧ながらも、どこか距離を置いた口調で断った。それでもスタッフは食い下がる。「お子さまの顔を出したくなければ、奥様とお二人だけでもどうですか……」深雲は少しいら立つが、表情には出さない。「俺たちは……」「夫婦じゃない」という言葉が出る前に、電話が鳴った。深雲は会話を切り上げ、静かな場所へと歩きつつ電話に出る。「もしもし、田中?どうかした?」一方、辰希はベンチに座り、ひとりでルービックキューブに夢中になっていた。小さな手で器用にカチャカチャと動かし、十数秒もしないうちに完成させてしまう。辰希は少し離れたところにいる姿月と清音をちらりと見やり、「別にあの人はママじゃないし……」とぽつり呟いた。その頃、姿月は清音を下ろし、しびれた腕を揉んでいた。「清音、ほら、お兄ちゃん一人で遊んでるよ。一緒に遊んできてくれる?」そうやさしく声をかける。「うん!」清音は元気に跳ねるようにして辰希のもとへ向かった。姿月は、さきほど深雲に話しかけていたスタッフのもとへ歩み寄る。「こんにちは」微笑みながら声をかける。「さっき、私たち夫婦の写真が欲しいと言ってましたよね?」スタッフは、目の前の美しい女性に圧倒されつつ、思わず声も優しくなる。「はい。お二人があまりにもお似合いで、ぜひイベントの宣伝にお写真を使わせていただきたくて。でも、ご安心ください。個人情報は絶対に守ります」姿月は思いやりのある笑みで答える。「夫は写真が苦手なので、もしよければ私が持ってる二人の写真を送りますね」「本当ですか!奥様、ありがとうございます!
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第89話

景凪が目を覚まして家に戻ってきて、まだ半月も経っていないというのに、それまで二年も一度も休みを取らなかった田中が、突然やめてしまった……深雲はまず自宅に電話をかけてみたが、誰も出なかった。景凪が家にいない?彼女は一体どこに?深雲の眉間に皺が寄る。彼は景凪に直接電話をかけようとしたが、最初の三桁を押したところで、後の番号を思い出せなかった。まあ無理もない。五年もの間、彼女は自分の世界から消えてしまっていたのだ。番号を忘れてしまっていても仕方がない。深雲は電話帳から景凪の昔の番号を探し出し、かけてみた。呼び出し音は続く。しかし一分待っても、誰も出なかった。深雲の顔色がみるみる険しくなる。こんなこと、今まで一度もなかった。自分からの電話なら、景凪はいつだって一秒で出てくれたはずだ。深雲は深く息を吐き、携帯をしまう。「今日はもう十分遊んだし、そろそろ帰ろう」感情の見えない声色だったが、その表情は明らかに冷たくなっていた。海洋公園の出口まで送迎バスで二十分ほど。その間、深雲は何度もスマホを確認したが、景凪からの着信はなかった。出口が近づく頃、ついに我慢の糸が切れた深雲は、再び景凪に電話をかけた。今度は十数秒ほど呼び出し音が鳴り、ようやく彼女が出た。「もしもし」「今どこにいる?なんで電話に出ない?折り返しもくれないのか?」深雲の声は珍しく冷たく、明らかに不機嫌だった。「……」その頃、景凪はタクシーに座っていた。深雲の矢継ぎ早な問いかけに、思わず吹き出しそうになる。この厳しい口調――まるで、こっそり浮気相手と海洋公園でデートしていたのが自分だとでも言いたげだ。景凪は心の中で深雲に問いかけたくなる。恥という字、知ってるのかって。だけど、今はまだその時じゃない。「千代に会いに行ったんだけど、途中で彼女がファンに見つかっちゃって。服を交換して、私が囮役をやったの。走って逃げてたから、スマホを見る余裕もなかった。今やっとタクシーに乗ったとこ」淡々と説明しながら、景凪は流れる車窓の景色を見つめる。その目には冷たい光が宿っていた。本当は、深雲が最初に電話をかけてきた時点で、彼女はすでにタクシーの中だった。ただ、出たくなかっただけ。彼が何を聞きたいのか、だいたい予想はついている。きっと家政婦
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第90話

「景凪、田中が辞めたって知ってるか?」深雲は姿月の手をそっと放し、何気ない様子で口を開いた。景凪は落ち着いた声で応じた。「実家の方で急な用事ができたから帰るって言ってたわ。私からあなたにも伝えるように頼んだの」深雲は一瞬黙り込む。「それだけ?」景凪は無邪気そうに首を傾げた。「他に何か知っておくべきことでも?」「……」彼女の切り返しに深雲は言葉を詰まらせる。景凪が続ける。「あ、そうだ。今朝おばあさんに電話でご機嫌伺いしたとき、このことも話したの。家にしっかりした家政婦がいないと、子どもたち二人の世話が大変でしょ?おばあさんが誰か手配してくださるって」家政婦くらい、典子の判断なら深雲に反対する理由もない。「分かった。じゃあ、おばあさんの言う通りにしよう」「深雲、そっちはいつ帰ってくるの?」景凪がたずねる。「今出たところだ。これから家に戻る」そう言いながら深雲は車の鍵を取り出し、リモコンでロックを解除、後部座席のドアを開けて、辰希と清音を車に乗せる。姿月も助手席のドアを開けて、すっとシートに収まった。景凪の耳には、向こうで車のドアが閉まる音が聞こえてきた。そのとき、ふと気まぐれを起こしたように、「深雲、少しビデオ通話しない?辰希と清音の顔が見たいな」と言った。言い終わらないうちに、彼女はすぐさまビデオ通話を発信する。もちろんわざとだ。今、姿月が助手席に座っていることは百も承知だから。だが深雲は、何のためらいもなく、ビデオを切って音声通話に切り替えた。スマホに音声通話が表示され、景凪は一瞬呆気に取られたが、皮肉な笑みを浮かべて応答ボタンを押す。深雲は淡々と言った。「もうすぐ帰るよ。家に着いたら見れるから。清音はもう疲れてて眠そうだ」「そう。分かったわ」景凪はそっけなく答える。彼は、それすらも姿月のために譲らない。喉の奥に苦いものが込み上げ、景凪は静かに目を閉じた。心の中は皮肉と疲れでいっぱいだった。深雲も、こんなに誰かを愛することができるんだと。……深雲は姿月をマンションの前まで送り届けた。後部座席では、遊び疲れた清音が兄の肩に頭を預けて眠り込み、辰希も目を閉じてうとうとしている。「今日はお前の休みを邪魔してしまったな。清音や辰希と遊んでくれてありがとう」深雲が言った
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