All Chapters of 彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

恵子が言い終わらないうちに、結衣はふっと笑って言った。「悠真、そんなに恵子さんを脅かさなくてもいいじゃない。あなたが本気で怒っているわけじゃないって、わかってるから」彼女は恵子の普段の態度を見て、もし悠真が本気で手を出すつもりなら、とっくにそうしていたはずだということに気づいていた。案の定、悠真は少しだけ目を上げて言った。「恵子、あなたがこの別荘に長く仕えていることは知っている。でも、自分の立場を忘れないほうがいい」「彼女は俺の友人であり、この別荘の客でもある。ここに来たのは休養のためであって、あなたの仕事を手伝うためじゃない」恵子は安堵したように息を吐いた。「はい、仰る通りです……」と言いかけたところで、結衣が口を挟んだ。「でもね、悠真、私がここに残るって言ったのは自分の意思なの」悠真は少し疑わしげに、彼女に視線を向けた。結衣は唇を軽く噛みしめながら、静かに言葉を続けた。「恵子さんの言ったこと、あながち間違いじゃないよ。星乃が出ていってから、あなた随分痩せたわ。誰かがそばにいて、ちゃんとあなたの面倒を見なきゃと思ったの。だから、星乃が戻ってくるまでの間、私が代わりにあなたのそばにいたいの」悠真はしばし黙り込んだ。思い出していたのは昨晩見た夢だった。あの星乃の嫉妬深さからして、結衣がこの別荘に住みついたと知ったら、きっともう戻ってこようとはしないだろう。そんなことを考えていると、まるでその思考を読んだかのように、結衣が続けた。「……それだけじゃないの。実は……」彼女は不安げに唇を噛んだ。「あなたが用意してくれた部屋、すごく素敵だったけど……この数日、ずっと落ち着かなくて。なんだか、一人でいるのが怖くなっちゃって……」その言葉に、恵子は目を光らせた。すかさず火に油を注ぐように口を挟む。「悠真様、私も思います。結衣さんがこの別荘に住むのは、とてもいいことだと」「だって、結衣さんはこんなに美しくて、頭も良くて若い、しかも独り身で、海外帰りの才女です。そんな方が外で一人暮らしなんて、いつ誰かに狙われたらどうします?むしろここにいた方が、ずっと安心ですよ」その言葉で悠真もふと思い出した。以前、結衣が国内出張に来たとき、トラブルに巻き込まれて、危うく襲われそうになったことがあった。あの時もちょうど、星乃から
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第62話

結衣は軽く頷き、悠真にも一礼してから、恵子に連れられて階段を上った。気分は上々だった。物事は思っていた以上に順調に進んでいる。こうして悠真のそばに、より近い距離でいられるようになったのだから、「奥様」という肩書きも、もうすぐ手の届く場所にあるに違いない。そんなことを考えていると、隣で階段を上っていた恵子が愛想よく話しかけてきた。「結衣さん、このゲストルームはなかなかいいお部屋ですよ。少し狭いですが南向きなので、毎日お日様が差し込みますし……」「結構です」言い終わる前に、結衣は昨晩泊まった部屋を指差して言った。「昨日はこちらに泊まらせていただいて、とても快適でした。この部屋を片付けてもらえればそれでいいです」恵子はその指先を追って目をやり、一瞬言葉を失った。そして慌てて手を振った。「そちらは、奥様のお部屋でして……」「わかっています」結衣はにこやかに言った。「だからこそ、私はその奥様のお部屋に住みたいんです」「でも……」恵子は言い淀んだ。この別荘では星乃の存在など大した問題ではない……と思いたいところだが、彼女はれっきとしたこの家の奥様。その星乃が不在の隙に、部屋を他の女性に使わせるなど、普通に考えれば問題になって当然だ。けれど、ついさっき悠真が結衣に見せた態度を思い返すと、話は別だ。結衣がこの家に本格的に住み始めれば、自分にとっては新たな雇い主にも等しい。そう考えると、強く拒むこともできない。板挟みで困り果てるばかりだった。しばらく悩んだ末、恵子はようやく絞り出したように言った。「では、私から一度、悠真様に確認してまいりますね……」そう言って、階段を下りようと向きを変えたそのとき。結衣が静かに言った。「どうぞ、お好きに。たとえ――そのことでお仕事を失っても、構わないのなら」その一言を聞いた瞬間、恵子の中の自信は一気に崩れ去った。立ち止まって振り返り、怯えたような声を漏らした。「え?」結衣は微笑を浮かべたまま尋ねた。「恵子さん、この別荘でどれくらい働いてらっしゃるの?」恵子は戸惑いながら言った。「五年ほどです。悠真様と星乃様がご結婚なさって、間もない頃から……」答えながら、恵子は落ち着かない面持ちだった。仕事の年数と、職を失うことにどんな関係があるのか、見当がつかない。そん
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第63話

恵子はまだ少し迷っていた。もしかしたら、あれは悠真が怒りに任せて、言っただけのことではないのか。だが、次の瞬間その考えを自ら打ち消した。悠真は感情的な言葉を滅多に口にしなかった。星乃が彼の怒りを買えば、それは本気の「罰」として返ってきた。かつて悠真は、星乃に自分の子どもを産むことを許さないと言ったが、その言葉は決して冗談ではなかった。それから五年が経ったが、彼女は一度も妊娠していない。そこまで考えたとき、恵子の目の色が変わった。その変化に気づいた結衣は、自分の言葉が効いたのだと確信した。彼女は口元に微笑みを浮かべ、美しい手をそっと恵子の肩に置いて、やわらかく囁いた。「恵子さん、まだわからないの?悠真が私をこの家に住まわせるって決めたこと、どういう意味かわかる?気づいていないふりをしても、もう星乃がこの家に戻ってくることはないって、あなたなら気づいてるでしょう?そうすると、この部屋はもうゲストルームになるんですよね?」恵子は、完全に言いくるめられてしまった。結衣は軽く彼女の肩を叩き、やさしく言った。「この部屋、片づけなくて大丈夫です。いらないものは私が自分で処分しますから。そのかわり恵子さん、その時間で、私が何者か、悠真とどういう関係か、ちゃんと調べておくといいですよ。これから、誰の側につくべきか判断するときに、きっと役立ちますから」それだけ言うと、結衣はそれ以上何も語らず、静かに部屋の中へと入っていった。恵子はその場に呆然と立ち尽くした。数分後、ようやく我に返った彼女は、スマホを取り出して、冬川グループに勤めている息子に電話をかけた。「……ねえ、ちょっと代わりに、ある人のことを調べてくれない?」……朝食を終えると、悠真は別荘を出た。車を走らせて間もなく、なぜか胸騒ぎがして、スマホを取り出した。星乃からのメッセージは、まだ返ってきていない。こんなに長いこと返信がないなんて――まさか、何かあったんじゃ……気になった彼は、自ら星乃に電話をかけた。だが、呼び出し音が二回鳴ったところで、電話は自動的に切れてしまった。その瞬間、悠真の眉間に深い皺が寄った。言葉にできない不安が、胸の奥から湧き上がってくる。そして、不意にさきほど恵子が言っていた言葉が脳裏をよぎった。「女性が一人暮らしなんて、誰
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第64話

悠真はドアを押して部屋に入った。荒れ果てているかと思ったが、意外にも室内はきちんと片付いていて、床には塵ひとつ落ちていない。靴箱の脇には、スリッパがきれいに揃えられていた。争った形跡はどこにも見当たらなかった。――どうやら、この部屋の主は外出中らしい。だが悠真はほっとする間もなく、視線を部屋中に巡らせて、再び眉をひそめた。……狭い。全ての部屋を合わせても、別荘のリビングより狭いのではないか。物はそれほど多くないが、空間があまりにも限られていて窮屈に感じる。こんな場所で、どうやって生活していたんだ?嫌悪をあらわにした悠真の視線が、ふと壁に掛かったカレンダーに止まった。来月の十五日――赤いペンでぐるりと丸がつけられている。星乃は昔から、記念日や大切な予定をカレンダーに書き込む習慣がある。だがその日付に悠真は心当たりがなかった。――何の日だ?考えがまとまらないうちに、誠司が慌てた様子で入ってきた。「悠真様、マンションの防犯カメラの映像が手に入りました。それに……星乃さんが出ていくところも確認できました」そう言いながらも、誠司の表情はどこか落ち着かない。この映像を見せたら、悠真が激怒するだろう――そんな予感があったのだ。だが、悠真が焦っている今、黙っているわけにはいかない。悠真は彼の態度に気づかず、黙ってタブレットを受け取ると、すぐに映像を再生した。画面に映ったのは、夜明け直後のマンション前の様子。一台のグレーの乗用車が、ひっそりと建物の前に停まっていた。車体は控えめなデザインだが、盾のように掲げられた金色のナンバープレートが、持ち主のただならぬ身分を示している。悠真は最初、その車にあまり注意を払わなかった。しかしすぐに違和感に気づく。――それから約十分後、星乃が現れた。彼女は藍色のロングワンピースを纏い、長い髪を無造作にまとめている。その姿は飾らず自然だが、どこか洗練されていた。路肩に停まる車を見つけると、星乃はためらうことなく歩み寄り、笑顔で後部座席のドアを開けて乗り込んだ。「おそらく知り合いでしょう。危険はないかと……」誠司は悠真の顔色をうかがいながら、静かにそう言った。……ただ、言えなかったこともある。車内の男の顔までははっきり見えなかったが、どう見ても――昨日見
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第65話

「必要ない」悠真は冷ややかに言い放つと、さらに命じた。「それと、俺がここに来た痕跡はすべて消しておけ」星乃の思い通りにさせてやるものか。遊びたいのなら、一人で勝手にやればいい。それがどれだけ長く続くか、見せてもらおうじゃないか。迷いなく背を向けて去っていく悠真の姿を見送りながら、誠司は額の汗を拭い、思わず心の中でつぶやいた。長年、悠真のそばで仕えてきたが、こんな態度は滅多に見たことがない。まるで駄々をこねる子どものようだ。さっきまであれほど星乃を気にかけていたくせに、今は何事もなかったかのように振る舞っている。この様子を見たら、星乃はきっと理解できないだろう。誠司は小さくため息をついた。そう思いつつも、余計な火種をまかぬよう、黙って命令に従うしかなかった。……そのころ、星乃は遥生に送られて、悠真の別荘の前まで来ていた。昨日、医者にもらった薬がよく効いたこともあり、一晩休んだおかげで足の痛みはほとんど引いていた。本当は自分で運転して来るつもりだったのだが、出かけると知った遥生がすぐに車を回し、送り届けてくれたのだった。彼がすでに下に着いたと連絡を受けたとき、星乃は少しばかり気が引けた。遥生は帰国したばかりなのに、また迷惑をかけてしまったような気がして。けれど、遥生はあっさりと言った。「今日はもともと契約の話もあるし、ちょうどよかったんだ。それに帰国したばかりで、こっちこそいろいろ頼ることになりそうだから」そう言われてしまえば、それ以上は何も言えなかった。車が止まり、星乃は静かに車を降りると、五年間暮らしていた別荘へと歩き出した。庭の花壇には色とりどりの花が咲き誇り、門の外のブランコは風に揺れていた。まるであの日この場所を離れてから、何ひとつ変わっていないかのようだった。――けれど、変わってしまったのは「人」だった。もうここに、あの頃の「居場所」などないのだと、あらためて思い知らされる。本当は、戻ってくるつもりなんてなかった。ただ、あの日はあまりにも急いでいて、大切なものをいくつも置き去りにしてしまった。昨夜、結衣がネットにあげた写真に写っていた、五年間育てたボタンの葉が黄色くなりかけているのを見て――胸が締めつけられた。悠真は花や植物の世話が嫌いだ。結衣だって、あの
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第66話

彼女はもう無理に中へ入ろうとはせず、あらためてこう言った。「中に入らなくても構わない。でも、別荘に忘れ物をしてしまって……それだけ取ってきてもらえたい」星乃は荷物がどこにあるのかを恵子に伝えた。いくつかの鉢植えは寝室に置いてある。そう話し終えたところで、恵子は素っ気ない口調で言った。「……ああ、その部屋、今は結衣さんが使ってますんで。勝手に入るわけにはいきませんし、先に結衣さんにひと言聞いてもらわないと困りますね」星乃は静かにうなずいた。心の準備はとっくにできていた。だから、こんなふうに言われても、何の感情も湧いてこなかった。彼女が何も言わないのを見て、恵子は少し離れた場所で電話をかけ始めた。どこかへりくだったような口調で、丁寧に話すその姿を見て、星乃はふと昔のことを思い出す。かつて、自分の部屋に無断で入って、勝手に服を着ていたのも、この恵子だった。あのときは、一言の声かけさえなかった。けれど今、相手が結衣になると、まるで別人のように敬意を払う。――人によって態度を変える人なんだ。そんな恵子の振る舞いから、悠真がどれだけ結衣を甘やかしているのかが、痛いほど伝わってくる。やがて電話を終えた恵子は、元の冷たい口調に戻って言った。「ちょっと待ってな。取ってきますから」星乃は門の前で待っていた。ほどなくして恵子が戻ってきて、荷物を無造作に彼女の胸元へ押しつけた。「これしか見つかりませんでした。あとは使い道のないものばかりだったから、結衣さんが処分しちゃったのかもしれませんね」そう言いながら、どこか楽しげに星乃の顔を覗き込んだ。まるで、彼女が今になって後悔すると思っているかのように。別荘を出ていったことを、きっと悔やんでいるんだろう、と。けれど、自分の荷物が勝手に処分されたと聞かされても、星乃の表情はまったく変わらなかった。中身をざっと確認したあと、何も言わず、近くに停めてあった車へと歩いていった。車から降りてきたのは、整った顔立ちの男性だった。彼は無言で星乃の手から荷物を受け取った。その光景を見て、ようやく恵子は何かに気づいたようだった。――なるほど、だから怒らないのね。もう次が決まってるってわけか。もちろん、名家の人間がそれぞれの世界で自由に生きるのは、珍しいことではない。でも、こ
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第67話

冬川グループがUMEにとって最大の出資者となれば、彼女と悠真は否応なく関わることになる。星乃は、もう二度と悠真と関わりたくなかった。「だったら、断ればいい」遥生は口元に微かな笑みを浮かべながら、はっきりとそう言った。そのあまりにも迷いのない返答に、星乃は少し驚いた。彼女の印象中の遥生は、仕事人間であり、仕事を優先する冷静なタイプだった。冬川家の影響力は、今や瑞原市でも随一。彼らの出資があれば、UMEにとっては最大の難題が解決されるに等しい。星乃は、てっきり遥生が自分を説得しようとすると思っていた。だが、まるで彼女の心を読んだかのように、遥生は続けた。「確かに、冬川グループの出資はありがたい。でも、たとえそれがなくても、今のUMEの勢いなら資金集めは難しくない。でも、君は……君は替えがきかない」そう言って、遥生は静かに彼女を見つめた。「UMEがここまでやってこられたのは、君の技術があったからだ。君がいなければ、今のUMEは存在しない」「もし、君と悠真のどちらかを選ばなければならないとしたら、僕は迷わず、君を選ぶ」他の誰かが同じことを言っていたなら、それはきっと美辞麗句にすぎなかっただろう。でも、それを言ったのが遥生だった。かつてUMEの技術を理解していたのは、星乃と遥生のたった二人だった。星乃は開発者として技術の細部まで熟知し、遥生はそれを洗練させるためのアルゴリズムに長けていた。たったひとつの小さな機能をめぐって、朝から晩まで議論し合うこともあった。ただロボットの動きを、より完璧に、より正確に仕上げたい。その一心で。私生活では友人であっても、技術においては譲らない。少しでも疑問があれば、決して妥協しない。彼らの世界には、「完璧」など存在しない。常に「よりよいもの」しかなかった。だが、星乃がUMEを離れる直前に仕上げた技術は、その「完璧」に限りなく近かった。それは今でもUMEで使われており、他社もこぞって模倣している。何年ものバージョンアップを経ても、根幹にあるロジックは、星乃が残した技術そのものだった。こうした話を、以前にも遥生から聞かされたことがある。彼の言葉の多くが、彼女の技術への、純粋な敬意からきていると分かっていても、星乃の胸には温かいものが広がった。心臓がひときわ強
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第68話

とはいえ、皆が普段から呼び慣れており、篠宮家は冬川家との婚姻関係もあるため、話題にする際には篠宮家もあわせて、「四大家族」と呼ばれることが多い。しかし、厳密に言えば、本当に影響力を持つのは三大家族だけだ。そして、その三大家族の中でも、冬川家と白石家の実力は拮抗しており、取り扱う事業にも多くの共通点があるため、瑞原市では常に激しく競い合っていた。両家は公然のライバル関係として知られている。とはいえ、争いがあっても表向きの礼儀は別だ。どちらかが宴席を主催すれば、もう一方も一応は招待される――ただし、その招待を受けて実際に現れるのは、たいてい家系の末端にあたる、どうでもいい傍系の人間であり、行くこと自体が稀だった。ましてや、本家筋の当主格が姿を見せたことなど、過去に一度もなかった。その頃、悠真は指先で静かにデスクを叩きながら、何かを考え込んでいた。そのとき、オフィスのドアがふいに開いた。結衣が深紅のレディーススーツに身を包み、ヒールの音を響かせながら入ってきた。手には保温用の弁当箱を提げている。彼女は微笑みながらデスクへ近づいた。「悠真、もうこんな時間よ。何か少し食べて」「さっき恵子さんから、あなたが社食をあまり好まないって聞いたから、家でちゃんと作ってきたの。ちょっと味見してみて」そう言って、結衣は手早くテーブルの上を片づけ、弁当箱から料理をひとつひとつ丁寧に並べていった。まだ誠司が残っているのを見て、彼女はにっこり笑った。「誠司さんも少し食べませんか?」「えっ?いえいえ、私は社食に慣れてますので……」誠司は慌てて頭を下げた。「悠真様、それでは私はこれで失礼します」悠真が頷くと、誠司は再び結衣に軽く会釈をして、早々にオフィスを後にした。どうにも勝手が違う。以前、星乃が昼食を持ってきてくれたときは、決して無断でドアを開けたりせず、必ず秘書に声をかけて、悠真の仕事がひと段落するのを待って入室していた。だが結衣のこの振る舞いに、悠真は何も言わない。助手である自分が口を挟むべきではないと思った誠司は、ただ黙ってその場を去った。誠司が出て行った後、結衣は言った。「さっき誠司さんと話してたこと、実は少し聞こえてたの。私、ちょっとした方法ならあるわ」悠真が顔を上げた。「どんな方法だ?」結衣は穏やかに笑った。「
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第69話

星乃が電話を受けたとき、ちょうど家に帰ったところだった。送り届けてくれたのは遥生だった。契約はすでに締結しており、明日からの出勤も決まっている。UMEのオフィスの所在地も決まって、彼女の家からもそれほど遠くはない。遥生はまだ住まいが決まっておらず、ホテル暮らしが続いていた。星乃は一緒に物件探しを手伝うつもりだったが、遥生は彼女の足の怪我が、まだ完全に治っていないことを気にかけ、ついてくるのを拒んだ。そのため、星乃は一人で先に帰宅することになった。玄関のドアを開けた瞬間、星乃は何かが違うと感じた。あの侵入事件以来、彼女の心には深い傷が残っていた。しかも今は一人暮らしだ。だからこそ、外出時には必ず玄関マットを特定の位置にずらしておき、自分以外の出入りがあればすぐに気づけるようにしていた。そして、今日はそのマットが明らかに動かされていた。星乃は家の中に入るのをやめ、すぐに扉を閉めて管理会社に電話をかけ、監視カメラの映像を確認したいと申し出た。ところが、相手は彼女の話を聞くなり、ためらうことなく拒否し、冷笑を含んだ口調でこう言い放った。「星乃さん、ここら辺に住んでて何を心配してるの?狙われるようなもんでもないでしょうに。ここに住む人間を泥棒が見たら、逆に気の毒になって五百円でも置いてってくれるんじゃないの?考えすぎだって、そんなことあるわけないじゃん」悔しかったが、相手の言葉にも一理あるのも事実だった。このエリアの物件は古いので有名で、住んでいるのは年金生活の高齢者か、家賃の安さ目当ての若い貧乏人ばかり。少しでも余裕のある人間なら、まずこんな場所は選ばない。それでも、星乃の不安は拭えなかった。自分の安全を、そんな理屈だけで軽視するわけにはいかない。彼女は再度管理会社に掛け合ったが、映像は見せられないという一点張りだった。仕方なく、警察に通報するぞと強めに言った。口では「誰も入っていないって保証しますよ」と言いながらも、「警察」と聞いた途端に態度は一変し、彼女が家を離れていた間の映像を送ってきた。確認した結果、確かに不審者の出入りは映っていなかった。思い過ごしだったのだろうか。それとも、誰かが映像に細工をしたのか。前者なら安心できる。しかし後者だったとすれば、もうどうしようもない。監視
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第70話

星乃は悠真の言葉に一瞬きょとんとした。彼を心の底から愛していたあの頃、彼女はたくさんの馬鹿げたことをした。彼のそばにいたくて、秘書になって仕事や身の回りの世話をしたいとまで、言い出したこともあった。でも、そう言った直後に、悠真はそのやり方が気に入らないと、はっきり断った。コネで入るようなことは望んでいないという姿勢が伝わってきた。彼女はその言葉を真に受けた。そして密かに履歴書を出した。冬川グループに入りたくて、給与も相場よりかなり低く設定した。その努力が実を結び、彼女は同時期に応募した他の候補者を押しのけ、最終面接まで進んだ。ところがその最終面接で、悠真が彼女を見た瞬間に顔色を曇らせ、一言も交わすことなく、不合格にしたのだった。後になって理由を問いただすと、彼は冷たく鼻で笑いながらこう言った。「うちがどれだけ落ちぶれても、女に表に出てもらう必要なんかない」と――そんな彼が今になって、自ら冬川グループに来ないかと誘っている。しかも「コネ」という形で。結衣と付き合いだしてから、やっぱりどこか変わったんだ。星乃は冗談めかして聞いた。「それって何?慰謝料のつもり?」「そう思ってくれていい」悠真は淡々と答えた。「……」数秒の沈黙。彼女が感極まって何も言えないのだと、悠真は勘違いした。あれほど自分のそばに居たいと願っていた彼女に、ついにその機会を与えたのだから。「ただし、一つ条件がある」そう言って、朝あの男の車に乗っていた彼女の姿を思い出し、胸の奥に妙な苛立ちが湧いた。「俺の目は節穴じゃない。お前がどう思おうと関係ない。早く不適切な関係を断ち切れ」不適切な関係。星乃は少し間をおいて、その言葉の意味に気づいた。彼が言っているのは、離婚のことだ。――まさか、そこまで待てないのか?星乃は苦笑しながら答えた。「私だって、早く終わらせたいよ。でも……もう少し待つしかないの」役所の処理が混み合い、通知も届いていて、手続きや書類の確認に時間がかかっているらしい……彼女は横のカレンダーに目をやった。「あと27日だね」その数字を聞いた悠真の脳裏に、以前彼女のアパートで見たカレンダーが浮かぶ。日付に丸がつけられていた、あの日。計算すると、確かにぴったり27日。当時はその意味が分からな
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