Semua Bab 彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで: Bab 51 - Bab 60

結衣は、悠真のわずかな感情の揺れに気づいた。何気なく彼のスマートフォンの画面を横目で覗くと、メッセージの中に【星乃】という名前が目に入った。また――星乃だ。胸の奥に、さざ波のような苛立ちが広がっていく。結衣には自信があった。悠真と自分の間にある障害なんて、全部乗り越えられると信じていた。でも――唯一、彼自身だけは結衣の思い通りにならなかった。星乃に対する悠真の気持ちだけは、どれだけ時が経っても読み切れなかった。そのとき、悠真がスマホの電源を切り、静かに口を開いた。「俺、これから用事がある。もう付き添えないけど、外も暗くなってきたし、あまり長く出歩かないほうがいい。運転手に送らせるよ」「……星乃のこと？」結衣が尋ねた。「彼女、まだ別荘に戻ってないの？」そう言った瞬間、悠真の眉がはっきりと寄せられるのを、結衣は見逃さなかった。言葉がなくても、それが答えだった。「今回の星乃は、ちょっとわがままだったかもね」結衣は穏やかに続けた。「でも正直ちょっと羨ましいの。彼女はあなたと結婚して、おばあさまにも可愛がられてる。愛されてる人って、ああやって堂々としていられるのよね」「悠真、意地を張りすぎないで。本当に彼女とやっていくつもりなら、折れるべきところでは、ちゃんと折れてあげて」悠真はさっき結衣のために、包帯を巻いた手に目を落とした。少し戸惑ったような表情が浮かぶ。「……あんなことされたのに、それでも彼女の味方をするのか？」「だって、星乃は女の子だから。私も、女の子に嫌われるのは苦手だし……それに……」言いかけて、結衣はふと悠真を見つめた。迷いのないまっすぐな瞳で。「悠真、私はあなたが好きよ。でも、私の好きは――あなたに幸せになってほしいって思う好きなの」「私たち、あの頃は若すぎた。だからあんなふうに、衝動的に別れてしまったの」「ずっと、後悔してるわ」その一言に、結衣の瞳に薄く涙が浮かんだ。五年前――外から見れば、冬川家が二人を引き裂いたように見えたかもしれない。でも実際は結衣と悠真の間にも、確かに問題はあった。当時の彼女は若くて感情的で、些細なことで拗ねては彼を困らせていた。別れる前日、冬川家が悠真に別れを迫っていると知ったとき、彼女は自分の存在がどれほどのものか試すように、わざと自分から別れを切

星乃は不思議そうに目を凝らしたが、高級車はゆっくりと走り出し、やがて視界から消えていった。「悠真様……」運転席の誠司は、言いかけた言葉を飲み込んだ。バックミラー越しに後部座席の悠真の表情をうかがったが、その顔には一切の感情が読み取れない。それでも結局、口を開いてしまった。「戻って……星乃さんと、ちゃんと話したほうがいいんじゃないですか」さきほど、彼も悠真もあの男の姿を見ていた。星乃の部屋に入ってから、出てくるまでの一部始終を。幸いカーテンは開いたままで、ガラス越しにふたりのシルエットが見えていた。それだけに誤解の余地はなかった。ただの食事だった。不貞や不穏な気配など、どこにもなかった。それでも、悠真の顔はあまりにも険しく、今にも凍りつきそうなほど冷えていた。怒っているのは明らかだった。その言葉に対し、悠真はちらりと誠司を一瞥した。細く長い指が無意識に肘掛けをトントンと叩く。だが、口を開く気配はない。何について話す？――わざと家を出たのは、実は別の男と会うためだったって話か？――それとも、今すぐ家に戻って、あの男にはもう二度と会うなって命じるのか？どちらを選んでも、彼女の思うつぼではないか。そう思った瞬間、悠真は鼻で小さく笑った。確かに、さっき男を見たときは少し苛立った。だが、すぐに頭を冷やした。――これは星乃の仕掛けた罠だと。理由は明白だった。――自分に嫉妬させたかったのだ。自分が結衣を連れて冬川家に戻ったことへの報復。悠真は家柄にせよ人間性にせよ、この街で群を抜いた存在だ。五年もの結婚生活を共に過ごし、そんな男と日々顔を合わせてきた星乃が、他の男に心を移すとは思えなかった。黙ったままの悠真に誠司はさらに言葉を重ねた。「失礼かもしれませんが……それでもやはり、一度ちゃんと星乃さんと話すべきだと思います」悠真は冷ややかに鼻を鳴らした。「話す価値もない。ただのくだらない小細工だ」こうした手は最近の星乃の「定番」になっていた。――きっと、彼と結衣が元通りになるのを、心の底から恐れているのだろう。そうであるなら、近いうちに忠告する必要がある。そんな手では、彼を繋ぎとめるどころか、かえって嫌われるだけだと。「でも……」誠司は一瞬迷ったあと、言った。「……もし、本当に

けれど、悠真はすぐに我に返った。――抱き上げただけで、恋人同士ってことになるのか？そんな馬鹿な話があるものか。それに、自分がなぜ急に星乃のことを思い出したのか、さっぱりわからなかった。星乃が他の男を好きになるなんて、馬鹿げているどころか、滑稽にすら思えた。彼女がそんなにも目が節穴だとは思えないし、自分を捨ててほかの男に走るなんて、到底信じられなかった。それに、あんな特徴のない平凡な女を好きになる男が、この世にいるとも思えなかった。悠真が口を開く前に、花音はまた一方的に話し始めた。「それにね、あの人、普段はほとんど女の人と接点がないの。彼の写真何年もネットに出回っていたけど、女の人と一緒に写っているものなんて一枚もなかったんだから。これは初めてよ」「なんとなくだけど、今回は本気な気がするの」「それにね、彼、あの女を見る目が……明らかに違うのよ」「……」花音は話すほどに沈み込み、ついには悠真の腕を掴み、肩に顔をうずめようとした。だが、くっつく寸前に悠真は彼女の首根っこをつまんで制し、その手にティッシュを二枚押し込んだ。「拭けよ」とあからさまにうんざりした声で言った。花音は口をとがらせたが、素直に受け取り、涙を拭いて鼻をすすった。そして、悠真の冷たい視線に気づき、ムッとしたように言った。「はいはい、どうせ私なんてうざいんでしょ。でも誰だって感情が爆発するときはあるんだから」「結衣さんだって、そういう時は絶対あったはずよ。そういう時、あんたも彼女を嫌がったりした？ まさかね」「……」悠真は黙り込んだ。結衣は彼の前ではいつも品があって、泣く時ですら美しかった。そういえば……彼女が感情をあらわにした姿を、彼は一度も見たことがなかった。それに比べて星乃は――ふと、思い出した。婚約して間もない頃、大晦日に星乃が実家に帰ったときのことだ。何があったのかは知らないが、大喧嘩をして彼女は篠宮家から飛び出してきた。偶然その場に居合わせた悠真は、なんとなく胸がざわついて車を降り、彼女に声をかけた。星乃は何も言わずに彼の胸に飛び込み、声をあげて泣いた。あのあとも、星乃が感情を抑えきれなくなることは何度かあった。彼女を愛していたわけではない。けれど……あの時泣いていた彼女に、なぜか胸が痛んだ。彼女も案

星乃はふと動きを止めた。視線は再び悠真から届いたメッセージへと落ちた。まだ考えを巡らせる間もなく、玄関の外から聞き慣れない声が聞こえてきた。「こんばんは、配達です。お手数ですが、お受け取りをお願いします！」同時に遥生からもメッセージが届いた。そのときになってようやく星乃は思い出した。病院で薬を処方してもらった際に、一部が在庫切れで、別の病院から取り寄せることになっていたのだった。その手配をしてくれた遥生が、彼女の住所を伝えておいてくれたのだ。だから今、玄関にいる配達員はその薬を届けに来たというわけだ。星乃はドアを開けた。配達員は額に汗を浮かべながら、申し訳なさそうに言った。「お薬なので最優先でお持ちしました。ただ、このマンション、工事中の部屋が多くてエレベーターが混んでまして……少し遅れてしまいました。申し訳ありません」「気にしてません、大丈夫です」星乃はやわらかく微笑んだ。たしかに、最近このマンションでは工事中の部屋が目立つ。ちょうど彼女の向かいの部屋も、長く空き家だったが、つい最近になって改装が始まったようだった。まるで、すべてが彼女に語りかけているようだった。――かつて「悠真の妻」として与えられていた、あの静かでどこか滑稽な肩書きは、もうすでに自分の人生から遠ざかっているのだと。今の彼女は、ただの「星乃」。静かな住宅街で暮らす、どこにでもいる一住人であり、他人から見ればただの隣人にすぎない。けれど、そんな自分を素直に受け入れている心も、確かに存在していた。薬を受け取り、丁寧に礼を伝えて部屋へ戻るとスマホが再び鳴った。あまり使っていないSNSアプリの通知だった。「知り合いかもしれません」という表示に、つい指が吸い寄せられるようにタップしてしまった。そして目にした名前に、思わず息をのんだ。それは、結衣のアカウントだった。彼女が最近更新した投稿には、一枚の写真が添えられていた。そこに写っていたのは、星乃にとってあまりにも見慣れた、新築の別荘だった。かつて五年間、彼女が暮らしていた場所だ。悠真の姿が写っていた。ちょうど外から帰ってきたところなのだろう。その体の半分は別荘の暖かな灯りに照らされ、もう半分は影に沈んでいた。星乃の記憶にある、あの冷ややかな顔とはまるで違っていた。その

夢の中では、どんよりとした空が、今にも崩れ落ちそうなほど重く垂れ込めていた。その中で、星乃は小さな土の盛りの前に跪いていた。顔はうつむいて見えなかったが、彼女の肩の震えから、どこか深い悲しみを抱えているのが直感でわかった。悠真の胸に、じくじくとした痛みが広がった。彼女に何があったのか尋ねようと、一歩を踏み出しかけたそのとき、星乃は突然立ち上がり、彼とは逆の方向へと歩き出した。「星乃」思わず悠真は彼女の名前を呼んだ。だが彼女はまるで何も聞こえないかのように、足を止めることなく歩き続ける。言うことを聞かない星乃に、悠真は思わず眉をひそめ、不機嫌そうに声を上げる。「星乃、どこへ行くんだ。止まれ！」しかし星乃は振り向くこともなく、むしろ足取りはさらに速くなり、彼との距離もどんどん開いていった。悠真は苛立ちを募らせ、彼女を追いかけようと一歩踏み出した――その瞬間、どこからともなく結衣が現れ、彼と星乃の間に立ちはだかった。結衣は目元を細めて微笑みながら、彼をじっと見つめた。「悠真、どこに行くの？」悠真は彼女の肩越しに星乃の姿を探した。だが、もうどこにも彼女の影はなかった。星乃が消えたその場所では、雲がすっかり晴れ、太陽が燦々と輝いていた。その眩しさに悠真は思わず目を細めた。「悠真？」結衣の声が再び耳に届く。その響きは夢の中と同じだったが、どこか現実味を帯びていた。周囲の景色がぐにゃりと歪み始め、耳元でざわめいていた音も遠のいていく。そして、悠真は目を開けた。目に映ったのは見慣れた寝室の天井だった。扉の向こうからは軽くノックする音が聞こえてくる。「悠真、朝ごはんできたわよ。少しでも食べて」結衣の声だった。夢の中とまったく同じ声だが、現実ではほんの少し重たく響いた。悠真は身体を起こし、ようやく先ほどの出来事が夢だったと気づく。いったい、なんであんな奇妙な夢を見たんだ？最近の星乃の「焦らし作戦」が思ったより効いているのかもしれない。こめかみを軽く押さえながら、悠真は首をひねった。深く考えることなくベッド脇のスマホを手に取ると、もうとっくに朝を過ぎていた。眠りすぎたのは、昨夜の睡眠薬のせいだろう。それが原因か、まだどこか身体が重たい。あるいは、ここ最近本当に疲れすぎていたのかもしれない。冬川