「離婚届の準備をお願いします」柳沢悦子(やなぎさわ えつこ)は淡々と弁護士とやり取りを終えると、静かに電話を切った。結婚して五年。別室で寝るようになってから、もう三年が経つ。彼女と深見凌(ふかみ りょう)の夫婦関係はとうに終焉を迎え、もはや続ける理由はなかった。そのとき、不意に小さく柔らかな体が、彼女の膝に飛び込んできた。「ママ、本当にお引っ越ししちゃうの?」甘えるような声で娘が尋ねる。悦子はすぐに答えず、そっと娘を抱き上げ、自分の膝に乗せた。無垢な娘の顔を見つめると、胸の内に複雑な思いが込み上げる。「でもパパ……今日、おじさんが抱っこしてくれたの。私のこと、ちょっとだけ好きになってくれたんじゃない?」娘の切なる期待を込めた眼差しに、悦子は思わず鼻の奥がツンとした。どう説明すればいいのだろう。娘が「親しみ」と受け取ったその仕草は、彼の初恋――葉山若葉(はやま わかば)の突然の帰国によって、一瞬だけ向けられた幻だったのだと。そしてきっと、この先もずっと、娘が求めている「父の愛」を、彼から受け取る日は来ないだろう。悦子には分かっていた。凌の胸にあるのは、自分と娘に向けられた――嫌悪と恨みだけだということを。五年前、若葉は別の男性と結婚し、海外へと渡った。その日から凌は酒に溺れ、心配した悦子はひそかに彼の後をつけていた。だが、予期せぬことに、誰かが彼のグラスに薬を仕込んでいた。悦子は必死に凌を病院へ連れて行こうとしたが、彼は頑なに拒み続けた。「悦子……ホテルへ行こう」荒れた息で、彼は悦子の腕を掴み、強引にその場を後にした。悦子は貧しい家庭に生まれ、深見家の支援で高校を卒業し、大学は奨学金とアルバイトで乗り切った。彼女は優秀な成績で、卒業後一流企業に就職し、凌と出会った。深見家に恩義を感じ、独立心のある凌に心を惹かれたが、経済的な差から下心を持ったことは一度もなかった。彼の一方的な言葉に抗う悦子を無視するかのように、凌はハンドルを奪い、車をホテルへと走らせた。翌朝、凌は前夜のことをすっかり忘れ、悦子が自ら罠を仕掛けて近づいたのだと決めつけた。どれほど説明しても、彼は聞く耳を持たなかった。やがて、責任だけを理由に彼は悦子との結婚を選び、しかしその冷淡さは何ひとつ変わらな
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