All Chapters of 風待ちて、君は還らず: Chapter 11 - Chapter 20

25 Chapters

第11話

「綾乃さん、離婚協議書が届きました」電話越しに、軒也が微笑みながらそう報告した。「時臣はもう署名を済ませています。あとは市役所で手続きをすれば、すぐに離婚証明書が発行されますよ」「時臣がもうサインしたの?」電話の向こうで、綾乃の声は驚きに震えていた。それは、時臣に未練があるからではない。彼女は離婚協議書に、美月に子宮の件で償いをさせることを条件として盛り込み、彼女に代償を払わせようと決めていたからだ。「私が提示した条件、時臣は全部受け入れたの?」綾乃は不安げに尋ねる。「彼が勝手に内容を変えたりはしていないよね?」「その点はご安心ください」軒也は落ち着いた声で答えた。「時臣が協議書を持ってきた後、私が内容を入念にチェックしましたが、一切の改ざんはありませんでした」「あなたが求めるすべての条件に同意しています。美月に代償を払わせることも含めて」「そう……」綾乃は小さく笑みを漏らした。「彼がそれを飲むなんて、本当に……」その後の言葉は、口に出さなかった。それを受け入れるなんて、時臣は無情で冷酷だ彼女だけでなく、美月に対しても同じだった。結局、彼に愛されているのは、自分だけなのかもしれない。だが実際には、時臣は離婚協議書の中身をほとんど読まずに署名した。彼はそもそも綾乃と離婚するつもりなどなく、署名はただの「餌」であり、綾乃の居場所を探るための罠だったのだ。ちょうどその電話の最中、時臣が大金を投じて雇った超一流のハッカーは、電話の電波を利用して綾乃の居場所を特定しようとしていた。ハッカーは軒也の事務所のすぐ下に待機している。距離が近いほど電波が強く、位置特定の精度も高まるからだ。軒也の部屋を出ると、時臣はすぐに階下へ降り、ハッカーのもとへ向かった。「進展は?」時臣は緊張した面持ちで尋ねた。「綾乃がどこにいるか、もう分かったのか?」「まだ解析中です」ハッカーが答えた。「あなたの元妻のスマホには、追跡を防ぐ強力なシステムが仕込まれていました」「このシステムを解除するのには相当の時間がかかります」「元妻だと?俺は綾乃と離婚なんてしていない!」時臣は苛立ちを隠せなかった。「あの離婚協議書は軒也に脅されて無理やりサインさせられたもので、効力はない!」時臣にとって、綾乃との関係は些細なすれ違いに過ぎ
Read more

第12話

一瞬の迷いもなく、時臣はK国アラスカ州行きの航空券を手配し、そのまま飛び立った。綾乃が姿を消して以来、彼はほとんど錯乱寸前だった。持てる人脈も部下も総動員し、ありとあらゆる手を尽くして世界中を探し回ったが、結果は徒労に終わった。綾乃は、まるでこの世から跡形もなく消えてしまったかのようだった。音信は完全に途絶え、桐島家の中からも、彼女の痕跡は一つ残らず消えていた。寝室に飾られていた二人の結婚写真。クローゼットに並んでいた綾乃の服や靴。ベッドに敷かれていたシーツや、掛け布団のカバーでさえ……さらには、洗面所にあった歯ブラシやスリッパまで、影も形もなかった。まるで誰かが意図的に、彼女がこの家にいた証をすべて消し去ったかのようだった。かつて愛する人と過ごしたはずのあの別荘は、いまや空っぽの箱にすぎなかった。時臣は綾乃の姿を見失っただけではなかった。彼女の存在そのものが、自分の人生からするりとすべて抜け落ちていた。それだけではない。スマホの中に保存されていた綾乃の写真も、いつの間にかすべて消えていた。誤って削除したのか、不具合なのか、それさえもわからない。ただ、何一つ残っていなかった。SNSのアカウントも、いつの間にかフレンドリストから姿を消していた。ブロックされたわけでもないし、削除した記憶もない。それでも、消えた。電話番号も同様。発信も着信もできず、連絡手段はすべて断たれていた。――本当に、綾乃を失ってしまったんだ。その現実を受け入れた瞬間、時臣の中を強烈な恐怖が駆け抜けた。綾乃は、彼の命だった。彼女なしには、生きている意味すら見いだせない。だから時臣は理性を捨て、狂ったように彼女の痕跡を追い求めた。だが、結果は変わらなかった。そして、軒也から渡された「猶予の二日間」が、いよいよ尽きようとしていた。時臣は追い詰められていた。もはや、一縷の希望にすがるほかなかった。彼は離婚協議書を取り出し、歯を食いしばりながら、ペンを走らせた。その瞬間、時臣の中にはひとつの確信があった。――この署名をすれば、軒也は必ず綾乃と接触する。その一瞬を見逃さなければ、必ず彼女の居場所にたどり着けるはず!署名を終えた彼はすぐに部下を使い、ダークウェブで高額の報酬を提示し、凄腕のハッカーを雇った。「なあ……
Read more

第13話

綾乃が去る直前、美月が送りつけたあの挑発的な動画の数々は、すべて時臣に転送されていた。だが、彼女が依頼していた専門チームはそれを知らなかった。そのため、思わぬ手違いが起きてしまったのだ。――綾乃の乗った飛行機が離陸すると同時に、専門チームのハッカーがあるプログラムを起動した。それは、時臣のスマホから綾乃に関するすべてのデータを完全に削除するという、自己防衛的な処理だった。結果として――挑発動画は、時臣のもとに一つたりとも届くことはなかった。だが今、そのスマホはある超一流のハッカーの手に渡り、慎重かつ正確に復元作業が進められている。多少の時間はかかったが、ついに――そのハッカーは、時臣のスマホに残されていたデータの完全復元に成功した。飛行機の出発前、時臣にスマホを返しながら、彼は静かに言った。「データはすべて復元できました」「ただ……奥さんにはすでに連絡先をすべてブロックされてる。私にできるのは、過去のチャット履歴を戻すことだけです。ブロックを解除できるかどうかは、あなた次第です」時臣は頷いた。「それだけで十分だ。ありがとう」「いえ、とんでもないです」とハッカーは微笑んだ。「私は報酬を受け取って、ただ与えられた仕事を果たしているだけですから」その言葉に時臣はすぐ部下に指示し、残りの報酬をハッカーに支払わせた。感謝の気持ちも込めて、上乗せもした。すべてを終えた彼は、スマホを手に飛行機へと乗り込んだ。とはいえ、すぐに画面を見る気にはなれなかった。何しろ、さっきも聞いた通り、綾乃はすでに彼の連絡先をすべてブロックしているのだから。たとえ今、彼女のアカウントがフレンドリストに戻ってきたとしても、メッセージを送ることはできない。せいぜい過去のやり取りを見返し、ひとりで傷つくだけだ。だが時臣はそんな未練がましい男ではなかった。失恋して過去のチャットを見返し、一人涙に暮れるなんて、あまりにも情けない。自分は選ばれし者だ、そんな惨めな真似は絶対にしない。だからフライト中、彼はスマホを見ずに目を閉じて身体を休めていた。自分は、敗者ではない。臆病者でもない。このK国への旅で、必ず綾乃を取り戻し、ふたりの関係を元に戻すつもりだった。二十三時間に及ぶ長いフライトの後、飛行機はついにK国に到着した。空港に降り立った
Read more

第14話

言成は綾乃の大学時代の先輩であると同時に、時臣にとっては恋のライバルでもあった。学生時代から言成は綾乃のことを何かと気にかけており、ふたりの関係はとても親しく、あと一歩で恋人同士になっていたかもしれない。そんなとき、突然現れたのが時臣だった。彼は綾乃に一目惚れし、その瞬間から猛烈にアプローチを始めたのだ。その勢いは常軌を逸していた。毎日バラの花束を贈るのは当然で、その上ダイヤの指輪まで届けてきた。「お前を初めて見た瞬間、俺は決めたんだ。必ずお前を妻にするって」かつて時臣は、そんな言葉で綾乃に情熱的な愛を告げた。「今すぐにプロポーズを受け入れなくてもいい。でも俺は毎日、ダイヤの指輪を贈り続ける」「お前が一番好きな童話がアラビアンナイトだって知ってる。だから俺は千と一個のダイヤの指輪を贈るよ」「いつかその千一個目の指輪を渡すとき、お前が俺のプロポーズを受け入れてくれることを願っている」「そのときは、その指輪全部をお前のウェディングドレスにあしらうつもりだ。お前は世界一美しい花嫁になるよ」そんな破格の愛情の前に、綾乃はそう時間もかからずに心を奪われた。しかし一方で、言成の家には事情があり、家族そろってK国へ移住することが決まっていた。彼自身もK国で大学院に進学する道を選んだ。まだ始まってもいなかった恋は、そこで静かに幕を閉じた。言成はずっと綾乃に好意を持っていたが、一度もその気持ちを口に出さなかった。移住が決まった今となっては、伝える必要もないと思ったのだ。だから去る前に、彼はただ穏やかに別れの挨拶をしただけだった。「綾乃、もし将来K国に来ることがあったら、必ず会いに来てよ」言成は言った。「また会える日を楽しみにしているよ」「うん!」綾乃は迷わずうなずいた。「そのときは、ごちそうしてくれるんでしょ?」「もちろんさ」言成は笑顔で答えた。彼が想いを伝えなかったせいで、綾乃は言成の気持ちにまったく気づいていなかった。彼女にとって言成は、ただの親切な先輩に過ぎなかった。そして今回K国に来たのも、言成に会うためではない。本当の目的は、親友の春川 静香(はるかわ しずか)に会うことだった。綾乃はただ親友と過ごして気分転換したかっただけで、しばらくK国で過ごしたら次は別の国へ行くつもりだった。旅をしなが
Read more

第15話

時臣を目にした瞬間、綾乃の表情から笑みがすっと消えた。「時臣、一体どういうつもり?」彼女は冷ややかな声で言い放った。「元カレって何よ? 言成は私の大学時代の先輩よ。あなたが想像してるような関係じゃない。言葉に気をつけて!」「先輩ね……」時臣は鼻で笑った。「お前はそう思ってるかもしれないけど、あいつがどう思ってるかは……分からないよな」「あなたって人は!」綾乃はついに堪忍袋の緒が切れた。「まったく話にならない!」「誰だってお前や美月みたいに、あんなに汚くて、人に見せられないような真似はしないのよ!」美月の名前が出た瞬間、時臣の顔色がさっと変わった。「綾乃、何度言えば信じてくれるんだ?俺と美月の間には何もないって、何度も説明したはずだ!」「美月の父親は、俺の大学時代の指導教官だった。雪山で遭難したとき、美月が俺の命を救ってくれたんだ」「だから、俺が彼女に恩を返したいと思うのは当然だろ? それだけの話だ」「それ以上の感情なんて、まったく――ない!」――またその話か。綾乃は呆れて、思わず笑いそうになった。「……時臣、私が送ったLINE、受け取ってないの?」彼女は冷たい表情のまま問いかけた。「LINE? どのLINEのことだ?」時臣は怪訝な顔を浮かべた。「まさかと思うが、あのハッカーが俺のスマホに侵入したのはお前が頼んだのか?」「知ってるか? そいつ、俺のスマホにあるお前に関するデータを全部消したんだぞ!」「綾乃、いくら怒ってたって、そこまでするなんてあんまりだ!」「この数日間、お前に連絡が取れなくて、本当に心配してたんだよ!」綾乃はうつむき、冷たい声で言った。「……そう。じゃあ、本当に私のLINEは届いてなかったのね」「残念ね。スマホはもう処分したから、あなたの目の前であの動画を叩きつけることはできない」そう言って少し間を置き、さらに冷たく続けた。「……私の弁護士に連絡して。彼のところに、美月が私に送ってきたすべての動画があるから」その一言で、時臣の身体が硬直した。ふと、二日前の宴会で軒也が見せてきたあの動画を思い出す。あのとき宴会はひどく混乱していて、時臣には頭を悩ませることが山積みだった。だから、動画の出どころまでは深く考えなかった。軒也が私立探偵を雇って手に入れたものだと思っていた。
Read more

第16話

その一言は、まるで雷のように、時臣の耳元で炸裂した。彼は咄嗟に視線を逸らし、綾乃と目を合わせることができなかった。「綾乃……落ち着いてくれ。違うんだ、お前が思ってるようなことじゃない。誤解なんだ」まさかここまで知られているとは――時臣は、想像すらしていなかった。綾乃は自分の浮気を疑って探偵を雇い、美月との関係を暴いた。探偵が撮ったあの写真や動画を見て、彼女は深く傷つき、失望して、すべてを捨てたのだと――そう信じ込んでいた。K国に来る前から、時臣は反省と後悔を装うセリフをいくつも準備していた。「綾乃、信じてくれ。俺は、無実なんだ」「全部、美月のせいなんだ。あいつが……俺に薬を盛ったんだ」「意識が朦朧としていて……あの時、お前と勘違いして関係を持ってしまった。あれは本当に……事故だったんだ」「それから、美月はこのことを盾に俺を脅してきた。関係を続けなければ、お前にすべてを話すって……」「どうしても、断れなかった。お前を失うわけにはいかない。お前は……俺のすべてなんだ。もしお前がいなくなったら、俺はきっと、壊れてしまう……」――まずはこの一連のセリフで彼女の心をなだめる。それから膝をつき、懺悔の言葉を並べ、二度と過ちは繰り返さないと誓う。この一連の流れ――まさに必殺のコンボ――さえ決めてしまえば、綾乃は七、八割方、きっと気持ちを揺らがせるはずだ。あとは畳みかけるように、涙をにじませながら、こう言えばいい。「償いとして、俺の財産、全てお前に譲る」「……もし、俺がまた浮気なんてしたら、その時は迷わず俺を追い出してくれ。何も持たずに、この家を去るよ」ここまでやれば、彼女はきっと、自分を許してくれる。財産の譲渡?問題ない。綾乃には子どもが産めない。もし復縁できるなら、いずれそれは悠人と安奈に戻ってくる。形式的に名義を渡すだけで、実質は自分の血を引く子どもたちのものになるのだから。すべては、綾乃を取り戻すための策だった。「綾乃……お願いだ。俺を信じてくれ。お前だけを、心から愛してるんだ!」彼女がここまで真相を知っていたとは、完全に想定外だった。準備していたセリフは、まるで紙切れのように役に立たない。焦った時臣は、思いつくまま言葉を並べた。「……美月とのことも……全部、あいつのせいなんだ。薬を盛ら
Read more

第17話

時臣は、自分の言い分がどんどん正当化されていく気がして、ついには自ら感動すら覚えていた。「綾乃、覚えてるか? 結婚したばかりの頃に、一緒に観た出産のドキュメンタリー。あの映像、すごく生々しくて、衝撃的だったよな!」「それが現実の出産なんだよ。どれだけ多くの女性が、あの分娩台の上で死ぬほどの痛みに耐えてるか……」「俺、映像見ただけで腹が痛くなったもん。そんな苦しみ、お前には味わってほしくなかった」「だから、今の形が一番いいと思ったんだ」そう言って、時臣は綾乃の手を取り、しみじみとした表情で語った。「だから、今の形はすごく理想的じゃないか?美月が子どもを産んでくれて、お前は苦しむことなく、かわいい双子を授かったんだ」「男の子と女の子、両方いて、しかも痛みを味わわずに母親になれるなんて、これはもう幸運としか言いようがない。なのに、どうして怒る必要があるんだ?」そのあまりにも身勝手な言葉に、綾乃は呆れ果て、笑い出しそうになった。「……つまり何? 私、あなたに感謝でもすべきってこと?」「綾乃、そんな言い方はないだろ。本当にお前のためを思ってのことなんだ」時臣は、あくまで真剣な顔で言い募った。「お前に苦しんでほしくないから、悠人と安奈を引き取って、お前に母親になってもらおうと思ったんだよ」「今はまだ、あの子たちはお前に懐いてないけど……それは、美月がまだ生きてるからさ」「でも、美月は癌だ。そう長くはない」「彼女が死ねば、お前が唯一の母親になる。時間が経てば、きっと心を開いてくれる」時臣は、まるで都合のいい未来だけを夢見るように語った。だが、現実はそんなに甘くない。悠人と安奈――あの子たちの陰険な性格を思えば、美月の死後、綾乃を母として受け入れるどころか、母を奪った女として憎悪の対象にする可能性のほうが高い。場合によっては、命を狙われても不思議じゃない。しかも綾乃は、何よりも先に知っていた。――美月は、癌など患っていない。「……時臣、もう自分を誤魔化すのはやめなさい」綾乃は彼の手を振り払い、冷ややかに言い放った。「あなたが一番よくわかってるでしょ?美月なんて、最初から癌なんか患ってないって」「このところ、散々二人で不倫に明け暮れてたくせに。ベッドが壊れるほど騒いでたんでしょ? 癌患者にそんな元気があるわけない
Read more

第18話

その一発は見事に的中し、時臣の歯が一本折れて口元から鮮血が滲み出た。「クソが……!」時臣は低く唸り、血の混じった唾を地面に吐き捨て、顔を歪めて怒鳴った。「言成、てめぇ何様のつもりだ? ここでヒーロー気取りかよ?」「綾乃は俺の嫁だ。夫婦の問題だろ? 部外者が口出すな!」その言葉に綾乃は冷ややかな視線を送り、氷のような声で言い放った。「時臣、忘れたの? あなた、自分で離婚協議書にサインしたのよ。私たちはもう他人よ」「離婚? 俺は認めない!」時臣は悔しげに奥歯を噛みしめた。「あれは軒也が脅して無理やり書かせたもんだ。無効に決まってる!」「俺がサインしたのは、あいつを利用してお前を探すためだ」「綾乃、俺はお前を愛してる。離婚なんてしたくない。お前がいなきゃ俺は生きていけねぇんだ!」まるで映画のラストシーンのような愛の告白だったが、綾乃の心にはただ嫌悪感しか湧かなかった。これ以上無駄な話に時間を割きたくないと判断した綾乃は、無言でスマホを取り出し、警察に通報しようとした。それに気づいた時臣は慌てて止めにかかるが、手は再び空を切った。言成が一歩前に出て、まるで戦士のように綾乃の前に立ちはだかったのだ。「時臣、綾乃の言葉が聞こえなかったのか? 彼女はもうお前と離婚したんだ」「さっさと立ち去れ。これ以上綾乃に近づいたら容赦しねぇぞ」挑発にも聞こえるその言葉に、時臣の怒りは爆発した。「言成……てめぇ、いい加減にしろ!」理性を失った時臣は拳を振り上げ殴りかかった。だが、言成もただの男ではない。すでに応戦の覚悟はできていた。時臣の拳が振り下ろされるより早く、彼は身をかわす。そして、二人はそのまま取っ組み合いになった。互いに胸の奥に溜め込んできた怒りを、ぶつけるように。時臣は言成の口出しに腹を立て、言成はかつての女神である綾乃を傷つけた時臣の行為を許せなかった。「言成、お前も綾乃が好きなんだろ。俺の嫁に手ぇ出すとは、ふざけた間男め!今ここでころしてやる」「そうだよ、俺は綾乃が好きだ。お前がせっかく彼女を手に入れたくせに、大事にもしないで、結婚後すぐに浮気して――彼女の心をズタズタにした。そんなお前が綾乃にふさわしいと思ってんのか?」「お前こそ他人の家庭に割り込んできて偉そうに言うな。綾乃は俺の嫁だ。一生俺の
Read more

第19話

どれだけ時臣が流暢にK語を話そうと、警察はまったく取り合わなかった。通報者が綾乃だったからだ。K国の警察は経験上、よく知っている。――ただの夫婦喧嘩という言葉の裏に、DVやストーキングが潜んでいることが多いという現実を。だからこそ、夫婦間のトラブルが疑われるとき、K国の警察はとても慎重になる。声の大きい側の主張を鵜呑みにせず、むしろ被害を受けやすい立場の女性の声に真摯に耳を傾ける。「こんにちは、奥さん」一人の女性警官が綾乃の前にしゃがみ、柔らかな口調で問いかけた。「先ほどの男性の話は本当ですか?彼はあなたのご主人ですか?危害を加えられたりはしていませんか?」「もしそうなら、どうか遠慮なく教えてください。私たち警察は、あなたを必ず守ります」「なあ、綾乃……言ってくれよ、俺がお前の夫だって」時臣もまた、期待に満ちた目で綾乃を見つめた。「俺たちは夫婦だ。家族なんだ。言成なんて、ただの他人だろ?」時臣は信じていた。綾乃なら、ちゃんと警察に説明してくれると。なにしろ、俺たち家族なのだ。多少のいさかいはあっても、綾乃はそれを警察沙汰にするような人ではない。いつだって理性的で分別ある人だった。だから今回も――だが――綾乃はただ、冷ややかな目を時臣に向けただけだった。そして次の瞬間、何事もなかったかのように視線を逸らした。「彼は私の夫じゃありません。元夫です。私たちは、もう離婚しています」その声には、微塵の情すらなかった。「でも彼は、それを認めようとしない。だから、私につきまとっているんです」「彼から逃げるために、わざわざK国まで来たのに……まさかここまで追ってくるなんて」「お願いです。彼の身柄を拘束してください。これ以上放っておけば、私の身が危険です」その瞬間、時臣の目が大きく見開かれた。まるで、世界が反転したかのように。信じられないという顔で叫んだ。「綾乃、なんでそんなこと言うんだよ!?俺はお前の夫なんだぞ?変態ストーカーみたいに言うなよ……」「俺はお前を愛してる!世界中の誰よりも愛してるのに……なんで、なんでこんな仕打ちを……!」どれだけ叫んでも、その声はもう綾乃の心には届かない。彼女の証言を聞いた警察は、すぐに時臣に手錠をかけ、無言のままパトカーへと連行した。「離せよ!」時臣は怒りに震えながら必
Read more

第20話

時臣は一週間、拘留されていた。出所の際には、警察によって足首に電子式の監視装置を取り付けられた。もし再び綾乃に近づこうものなら、その装置は鋭い警報音を鳴らし、周囲の警察に即時通知が入る――そういう仕組みだった。一方の言成はというと……たしかに、時臣に拳を振るった張本人ではあったが、綾乃が「正当防衛のためだった」と証言したおかげで、不起訴となり無罪放免となった。このあまりに明白な差に、さすがの時臣も苦しみを隠しきれなかった。それでも、綾乃を責める気にはなれなかった。出所してようやく携帯を手にした時臣は、綾乃との過去のメッセージを一つ一つ遡って読み返した。そして、その瞬間、すべての真相に気づいたのだ。「くそっ、全部――美月の仕業だったのか!」怒りに奥歯を噛みしめ、拳を震わせながら時臣は叫んだ。「綾乃に……あんな動画を送りつけるなんて!この女、どこまで腐ってやがる!」その動画は、目を背けたくなるようなものだった。だが、それ以上に胸がえぐられたのは、動画の下に添えられていた美月からの挑発的なメッセージの数々だった。【綾乃、ほんと臆病な女ね、旦那は今、私のベッドでぐっすりよ。迎えに来れば?】【あなたの旦那のアレ、本当に美味しくて、大好きなの】【お前とするのは義務みたいだったって、笑ってたわよ。あなた、ほんとに何の魅力もない女ね】【女として終わってるって自覚ある?私だったら、とっくに恥ずかしくて引きこもってるわ】……ひとつ、またひとつと毒々しいメッセージが表示されるたびに、時臣の表情はみるみるうちに険しくなっていった。「よくも……よくも、俺をこんな目に!」あれほど大事にしてきたというのに。自分のすべてを与える覚悟すらあった。彼女の子どもたちに、全財産を遺そうとさえ思っていたのに――その裏で、あんな裏切りを!怒りが限界に達した時臣は、すぐに航空券を手配し、国内へ飛んだ。目的はただひとつ。美月を、叩きのめすためだった。「時臣、帰ってきたの?」姿を見つけた美月は、にっこりと微笑みながら駆け寄ってきた。「どうだった?綾乃、見つかった?」その甘えた声に、時臣は冷ややかな視線を向けた。「美月。綾乃が突然、俺と離婚した理由……お前、知ってるよな?」その問いに、美月の表情が一瞬だけ凍りついた。――まさか、あのと
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status