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風待ちて、君は還らず

風待ちて、君は還らず

By:  白団子Completed
Language: Japanese
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子どもを持たないと決めていた五年間。それがある日、夫の桐島 時臣(きりしま ときおみ)が突然、双子の赤ちゃんを養子に迎え入れた。 それだけではない。彼は葉山 綾乃(はやま あやの)に、その双子を「実の子ども」として育ててほしいと言い出し、将来、自分の莫大な遺産をすべて彼らに継がせるつもりだというのだ。 もしかして、時臣は気持ちを変えて子どもを望むようになったのかもしれない。そう思った綾乃は、避妊リングを外し、妊娠の準備をするため病院を訪れた。 ところが、医師から告げられたのは――あまりにも衝撃的な事実だった。綾乃の子宮は、五年前にすでに摘出されていたのである。

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Chapter 1

第1話

子どもを持たないと決めていた五年間。それがある日、夫の桐島 時臣(きりしま ときおみ)が突然、双子の赤ちゃんを養子に迎え入れた。

それだけではない。彼は葉山 綾乃(はやま あやの)に、その双子を「実の子ども」として育ててほしいと言い出し、将来、自分の莫大な遺産をすべて彼らに継がせるつもりだというのだ。

もしかして、時臣は気持ちを変えて子どもを望むようになったのかもしれない。そう思った綾乃は、避妊リングを外し、妊娠の準備をするため病院を訪れた。

ところが、医師から告げられたのは――あまりにも衝撃的な事実だった。綾乃の子宮は、五年前にすでに摘出されていたのである。

……

「生まれつき子宮がない女性もいますが、綾乃さん、あなたはそのケースではありません。あなたの子宮は手術で切除されたのです」

綾乃は完全に呆然とした。五年前、彼女が受けた手術は、たった一度きりだった。

それは避妊リングを装着するための手術で、夫の時臣が付き添ってくれたときのことだった。

それも、全身麻酔は不要のはずだったのに、時臣が痛がらせたくないと言って、病院に強く頼んで最高額の全身麻酔を受けさせた――

まさか。あの時に、子宮を……

いや、そんなはずない。時臣は手術中、ずっと手術室の外にいた。病院側だって勝手なことをするはずがない。

混乱と不安に押しつぶされそうになっていたその時、遠くから聞こえてきたのは、義姉・桐島 瑶奈(きりしま ような)の怒りに満ちた声だった。

「時臣、あんた本当に最低よ。あの私生児たちを家に連れて帰っただけでも酷いのに、今度は望月 美月(もちづき みづき)まで家に入れる気? 綾乃の目の前で不倫でもするつもりなの?」

「姉さん、誤解だ。俺と美月はそんな関係じゃない。彼女は……命の恩人なんだ。ただ、それに報いたいだけだ」時臣は顔をしかめて反論した。

「はあ!恩返しって言って、美月に男女の双子を産ませたのか?時臣、男ってのはやることにはちゃんと限度を持つものよ」

「それは俺の望みじゃなかったんだ」と時臣は怒りを込めて言った。「彼女の父親が重病になった時、死ぬ間際の唯一の願いが、娘が結婚して子どもを持つ姿を見たいってことだった」

「それを叶えたんだよ。彼女の恩に報いるため、俺は彼女に子どもを与えた。仕方なかったんだ」

「また恩返し?じゃあ、綾乃に内緒で美月と結婚式を挙げたのも、恩返しってやつ?式の後、綾乃を騙して避妊手術を受けさせて、その間に子宮を切除させたのも?」

その言葉は、まるで頭上に落ちてきた雷のようだった。

――切ったのは、時臣?

視界が真っ暗になり、身体の力が抜けていく。

「姉さん、綾乃は痛みに弱い。出産なんて無理だ。俺には、あいつにそんな思いをさせることができなかった」と時臣は続けた。「それに当時、病院の検査で子宮筋腫が見つかったんだ。放っておくと命に関わるって医者が…」

「今はもういいだろ?美月が双子を産んでくれた。俺たち桐島家には後継ぎができたんだ。綾乃は出産の苦しみからも命の危険からも解放されたんだ」

「それに、美月は不治の病にかかってる。余命、あとわずかなんだ……」

「彼女は何よりも、俺に男の子と女の子を産んでくれた。だから、一人ぼっちで死なせるわけにはいかない。最後の時間を一緒に過ごせるように、家に連れて帰ろうと思ったんだ」

時臣はどこまでも冷静に、計算されたような口調で続けた。「俺も自分のやってきたことが無茶だってのはわかってる。でも、これはみんなにとって一番いい方法なんだ」

「お願いだから、姉さん、誰にも言わないでくれ。美月にはもう一週間しかない。その一週間さえ終われば、すべて終わるんだから」

どうやって家に戻ってきたのか、綾乃には記憶がなかった。

ただ、ひたすら寒かった。いつもなら温もりに満ちているはずの家が、今はまるで氷のように冷え切っていた。

壁には、時臣との思い出の写真がずらりと並んでいた。――彼は、世界でいちばん自分を愛してくれている男だと思っていた。

彼らは、オーロラの下でそっと唇を重ね、何千メートルもの空から手をつないで飛び降りたこともあった。そしてある日は、深い海の底へと潜り、星空のように瞬く光を見上げながら、静かに抱き合っていた――

彼は名家の跡取りで、本来ならそんな危険なことなど許されない立場だった。でも、私のためなら何だってしてくれた。

「お前のためなら、たとえ命を落とすことになっても構わない」かつて時臣は、綾乃を優しく抱きしめながら、深く真剣なまなざしでそう言った。「お前さえそばにいてくれれば、死ぬことになったって、俺は迷わず受け入れる。この人生で愛したのは、お前ひとりだけだ」

その言葉は、今となってはただの虚しい記憶だった。

涙が止まらなかった。息もできないほどの痛みが胸を締めつけた。綾乃は、ストーブに火を入れ、思い出の品をひとつずつ、そこに投げ込んでいった。――すべて、終わらせたい。

まさにその時――玄関が開く音がした。帰ってきたのは時臣だった。彼の後ろには、患者服姿で顔色の悪い美月がいた。

「綾乃、彼女は覚えてるよな。俺の大学時代の恩師の娘、美月だ」時臣は、綾乃が何を燃やしていたかなど気に留める様子もなく、優しい笑みを浮かべながら、軽々しく嘘をついた。

「先生も奥さんももう亡くなって、美月はひとりきりなんだ。しかもリンパ癌の末期で……余命はそう長くない」

「どうしても、彼女を病院にひとり置いておけなくてさ。だから、家に連れてきた。看護師も雇ってる。お前は何もしなくていい。彼女の存在も、気にしなくていい」

そう言って、時臣はすでにすべてが決まっているかのような口ぶりだった。綾乃は、黙って最後の写真を火にくべた。

ぱちっ、と音を立てて燃え上がった写真は、すぐに灰になった。

まるで、時臣との結婚生活そのもののように――完全に、跡形もなく、燃え尽きていった。
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第1話
子どもを持たないと決めていた五年間。それがある日、夫の桐島 時臣(きりしま ときおみ)が突然、双子の赤ちゃんを養子に迎え入れた。それだけではない。彼は葉山 綾乃(はやま あやの)に、その双子を「実の子ども」として育ててほしいと言い出し、将来、自分の莫大な遺産をすべて彼らに継がせるつもりだというのだ。もしかして、時臣は気持ちを変えて子どもを望むようになったのかもしれない。そう思った綾乃は、避妊リングを外し、妊娠の準備をするため病院を訪れた。ところが、医師から告げられたのは――あまりにも衝撃的な事実だった。綾乃の子宮は、五年前にすでに摘出されていたのである。……「生まれつき子宮がない女性もいますが、綾乃さん、あなたはそのケースではありません。あなたの子宮は手術で切除されたのです」綾乃は完全に呆然とした。五年前、彼女が受けた手術は、たった一度きりだった。それは避妊リングを装着するための手術で、夫の時臣が付き添ってくれたときのことだった。それも、全身麻酔は不要のはずだったのに、時臣が痛がらせたくないと言って、病院に強く頼んで最高額の全身麻酔を受けさせた――まさか。あの時に、子宮を……いや、そんなはずない。時臣は手術中、ずっと手術室の外にいた。病院側だって勝手なことをするはずがない。混乱と不安に押しつぶされそうになっていたその時、遠くから聞こえてきたのは、義姉・桐島 瑶奈(きりしま ような)の怒りに満ちた声だった。「時臣、あんた本当に最低よ。あの私生児たちを家に連れて帰っただけでも酷いのに、今度は望月 美月(もちづき みづき)まで家に入れる気? 綾乃の目の前で不倫でもするつもりなの?」「姉さん、誤解だ。俺と美月はそんな関係じゃない。彼女は……命の恩人なんだ。ただ、それに報いたいだけだ」時臣は顔をしかめて反論した。「はあ!恩返しって言って、美月に男女の双子を産ませたのか?時臣、男ってのはやることにはちゃんと限度を持つものよ」「それは俺の望みじゃなかったんだ」と時臣は怒りを込めて言った。「彼女の父親が重病になった時、死ぬ間際の唯一の願いが、娘が結婚して子どもを持つ姿を見たいってことだった」「それを叶えたんだよ。彼女の恩に報いるため、俺は彼女に子どもを与えた。仕方なかったんだ」「また恩返し?じゃあ、綾乃に内緒で美月
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第2話
美月はこうしてこの家に引っ越してきた。ようやく四人家族として、一つ屋根の下での生活が始まったのだ。双子の子どもたちは、美月を見て驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべた。小さいほうの子は感情を抑えきれず、声を上げた。「ママ!」時臣がとっさに反応し、綾乃を抱き寄せて軽くキスをしながら笑って言った。「娘が呼んでるよ」しかし現実は違う。彼が養子にしたその双子の兄妹は、もうすでに三ヶ月もの間、桐島家で暮らしているのに、綾乃を「ママ」と呼んだことは一度もなかった。真実を知らされる前は、綾乃も彼らを我が子のように愛していた。だが今は、そんなふりすらできない。娘と呼ばれる安奈は、鋭い目で綾乃を睨みつけ、不機嫌そうに言い放った。「ママ、くるみが食べたい。剥いて」くるみは硬くて剥くと手が痛くなる。この悪い女、痛い目に遭えばいいんだ。ママからパパを奪おうとするなんて!以前も安奈はよく綾乃にくるみを剥かせていた。綾乃はただ子どもがくるみが好物なのだと思い、何も疑わず毎回剥いてあげていた。だが今、その瞳に宿る鋭い悪意を見て、綾乃の心は一気に冷たく凍りついた。「くるみが食べたいなら、使用人に剥いてもらいなさい」時臣が前に出て、綾乃を守るように優しく手を添えた。「綾乃の手はこんなに柔らかいんだ。そんな大切な手にくるみなんて剥かせられないよ」隣で見ていた美月の顔はみるみる曇った。彼女は恨めしげに綾乃を一瞥し、突然、不意を突くように言った。「時臣、あなたの数珠は?」時臣の左手には、いつも数珠が巻かれていた。その数珠は、綾乃が自ら志名野の蓮祥院まで足を運び、時臣のために祈願して買ってきたものだった。彼女は標高三千メートルを超える紅岳の山を一歩一歩ひざまずきながら登り、寺の長老に特別なお祈りをしてもらった数珠。ただの飾りではなく、彼女の真心と願いが込められた、大切な証だった。時臣はその気持ちに深く心を打たれ、それ以来左手から数珠を外すことはなかった。だが今、彼の左手首には何もなく、数珠は見当たらなかった。「俺の数珠は?確か今朝はつけていたはずなのに……」時臣は慌てて探そうとしたが、顔を上げた瞬間、美月の情欲をたたえた瞳にじっと見つめられた。美月の頬は異様に赤く染まり、唇を舐めると、彼の目を離さずにそっと両腿の間に
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第3話
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第4話
再び目を覚ましたとき、綾乃は病院のベッドの上にいた。彼女のそばにいたのは時臣ではなく、家で長年仕えてくれている使用人の女性だった。「奥さま……ようやく目が覚めましたね」使用人は胸を撫で下ろすように言った。「病院には私がお連れしました。豆乳も、私が作ったんです。神に誓って、大豆なんて、絶対に入れていません」綾乃は目を閉じ、目尻から一筋の涙をこぼした。「分かってるわ……」豆乳は使用人が作ったものだった。使用人は当然知っている──そこに大豆は入っていなかった。それでも彼女は綾乃の異変を信じ、救急車を待たず、自ら車を運転して病院へと連れていった。でも、時臣は?あの生涯愛すると誓った男は?彼は、苦しむ綾乃を家に置き去りにした。死にかけていた彼女を、見捨てたのだ。隣の病室には、美月も入院していた。綾乃が夜中にトイレへ起きたとき、ふと目にしたのは、美月の病床の横に付き添う時臣の姿だった。かつて綾乃が病気になったときも、時臣は一晩中彼女のそばにいてくれた。社会的に極めて重要な地位にあって、山のような仕事を抱えていたはずなのに、彼女が倒れるとすべてを投げ出し、薬を飲ませ、食事を作り、水を運んでくれた。それを思い出し、綾乃の目に涙が浮かぶ。かつては確かに愛し合っていたはずなのに、なぜこんなにも変わってしまったのか?「時臣、私もうすぐ死ぬんだって……」美月のか細い声が病室から聞こえてきた。「死ぬ前に……たった一つだけ、答えが欲しいの。こんなにも長い間……あなたは私を、愛したことが、一度でもあった?」時臣は黙り込んだ。しばらく何も言えなかった。「ほんの少しでもいいの」美月は泣きながら続ける。「全てを求めてるんじゃない。ただ……あなたの心に、私への本当の気持ちが、ほんのひとかけらでもあったなら……それだけで、私はもう……十分なの……」その姿を見て、時臣は堪えきれなくなった。彼は感情を押し殺したまま、美月を抱きしめた。「美月……俺だって、君への気持ちがあるに決まってる」時臣はそう言って続けた。「でも……許してくれ。俺には綾乃がいる。だから『愛してる』とは……言えない。彼女を裏切ることになるから」「……けどもし、綾乃がいなかったら……君こそが、俺がこの世で一番愛した女性だった。そう言える自信がある」その言葉を聞い
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第5話
綾乃は長いあいだ、時臣の母親から疎まれていた。彼女はずっと、綾乃には子どもを望む気持ちがないと思い込んでいたのだ。だが、実際は違った。綾乃は子どもが大好きで、いつか自分の血を引く子どもを持ちたいと強く願っていた。孤児として育ち、家族と呼べる者はいなかった。だからこそ、血の繋がった子どもが唯一の家族となるはずだったのだ。そんな彼女が、子どもを望まないはずがないだろう。問題は時臣だった。結婚した当初から、彼は子どもを持つことに固執して拒んでいた。そのきっかけは、たまたま二人で見た出産ドキュメンタリーだった。あまりにもリアルで、生々しい映像に、時臣はショックを受け、絶対に綾乃に子どもを産ませないと決意した。「子どもを産むのは怖すぎる。綾乃にそんな苦しみは味わわせたくない」「出産は命の危険を伴うものだ。もしお前がそんな目に遭ったら、俺はどうしたらいいんだ?」「綾乃、お前なしじゃ生きられない。お前がいなきゃ俺はきっと狂ってしまう。だから子どもは要らない、お前だけが欲しいんだ」その言葉を聞いたとき、綾乃は感動した。彼が自分を深く愛していると信じたのだ。子どもを産ませたくないほど、自分を大切に思ってくれているのだと。だが、今になって思えば、あの子宮筋腫は命に関わる病気ではなかった。もしかすると、あの時点で時臣はすでに子宮を切除する計画を立てていたのかもしれない。あの出産ドキュメンタリーも、わざと見せたのだろうか――数日後、綾乃も美月も無事に退院した。その間、時臣はずっと美月の看病にかかりきりで、隣の病室に綾乃が入院していたことにすら気づかなかった。綾乃はもう、時臣に何も言う気力がなかった。結局、彼と一緒に暮らすつもりはなかったのだ。しかし、なぜか時臣は寛大な態度を見せて綾乃の元にやってきた。「綾乃、お前を許すよ」綾乃は笑ってしまった。彼にそんな資格があるのかと。「俺たちは夫婦だ。たとえお前がどんな酷いことをしても、俺はお前を許す」時臣は静かに続けた。「でも…もう二度と、同じことは繰り返さないでほしい」「罰として、俺はしばらく書斎で寝る。お前とは一緒に寝ない。お前もちゃんと反省しなさい」そう言い残し、時臣は自分の荷物を持って書斎へ移ったその夜、綾乃のスマホに美月から挑発的な動画が届いた。
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第6話
綾乃は離婚の準備に真剣に取り組んでいたが、時臣はその間ずっと美月との情事に溺れていた。時臣は、美月がもう長くないことを知り、だからこそ、少しでも多く抱こうと、焦っていたのだろう。機会があれば、すぐに彼女を押し倒し、激しく求めていた。そして彼らの密会のたびに、美月はこっそりその様子を録画し、綾乃に送りつけていた。書斎だけでなく、朝のジョギング中に近くの公園で逢引する場面もあった。さらには、時臣が仕事中に美月を会社に連れ込み、彼女がデスクの下で奉仕している動画まであった……美月の様子は、とても病人とは思えなかった。時臣がどれだけ激しく求めても、美月は平然と受け止め、むしろそれを楽しんでいるようにさえ見えた。綾乃は密かに調査を始めた。そして、すぐに明らかになった。美月は、そもそもリンパ癌など患ってなどいなかったのだ。それは桐島家に堂々と入り込むために仕組まれた、彼女の嘘だった。その嘘はあまりにも稚拙で、綾乃が軽く調べただけで簡単に見破れた。時臣が本気で調べたなら、見抜けないはずがない。だが、彼は最初から真実を知ろうとさえしなかった。そのほうが都合がよかったのだ。そうすれば、何の罪悪感もなく美月との関係を続けられるから。「綾乃、よく我慢できるわね」これだけ動画を送っても綾乃は微動にしないので、美月はついに我慢できなくなり、挑発的に近づいてきた。「時臣、毎晩私の上に乗ってるのよ?もう脚が動かないくらい」「ただ黙って見てるだけ?ほんと、情けないわね。時臣と真正面から向き合う勇気もないなんて」「そんなに、彼に捨てられるのが怖いの?平気な顔してるけど、本当は怖くてたまらないんでしょ?」「ねえ、もし私たちの間にあなたが割り込んだら、時臣はどっちを選ぶと思う?」綾乃は薄く目を開き、冷ややかな視線で彼女を見つめながら言った。「本当に、時臣があなたを選ぶって、そう信じてるの?」「もちろんよ」美月は得意げに笑った。「信じられないなら、見てなさいよ」言い終わると、突然一台の車が綾乃と美月のいる方向へ猛スピードで突っ込んできた。時臣はすぐ近くにいて、異変に気づくと、手にしていた物を放り出し、迷いなく美月に飛びかかった。「美月、危ない!」彼は自らの体で美月をしっかりとかばった。しかし綾乃は避けきれず、車に轢かれて吹
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第7話
その言葉を吐き捨て、険しい表情のまま、時臣は電話を乱暴に切った。綾乃は疲れたように目を閉じた。「……勝手に、私の電話を取るべきじゃなかったわ」その一言で、綾乃が目覚めていることに気づいた時臣は、慌ててベッドに駆け寄り、綾乃の手を握った。「綾乃、目を覚ましたんだね!たくさん血を流してて、俺、すごく心配してたんだ。」だが、綾乃は冷たい視線を向けるだけで、何も言わなかった。その態度に、時臣は次第に焦りの色を見せながら訊いた。「……綾乃、怒ってるのか?」「違うんだ。怒らないでくれ、お前を助けなかったわけじゃない。ただ、あのときの角度ではお前の姿が見えなかったんだ」「美月を助けたあとで、やっとお前がいたことに気づいたんだ。本当だよ……あのときの俺の心は、ズタズタだった。お前がいるとわかってたら、真っ先にお前を助けてたさ!」けれど、綾乃はもう、彼のどの言葉が本心で、どれが嘘なのか、判別できなくなっていた。どんなに哀しいことだろう。この五年間、同じベッドで眠り、同じ食卓を囲んできたこの男。最も近しく、最も信頼すべき存在だったはずなのに――いまや彼の姿は、まるで他人のようにしか見えなかった。かつて深く愛した男は、記憶のなかで腐り果て、もう戻ってはこないのだ。「……もう疲れたの」綾乃は静かに目を閉じた。もう、これ以上彼の顔を見るのも、声を聞くのも嫌だった。時臣はまだ何か言いたげだったが、綾乃が目を閉じたままなのを見て、あきらめたようにため息をついた。「……じゃあ、少し仕事の整理をしてくるよ。すぐ戻るから、しっかり休んで」彼が病室を出て間もなく、綾乃のスマホに、再び美月から挑発的な動画が届いた。画面の中で美月は、時臣の腕に甘えるように絡みながら、嬉しそうに問いかけた。「時臣、本当に桐島家の全財産を、悠人と安奈に残すつもりなの?」「ああ」時臣は重々しく頷いた。「もう弁護士に正式な書類も作らせた。今夜の宴で、皆とメディアの前で署名して、二人が唯一の相続人だと公表するつもりだ」「悠人には桐島グループの経営権を、安奈には桐島家の不動産の過半数、そして俺の母や綾乃が所有していた高級な宝石類を相続させる」それらの宝飾品は、一つひとつが数千万円から数億円――すべて合わせれば、その価値は計り知れない。美月は隠しきれない
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第8話
その一言が宴会場に大きな波紋を巻き起こした。「どういうこと?今夜の桐島家の宴は、桐島グループの次期後継者発表のためじゃなかったの?」「弁護士が突然現れたけど、本当の話なの?綾乃さんが時臣社長と離婚するって?」「多分、綾乃さんが自分と血の繋がりがない養子に桐島家の財産を渡したくなくて、こうやってわざと公の場で離婚騒動を起こして、時臣社長に子どもか自分かの選択を迫っているんじゃない?」「綾乃さんはどうしてそんなことを?合意できないなら内々に話せばいいのに、わざわざ大勢の前で離婚騒ぎを起こすなんて、恥ずかしいわ!」「たぶん、内々に話しても通じなかったからだよ。恥をかくよりは、財産を失うほうが辛いだろうしね」……人々はそれぞれの推測を口にし、議論は尽きることがなかった。一方、記者たちはまるで興奮剤を打たれたかのように、カメラを時臣に向けて一斉に撮影を始めた。「桐島社長、本当に綾乃さんと離婚されるのですか?」「桐島社長、離婚の理由は財産相続に関係していますか?」「社長も奥様もまだお若いのに、なぜお二人は実の子をもうけずに養子を選んだのですか?」数え切れないほどのマイクが時臣の前に突き出され、記者たちの質問は次第に鋭くなっていく。ある記者は距離を詰め、声を荒げてこう問い詰めた。「社長、奥様と子どもを作らないのは、ご自身の問題ですか?」時臣の顔色は一気に暗くなり、鋭い目でその記者を睨みつけた。まるで切り刻みたいかのような、凶暴な眼つきだった。だが今は記者とやり合う時ではない。まずはこの場を落ち着かせなければならなかった。深く息を吸い込み、時臣は大声で叫んだ。「全員、静かにしろ!」その一言には雷のような怒りがこもり、場内の全員を震え上がらせた。人々は一斉に静まり返り、皆が時臣の顔を見上げて彼の言葉を待った。時臣は部下からマイクを受け取り、険しい表情のまま宣言した。「まず断言しておく――俺は絶対に綾乃と離婚しない!」「綾乃は、俺がこの人生で唯一愛した女だ。彼女は俺の妻であり、妻としてふさわしいのは彼女だけだ!」「俺たちは絶対に離婚しない。離婚の噂はすべてデマだ!」「責任を持って言う。俺と綾乃の関係に、離婚なんてあり得ない。あるとすれば、死別だけだ」その言葉が響き渡ると、宴会場は再び熱狂の渦に包
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第9話
記者たちの容赦ない追及によって、辛うじて保たれていた会場の空気が、再び完全に崩れ去った。「言われてみれば、あの男の子、桐島社長によく似てるよな!」「女の子の目元もそっくりじゃない?あの眉の形なんて、見れば見るほど……」「まさか、あの双子って養子じゃなくて……隠し子だったってこと?」「そりゃ奥さんも離婚したくなるよ。夫が別の女と子ども作ってたなんて、誰だってキレるでしょ!」……実のところ、宴が始まった直後から、一部の来賓はすでに気づいていた。時臣が養子として紹介したあの男女の双子。その顔立ちが、あまりにも彼に似すぎていたのだ。しかし、ここに集うのは社交界の猛者たち。そう簡単に口を滑らせる者はいない。たとえ不自然な点に気づいても、余計なことは言わない。桐島家のような巨大財閥に、軽々しく楯突こうとする者などいない。だが今、記者のひと言がその最後の隠し布を引き剥がしてしまった。闇に隠されていた醜聞が一気に暴かれ、場内は大混乱に陥った。もはや時臣といえども、状況をコントロールできるはずもなかった。まさにそのタイミングで、綾乃の離婚弁護士・林田 軒也(はやしだ けんや)が再び現れ、離婚協議書を差し出した。「桐島社長、署名してください」軒也はにこやかに言った。「早く済ませた方が、お互いのためですよ」「ふざけるなッ!!」時臣は怒りを隠せず、軒也が差し出した離婚協議書をひったくると、紙をビリビリに破り捨てた。だが、軒也はまるでそれを予測していたかのように、鞄からまったく同じ離婚協議書をもう一部、すぐに取り出した。「桐島社長、素直に署名なさることをお勧めしますよ」軒也は相変わらず柔らかい声で続けた。「私を困らせないでください」「綾乃様からは、破格の報酬をいただいています。この不幸な婚姻関係を、終わらせるためにね」「あなたが署名を拒むなら、こちらにも相応の手がありますから――」言い終える前に、時臣が突然、軒也の胸ぐらを掴んだ。「お前ごときが俺と取引だと?……ふざけるな!」「綾乃はどこだ!今すぐ会わせろ!!」激昂する時臣に対して、軒也は怯むどころか、むしろ笑みを浮かべていた。まるで、すべてを掌の上で転がしているかのように――「綾乃様は、あなたに会うつもりはありません」軒也は言った。「もうすでにこの国を離
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第10話
軒也のひと言が、時臣の怒りに火をつけた。彼はまるで理性を失った獣のように、軒也を壁に叩きつける。そしてその胸ぐらを掴み、今にも殴りかかりそうな勢いで睨みつけた。「俺を脅してるつもりか?」両手で軒也の襟をきつく掴み、まるで次の瞬間に拳を振り下ろさんばかりの険しい表情だ。「まあ、そういうことになりますね」軒也は目を細め、どこか楽しげに微笑んだ。「あなたが素直にサインするとは思ってませんでした。だから、こうするしかないんですよ」「それに……この場にいるのは、記者だらけですよ?ここで暴力沙汰なんて、賢明とは言えませんね」時臣の顔色がますます険しくなる。拳を振り上げかけたその手が、ほんの一瞬、空中で止まった。軒也の言う通りだ。この場には、数多のマスコミが目を光らせている。もし拳を振るえば、翌日のトップニュースになるのは間違いない。情報が瞬時に拡散するこの時代――桐島グループの現社長である彼の行動は、すべて株価に直結する。しかも今、彼には“隠し子疑惑”まで囁かれている。もし今ここで、綾乃の離婚弁護士を殴れば、事態はさらに悪化するばかりだ。時臣は怒りを噛み殺し、ゆっくりと手を離した。「綾乃に会わせろ」低く沈んだ声で言う。「会わない限り、絶対に署名はしない」「……もう申し上げましたが、綾乃様はあなたに会う気はありません」軒也はきっぱりと言い切った。「だからこそ、あの大金を払って、私に手続きを一任したんです」そう言うと彼は、再び離婚協議書を時臣の目の前に差し出した。「署名は二日間の猶予があります」「署名の期限は、あと二日。それまでに記入済みの書類を私の事務所に提出してください。もしそれがなければ――動画をネットに公開します」「ちなみに、私の手元にあるのはこの動画だけじゃありませんので」言い終えると、軒也はくるりと背を向け、その場を後にした。時臣は怒りに震えながら、その場に立ち尽くすしかなかった。二日後。軒也は事務所で時臣を待っていた。やがて扉が開き、時臣が険しい表情のまま入ってくると、手にしていた離婚協議書を乱暴に机に叩きつけた。「サインは済ませた。動画は削除してくれるんだろうな?」「もちろんです」軒也はいつも通り、柔らかく微笑んだ。「桐島グループには、綾乃様の持ち分もあります。株価が暴落すれば、
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