彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

100 チャプター

第71話

星乃は車をUME本社のビル前に停め、大きく息を吐いてから建物へと向かった。ちょうどそのとき、遥生がすでに入り口で待っているのが見えた。軽く挨拶を交わし、二人で並んでエレベーターに乗る。だが、エレベーターの扉が開いた瞬間、社内からやや激しめの声が漏れて聞こえてきた。「聞いたか?今日、遥生社長が技術部に新人を連れてくるらしいぞ。しかも、その新人がいきなり技術部の主任になるって」「それだけじゃないよ。大学卒だって、院にも行ってないし、しかもさ……五年も専業主婦やってたらしい」「え、女性なのか?」男性社員の一人が驚いたように声を上げる。「五年も働いてない主婦が、いきなり主任?遥生社長、正気か?」UMEの現メンバーは、基本的に高学歴揃いだった。海外の有名大学を卒業している者もいれば、国内の一流大学の博士号取得者も多く、最低でも大学院を修了しているレベルだった。そんな中、長らく職場を離れていた「主婦」が主任として迎えられるなど、到底納得できない空気が漂っていた。皆、どこか憤りを感じていた。そのとき、誰かが小さな声でつぶやいた。「履歴書を見たけど、その新人って社長と大学の同期らしいよ。顔立ちはかなり整ってて……なんというか、典型的な『魔性の女』ってやつ。今回、冬川グループの出資を断ったのも、彼女が関係してるって噂だ」「やっぱり魔性の女かよ……もう我慢ならん!俺、直接文句言いに行ってくる!」そう叫んだ男は、顔を赤らめながら廊下を足早に進み――ちょうど、星乃と遥生の目の前で鉢合わせた。星乃は、自分が技術部主任として迎えられるにあたって、社内の反発を買うことは覚悟していた。だが、初日からここまで、あからさまな騒ぎになるとは思ってもいなかった。正直、気まずさがこみ上げる。一方、遥生は淡々とした表情で、特に気にしている様子はなかった。彼は男の前に立ち、落ち着いた口調で言った。「何か不満があるなら、今ここで話してくれていい」男は遥生がちょうど入ってくるとは思っていなかったらしく、一瞬たじろいだが、唇を結んで言い放った。「遥生社長、UMEをここまで成長させるのに、どれだけの努力があったか……それを信じて、皆ついてきたんです。でも、あなたの私情で、簡単にアレやコレを会社に招くのは、会社にとってもマイナスです!」「アレやコ
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第72話

ふっ――署名もなければ、許可証もない。それなら、誰でも「この技術は自分が開発した」と言えるだろう。どうせ証拠なんてないのだから。智央はそんなことを心の中で思いながらも、口には出さなかった。結局、遥生にも、星乃がその技術を開発したという、確かな証拠はないし、逆に自分が「彼女ではない」と言える証拠もまた、何もないのだ。遥生は星乃を全力でかばっている。もう議論しても意味がなかった。「……いいでしょう、仮にそれが彼女の開発だとしても、彼女はすでに職場を離れて五年も経っています。技術は日進月歩し、五年の間に何度も更新されている。今さら戻ってきて、時代についていけると思いますか?」智央はそう言って、遥生が答える前にさらに言葉を続けた。「まぁ、先のことは今は置いておきましょう。でも、目の前の現実として、UMEの資金調達はすでに止まっています。それも、彼女のせいで、冬川グループからの投資を断ったんですよね?」「遥生社長が今後も冷静さを失わずに判断できると、俺はどう信じればいいんですか?」止まることなくまくし立てる智央。心の中には別の疑念もあった――遥生が急に帰国を決めたのは、星乃が理由ではないか、と。だが、それにも証拠はなかった。彼は遥生の助手にも尋ねた。助手は、遥生はただ故郷に技術で恩返しをしたいだけだと語り、遥生がかつて言っていた「UMEはいつか必ず帰国する」という言葉と一致していると話した。そこまで言われれば、問い詰める余地などなかった。智央の話が一段落したところで、遥生が口を開こうとしたその時、先に声を上げたのは星乃だった。「投資を断ったのは、私がお願いしたからです。そして、その代わりになる資金は私が必ず確保します」「技術についての不安も一ヶ月以内に必ず、技術更新として形にして見せます」その口調には揺るぎない自信があった。宣言する彼女の姿に、智央は一瞬たじろいだ。だがすぐに鼻で笑う。「……ずいぶん大きなことを言うね。もし、できなかったらどうするつもりだ?」「何ひとつ達成できなければ、自らこの場を去ります」その答えに智央はまたも笑い声を漏らした。何か皮肉のひとつでも言おうとしたが、星乃の真っ直ぐな目を見たとたん、なぜか言葉が喉で詰まった。「じゃあ、それで決まりだな」そう言い捨てるように
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第73話

本来なら彼女と悠真は夫婦だから、招待状は一通で十分なはずだった。ほかの家が宴を開くときも、招待状はいつも悠真宛に一通だけ届く。だが、冬川家の宿敵である白石家だけは、わざとなのか無意識なのか、ほぼ毎回、彼女と悠真にそれぞれ一通ずつ送りつけてくる。彼女はこれまで一度も出席したことがなかった。しかし今回は……星乃は手元の招待状を指先でなぞりながら、深く息を吐いた。どうせ悠真は行かないだろう。だから、彼女にはこの機会をなんとか利用しなければならなかった。たとえ笑われても構わない。どうせ嘲笑されるのは日常茶飯事なのだから。星乃は淡々とUME関連の資料を整理し、資金を引き寄せる準備に取りかかっていた。その最中、冬川グループから電話がかかってきた。相手は一日中出社していないことを問い、入社する意思がまだあるのかどうかを確認した。星乃はその問いでようやく昨日のことを思い出した。悠真が、彼女を冬川グループに入れると言っていたが、途中で話が逸れてしまい、はっきり断るのを忘れていたのだ。彼女は落ち着いた声で、入社を辞退する意思を伝えた。「差し支えなければ、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」人事担当は事務的な口調で尋ねてきた。星乃は静かに答えた。「他の仕事がもう決まっているんです」人事担当はそれ以上深く聞かず、事務的に応じた。「承知しました。それでは、失礼いたします」電話を切った人事担当は、そっと手汗を拭った。視線は手元の入社フォームへ。そこの「希望給与」の欄には、15万円と記載されていた。瑞原市の最低賃金ラインをギリギリ下回らない数字。おそらく、これが冬川グループが提示できる最低ラインだったのだろう。彼女は最初ゼロを一つ書き忘れたのかと思った。だが再確認すると間違いなく「15万円」だった。当時対応していた女性秘書は、淡いグリーンのネイルで、星乃の履歴書の写真をトントンと叩きながら、笑って言った。「この人、誰だかわかる?」人事担当は首を横に振った。「いいえ、知りません」人事部は秘書課ほど情報に敏感ではない。大抵は秘書課や他部署からの指示で動くばかりで、毎日忙しくて噂話を聞く余裕もなかった。女性秘書はそんな人事担当の反応を予想していたのか、意味深に眉を上げて言った。「社長と関係が
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第74話

人事担当は入社書類を机の上に放り投げ、誠司から星乃について尋ねられたため、彼女は先ほどの電話のやり取りを伝えた。社長室では、誠司が人事部からの返答を、ありのままに悠真に報告していた。その話を聞いた悠真は、眉をひそめた。星乃の行動が理解できなかった。長く職場を離れていた彼女が、この厳しい就職状況の中で選べる職場など、どうせ無名の小さな会社に決まっている。二人の関係はさておき、冬川グループの待遇は瑞原市でも群を抜いている。そんな冬川グループを選ばず、わざわざ他の小さな会社に行くなんて、彼女はいったい何を考えているのか。もっとも、彼はそこまで気にしてはいなかった。すでに星乃には、自分の抱える問題に向き合う時間を与えている。今日一日、彼女の姿を見かけなかったのもあり、何気なく尋ねただけで、彼女がどこで何をしていようと、悠真にとってはどうでもいいことだった。悠真はバーキャビネットの前に歩いて行き、グラスに酒を注いだ。「結衣の件はどうなってるんだ?」誠司が答えた。「結衣さんが新しく入社した会社については、すでに買収を完了しています。現在は引き継ぎの手続き中です。また、結衣さんの待遇も引き上げ、年収は1200万円に調整しました」「1200万?」悠真はグラスを軽く揺らしながら、気だるげに言った。「彼女の能力を考えれば、それじゃ安すぎる。新しい会社の株式の三割を、彼女に渡せ」誠司は目を見開き、ためらいがちに言った。「たとえ子会社でも、冬川グループではこれまで社員に株を渡した前例がありません。さすがにこれは……」正直、年収1200万でも充分すぎるほどだ。その額は瑞原市でもトップクラスであり、結衣が海外にいた頃のほぼ倍。いくら彼女が優秀とはいえ、まだ入社したばかりの新人だ。もしこれが社内に知れたら、不満の声が上がるのは避けられない。だが、誠司はそれを口に出せなかった。昨晩、結衣が入社後に軽く嫌味を言われ、少し落ち込んでいたと知った途端、悠真は迷うことなくその会社を丸ごと買収し、彼女を守った。大金を惜しまず、即断で動くこの男にとって、株の三割など取るに足らないのだろう。案の定、悠真は酒をひと口含んで言った。「問題ない。余分な分は俺の持ち株から差し引けばいい」少し間をおいて、ぽつりと続けた。「これは……俺
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第75話

星乃は彼の姿を見て、思わず驚いた。「どうしてここに?」「服を届けに来たんだ」遥生はそう言って、軽く手を上げた。その手には、上品なピンク色のギフトボックスが提げられていた。彼女は一瞬きょとんとした。「これは……?」「明日のチャリティーパーティー用のドレスだよ」そう言いながら、遥生は彼女の手にそっとボックスを渡した。「UMEが冬川グループの出資を断ったのは、僕の判断だ。責任を取るべき人も君一人じゃない」「僕も招待状をもらってる。明日、仕事が終わったら一緒に行こう」その言葉は、まるで日常の何気ない会話のように、穏やかな声で語られた。星乃は彼がどうして自分がチャリティーイベントに行くことを知っているのか、尋ねなかった。彼もまた、彼女の口から資金問題の解決方法を探る必要はなかった。たった一つの視線やひと言で、互いの考えが伝わる――それは、かつて一緒に研究室を立ち上げた頃に築かれた、二人だけの暗黙の了解だった。この数年、悠真は彼女を無視することに慣れ、佳代は自分の意志を平然と押しつけてきた。だからこそ星乃は――喉が渇いたと感じた瞬間に水を差し出されたような、そんな通じ合う感覚を、本当に久しぶりに味わった気がした。胸の奥が、ふっとかすかに震えた。張り詰めていた心が、少しずつほぐれていく。星乃はうなずいた。「……うん、わかった」「でも」ふと疑問が浮かんだ。「……もしかして、そのドレスのためだけに、わざわざ来てくれたの?」遥生が泊まっているホテルは、このあたりからかなり離れているはずだった。「違うよ」遥生は静かに答えた。「正確に言えば、服を届けるのが『ついで』だね」そう言って彼は一歩横に下がり、背後のドアを指し示した。「実は、このマンションに部屋を借りたんだ。これからは、お隣さんだね」星乃は一瞬、聞き間違いかと思った。けれど彼の表情は冗談ではなかった。ようやく事の次第を理解する。「……最近、部屋を借りて内装工事してた『新しい隣人』って……あなたのことだったの?」ちょうどそのとき、エレベーターから男が急ぎ足で現れ、こちらに向かってきた。「遥生さん、駐車スペースの件、手配が完了しました。こちらが契約書です。ご確認ください」そう言って、仲介業者の男は書類を遥生の手に差し出した。星乃はその男性
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第76話

これまでの情報をもとに、彼は頭の中でおおよその筋書きを描いていた。遥生に金があるのは、疑いようもない。なにせ、あの高級車は、自分が十回生きても買えない代物だ。きっと遥生は、どこかの資産家の御曹司なのだろう。一方で、星乃には金がないのも明らかだった。なのに、身につけているものはどれも一流ブランド。つまり、金の鳥かごに閉じ込められた小鳥のような存在だ――彼はそう思い込んでいた。そして今、その「金の鳥かご」から追い出された星乃に、御曹司である遥生がつけ込もうとしている。星乃がこんな場所に住んでいるのは、おそらく本当に金がないからだ。だが、遥生がここに来た理由は明白だ。星乃を追いかけてきたに違いない。仲介業者の男は、嬉しそうに手をこすりながら言った。「遥生さん、こういうの、俺、得意なんです。お力になれますよ」遥生は彼の方を見て、続きを促した。「まずですね、あんな劣悪な部屋に彼女を住まわせちゃダメですよ。なんとかして、もっと広くて良い場所に引っ越しさせるべきです」「……まあ、近いうちに出ていくだろうな」遥生は頬杖をつきながら、少し考えてそう呟いた。仲介業者は興奮して、富裕層向けの物件を何件か提案しようとした。だがその前に遥生が口を開いた。「彼女の実力なら、ここを出ていくのに半年もかからないだろう」「……え?」仲介業者の頭に、クエスチョンマークが浮かぶ。誰の実力?どういう意味だ?まさか彼女にやらせて自分は何もしない気か?遥生は、彼の困惑した表情には目もくれず、淡々と口を開いた。「続けて」仲介業者は、心の中で湧き上がるツッコミを必死にこらえながら、話を続けた。「あとですね、やっぱり告白が大事ですよ。もしかしたら、彼女もあなたのこと、ずっと好きだったのかもしれませんよ?あとはあなたが一言、告白すればそれで決まりって感じに見えます」確かに、遥生はイケメンでスタイルも良く、金もある。まさに非の打ちどころがない。あの日、遥生が不動産の店に現れたときも、女性社員たちはこぞって騒ぎ出し、連絡先を聞きたがっていた。――まあ、自分的にはそんなに特別カッコいいとは思わなかったが。遥生は真剣に考えた末、静かに言った。「それはない」彼にはわかっていた。星乃が誰かを好きになったときの目を、彼は見たことがある。そして今の彼
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第77話

星乃はドアの外で起きていることなど、何も知らなかった。彼女は寝室に戻り、遥生が届けてくれたドレスを試着していた。鮮やかな赤のドレスは目を引くデザインで、かつての彼女が好んで着ていたような大胆なスタイルだった。しかし、冬川家に嫁いでからというもの、佳代はこうした派手な服を好まなかった。何度も不満を口にしていた。篠宮家の嫁はもっとおしとやかで控えめであるべきだと、言っていた。もし昔の彼女なら、そんな言葉を聞き流していただろう。子どもの頃の星乃は、目立つことが好きだった。カーレースもロッククライミングも、スリルのあることが何より楽しかった。何があっても、母親が守ってくれる。篠宮家が後ろ盾になってくれる。そう信じていたから。しかし、母が亡くなった後、彼女の背後には誰もいなくなった。冬川家は自分の居場所ではなかったし、篠宮家もすでに味方ではなくなっていた。だから彼女は、自分を守るために仮面を身に着けるようになった。佳代に好かれるように、服の趣味も変えていった。気づけば、ドレスはどれも地味で無難なものばかりになっていた。その変化を、悠真は冗談交じりによくからかった。センスが本当に平凡だとか、性格も地味だし服の趣味も地味だなんて言いながら。彼女は顔では笑っていたけれど、内心は傷ついていた。そんな彼女が今、久しぶりに鏡の中に鮮やかな自分を見つけた。込み上げてくる感情は、言葉にできないほど複雑だった。体のラインを引き立てるデザイン。真紅の色が、透き通るような肌をいっそう際立たせていた。鏡に映る自分を、星乃はじっと見つめた。そっと手を上げると、鏡の中の自分も同じように手を上げる。同じ場所に重なり、その手が、時を超えて静かに重なっていくかのようだった。……遥生は廊下でしばらく待っていた。やがて部屋の中から物音が聞こえた。ドアがほんの少しだけ開くと、星乃がそっと顔を覗かせた。扉の前に遥生しかいないことを確かめてから、彼女はようやく安堵の息をついた。「どうかした?」と、遥生が眉をひそめる。星乃はバツが悪そうに微笑んだ。「ちょっと、入ってきてくれない?」促されて部屋に入ると、星乃は片手を腰の後ろに回し、もう一方の手を頭の横からぐっと伸ばして、ある一点に届かせようとしていた。「ちょっと助けて。さっき着替えたと
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第78話

ただ、あの仲介業者の言葉には心が少し揺れてしまった。もし、あのとき――もう少し勇気を出して彼女に「好きだ」と伝えていたら。もしかしたら、悠真との結婚はなかったのかもしれない。もし、自分がもっと強く押していたら、あるいは……「どうしたの?そんなにほどくのが難しいの?」ぼんやり考え込んでいたら、星乃が動きを止めた彼に気づき、髪が本格的にファスナーに絡まってしまったのかと思ったらしく、心配そうに振り返った。彼女は振り返り、少し心配そうに言った。「もし本当に無理なら、ハサミで切ってもいいよ」そう言いながらも、この服をもう着られなくなるのかと、どこか惜しそうだった。彼女の言葉で遥生はようやく我に返った。慌てて視線を逸らし、さっきの考えを頭の隅に追いやると、器用にファスナーを直して言った。「大丈夫。もう取れたよ」星乃はほっと息をついた。「よかった……」彼女のあどけなく無防備な笑顔を見て、遥生はさっきの自分の考えに胸が一瞬ドキドキと激しく高鳴った。彼は唇を引き結び、心の中で自分の動揺を責めた。たった数言、他人に言われただけで、自分の立てた計画が揺らぐなんて――星乃が自分を信頼してくれていることは分かっている。でもそこに「愛」はまだない。彼女が本当に自分を好きになるまでは、軽率に動いてはいけない。遥生は気持ちを切り替え、彼女に服のサイズや着心地に問題がないか尋ねた。その質問に星乃はぱっと顔を明るくし、思わず親指を立てて見せた。「ぴったり!すごいね、どうして分かったの?」彼女自身、遥生にサイズを教えた覚えはなかった。遥生は軽く笑って答えた。「沙耶と君、体型が似てるからだ。昔からほとんど変わってないんじゃないのか?」その名前を聞いた途端、星乃の表情がふっと曇った。一瞬、目の奥が揺れた。彼女の脳裏に、思わず水野沙耶(みずの さや)の整った顔がよぎった。最後に会ったのは、海沿いのクルーズ船のデッキだった。潮風に揺れる肩までのショートヘア。髪を耳にかけた沙耶の横顔は、どこまでも凛としていながらも儚げだった。普段は毅然としている彼女が、その時ばかりはひどく色を失っていた。「星乃、ごめんね。もう一緒にはいられないの」そう言いながら、沙耶は彼女の頬を両手で包み込んだ。「私の幸せは、もうどこにもない。
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第79話

智央はどうやら彼女の状況を把握していたようで、説明を最後まで聞いても、一度も視線を上げようとはしなかった。「星乃さん、俺はあくまで上司として指示を出す立場だ。部下がやる気出さなきゃ、強制はできないよ」「みんなが協力してくれないなら、先に人間関係をなんとかするのはお前の役目だ。俺のところに来ても意味ないよ」午前中、まったく進展はなかった。昼前になって、星乃は疲れた表情で休憩室に入った。椅子に腰を下ろすと、自分で水を注ぎ、ぼんやりと考え込む。昨日の一件で、UMEに居続けるのは簡単ではないと薄々感じていたが、ここまでとは思わなかった。どうしたものかと考え込んでいたそのとき、スマホが鳴った。画面を見ると、佳代からの着信だった。しばらくためらった星乃だったが、結局通話ボタンを押した。「夕方、実家に顔を出しなさい。おばあさまが鶏スープを作ったから、少し包んでおいたの。悠真にも届けてちょうだい」いつも通り淡々と用件を伝えた佳代は、すぐに電話を切ろうとした。だが、星乃は以前のようにただ素直に「はい」と従うことはなかった。「行きません」一瞬、佳代の声が止まった。そして厳しい口調で問い返す。「今、なんて言ったの?」「仕事を始めたばかりで、そんなに自由な時間は取れません。ほかの人に頼んでください」星乃は静かに答えた。佳代に仕事のことを隠し通すのは無理だと分かっていた。今言わなくてもいつかは知られる。だからあえて隠すつもりもなかった。「仕事? 」案の定、佳代はその言葉に強く反応した。「誰がそんな恥を晒すようなことを許したの?」他人にとってはごく普通の「仕事」でも、佳代にとっては、星乃が働くこと自体が冬川家の面目を潰す行為だった。佳代は星乃を見下していた。どうせろくな仕事も見つけられないだろうと。彼女の価値観では、「良い仕事」と「普通の仕事」の違いは、冬川家の上層部に居続けられるか、それ以外の職に就くかだけだった。UMEのような有名企業ですら、彼女には取るに足らない存在だった。星乃は佳代の気持ちをわかっていて、争わずに落ち着いて言った。「あなたの息子さんが私の生活費を止めたんです。働かないと、本当に生きていけません」佳代は言葉を失った。悠真が生活費を止めたことは知っていたが、それが今も続いているとは思って
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第80話

「それにね、もう何年も一緒にいるんだから、悠真が強く言われると反発しちゃう性格ってこと、あなたも分かってるでしょ?優しい言葉をかければ、彼だってそんなに冷たく突き放すようなことはしないわよ。生活費だって、そのうち元通りになるはずよ」その言葉を言い終えた直後、星乃のスマホに振込通知の音が鳴った。「30分以内に来ないと、スープが冷めちゃうよ」そう言って電話は切れた。星乃は届いたばかりの2万円を振り込まれた通知を見て、ふっと肩の力を抜いた。佳代はお金持ちで、惜しみなく使う人だ。例えばステーキを食べに行ったときなど、チップだけで4万円を超えることもある。佳代がそれ以上お金を渡さないのは、けっしてケチっているからじゃない。自分の「欲」を育てすぎないためだと、彼女はわかっていた。以前ならきっとこのお金を受け取らなかっただろう。でも今は、これが佳代が渡したお使い代だと思うと、特に気にならなくなっていた。そう思い、星乃は素直にそのお金を受け取った。遥生に一時間だけ休みをもらい、タクシーで冬川家の邸宅へ行った。温かいスープの入った保温ケースを受け取り、そのまま冬川グループ本社へ向かった。受付の女性は星乃の顔を覚えていたらしく、保温ケースを持った彼女に軽い調子で声をかけた。「またまた奥さまのお届け物ですね。でも、久しぶりじゃないですか?」星乃は愛想笑いを浮かべるだけで、何も答えなかった。受付も特に説明を求めず、「いつもの場所でお待ちください」と言い、すぐに他の来客対応に戻っていった。星乃は一階ロビーの臨時休憩スペースの椅子に腰掛けた。待つこと十数分――もう定時を過ぎているのに、受付から何の案内もない。でも、それもいつものことだった。ただ、今日は時間が惜しかった。彼に会うのは諦めて、受付に保温ケースを渡して帰ると立ち上がろうとした、そのちょうどそのとき――エレベーターのドアが開いた。そこから現れたのは結衣と、冬川グループの社員証を下げた女性秘書だった。秘書は深々と頭を下げ、その態度は明らかに「特別扱い」を示していた。結衣の手には、空になったタッパーがぶら下がっていた。休憩中の社員らしき数人が、その様子を見ながらひそひそ声で話している。「結衣さんって本当にやばくない?何回かご飯を届けただけで、社
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