出張から帰ったばかりの綾瀬凛(あやせりん)は、妊娠検査の結果を握りしめ、クラブの個室に向かった。夫に一刻も早くこの嬉しい知らせを伝えたかった。 ドアを開けようとしたその時、隙間から漏れ聞こえた言葉に足が止まった。「……つまり、悠真、綾瀬と結婚したのは、ほんとうに森田紗良(もりたさら)を守るためだったのか?」 凛の全身の血液が一瞬で凍りつき、その場に立ちすくんだ。黒川悠真(くろかわゆうま)の声は、彼女が今まで聞いたことのないほど冷たく確信に満ちていた。「ああ、あの時の交通事故で、凛の父は彼女をかばって即死だったが、紗良は軽傷で済んだ」「証拠を改ざんし、偽証したおかげで紗良を守れた。さもなければ、飲酒運転の罪で彼女のタレント生命は終わっていた」「綾瀬家に残ったのは凛だけ。彼女は僕に心底惚れ込んでいる。黒川家の奥さんという肩書きを与え、目の届くところに置けば、紗良に手を出す心配もない」誰かが追従した。「すげぇ!マジでやるな!でも、奥さんにバレないか心配じゃないのか?」悠真は低く笑った。「彼女か?黒川家の奥さんとして、僕が与える富と安逸を楽しんでいればそれでいい」「紗良には……肩書き以外の全てを与える」「口が軽い奴は始末する。凛の前で余計なことを喋るな」一言一言がトゲのある蔓のように、凛の身体中に食い込み、激しく引き裂いた。目の前が真っ暗になり、冷たい壁に必死にしがみついてようやく倒れずにいられた。喜びと期待を抱いていた妊娠検査書は、彼女の指の中でぐしゃぐしゃに握りつぶされていた。父さんの葬儀で、悠真は彼女を強く抱きしめ、嗄れた声で言った。「凛、これから僕があなたの家族だ」プロポーズの時、打ち上げ花火に照らされた彼の瞳には、彼女しか映っていないように見えた。「凛、お父さんを轢いたドライバーを必ず法に裁かせる。裁判に勝つ」深夜の帰宅時、冷たい外気に包まれながらもいきなり彼女を抱き締め、顎で彼女の頭を撫でながら呟いた。「凛、会いたかった。あなたを抱いてやっと生きていると実感できる」あの温もり、あの愛、あの「この一生ただ一人」との誓い……彼女が信じていた心の拠り所は、実は犯人を守る砦だった。ポケットの携帯が振動する。「あなた」と表示された画面が、今は痛いほど眩しかった。凛は深く息を吸い、防
Read more