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愛の残り火が消えるとき

愛の残り火が消えるとき

By:  こし餡Completed
Language: Japanese
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「離婚届の準備をお願いします」 柳沢悦子は淡々と弁護士とやり取りを終えると、静かに電話を切った。 結婚して五年。別室で寝るようになってから、もう三年が経つ。 彼女と深見凌の夫婦関係はとうに終焉を迎え、もはや続ける理由はなかった。 そのとき、不意に小さく柔らかな体が、彼女の膝に飛び込んできた。 「ママ、本当にお引っ越ししちゃうの?」 甘えるような声で娘が尋ねる。 悦子はすぐに答えず、そっと娘を抱き上げ、自分の膝に乗せた。 無垢な娘の顔を見つめると、胸の内に複雑な思いが込み上げる。 「でもパパ……今日、おじさんが抱っこしてくれたの。私のこと、ちょっとだけ好きになってくれたんじゃない?」 娘の切なる期待を込めた眼差しに、悦子は思わず鼻の奥がツンとした。 どう説明すればいいのだろう。 娘が「親しみ」と受け取ったその仕草は、彼の初恋――葉山若葉の突然の帰国によって、一瞬だけ向けられた幻だったのだと――

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第1話
「離婚届の準備をお願いします」柳沢悦子(やなぎさわ えつこ)は淡々と弁護士とやり取りを終えると、静かに電話を切った。結婚して五年。別室で寝るようになってから、もう三年が経つ。彼女と深見凌(ふかみ りょう)の夫婦関係はとうに終焉を迎え、もはや続ける理由はなかった。そのとき、不意に小さく柔らかな体が、彼女の膝に飛び込んできた。「ママ、本当にお引っ越ししちゃうの?」甘えるような声で娘が尋ねる。悦子はすぐに答えず、そっと娘を抱き上げ、自分の膝に乗せた。無垢な娘の顔を見つめると、胸の内に複雑な思いが込み上げる。「でもパパ……今日、おじさんが抱っこしてくれたの。私のこと、ちょっとだけ好きになってくれたんじゃない?」娘の切なる期待を込めた眼差しに、悦子は思わず鼻の奥がツンとした。どう説明すればいいのだろう。娘が「親しみ」と受け取ったその仕草は、彼の初恋――葉山若葉(はやま わかば)の突然の帰国によって、一瞬だけ向けられた幻だったのだと。そしてきっと、この先もずっと、娘が求めている「父の愛」を、彼から受け取る日は来ないだろう。悦子には分かっていた。凌の胸にあるのは、自分と娘に向けられた――嫌悪と恨みだけだということを。五年前、若葉は別の男性と結婚し、海外へと渡った。その日から凌は酒に溺れ、心配した悦子はひそかに彼の後をつけていた。だが、予期せぬことに、誰かが彼のグラスに薬を仕込んでいた。悦子は必死に凌を病院へ連れて行こうとしたが、彼は頑なに拒み続けた。「悦子……ホテルへ行こう」荒れた息で、彼は悦子の腕を掴み、強引にその場を後にした。悦子は貧しい家庭に生まれ、深見家の支援で高校を卒業し、大学は奨学金とアルバイトで乗り切った。彼女は優秀な成績で、卒業後一流企業に就職し、凌と出会った。深見家に恩義を感じ、独立心のある凌に心を惹かれたが、経済的な差から下心を持ったことは一度もなかった。彼の一方的な言葉に抗う悦子を無視するかのように、凌はハンドルを奪い、車をホテルへと走らせた。翌朝、凌は前夜のことをすっかり忘れ、悦子が自ら罠を仕掛けて近づいたのだと決めつけた。どれほど説明しても、彼は聞く耳を持たなかった。やがて、責任だけを理由に彼は悦子との結婚を選び、しかしその冷淡さは何ひとつ変わらな
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第2話
それから何日が過ぎても、凌は一度たりとも自宅に姿を見せなかった。それでも、美々は幼い心の奥で、わずかな希望を手放せずにいた。だが悦子には分かっていた。凌が変わることは、決してないと。過去がそうであったように――ましてや、若葉が帰国した今となっては、なおさらあり得なかった。だからこそ、悦子は静かに別れの準備を始めた。離婚届を受け取ったその日、彼女は会社に退職願を提出した。ほどなくして、田中(たなか)社長が彼女を社長室に呼び入れ、ドアを静かに閉めると、心配そうに口を開いた。「ヘッドハンティングか?他社はいくら提示してきた?遠慮なく言ってくれ、こちらでなんとかする」悦子はわずかに笑い、首を横に振った。「社長、お金の問題ではありません。娘のために、もっと良い環境で育てたいだけです。人生は短いので、あの子には広い世界を見せてあげたいのです。私のように、閉ざされた場所に縛りつけたくはありません」五年という歳月は、現実を見極めるには十分すぎるほどだった。もはや、凌がいつか振り向いてくれるかもしれない――そんな幻想を、悦子はとうに手放していた。田中社長は険しい表情を浮かべ、声を落として尋ねた。「……夫婦喧嘩か?聞くところによると、美々ちゃんの父親は、深見グループの――」「違います」悦子は即座に遮った。「娘の父親は、交通事故で亡くなりました。だからこそ……あの子の成長を見逃したくないんです」しばしの沈黙のあと、田中社長はゆっくりと頷いた。「……そうか。もし戻ってきたくなったら、君の席はちゃんと取っておくよ」少し間を置いてから、言葉を継いだ。「実はね、この数年、君と深見社長の噂はいくつも耳にした。でも私は信じなかった。あの頃、葉山……いや、もういい」その名前を聞いた瞬間、悦子は思わず苦笑した。皮肉なことに、誰もが知っていた彼の本心を、悦子だけが信じようとせず、無意味な愛にすがりつき、ようやく目を覚ました。疲れのにじむ瞳を瞬かせながら、悦子は気力を振り絞り、退職の手続きを終えた。社長室を出てロビーへと戻ったそのとき――彼女の目に飛び込んできたのは、並んで歩いてくる凌と若葉の姿だった。その瞬間、周囲から小さなささやきが漏れる。「ねぇ、あれって深見グループの深見社長じゃない?隣
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第3話
結婚したばかりの頃、悦子は希望に胸を膨らませ、ただひたすら家庭を築こうと努力していた。彼女は純粋に、努力を重ねれば凌の心もいつか自分と娘に向くと信じて疑わなかった。しかし、月日は容赦なく過ぎ、五年という歳月はあっという間だった。悦子の情熱は、日ごとに深まる冷淡と無視にすり減らされ、彼女の一方的な想いは、むなしく空を切るだけだった。そして今、ついに――その幻想に終止符を打つ時が来たのだ。悦子は会社のロビーに立ち、凌と若葉が連れ立って歩いてくる姿を見つめていた。異様なまでに冷静でいる自分に気づきながらも、内心では苦笑いが込み上げてくる。――かつて深見家の支援を受け、会社で深見グループとの窓口役を務めてきた立場として、辞職を伝えるのが礼儀だろうと一歩を踏み出したそのとき。彼女の目に映ったのは、凌の冷たく突き放すような視線だった。「……どうされました?柳沢さん、何かご要件でも?」その声は低く、冷ややかで、どこか牽制めいた響きを帯びていた。まるで悦子が何か余計なことを口にして、若葉との時間を乱すのではと、警戒しているかのようだった。悦子はぎこちない笑みを浮かべ、言葉を呑み込む。「失礼しました、深見社長。人違いでした」凌は満足げに頷き、若葉の腕を取ると、目を合わせることすらなく、すれ違っていった。法的には、彼の妻であり、美々の母親であるはずの悦子を、凌はまるで関係のない他人のように振る舞っていた。娘と共に家を出ることになっても、一言の報告があって然るべきだが、彼女たちがどこへ行こうと、戻ってこようと、凌にとってはどうでもいいことなのだ。悦子は深く息を吸い込み、冷ややかに笑みを浮かべて気持ちを切り替えると、会社をあとにした。その足で車に乗り、自宅へ戻ると、手際よく荷物をまとめた。時刻を見計らい、いつも通り幼稚園へと美々を迎えに行った。遠くから、おさげ髪が揺れる小さな姿が「ママ!」と元気よく駆け寄ってくる。だが、車内に凌の姿がないことに気づいた途端、美々の笑顔はふっと消え、頬を膨らませて口を尖らせた。「おじさんは?来てないの?誕生日、一緒に過ごしてくれるって約束したのに……また残業?それとも……やっぱり、私の誕生日のこと忘れちゃったの?」悦子は、胸の奥に沈むようなため息をひとつついた。
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第4話
美々は電話の向こうから聞こえる男児の声にしばし戸惑い、恐る恐る問いかけた。「私は美々だけど……あなたは誰?おじさんは?」「僕は勇太(ゆうた)だよ。おじさんって、深見パパのこと?深見パパなら、今キッチンでおかゆを作ってる。出てきたら電話するように言っとくね」「深見パパ?どうしておじさんのことを『パパ』って呼ぶの?」疑念と困惑がにじむ美々の声に、電話の向こうの勇太は明らかに苛立ちを見せた。「深見パパとママが、そう呼べって言ったんだ!用がないなら、切るからね!」「じゃあ、おじさんに美々が電話してたって伝えて――」言い終わらないうちに、プツリと電話は切れた。美々の瞳から輝きがすっと消え、まるで捨てられた子猫のように悦子の腕にすがりつき、微かに震えていた。ほどなくして、凌はSNSに近況を投稿した。そこには、愛らしいハーフの男の子が、おかゆを手に美味しそうにほおばっている写真が投稿されていた。悦子は画面を見つめながら、無意識にいいねを押した。だが、次の瞬間、凌から電話がかかってくる。「悦子、どういうつもりだ?」かすれた声は怒りに満ちていた。「若葉が急な会議で子どもを見る余裕がなくて、俺に助けを求めてきたんだ。SNSで余計なことを書くんじゃない。変な勘繰りをするな。さもないと容赦しない。俺と若葉の立場はわかってるはずだ。お前に、これ以上の期待をする資格はない」悦子の心の奥に、鋭い痛みがじわじわと広がっていった。五年間、凌は未だに彼女を計算高い女だと決めつけ、身分を超えて近づこうとした野心家だと信じ込んでいた。悦子は拳を握りしめ、耐え切れずに皮肉まじりの声を絞り出した。「私が何か言った?『いいね』を押しただけで、そんなに深読みする必要ある?今日はあなたの娘の誕生日よ。おかゆどころか、誕生日の食事の約束すら何度も延期されてきたのに。葉山家ほどの家柄なら、ベビーシッターのひとりくらい雇えるんじゃないの?あなたが……」ここで言葉を飲み込み、後半の辛辣な言葉は呑み込んだ。それでもなお、彼にひどい言葉を投げることができない自分が、情けなかった。美々はいつの間にか涙を流し、悦子の口元をそっと両手で覆って、すすり泣きながら訴えた。「ママ、おじさんとケンカしないで……」凌の声が低く響く。
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第5話
しかし、しばらくするとスマホが鳴り、凌からメッセージが届いた。【まだ美々を寝かせるな。一時間以内に家に着く】泣きはらした美々の瞳に、わずかながらも希望の光が宿る。悦子は迷った末、せめて娘の最後の願いだけでも叶えてやりたくて、スマホを差し出し、静かに告げた。「おじさん、一時間以内に帰ってくるって」美々は一瞬驚いたような表情を浮かべ、ぱっと嬉しそうに笑みをこぼし、凌の遅れを自分自身に言い聞かせるように話し始めた。「きっと勇太君がワガママ言って、ずっとおじさんにくっついて離れなかったんだよ。だから、すぐに帰れなかったんだと思う。たとえ一時間で帰れなくても、待たなきゃ。きっと十二時までには帰ってきてくれる。おじさんは、私のこと少しは気にかけてくれてるもん」そう言って美々は悦子の腕からそっと離れ、小さな足取りで歩き出すと、あらかじめ用意していたティアラを自分の頭に丁寧にのせた。鏡の前に立ち、白いプリンセスドレスの皺を一つひとつ整えながら、振り返って悦子に尋ねる。「ママ、これでいいかな?おじさんがね、『女の子はいつもきれいで清潔にしてなきゃ』って言ってたの」その言葉に、悦子の胸は締めつけられ、込み上げてくる涙を堪えきれそうになかった。凌が帰ってくるたびに、美々はそのわずかな時間を逃すまいと、必死にそばに寄ろうとしていた。幼い心で凌の好みを覚え、どうにか喜んでもらおうと、懸命に努力していたのだ。ある日、悦子が仕事のトラブルで手が離せず、友人に美々の世話を頼んだときのこと。美々はその友人の子どもと庭で楽しく遊んでいた。だがそのとき、凌が急に帰宅した。一見、穏やかで礼儀正しい凌の表情がさっと険しくなり、声は氷のように冷たく鋭かった。「美々、だらしないぞ。女の子らしさがまるでない。すぐ部屋に戻って風呂に入れ。きれいになるまで出てくるな」美々は恐怖に震え、泣きながら部屋へと駆け戻った。友人は事情を察し、悦子にメッセージを送ってから、気まずさを隠すように、そっと家をあとにした。その夜、悦子は美々のためにジンジャープリンを作った。辛みが苦手なはずの美々は、ひとくち口に含んで顔をしかめながらも、凌が辛いものを好むことを思い出し、自らレシピを覚え、帰ってきたときに食べてもらおうと用意した。だが――それから一ヶ月が
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第6話
時刻は、ついに深夜零時を告げた。美々はふと悦子の方へ振り返り、唇をぎゅっと結び、小さな眉をひそめて深いため息をつく。その姿は、まるで一瞬にして大人びたようだった。「おじさん、本当に忙しいんだね。もう帰ってこないんだ」悦子は赤くなった娘の目を見つめながら、無理に平然を装うも、胸は重く痛んだ。凌は忙しいのではなく、父親としての愛情はすべて別の子どもに注がれているのだと、彼女は知っていた。だがその残酷な真実は、美々にはまだ伝えられない。互いに心で理解しながらも、口に出すことは許されない。悦子はそっと歩み寄り、美々の小さな身体をやさしく抱きしめた。「大丈夫よ、美々。ママがずっとそばにいるからね。ちょうど今、新都市の方で花火大会をやってるはずよ。車で連れて行ってあげる」美々は悦子の胸に顔を埋め、涙をこらえながらもかすかに笑みを浮かべた。「うん。ママがいてくれれば、それだけでいい」車内で二人は誕生日のことも、凌の話も一切触れなかった。まるで、さっきまでの悲しみが嘘だったかのように、静かな時間だけが流れていった。車が止まり、悦子は美々の小さな手を引いて園内へと歩き出す。新都市の郊外にあるその広場は、A市で唯一、花火を打ち上げられる場所として知られており、祝日ともなれば大勢の人で賑わっていた。今日は、花火協会の創立記念日ということもあり、希少な種類の花火が多数取り揃えられていた。花火好きの美々は、目を輝かせながら一つひとつを眺め、嬉しそうに選びはじめた。「お嬢ちゃん、気に入ったのあった?どれもいいよ。ママに打ち上げてもらったら、空でパッと咲いてすごく綺麗なんだ」販売員がにこやかに声をかけてきた。美々はこれほど多くの珍しい花火を見たことがなく、目を見開いてはしゃいでいた。そのとき、ふと何かを見つけて目を輝かせ、興奮気味に声を上げた。「ママ、これ!蓮の花の形だ。おじさんの好きな花だよ!」その愛らしい声に、販売員も優しく笑みを浮かべて説明した。「これはね、特別な記念花火なんだ。ここにあるのは、この一本だけ。火をつけると、夜空に大きな蓮の花が咲くんだよ。お嬢ちゃんが気に入ったなら、急がないとすぐ売れちゃうかもね?」美々は期待に満ちた目で、悦子をじっと見上げる。悦子は微笑みながら頷き、買うつもりで
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第7話
凌が自分の呼びかけに応えなかったため、聞こえていないのだと信じ込み、美々は期待に胸をふくらませて駆け寄った。しかし、その高揚は長くは続かなかった。美々が凌のそばまで駆け寄ると、彼は買ったばかりの飴玉を手にしたまま、数歩後ずさり、まるで見知らぬ人でも見るかのように冷ややかな視線を向けた。その目を見た瞬間、美々は凌の袖に伸ばしかけた手をそっと下ろし、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。そのとき、丸々とした男の子が勢いよくぶつかってきて、美々を脇へ押しのけた。「深見パパ、僕が食べたかった飴玉、買ってくれた?」その光景を目の当たりにした悦子は、血の気が引く思いで駆け寄り、美々を支えながら慌てて問いかけた。「美々、痛くなかった?」凌も無意識のうちに一歩踏み出して様子を窺おうとしたが、目の前に若葉の姿を見つけた瞬間、動きを止めた。そして何事もなかったかのように勇太をそっと背後へ庇い、自分のそばに引き寄せる。「……失礼しました、うちの子がわざとしたわけではありません。代わりに謝ります」美々は唇を尖らせ、不満げに悦子の背中に隠れた。悦子が言葉を発する間もなく、若葉が申し訳なさそうな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。「確か……以前お会いしていますよね?柳沢悦子さん。業界でも有名な方だとうかがっております」そう言って、丁寧に会釈をする若葉。「本当に申し訳ありません。これがうちの子、勇太です。まだ幼くて、加減を知らなくて……」そう言いながら勇太を抱き寄せ、しゃがんで目線を合わせた。「勇太、ママからいつも教わってるでしょ?ちゃんと謝りなさい」勇太は不満そうに鼻を鳴らしながらも、渋々と美々に頭を下げた。その時、若葉は悦子の手にある花火に気づき、それが先ほど購入したものであることをすぐに見抜いた。「お子さんと一緒に花火を見にいらしたんですね。向こうにレジャーシートを敷いたんです。人も少なくて広々としてますし、花火にはうってつけの場所です。お菓子やおもちゃもたくさん用意したので、よかったらご一緒にいかがですか?」悦子は反射的に凌の顔を見たが、彼は目を逸らし、何も言わなかった。その様子に、また何か言い過ぎてしまうのを恐れているのだと悟った。ふと、若葉が帰国した日の光景が脳裏を過ぎる。いつも冷静で威厳あ
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第8話
勇太は美々より一歳年上で、体格も力も勝っていた。そして彼は、明らかに故意に美々を強く突き飛ばした。突然のことに、美々は身を守る間もなく倒れ、汚れを避けるように咄嗟に白いドレスの裾を庇いながら手をついた。「美々!」悦子は胸が締めつけられる思いで駆け寄り、震える美々の身体を抱きしめた。そのとき、美々の小さな手が荒れたコンクリートで擦りむけ、赤く血が滲んでいるのを見て、悦子の中に怒りの炎が瞬く間に燃え上がった。「その子は……どうしていつも人を押すのよ!?」怒気を含んだ声で、悦子は勇太を鋭く問い詰めた。一方、凌は美々の傷に気づき、わずかに眉をひそめたものの、すぐに勇太を庇うように口を開いた。「柳沢さん、そんな言い方はやめましょう。何か誤解があるのかもしれません」悦子は、信じられないという面持ちで凌を睨みつけた。背筋を冷たいものが這い上がり、骨の芯まで凍えるような悪寒が走る。まるで体中の血がゆっくりと凍っていくようだった。彼が、実の娘の怪我よりも、他人の子どもを優先するなんて――美々の目は赤く腫れ、今にも涙があふれそうだった。そこへ、若葉が慌てて戻ってきた。再び起きた騒動を察し、申し訳なさそうに笑いながら、勇太の尻を軽く叩いて叱りつける。「勇太、また押したの?すぐ謝りなさい!」だが勇太は、ふてくされた顔で叫んだ。「謝らないよ!あいつが僕のパパを奪おうとしてるんだ!ふざけんな!」その言葉が場の空気を一瞬で凍らせ、息すら詰まるような沈黙が流れる。若葉の表情は一変し、意味深な視線を悦子に向けると、もう謝罪を求めることはせず、話題を変えた。「柳沢さん、お子さんのお父様はご一緒ですか?よろしければ病院までお連れします」悦子の怒りは頂点に達し、もはや気を遣う必要などなかった。凌が築いてきた、薄っぺらな平穏を破壊してやりたい衝動に駆られた。だが、思いがけない言葉が、美々の口から漏れた。「私のパパはもう死んだの。事故で亡くなったの……」悦子は思わず息を呑み、必死に涙をこらえながら強がっている美々を見つめた。その瞬間、悦子の怒りは急速にしぼんでいった。美々は凌をまっすぐに見つめ、無理に明るさを装いながら言った。「おじさん、私とママはもう邪魔しないから、先に帰るね」振り返ると、凌は
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第9話
悦子は迷わず電話を切り、続いて凌の連絡先をブロックし、過去数年の記憶をまるで不要な荷物のように容赦なく切り捨てた。彼女と美々は、もう凌を待つのをやめたのだ。搭乗の案内音が響く中、悦子は美々を抱きかかえ、人波に紛れて静かに機内へと歩を進めた。席に着き、美々のシートベルトを締めたとき、そっと腕を引かれる感触があった。「ママ、もうすぐお日様が出てくるの?」幼い美々の期待に満ちた声に、悦子は優しく微笑み返す。「そうよ、飛行機が飛び立てば、きれいな朝日が見えるわ」やがて、飛行機はゆっくりと離陸し、窓の外では朝焼けの光が雲の切れ間から差し込み、美々の澄んだ瞳に淡く反射した。一方その頃、凌はススマホの画面を食い入るように見つめていた。何度かけても、機械的な音声が繰り返すばかり――「おかけになった番号は、現在使われておりません」葉山家のソファに深く身を沈めたまま、凌は画面から目を離せずにいた。胸の奥に、不気味な空虚が静かに広がっていく。大切な何かが、自分の手の届かない場所へとすり抜けていくような感覚に襲われていた。昨日、自分が勇太を庇いすぎたことで、美々の心を踏みにじった――その事実は、痛いほど自覚していた。勇太は元来、我が強く、感情のコントロールも難しい。それに対して、美々は常に物静かで、彼の手を煩わせることなどほとんどなかった。あのとき彼が勇太に味方したのは、単に場を収めたかったからで、決して深い理由があったわけではない。それでも、何度も見捨てられてきた娘の存在を思うと、胸の奥にじわりと罪悪感が滲み出すのだった。「深見パパ、お絵本読んで!」無邪気に跳ねながら近づいてきた勇太の声が、凌の思考を現実へと引き戻す。「……ああ、いいよ」凌は無理に微笑みながら、手を引かれるまま寝室へ入っていった。ベッドに横たわる勇太に絵本を読み聞かせながら、ふと気づく。――そういえば、自分は一度も美々に絵本を読んだことがない。あの子は、眠るときも静かで、甘えたことなど一度もなかったのだろうか。やがて勇太が寝息を立て始めたのを見届け、凌は突然、出社前に一度帰宅しようと考えた。そっと寝室を抜け出し、リビングでカバンを手に取ろうとした――そのとき。「凌」背後から不意に呼び止められ、彼の動きが止まった
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第10話
若葉が言及したそのプロジェクトは、もともと悦子の会社に委託されるはずだった。だが、若葉は一刻も早く成果を出し、葉山家に自らの実力を誇示しようと焦るあまり、凌に強引な働きかけを続けた。結果として、凌はその圧に屈し、急遽契約の白紙撤回を決断する。さらに彼は、若葉に有利となるよう配当比率まで調整し、そのプロジェクトを葉山家側に譲渡したのだった。それは、彼が経営者として積み重ねてきたキャリアの中で、かつてない大きな譲歩だった。当然ながら、悦子と凌の間には激しい衝突が生じた。「このプロジェクトに関しては、業界でうち以上に専門性の高いチームはないわ。葉山さんの素人集団に、一体何ができるっていうの?凌、お願いだから目を覚まして!いくらあなたが私情に流されても、グループ全体の利益を犠牲にすべきじゃないわ!」そのとき、悦子は初めて凌に対して怒りをあらわにした。だが、凌は容赦なく言い放った。「悦子、お前に俺の決定を覆す権利はない。確かに、お前たちはプロかもしれない。だが若葉が望むなら、誰も俺を止めることはできない!最悪、損失を出したら金で解決すればいい。深見家には金なんていくらでもあるからな!それに、お前だってかつては、金さえあれば何でも手に入ると思って、俺を踏み台にしてきたんじゃないのか?残念だったな。俺と結婚しても、公私混同はしない。今さら後悔しても遅いんだよ!」だが、今となっては、悦子の言う通りだと凌も認めざるを得なかった。プロジェクトが葉山家の手に渡ってからというもの、社内では不満の声が噴出していた。部下たちは、品質の低さと資金の不透明な使途に疑念を抱き、作業は難航していた。「凌、くれぐれも部下には厳しく言わないでね。多少は目をつぶって、あまり細かく言わないでほしいの」若葉は媚びるような態度でそう言った。凌は重いまぶたを上げて若葉をじっと見つめ、失望の色を隠せないでいた。「このプロジェクトは、入札時点で品質重視と明言されていた。仕事は遊びじゃない。君たちの『そこそこ』は、俺たちの基準とはまるで違う。品質は、最優先事項だ。誰がやっても同じではない」その鋭い眼差しに、若葉は明らかに動揺し、慌てて声の調子を和らげた。「ごめんなさい、凌……私がちゃんと注意するわ」凌の表情がわずかに緩んだ
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