All Chapters of 愛の残り火が消えるとき: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

悦子の容姿は、もともと若葉より際立っていた。清潔感と爽やかさにあふれ、スタイルも申し分ない。外見だけでなく、人との距離感の取り方や立ち居振る舞いに至るまで、すべてが凌の好みに完璧に適っていた。普段から悦子は外部からの評価も高く、凌に対して感情の揺れを見せる時以外は、常に冷静かつ優雅な態度を保っていた。彼女は決して凌の名を使って仕事を取ろうとはせず、ひたすら実力だけで努力を重ね、数年のうちに業界内で一目置かれる存在となった。性格は控えめで誇り高く、凌の前では余計なことを語らない。凌は知っていた。悦子は誰にも頼らず、ただひたむきに努力を続け、いつか自分と肩を並べられる日を夢見ているのだと。どれだけ道のりが険しく、凌との距離が遠く感じられても、彼女は若葉のように無理を言って、コネに頼ることは決してなかった。もし今、目の前に立っているのが悦子だったなら──凌の嫌うような言葉を口にすることなど、決してなかっただろう。そう思った瞬間、凌の顔にいっそう深い疲労の影が差した。自身の選択に疑問を抱きながらも、すべてが果たして報われるのか分からなくなっていく。平静を装い、声の調子を抑えて言った。「初期段階でもう十分に譲歩した。これ以上、俺からは何も言えない。あとは君に任せる」若葉はなおも食い下がろうとした。「凌……」「もういい、少し休ませてくれ」鋭く断ち切るような凌の言葉に、若葉は仕方なく口をつぐみ、静かに身を引いた。凌は疲れ切った様子で、ソファに崩れ落ちるように腰を下ろした。なぜか、今日の若葉はいつにも増して浮ついて見えた。まるで自分を誇示する孔雀のようにけばけばしく、かつて抱いていたイメージとはまるで違っていた。そのとき、凌ははっきりと自覚したのだ。彼が懐かしんでいるのは、若葉ではなく──若き日の自分が命がけで愛した、あの頃の記憶なのだと。時が経てば、彼女への想いは徐々に薄れ、やがては消えてゆくだろう。そのときが来たなら、また家庭に戻ればいい。何より、美々こそが彼の実の娘であり、深見グループは、いずれ彼女の手に託されるべきものだ。そう考えながら、凌はスマホを手に取り、悦子へLINEを送った。──【今週末、隣の市の温泉に家族で行かないか?】やや堅苦しいと感じて、若葉が好みそうな
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第12話

夜になっても、凌は依然として悦子からの返信を受け取れずにいた。自分がこれまで、悦子と美々に与えてきた傷が、一朝一夕で癒えるものではないことは重々承知していた。それでも、まだ時間は残されている──そう信じていた。前日の美々の誕生日を思い出し、仕事帰りに勇太が好きだと言っていた近所の洋菓子店でケーキを買おうと考えた。子どもの好みなど、大差はないだろうと思ったのだ。凌は再び悦子にLINEを送り、【すぐ帰る】と短く打ち込んだ。しかし、地下駐車場に着いた瞬間、取引先の役員から緊急の連絡が入る。巨大プロジェクトに深刻な問題が発生し、至急現地へ飛び、直接指示を下す必要があるというのだ。その影響で、数日間は帰宅できない見込みとなった。凌は通話を終えると、未だ既読のつかない画面を見つめながら、やむなく事情を説明し、【秘書だけ連れて行く】と付け加えた。ハンドルに手をかけ、空港へ向かう準備を進めながら、ふと胸に不安がよぎる。秘書が渡辺であることも一応知らせたが、それでも数分が過ぎても、やはり返信は来なかった。出張中、凌は終始落ち着かず、会議の最中でさえスマホを何度も確認した。チャットは、悦子が最後に送ったメッセージから一切動かないままだった。凌は必死にスケジュールを詰め、一日でも早く帰れるよう全力を尽くした。ようやく駆け足で帰宅した凌を迎えたのは、あまりにも静まり返った空間だった。いつもの温もりある灯りも、キッチンの換気扇の音も、夕食の匂いも、美々が口ずさむ童謡もない。その異様な静寂に、凌の心は深く沈み込む。彼は慌てて美々の子ども部屋へと駆け込んだ。小さな机の上には、ノートと日記帳が開かれたままになっていた。ノートには、先生から出された作文の宿題が残されていた。「ママが遊園地に連れて行ってくれた」「ママが肉じゃがを作ってくれた」「ママがプリンセスシューズを買ってくれた」日記帳には、こう記されていた。「今日は先生に、どうしてパパのことを書かなかったのか聞かれた。どう答えたらいいか分からなかった。だって、おじさんが、私が娘だって言わないよう口止めしてるから」その一文を読んだ瞬間、凌の脳裏に、つい最近の出来事が鮮やかによみがえった。──あの日、彼が帰宅すると、美々が甘えるように寄って
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第13話

凌は、勇太の腕を強く振りほどき、険しい目つきで若葉を睨みつけた。「どうして無断で来た?」若葉は気まずそうに目をそらし、苦笑いを浮かべて言った。「勇太がどうしても会いたいって聞かなくて……」凌が追い返そうとしたその時、勇太の大きな驚き声が遮った。「うわぁ!深見パパの家、大きいね!きれいなお庭!」勇太が歓声を上げながら庭へ走り出ていく。「でも、こんなにきれいな庭なのに、なんでサボテンなんかあるの?」そう言うや否や、庭の隅に置かれていた小さなサボテンを、勢いよく蹴り飛ばした。凌は慌てて止めようとしたが、間に合わなかった。さらに勇太は、花壇のバラの枝を無造作に引きちぎった。「あっ!この花、トゲがあって嫌いだ!」勇太はバラを地面に叩きつけ、何度も踏み躙った。それを見て怒りが湧いた凌は、大声で叱りつけながら勇太を押しのけた。「何をするんだ!」若葉は凌の顔色を察し、慌てて駆け寄り、勇太の頬を平手で叩いた。柔らかな子どもの肌には、たちまち赤い痕が浮かび上がる。「ママ、なんで僕を叩くの……うわぁぁぁん……」勇太は痛みで泣き出し、再び凌にしがみついた。「深見パパ、ママが叩いたよ……痛いよぉ……」これまでは若葉が少しでも厳しくすると、必ず凌が守ってくれたため、今回も同じだと思っていたのだ。そして、若葉も勇太を止めなかった。彼女の本心では勇太を叱りつけるつもりはなく、凌に同情を引こうとしただけだった。だが、今回はいつもと様子が違った。凌はしゃがみ込み、勇太に踏みつけられ無残な姿となったバラの枝を丁寧に拾い上げ、割れた鉢に視線を落とした。口を開いたとき、その声には怒気が滲んでいた。「若葉、すぐに息子を連れて出て行ってくれ」「凌、子どもがしたことだし……今度、花屋で同じものを買ってくるわ」「君は何も分かってない。このサボテンもバラも、娘が大切に育てたものなんだ」若葉は言葉を失った。この業界で、誰かが結婚していれば、多少の事情は自然と伝わるものだ。だが、凌は家庭の存在を一切表に出してこなかった。そのため周囲も、それを暗黙の了解として扱ってきた。若葉もまた、知らないふりを貫いてきたのだ。まさか今日、凌自身が口にするとは思ってもみなかった。「なら……勇太に謝らせるわ。それで
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第14話

凌はわずかに目を伏せ、顔には一切の表情がなく、目の奥も虚ろだった。彼の思考は、あの夜の美々の落胆した顔と、傷ついた小さな手へと遡り、それらは鋭いフックのように彼の胸を深く抉っていた。若葉は、そんな凌の様子に動揺し、胸の奥に不安が広がった。彼女はすがるように凌に抱きつき、必死に言葉を紡ぐ。「凌……私が帰国を決めたとき、最初に連絡したのはあなたよ。私が間違ってた。でも、元夫と結婚して海外に行ったのには、どうしても避けられない事情があったの。当時、彼の子を妊娠していたの。だから、子どもが生まれてすぐ父親がいない状況にはしたくなかったの……でも、海外にいた間もずっと、私の心はあなたでいっぱいだった。本当に、あなたと別れたくなかったの……」話しているうちに、若葉の感情は高ぶり、目から涙が溢れ、凌の服を濡らしていく。そして、彼女はそっと距離をとり、凌の頬を両手で包み込んだ。「愛してるの、凌。お願い……私の元に戻ってきて」しかし凌の顔はますます青ざめていき、彼女を静かに見つめ返したものの、その視線にどこか違和感を覚えた。しばしの沈黙の後、凌はそっと若葉の手を外し、喉を詰まらせながらも、言葉を絞り出した。「若葉……俺は、もう君を愛してないと思う……」そう言い終えた瞬間、凌の意識は一気に冴え渡った。若葉への想いは、まるで大学時代によく通っていた小さな路地裏の喫茶店を、懐かしさだけで美化し続けていたようなものだった。だが、久しぶりに訪れてみると、かつての記憶とは異なり、どこか味気なく感じてしまった。凌は若葉をぐっと押しのけ、数歩後退する。表情は冷たく、視線は遠く沈んでいた。「勇太君を連れて出て行ってくれ。もう話すことはない。もし金銭的な補償が必要なら、後日連絡する」若葉は信じられないといった面持ちで問い返した。「凌、どういう意味?冗談でしょう?こんな些細なことで、……大袈裟よ」凌は苛立ちを見せ、冷然とした口調でその言葉を遮った。「冗談じゃない。俺はもう結婚してる。だから、君と結婚する気はない」若葉は無理に笑みを作り、大らかに振る舞おうとしながら言った。「いいのよ、離婚するまで待つわ。そのあとで、私たちは結婚できるのよね?私は──」だが、凌は一切の情を見せず、冷ややかに言葉を遮った。「
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第15話

凌が幼稚園の門に着くと、園内は閑散としていて、ほとんど人影もなかった。慌てて車を降りた彼は、最後の園児を見送っていた園長のもとへ駆け寄り、息を弾ませながら問いかけた。「すみません、深見美々はいますか?」園長は訝しげに彼を一瞥し、警戒した口調で答えた。「どちら様でしょうか?」「あの子の父親です」「お父様?たしか……美々ちゃんのお父様は事故で亡くなったと伺っていますが。あなたは一体……?」凌は戸惑いながらも、低く抑えた声で説明した。「誤解です。普段仕事が忙しくて、なかなかあの子と過ごせなかったんです。今日は家でずっと悦子と美々の帰りを待っていたのですが、未だに戻らず、心配になってこちらに伺いました」園長は意味深に、温和で上品だがどこか放心した凌を見つめた。──今日になってようやく家に戻ったのか?美々ちゃんの母親は一週間前に退園手続きを済ませたというのに。「お母様にお尋ねください。美々ちゃんは、もうこの園にはいません」悦子たちに会えず、凌は落胆して家に戻った。家に入ると、凌はまるで魂を抜かれたようにソファへ倒れ込んだ。二人と過ごした日々の断片が、火山の噴煙のように脳裏に押し寄せ、心を灼くような熱とともに渦巻いた。悦子たちと連絡が取れぬまま、仕事への意欲も失せ、ただリビングで帰りを待ち続ける時間だけが流れていく。やがて夕暮れが窓を染め、重い足取りで書斎へと向かった凌は、個人メールから悦子に連絡を試みようとした。パソコンを開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、数日前に届いた彼女からのメールだった。件名には、はっきりと──「離婚届」と記されている。その文字を見つめ、凌は呆然とした。激しく鼓動が高鳴り、目元が紅潮した。大きな喪失感が押し寄せ、胸の痛みが息を詰まらせるほどだった。凌は途方に暮れ、ただ画面のシンプルで冷たい文面を見つめ続けた。やがて視界がぼやけ、涙が頬を伝っていることに気づく。手を上げて触ると、すでに涙でいっぱいだった……凌はこの数年、自分の嫌悪を隠さず彼女たちを傷つけてきたことを知っていたが、まさか彼女たちがここまで決然と去るとは思わなかった。──しかし、離婚届には絶対に署名しない。離婚など、認められるはずがない。涙を拭い、表情を引き締めた凌は、悦子の勤務先に連
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第16話

悦子と美々がR国に渡ってから、すでに半月以上が過ぎていた。出国を決意してから実際に旅立つまで、わずか二日という慌ただしさだったため、当初はホテルでの仮住まいを余儀なくされた。美々の通学を最優先に考えた悦子は、郊外の戸建て物件を断念し、市内中心部のマンションに目を向けた。すべての条件を満たす住まいを見つけるのは容易ではなかったが、数日間の内覧を経て、ようやく納得のいく物件に巡り合うことができた。美々の一番好きな遊びはままごとであり、悦子はかわいらしい食品サンプルや様々な家具のミニチュアを購入し、自宅に並べた。新しい友達ができた時に、家に招いて一緒に遊べるようにという母の配慮でもあった。案の定、美々は目を輝かせて喜び、「ママ最高!」と元気いっぱいに叫んだ。この国のインテリアは、母国とはまったく趣が異なっていた。かつて凌が極端なミニマリズムを好み、子ども部屋ですら白一色で無機質な空間だったのに対し、今回は美々自身の好みを尊重し、ピンクを基調とした温かみのある装飾に、大小さまざまなぬいぐるみが所狭しと並ぶ夢のような部屋が完成した。住まいがほぼ整った頃、美々の新しい幼稚園生活も始まった。もともと国際幼稚園に通っていた美々は、言葉や環境の壁を感じることもなく、すぐに友達を作り、毎日をいきいきと過ごしていた。一方で悦子は、十分な貯蓄があることを理解していたものの、何もせずに過ごすことに空虚さを覚え、再び仕事を始めようと心を決めた。国内の上場企業で長年培ってきたプロジェクトマネジメントの実績は現地でも高く評価され、いくつもの企業から面接の誘いが届いた。その中で、新居から徒歩数分、給与も最も好条件の企業を第一候補に選んだ。面接の結果、即日オファーを受けた悦子は他を考慮せず即決した。その日の夕方、悦子は長らく使用していなかった旧型スマートフォンの電源を入れた。出国前に新しい端末を購入し、以来そればかりを使っていたが、旧端末にはR国に拠点を持つ複数のクライアントの情報が残っており、データ移行の必要があった。電源を入れた瞬間、画面に凌からの大量のメッセージ通知が次々と表示され、悦子は愕然とする。【悦子、会いたい。君たちは今どこにいるんだ?】【これまでのことは、すべて俺の責任だ。許してほしい】【若葉とは終わった。
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第17話

悦子は自然と快諾した。彼女にとって、こうした入札案件は手慣れたものであった。しかし翌日、出社すると、凌が周囲から注目されているのを見て、思わず頭を抱えた。「まさかこんな偶然が……」と内心呟きつつも、彼女は公私をはっきりと分けるタイプで、仕事と私情は明確に線引きされていた。そのため、凌と視線が合っても、表情はいつも通り冷静だった。一方、凌は冷静を装う悦子を見て、感激のあまり涙ぐんだ。――本当に悦子だ。通常、こうしたプロジェクトは彼自身が直接関与することはほとんどなかったが、前日にR国の知人から悦子を見かけたとの連絡を受け、すぐに駆けつけたのだった。凌は迷わず悦子の前へと歩み寄り、震える声で手を差し出した。「柳沢さん、ご無沙汰しています」しかし、悦子は礼儀正しくも冷ややかに指先を握ってすぐに離した。「ご無沙汰しております、深見社長」その冷ややかな応対に、凌は隠しきれない落胆を覚え、離れた指先を無意識にさすった。かつての悦子は、彼の一挙手一投足に気を配り、優しい眼差しを絶やさぬ女性だった。だが今、自分を全身全霊で愛してくれていたその人を、自らの手で失ってしまったのだ。胸の奥から込み上げる後悔に打ちひしがれながらも、凌は内心で自らを奮い立たせた。――悦子の長年にわたる想いが、そう簡単に消えるはずがない。必ず、取り戻してみせる。そんな凌の視線の意味に気づいた悦子は、少し呆れたように微笑み、軽く肩を叩いた。「深見社長、オフィスへご案内しますね」「……あ、ああ。そうだね、お願いするよ」まるで夢から覚めたように、凌はやや間の抜けた返事をした。悦子は彼を自分のオフィスへと案内した。室内に入り、互いに腰を下ろした直後、普段は私情を持ち込むことのない凌が、先に口を開いた。「美々は今どうしている?会いたいんだ」悦子は落ち着いた表情のまま、まっすぐに彼の目を見据えた。「深見社長。ほんの数日で、ご自身の信念を変えられたのですか?」「悦子。俺がここに来た理由、分かっているだろ」その声には、焦りと悔しさが滲んでいた。だが悦子は、あくまで淡々と答える。「いいえ。存じませんし、知るつもりもありません。私がこうしてお会いしているのは、仕事上の義務としてです。それ以外に話すことはありません」
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第18話

悦子がふと時計に目をやると、ちょうど退社時間になっていた。彼女は、凌が社長室へ向かう前に待つようにと言われていたことを、すっかり忘れていた。その頃は、美々の下校時間と重なっていた。帰宅途中、美々が甘いものを食べたいと言い出し、近くのカフェに立ち寄ることにした。そこで偶然、大学時代の同級生――安西湊(あんざい みなと)と再会する。湊は当時から温厚で思いやりにあふれた青年で、困っている人を見ると放っておけない性格だった。学生時代、悦子がアルバイトと勉学に追われ、栄養もままならず、体育の授業中に倒れたことがある。その時、真っ先に彼女を支え、保健室まで連れて行ったのが湊だった。悦子が目を覚ました時、そばにいたのも彼だった。あとで聞いた話では、彼が素早く支えてくれたおかげで、大きな怪我をせずに済んだという。その出来事をきっかけに、二人は親しくなり、何でも話し合える関係へと自然に変わっていった。湊は悦子の恋愛相談にものってくれたが、彼女が結婚してからは連絡が途絶えていた。悦子は思わず歩み寄り、声をかける。「……湊君?」湊は目を見開き、懐かしそうに彼女を見つめた。そして美々にも視線を移すと、柔らかく笑った。「うわぁ……久しぶりだね。娘さん、こんなに大きくなって……旦那さんは?」悦子は困ったように微笑んだ。「相変わらずストレートね。あの人とは別れたの」湊は変わらず美しく、むしろ五年前より輝いて見える悦子を見て、思わず懐かしさがこみ上げた。湊は自分の気持ちを隠すように視線を落とすと、目の前のスイーツを袋に詰め、スマホで会計を済ませた。「これは、娘さんへのささやかな再会のプレゼントってことで」悦子はそれを受け取りながら、肩をすくめて笑った。「ねぇ、今日は仕事何時に終わるの?もし時間あるなら、家で夕飯食べていかない?」湊は一瞬目を見開き、悦子をじっと見つめた。「……本当に?実は、君の手料理がずっと恋しかったんだ」言い終えてから、少し間を置いて続けた。「ここ、俺の店なんだ。だからすぐ上がれるよ」湊は裕福な家庭の出身で、大学卒業後に憧れだったR国へ渡り、現在は自身のスイーツショップを経営していた。R国での生活は何もかもが順調だったが、どうしても忘れられなかったのが家庭料理だった。その言
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第19話

悦子がキッチンからエプロン姿で現れると、美々の満ちあふれる期待の瞳を見て、柔らかく微笑んだ。「湊おじさんに、ちゃんとお礼を言いなさい」美々は嬉しそうに跳ね上がり、「ありがとう、湊おじさん!」と元気にお辞儀した。湊はそんな美々の無邪気さに思わず頭を撫でると、優しい口調で答える。「どういたしまして」悦子は久しぶりに見る美々の明るい様子に心を和ませ、今夜の献立は湊に任せることにした。「湊君、今夜は何が食べたい?」湊の目が輝き、大学時代に悦子が作ってくれた懐かしい数品を口にする。「昔よく作ってくれたあの得意料理、覚えてる?」悦子は、「相変わらず食いしん坊ね」と冗談めかして笑いながら、エプロンを外し買い物へ出かけようとする。すると湊がすっと近づき、彼女の首元でエプロンの紐を解き取り、「柳沢シェフ、家で待ってるね」と含み笑いを浮かべた。少し曖昧な言い方に、悦子は苦笑いを浮かべつつ出かけて行った。彼女は知っていた――湊は口では大胆不敵なことを言っても、根はただの陽気なおしゃべりだということを。家には湊と美々だけが残り、彼はソファに美々を抱き上げ、自分が店を始めてからのエピソードを生き生きと語り出した。美々は目を輝かせ、憧れのまなざしで話を聞いていた。しばらくして、突然インターホンが鳴った。湊は怪訝そうに眉をひそめる。「ママがこんなに早く戻るわけないし……忘れ物かな?」そう呟きながら、玄関へ向かった。ドアののぞき穴から見えたのは、凌だった。湊は内心複雑だったが、美々の父親として礼を尽くすべきだと判断し、ドアを開けた。凌が彼を見ると、すぐに眉をひそめた。「お前は誰だ?」礼儀正しく接しようと思っていた湊は、凌の無礼な口調を聞いて、思わず白目を向いた。「俺が誰かって、あんたに関係ないだろ。何の用だ?」凌は鋭い視線で、「どけ、娘に会いに来た」と命令口調で迫った。その慣れ親しんだ声を聞いて、美々はすぐに誰かを察した。でももうおじさんに会いたくないと、テレビのアニメに目を向ける。湊はその様子を横目に見て、美々の気持ちを即座に読み取った。それに凌の乱暴な言い方にも、ますます不快感が募る。「美々ちゃんは会いたくなさそうだし、柳沢さんはあんたが来るのを知ってるのか?無断なら入れない
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第20話

凌は、顔が焼けつくような熱に襲われた。まるで目の前で強烈な一撃を受けたような衝撃だった。それでも、必死に声を振り絞る。「俺はあの子の実の父親だ。美々が、俺に会いたくないはずがない!」声は次第に荒くなり、何かを取り繕うような焦りが滲み出る。「美々はただ怒っているだけだ。頼むから入れてくれ。ただ、あの子の様子を少し見るだけでいいんだ」娘に拒絶される現実を受け入れられず、胸に無形の大きな手で締め付けられるような痛みが走り、呼吸もままならなかった。この瞬間になって初めて、かつて自分が美々に冷たく無関心であったことが、どれほど深い傷を子どもに負わせていたかを痛感した。そう思うと、凌は大声で叫び、部屋で振り返ろうとしない美々に後悔の念が届くことを願った。「美々、パパが悪かった!もう前みたいにはしない!もう一度だけ、チャンスをくれないか?」そう言うと、目の前に立ちはだかる湊を強引に押しのけ、家の中へ踏み込もうとした。「どけ、中に入らせろ!」その姿を見た美々は、かつての優雅さを失い、狂気じみた様子の父を見て震え、思わず小さくすすり泣いた。湊は複雑な表情で、凌の肩を押さえ、無理やりドアの外へと押し返し、扉を開ける前に悦子に電話すべきだったと心から後悔した。「深見凌、少し落ち着いてくれ。柳沢さんが帰ってくるまで待て」そう言うなり、湊は勢いよくドアを「バンッ」と閉めた。湊は外で叩き続けるノックの音を無視し、美々のもとへ駆け寄った。美々を優しく抱きしめ、そっとなだめながら、スマホで悦子に電話をかけた。「悦子、買い物は終わった?すぐ戻ってきてくれ。深見凌が、どこからかここを見つけて押しかけてきた。ずっとドアを叩いてる。美々ちゃんが、かなり怯えてるんだ」その頃、悦子は会計を済ませて帰路についていたが、湊からの連絡を受けて一瞬で表情が冷たくなる。凌がそんなにも非常識に素早くやって来たこと、そしてどうやってマンションに入ったのか全く見当がつかず、憤りを覚えた。悦子は足早に自宅へ向かい、まもなくマンションにたどり着いた。凌はエレベーター音を聞き、悦子が戻ってきたと分かり、エレベーターから出た悦子が反応する間もなく堂々と詰め寄った。「あの男は誰だ?どうして家にいる?俺たちはまだ離婚してないんだぞ。不倫してるって自覚ある
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