All Chapters of 春とは、巡り逢えぬまま: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

雲頂(うんちょう)プライベート会場で開かれたオークションは、厳重な警備に守られ、きらびやかな照明が場内を照らしていた。璃宛は寒夜の腕に甘えるように寄り添い、オークショニアの説明を聞き終えると、目を輝かせた。「このネックレス、すっごく特別……イギリス王室の特注なんだって!」寒夜は何も言わず、開始価格一億六千万円のそのネックレスを一瞥してうなずいた。「落札しろ」すぐに、付き添いのアシスタントが札を上げる。ハンマーが落ちる前に、彼女の視線はもう次のアイテムに移っていた。「わあ、このエナメルのピアスも可愛い!」寒夜は落ち着いた声で応える。「これもだ」そこから先は、璃宛が少しでも目を留めた品はすべて、寒夜が次々と落札していった。場内の他の参加者たちは、もともと狙っていた品があっても、段野家の人間と競る勇気はなく、特に彼が璃宛の隣に座っているとなればなおさらだった。たった十五分の間に、璃宛が気に入ったネックレス、ピアス、アンティークの花瓶……すべてが彼の手に渡った。璃宛は抑えきれない興奮を感じながらも、表情はあくまで上品に、微笑みを浮かべて周囲の視線に応えていた。けれど、無意識に隣の男性の厳しい横顔を見上げてしまう。その潤んだ瞳で見つめられて、寒夜は本来ならば嬉しいはずだった。だが、なぜか胸の奥に、苛立ちのようなざわめきが消えない。表情を変えず、自然と視線は前方の展示台へ。そこには、真珠のような輝きをたたえた宝石の指輪が、静かにベルベットの箱の中に納まっていた。シンプルなデザインなのに、優雅で芯のある光を放っている。その指輪に、寒夜の心がふと動かされた。彼は手を上げて合図を送り、黒い瞳に静かな光を宿し、淡々と言った。「全品、落とせ」場内はざわめきに包まれる。誰もが信じられなかった。寒夜が本当に、ひとつ残らず全てを買い占めるなんて。自分たちはただの添え物だったのだ。璃宛もまた、目を見開き、呼吸が早くなる。何が起きているのか分からないまま、彼女は今夜の本当の主役になっていた。客席の女性たちが、羨望のまなざしを送り、ささやき合う。「璃宛さんって、本当に幸せ……」「まさか丸ごと会場を買い占めるなんて!」「草薙さん、もうほぼ段野家の若奥様じゃない?あんな男、どこで祈れば出会えるの……うぅ……」璃宛は興
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第12話

「かしこまりました」スタッフは頭を下げて答えながら、思わず感嘆の声を漏らした。「段野様、本当にお目が高いです。今夜一番の逸品、十億円から始まって、最終的に二十億円での落札となりました。デザインのインスピレーションはイタリアの『誓いの愛』という伝説からで、永遠の愛の象徴です。一生に一度、たった一人にしか贈れない指輪なんですよ……」璃宛は胸の奥が熱くなるのを感じて、そっと呟いた。「寒夜、これ、私にくれるの?」寒夜は指輪をそっと仕舞い、少し間を置いてから静かに言った。「結婚式の日は、この手で奥さんに指輪をつける」その場にいた女の子たちは、ほとんどが小さく悲鳴を上げた。「きゃー!段野社長、ロマンチックすぎる!」「二十億円の指輪だよ!?やばい、今夜はこれで夢見られる……まるでおとぎ話……」熱気はどんどん高まっていった。璃宛の視線はずっと寒夜の手の中の箱に釘付けで、絶対に手に入れてみせるという決意がにじんでいた。オークションが終わる頃には、外はすっかり夜も更けていた。璃宛は情熱的に寒夜の手を取ると、甘えるような声で言った。「ねぇ、ちょっと何か食べに行かない?今日は沢山プレゼントを落札してもらったし、私のおごりでどう?」寒夜はふとスマホを下に見下ろした。菫は、まだ返事をくれない。オークションが始まる前から彼女にメッセージを送っていた。トレンドの件は抑えたって。証拠のスクショまで添えて、【これで満足か?】とまで送った。それなのに、うんの一言すら返ってこなかった。過去のやり取りを遡ると、そこには菫が一方的に送ってきたびっしりの報告メッセージばかり。まるで、いつも彼の返事を待っていたみたいに。でも今は、彼が五通も送っても、返事はまるで途絶えたまま……寒夜は眉をひそめ、苛立たしげにスマホを仕舞った。「璃宛、ごめん。今日はちょっと疲れた」璃宛はぱちぱちと瞬きをした。「じゃあ、どこに行きたい?」彼女が問い終わる前に、寒夜はすでに踵を返して駐車場へと歩き出していた。その背中を見つめていた璃宛の笑顔は、徐々に固まっていった。寒夜は歩きながら苛立たしげにネクタイを緩め、振り返ってアシスタントに指示を出した。「璃宛を頼んだ、家まで送ってくれ」アシスタントは一瞬戸惑いを見せた。「では、社長は……」「人を探しに行く」
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第13話

「ありがとう」彼女はかすれた声で、やっとの思いで言葉を紡いだ。「少し、一人にしてもらえますか?ごめん、ちょっとだけ、一人でいたいんです」看護師はすぐに察して、静かに部屋を後にした。扉が閉まるや否や、菫は布団を頭からかぶり、顔を隠す。涙が一粒、また一粒と静かに頬を伝い落ちていく。声を上げて泣くこともなく、ただただ、胸の奥が潰れて血が滲むかのように、静かに涙だけが流れる。携帯がふと、光った。なんとか顔を横に向けて画面を見ると、そこには璃宛からの新しいメッセージが表示されていた。スクロールしていくと、数日前のオークション会場での彼女の写真――華やかなライトの下、寒夜の隣に立ち、手にはいくつもの高価な品を持って、まるで花のように笑っている姿があった。【寒夜のこんな顔、見たことある?二十億円の指輪だよ】その下には、会場が盛り上がる様子や、「結婚式の日は、この手で奥さんに指輪をつける」と寒夜が言う音声が添えられている。次のメッセージは、イタリアの海辺の別荘からだった。白いワンピースを着て、浜辺で水と戯れながらくるくる回る彼女の動画。すぐそばで寒夜が優しい目で彼女を見つめ、夕焼けの中、二人がキスを交わすシーンもあった。【結婚式、来月末に決まったよ。寒夜、全部の予定をキャンセルして新婚旅行に付き合ってくれるって。人の恋路を邪魔する女、ここまで見たら発狂しちゃうでしょ、ハハハ】最新のメッセージは、海辺の別荘で撮ったもの。動画の中には、床に散らばる衣服、甘く苦しい吐息、そして寒夜の熱っぽい声。見慣れた光景、聞き覚えのある声が、一気に菫の記憶を呼び覚ます。血の気が引き、表情は静かで、どこか冷めている。もう何も期待しなければ、傷つくこともない。最後のひとかけらの想いも、子どもと一緒に消えてしまったのだから。菫はスマホの画面を、まるで自分を罰するかのようにじっと見つめ続けた。心が痛まなくなるまで、手が震えなくなるまで、感情が消えるまで、何度も何度も。返信はしなかった。罵倒もしなかった。ただ静かに、彼女をブラックリストに追加した。寒夜が冷酷なのではない。ただ、彼は最初から興味がなかっただけ。興味がないから、どれだけ彼女を傷つけても平気だった。そんな人に期待してしまった自分が、間違いだった。あの時、どん底だった自分を救ったの
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第14話

イタリアの海辺の別荘。黄昏時、オレンジ色の夕陽が海面で砕けて、無数の金色の光線となってきらめく。その眩しさに、寒夜は思わず目を細めた。バルコニーの椅子に座り、グラスを手にしているが、酒には口をつけていない。冷たい風が柔らかな砂浜を撫で、手元の書類をパラパラと音を立てさせる。しかし、彼はそれに気づく様子もない。背後から足音が近づく。女の子がそっと彼の首に腕を回してきた。「ねえ、私が誰だか当ててみて?」寒夜は一瞬戸惑った。これ、昔菫が彼を追いかけていた頃によく使った子供じみたイタズラだった。いつもなら彼は面倒くさそうにその手を払いのけ、「子どもじみてる」と呆れた声で言うのが常だった。振り返って、瞳孔が縮む。そこにいたのは、真っ赤なドレスを纏った少女。笑顔で、瞳が三日月のように細まっている。彼は思わず、手を伸ばして彼女の頬を撫でていた。だが次の瞬間、目の前の少女の顔が変わる。璃宛になったのだ。彼女は嬉しそうに顔を彼の手にすり寄せる。「寒夜、結婚式の招待状、選んできたの。あなたが好きなミニマリスト風で、フランスのデザイナーに特別に急いで作ってもらったの」寒夜の指がピタリと止まる。どうしたというのだ?なぜ璃宛を菫と見間違えた?本当は、あの女は璃宛の代わりでしかないはずなのに……この数日、彼は意図的に菫のことを考えないようにしてきた。璃宛と一緒に、茜色の空の下でキスをし、別荘の柔らかなベッドで肌を重ね、毎日そばにいて、甘やかし、優しくしてきた。それでも、どこかがずれている気がして仕方がない。ついには、今璃宛を菫と見間違えるなんて……自分はどうかしてしまったのか?たかが身代わりなのに。璃宛は彼の心の葛藤など知る由もなく、肩紐を外して色白の肩を見せ、色っぽい目つきで彼の胸に寄り添い、顎を上げて彼の顎をキスしようとする。「璃宛」寒夜は鼻根をつまみ、彼女の肩を押しのけて静かに言った。「こっちに仕事が残ってる。先に休んでて、終わったらそっち行く」璃宛は一瞬不満げな顔をしたが、素直に頷いて去っていった。「わかった、寒夜」寒夜は険しい顔でスマホを取り出し、菫とのチャット画面を開く。やはり、何の返事もない。なんで?心の奥から、突然その三文字が湧き上がる。何十日も抑えてきた感情が、一気に溢れ出した。そうだ
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第15話

寒夜は、頭の中でガンッと何かが響いた気がした。一瞬、目の前が真っ暗になり、手にしていたスマホが床に落ちてバラバラに砕け散る。その瞬間、傍にいたアシスタントの声もピタリと止んだ。溺水した妊婦、菫、流産……その言葉が脳裏をよぎった瞬間、全身がコントロールできないほど震えだす。真っ黒な瞳を携帯の破片に釘付けにしたまま、寒夜は信じられない思いを何度も繰り返した。ありえない……菫が、まさか……あの日のことがフラッシュバックする。彼女が青白い顔で自分を訪ねてきて、声明を出してほしいと懇願したときの、あの必死の表情を。もし彼女が自分の子を身ごもっていたのなら、あの時、彼女はどんな覚悟で自分のもとに来たのか。自分はどう言い放ったのか――「本当に妊娠してても堕ろせ。段野家にはお前のような人間は入れない」晩秋の川が、どれほど冷たかったか。ワイヤーから二度落ちた時の痛みが、どれほど激しかったか。子供が死んだと告げられた時、どれほど絶望したか。生死不明……もうこれ以上、考えたくなかった。心臓が誰かにナイフで突き刺されたように痛み、血が流れ続ける感覚。寒夜は荒く呼吸を繰り返し、過呼吸で頭皮が痺れる。勢いよくソファから立ち上がると、傍らのワインボトルをつかみ、バルコニーの床に叩きつけた。ガシャンと、ガラスが四方に飛び散る。汗が額を伝い、顔を濡らす。視界が何度も暗転する。だめだ……彼女を探しに行かなきゃ。スマホは壊れたまま、寒夜はふらつきながら部屋へ向かう。ちょうどその時、璃宛が正面から現れ、ぶつかりそうになる。喉が何度も上下するが、声は震えてうまく出せない。ようやく彼女の腕をつかみ、かすれた声で一言を言った。「最速で帰国できるチケットを取ってくれ」璃宛はそんな寒夜を見つめる。彼女が今まで見たことのないほど、彼の顔色は蒼白で、眉間には深いシワが刻まれていた。まるで耐え難い苦しみを抱えているように。女の直感が告げていた。きっと菫が関係してる!その目に、一瞬だけ邪悪な光がよぎる。絶対にあの女に自分の婚約を壊させない。何があっても、寒夜は自分のもの。他の女なんかに渡してたまるものか!二日後。飛行機の中で、寒夜はずっと落ち着かない様子だった。璃宛が何度呼びかけても、まるで聞こえていないかのようだ。
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第16話

「あの時、彼女はもう妊娠してたんだよ」璃宛はゆっくりと歩み寄り、どこか哀しげに微笑む。「彼女がワイヤーから落ちた時、もうお腹には一ヶ月の命が宿ってたの」その言葉は雷鳴のように寒夜の脳天を直撃した。彼は拳を握りしめ、指の関節が真っ白になる。あの日々を思い出す。彼女はずっと彼を避け、「疲れた」「体調が悪い」と言っていたのに、彼は冷たい目で見て、彼女の異変をただの演技だと決めつけた。挙句、ワイヤーに吊るよう命じて……あの時、彼女を落としたのは、他でもない、自分自身だ!「じゃあ、お前は彼女が妊娠してると知ってて、ワイヤーを……」「そうよ。仕掛けたのは私よ。どうせいずれバレることだもの」璃宛は驚くほど静かな声でそう告げ、薄く笑った。「外したのは、ほんの二箇所のロックだけ。普通なら落ちない。でも彼女が勝手に耐えられなかったのよ」パァンッ!言葉が終わるや否や、寒夜の平手が璃宛の頬を打った。彼の瞳には血のような赤い光が宿っている。「なぜだ。なぜ彼女を殺した、なぜ俺の子まで!」璃宛は泣き笑いのような顔で言う。「だってあの女はただの身代わりよ?あいつが何なの?なんであなたの子どもまで産む資格があるの?寒夜、私が本物よ。私はあなたの婚約者、あなたの初恋だったじゃない。あの女なんてあなたの母親に金で雇われた身代わりでしかない!悔しい、悔しくてたまらないの!」寒夜は彼女の首を掴み、噛みしめるように、言葉を絞り出す。「お前に、段野家の子に……手をかける資格なんて……」璃宛の顔色はみるみる白くなり、それでも笑い声は大きくなり、涙が溢れ出す。「資格?あの女は身代わりよ!私がいない間、あんたが自分をごまかすためだけにそばに置いた女!もし彼女が私に似てなかったら、一生近づくことすらできなかったはず!もし彼女が本当にあんたの子を産んだら、あんたは彼女と結婚するつもり?身代わりを?あんたにできる?段野家に入れるつもり?!」寒夜は一瞬、呆然とした。海辺に吹き荒れる風は冷たく、骨の髄まで突き刺さる。寒夜の喉仏が上下し、かすれた声で答える。「ああ」そしてもう一度、今度は彼女に、そして自分自身に言い聞かせるように。「俺は、彼女と結婚するよ」その瞬間、ようやく認めるしかなかった。あの強くて、頑なな少女を、自分は本当に愛していたのだと。だ
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第17話

結婚式当日、段野家の屋敷は華やかな宴の会場へと姿を変えていた。真紅のバージンロードが庭園を一面に覆い、招待客がひしめき合い、メディアのカメラがひっきりなしにシャッターを切る。世界同時生中継の準備も万端、現場はまさに豪奢そのもの。クリスタルのアーチから特注のシャンパンタワーまで、どこを見ても段野家の財力と地位が誇示されていた。璃宛はオーダーメイドのウェディングドレスに身を包み、伏せた睫毛が微かに震える。相変わらず、か弱くも美しい姿だった。司会者の声が響き、二人はゆっくりと壇上へ歩み寄る。「それでは、指輪の交換に移ります」会場は歓声と拍手の渦。璃宛はほんのり赤くなった目元で、期待と恥じらいを滲ませて彼を見上げた。あの指輪を、彼が取り出すのを待っていたのだ。あのオークションで二十億円を叩き出して手に入れた、「一生に一人だけに贈る」という伝説の宝石リング。あれは、きっと自分のためだと信じていた。だが、寒夜がスタッフから受け取った指輪ケースを開くと、中身は新しく仕立てられた豪奢なダイヤモンドリング。確かに高価だが、彼女が夢に見ていたあの指輪ではなかった。璃宛の笑みが一瞬、凍る。「寒夜、これ……違う……」蚊の鳴くような声が漏れた。寒夜は何事もなかったかのように、冷静にその指輪を彼女の指に嵌めた。司会の進行にあわせ、二人は抱き合い、キスを交わす。観客席は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。「きゃー!なんてロマンチック!」「段野社長、完璧すぎる男だわ……草薙さんが羨ましい……」璃宛は必死で笑顔を作るが、その瞳には不安の色が滲み出ていた。あのオークションの指輪は、消えてしまった。自分の手にはない。けれども、式さえ終われば自分は堂々たる寒夜の妻だ。名実ともに段野家の奥様になれるのだ。「続きまして、新郎新婦の誓いの言葉です」司会が微笑みながら促す。だが、寒夜の眉間が突然ひそめられ、下を向いた瞬間、その顔が真っ青になっていた。彼の指が激しく震え、息遣いが荒くなっていく。「段野様?」司会が戸惑いの声を上げたその瞬間――「ブッ……」寒夜の口から濃い黒紅の血が噴き出し、純白の誓いのステージを赤黒く染めた。まるで、そこに咲いた異形の花のように。「寒夜!!」鳴門が椅子から飛び上がり、会場は一気に混乱の
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第18話

初めてプラハに降り立った日、菫は飛行機を降りると、事前に探しておいた宿へと向かった。大家は引退した画家で、こぢんまりとした中庭には、彼女の大好きな薔薇が咲き乱れ、籐椅子の上には一匹の茶トラ猫が、のんびりと寝そべっている。風が吹き抜け、かすかに青草の匂いがした。荷物を下ろした時、菫はようやく長い沈黙と痛みから解放されたような気がして、ほっと息をつく。本当は、この旅は自分ひとりで傷を癒すつもりだった。しかし、初めてのシーン撮影の日、彼女はまさかの人物を目にすることになる。撮影用のライトの下、仕立ての良いスーツをまとい、彫りの深い顔立ちで、どこか気だるげな眼差しの男――風間亘(かざまわたる)。菫はその場で固まってしまい、頭が真っ白になった。監督はにこやかに声をかける。「お二人は以前共演したことがあるし、息も合うでしょう?」菫は笑いたかったが、どうしても笑えなかった。なぜなら、彼はかつての天敵だったからだ。かつて菫が女優として頭角を現し、二番手の役で一躍人気になったあの頃。勢いに乗っていた彼女は、亘が若手の俳優を罵倒する現場に出くわした。亘の素性は業界でも謎に包まれ、権力もコネもあると囁かれていたが、菫は怖いもの知らずで彼に立ち向かい、若手をかばった。それ以来、二人が同じ舞台に立つたび、火花が散った。カメラの前では互いに罠を仕掛け、インタビューでは遠回しに相手を刺し、バラエティ番組では足を引っ張り合う。二人の不仲は業界中に知れ渡り、やがてガチの犬猿カップルだとネットで騒がれるほどだった。CPオタクたちは真相も知らずに、二人の抗争ロマンスを妄想しまくり、SNSのトピックは二次創作であふれ返った。だが、ある日大炎上が起きると、標的は菫に向けられた。菫はすべて亘の仕業だと思い込んでいた。業界で一番の天敵だから。しかし、あれだけの大規模なバッシングの中で、彼女をかばう発言を公にしたのは亘ただ一人だった。その時の彼のSNS投稿を、菫は今も覚えている。その後、寒夜の母が現れ、二人の縁はそれきり途絶えた。幾年の時を経て、カメラの前に立つ亘は、記憶よりもさらに冷たく、静かで、凛とした大人の男になっていた。若い頃の尖った感じは消え、完璧に洗練されていた。菫は、あの時自分をかばったせいで彼がどれだけ傷ついたか分かっていた。
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第19話

菫は一瞬きょとんとした。「もう大丈夫よ」けれど、次の瞬間、化粧ポーチを取ろうとしたその手が止まり、顔色がみるみる青ざめていった。亘はその様子をじっと見つめて、静かに歩み寄ると、何も言わずに彼女のバッグを持ち上げ、少し眉をしかめて彼女の腰に視線を落とした。「また嘘ついたね。二回もワイヤーから落ちて、古傷に新しい傷、痛くないわけがない」「どうしてそれを……」「ニュースで偶然……見たんだ」亘は静かに答えた。菫は、少し前に受けたネット炎上のことを思い出し、手も足も冷たくなった気がした。「あんなデタラメ信じないで」亘は何も言わず、ただじっと彼女の顔を見つめていた。菫がふと顔を上げると、その視線にぶつかった。その瞬間、彼の瞳の奥に、長い間抑え込まれていた感情、何年もの想いと心配が、きゅっと詰まっているのが見えた。菫の胸が、かすかに痛んだ。慌てて話題を変える。「どうして、あなたがここに?」「このドラマのテーマが、すごく気に入ってて」菫は心の中で首を傾げた。この男は何年も前に映画賞を取ってから、こういうアート系の脚本にはほとんど出ていなかったはずだ。彼女は笑って、冗談めかして言った。「あなた、嘘つくとき、すぐに二回まばたきするよ」亘は何も言わず、ただ静かに彼女を見て、ほんの少し笑った。そんな目で見られて、菫は自分が余計なことを言ったのだと気づいた。昔、番組で彼の嘘をこの観察力で見抜いて公開処刑したことがあった。でも今は……さすがに、こんな場面で冗談はふさわしくないかもしれない。何か言いかけたその時、亘が不意に口を開いた。「そうだよ、嘘だ。監督からお前のことを聞いて、どうしても会いたくて、飛行機も乗り継いで、別の仕事も断って、ここに来た。お前のために」昔の彼は、強がりで、素直になれなくて、何もかも心の中に隠すタイプだった。菫は、そんな彼の本心が暴かれる瞬間を見るのが好きだった。でも今、目の前の男は、こんなにも真っ直ぐで、こんなにも熱くて、彼女の心をどうしようもなくかき乱す。正直、少しだけ、逃げ出したくなった。彼女の戸惑いを見抜いたのか、亘はまたさっきの落ち着いた表情に戻り、深い瞳で見下ろした。「お前が弱ってる時に付け込むのは嫌だ。菫、俺は誰よりもお前に幸せでいてほしい。今こうして話すのは、ただ……」ふ
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第20話

午後の陽射しが雲間から差し込み、段野家の古い屋敷を静かに満たしていた。広々とした応接間には、針が落ちても聞こえそうなほどの静寂が漂っている。寒夜はソファに座り、少し皺の寄ったシャツ姿のまま動かない。あの日、結婚式で倒れて以来、彼は病院を出てから一度も外に出ていなかった。茶卓の隅には、あの日の指輪がひっそりと転がっている。その輝きはすっかり色褪せていた。彼は二人が描かれた絵を抱きしめ、朝から夜まで、ただじっと座り続けていた。目の焦点は徐々に失われていく。扉の前に立つアシスタントは、何度も喉を鳴らし、ついに意を決して中へと足を踏み入れた。「段野社長、取締役たちは朝から待っています。グループは……もう、本当に持ちこたえられません。中は完全に混乱状態です」寒夜は反応を示さず、ただ低く呟いた。「彼女は見つかったか?情報はもう出したな。菫を見つけた者には、グループの三割の株を与えると」アシスタントは一瞬、彼が正気を失ったのかと疑った。かすれた声で答える。「まだです。調べられるところは全て調べましたが」重苦しい空気が部屋を満たす。次の瞬間、彼は目の前の茶碗を倒した。「出て行け」アシスタントが何か言いかけたその時、ドンと杖の音が響き、寒夜の母がゆっくりと入ってきた。かつての厳しい表情は消え、今はただ疲労と重苦しさだけが滲む。もう、見ていられなかったのだろう。「そこまで自分を壊さないと気が済まないの?」寒夜は答えない。彼女はため息をつき、懐から一通の書類を取り出して机に置いた。深い痛みのこもった声で言う。「これは五年前、私と菫が交わした身代わり契約書だ。あの子は自分からあなたに近づいたんじゃない。私が頼んだのさ、璃宛の代わりをしてくれないかと……大学を出たばかりで、母親の治療費もなくてね。私は十億円で彼女にあなたとの愛情劇を演じさせたんだ」寒夜は驚き、震える手で書類を開く。そこには見覚えのある、彼女の筆跡が並んでいた。寒夜の母は手元の数珠を回しながら、重々しく呟く。「段野家が、あの子に酷いことをしたのよ」寒夜の喉は大きく動き、唇が青ざめていく。彼は、彼女が金と権力目当てで近づいたのだと思い込んでいた。だが、彼女は最初からここに留まるつもりなどなかったのだ。「川に落ちた後、あの子は私に電話してきた。流産した、全部自
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