All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 711 - Chapter 720

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第711話

瑞希と麻祐子が買い物から戻ると、お手伝いさんが玄関口で何か言いたげに、おろおろと立ち尽くしていた。嫌な予感が背筋を走った。「また、あの女が来てるの?」瑞希が険しい顔で聞いた。お手伝いさんは無言でこくりとうなずいた。麻祐子が母親を見た。「お母さん、もう無理よ、追い出すしかないわ。あんな疫病神のせいで、会社も家もめちゃくちゃにされて……このままじゃ、渡辺家が本当に終わっちゃう」実家に居座りさえすれば、贅沢な生活には困らないと高を括っていたのだ。なのにこの数ヶ月、家族カードは止められ、新しい服も鞄も何ひとつ買えていない。瑞希も同じだった。ここ数ヶ月はずっと、自分名義のわずかな蓄えを取り崩してどうにか体裁を保っている有様だった。息子さえ無事なら、毎月会社からの莫大な配当が口座に振り込まれていたはずなのに。二人は重い足取りで家の中に入り、リビングに目を向けた。大理石の床に、女物のハイヒールと男物の革靴が乱雑に脱ぎ捨てられ、上着とネクタイが無造作に放り出されている。そして奥のソファでは、千尋と見知らぬ若い男が、情欲に塗れ、生々しく絡み合っていた。瑞希の血圧が一気に跳ね上がった。以前千尋が男を連れ込んだときは、せめて鍵のかかる自室の中だった。それが今度は、家族がくつろぐリビングで堂々と……息子には前々から忠告していたのだ。千尋は底意地の悪い、品のない女だと。それなのに息子は母の言葉を信じず、あんな毒婦を連れ帰ってしまった。こうなってしまったのも、すべては家の不幸だ。「もういい加減にしなさい!ここは渡辺の由緒ある家よ。夫がまだ存命だというのに、この神聖な家で何という破廉恥な真似を!」千尋は彼氏の肩にもたれたまま優雅に脚を組み、ゆっくりとタバコに火をつけた。まるでこの家の主であるかのように、平然と言い放つ。「嫌なら、あなたたちが出ていけばいいじゃない」瑞希の顔が怒りで真っ赤に染まった。「ここは私たちの家よ!どうして家主である私たちが出て行かなきゃならないのよ。出ていくのは居候のあなたでしょ!」千尋はにっこりと、ひどく冷たい笑みを浮かべた。「ふーん、ご存じなかったかしら。先日、会社の資金繰りのために、この家を担保に入れたのよ。私が毎月のローンを払い続けなければ、この家はあっという間に銀行に差し押さえられるわよ」
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第712話

千尋は鼻で笑った。「いいわよ、いくらでも待ってやるわ。あの男が出てくる頃には、渡辺グループはとっくに影も形もなくなってるわ。何を使って私に仕返しするつもり?この家だって、いずれ銀行が回収しに来る。みじめに追い出される日を楽しみにしていなさい」それだけ言い捨てると、千尋は彼氏の手を取って立ち上がった。「行きましょ。こんな忌まわしい場所に長居するのも嫌だわ」彼氏は何も言わず、素直に彼女についていった。麻祐子は、家が差し押さえられるかもしれないという残酷な現実に顔を蒼白にさせ、震える手で瑞希にすがりついた。「お母さん、どうすればいいの?私たち名義の資産は全部あの女に担保に入れられちゃってるし、ここを追い出されたら、私たちはどこへ行けばいいの」渡辺グループの危機が表面化したとき、瑞希と麻祐子は会社を守るため、自分たち名義の資産をすべて担保に入れて資金繰りに充てていたのだ。千尋が本気で手を引けば、大桐市で二人の行き場は完全に失われる。すべてを失うかもしれないという恐怖が波のように押し寄せてきた途端、瑞希は激しいめまいに襲われ、その場に崩れ落ちた。……一方、大桐市内の高級ホテルの一室では、純白のドレスに身を包んだ美羽が、晴れやかな笑顔で親友たちと言葉を交わしていた。あれほど「私は絶対に結婚なんてしない」と啖呵を切っていた、あの仕事一筋で頭の切れる女が、まさかこんなにも幸せそうな結婚の日を迎えるとは――智美は今でも、少し信じられないような気持ちでいた。祥衣は感極まった様子で、少し涙ぐみながら美羽を見た。「この子は、初めての恋愛でそのまま結婚しちゃうんだから、絶対に調子に乗ったらダメよ。恋愛にのぼせ上がって、旦那に骨の髄まで飼いならされないように、常に冷静さを保つこと。いい?」初恋というのは、往々にして視野を狭くさせる。物事を冷静に判断できなくなるものだ。自分自身の痛い経験からそう思うからこそ、祥衣は美羽にも同じ轍を踏んでほしくなかった。美羽は明るく笑った。「わかってる。自分のことは自分でちゃんと守るわ。もし旦那が私に意地悪したら、そのまま泣き寝入りするわけないじゃない。忘れないで。私はドロドロの離婚案件を何件も手がけてきた敏腕弁護士よ。絶対に損はしないわ」祥衣は呆れたように笑いながらうなずいた。智美は美羽の美しいベールを整え
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第713話

式が始まり、智美と悠人は席に並んで腰を下ろした。智美が感極まった様子で目を潤ませているのを見て、悠人はそっと耳打ちした。「自分たちの結婚式のときには泣かなかったのに、今日はそんなに感動しているの?」智美は目尻を指先でそっと拭いながら、やわらかく微笑んだ。「あなたにはわからないでしょうけど……仲のいい親友が幸せになる姿を見るのは、本当に嬉しいのよ」人の気持ちは、経験を重ねるごとに少しずつ変わっていくものだ。結婚する前の彼女は、「結婚」という制度そのものに大した意味を感じていなかった。自分ひとりでも、十分に生きていけると思っていたからだ。しかし、良い伴侶に恵まれ、穏やかな結婚生活で幸せを手にした今は、周りの大切な人たちにも同じような幸せを感じてほしいと、心から思うようになっていた。式が無事に終わり、智美と悠人が席を立ってホテルを出ようとした、そのときだった。突然、下腹部にじわりと重く鈍い痛みが走った。みるみるうちに顔から血の気が引いていく智美に気づき、悠人は咄嗟に彼女の腰を支え、自分のほうへと強く引き寄せた。「智美、どうした」波のように断続的に押し寄せてくる重い痛みに、智美の呼吸が荒くなった。「お腹が……痛い……っ!」悠人の胸が、ぎゅっと締め付けられた。間髪入れず彼女を横抱きに抱き上げ、早足でホテルの外へと向かった。竜也と祥衣もただならぬ様子に気づいて駆け寄り、祥衣は竜也の背中を強く押した。「早く車を出して!病院へ連れていってあげて。私はあとからタクシーで追いかけるから」お腹の大きな祥衣をひとりに残すことを竜也は心配したが、祥衣は力強く言った。「大丈夫、私は平気だから。早く行って!」竜也は一度だけ振り返り、それから弾かれたように駆け出した。悠人は智美を抱えたまま、地下駐車場へと急いだ。すぐに追いついた竜也が「鍵を貸して、俺が運転する」と叫ぶと、悠人は迷わずスマートキーを投げ渡した。後部座席に乗り込み、智美を抱え込んだまま扉を閉める。竜也が乱暴にエンジンをかけ、アクセルを深く踏み込んだ。車はタイヤを鳴らし、病院へ向けて飛び出した。智美は激しい痛みで、額にびっしりと汗を浮かべていた。悠人の手のひらをすがるようにぎゅっと握りしめ、震える声で問いかけた。「赤ちゃん……大丈夫よね?」悠人はティッシュで彼女の額
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第714話

智美は医師の手を強く握りしめ、かすれきった声で尋ねた。「無痛分娩に……できますか……?」「もちろんです」と医師は優しく答え、手早く同意書にサインさせると、すぐさま処置の準備を進めた。うつ伏せになるよう指示され、麻酔科医が背後に立った。太い針が背中の皮膚を突き破った瞬間、智美は声を飲み込み、歯を食いしばって痛みに耐えた。これほど苦しいものだとは、想像すらしていなかった。もう二度と、絶対にごめんだ――意識が遠のく中で、心の底からそう思った。やがて麻酔がじんわりと効き始め、鋭かった痛みが引く潮のように遠ざかっていった。分娩室へ移り、女性医師に力の入れ方を教わった。最初はうまくコツが掴めなかったが、少しずつ体が感覚を覚えていった。そこからさらに四、五時間が過ぎた頃、部屋中に力強い産声が響き渡った。女性医師が血や羊水に塗れた赤ちゃんを抱き上げ、沐浴させるために看護師へ手渡した。無痛処置のおかげで激しい痛みは薄れており、智美の胸を占めていたのは、自分が命がけで産んだ子どもの顔をいち早く見たいという、静かな、けれど熱烈な好奇心だった。やがて看護師が、真っ白なバスタオルに包まれた赤ちゃんを連れてきて、傍らの小さなベッドに寝かせながら、にこやかに言った。「とても可愛い女の子ですよ」ふかふかのタオルに包まれた安心感からか、赤ちゃんは泣き止み、大きな黒い瞳でまわりをきょろきょろと不思議そうに眺めていた。智美の胸の奥で、何かが温かく、柔らかくほどけていくのを感じた。そして同時に、なんとも言葉にしがたい不思議な感情が湧き上がってきた――自分が本当に、一人の人間の「母親」になったのだ。この小さな、か弱い命は、自分と血を分けた存在なのだ。いくら見つめていても見足りないような気がして、智美はただひたすらに、愛おしい娘の顔を見つめ続けた。病室の外では、永遠にも思えるような長い時間が過ぎていた。ようやく看護師が智美と赤ちゃんを乗せたベッドを押して出てきたとき、悠人は強張っていた体から、張り詰めた緊張がすっと抜けた。強く握りしめすぎて白くなっていた両手が、ゆっくりと開いた。智美のそばに駆け寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。「大丈夫か?」智美は小さくうなずき、少し疲れた、けれど幸福そうな声で小さなベッドのほうへ目を向けた。「私たちの娘を見て
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第715話

翌日、明日香が、経験豊富な産褥シッター二人と専属の栄養士二人を引き連れ、プライベートジェットで大桐市に降り立った。もちろん、滋養強壮に効く高級食材も山ほど持参して。人数が多すぎて、産後ケア施設のスイートルームですら手狭になってしまった。明日香はすぐさま近くの高級一軒家を手配し、生活環境を整えさせてから、智美と赤ちゃんをそちらへ移した。なんといっても、孫二人の育児を乗り越えてきた歴戦の明日香である。手際よく、悠人や智美が口を挟む間も、手を出す暇もなく、すべてを完璧に取り仕切ってしまった。産後の一ヶ月間、智美は育児の心配を何ひとつしなくてよかった。シッター二人は経験豊富なベテランで、そこに明日香も加わり、赤ちゃんが少しでも泣き出せば、瞬時に誰かが抱き上げてあやしてくれた。智美はできれば母乳で育てたかったのだが、明日香に笑いながら止められた。「授乳は後が大変なのよ。やめるときが辛いし、胸が張ったら何時間も熱を持って苦しいわよ。粉ミルクにしなさい。美穂だって授乳しなかったけど、拓真も謙太もあんなに元気でしょ。うちで手配する粉ミルクは市販じゃ手に入らない特別な品質のものだから、栄養面はまったく心配しないで」悠人もその意見に深く納得した様子でうなずいており、智美はそれ以上主張できなかった。栄養士が組んでくれた産後食は栄養バランスが完璧で、一ヶ月間ベッドで過ごしてもほとんど体重の変化はなく、むしろ顔色は産前よりも明るく血色がよくなっていた。月が明けると、明日香はさらに産後回復を専門とする名医を二人呼び寄せ、智美の体のケアも万全に整えさせた。産後の一ヶ月をゆったりと過ごし終えると、智美と悠人は愛しい娘を連れて、羽弥市へと戻った。美羽の挙式はその後、旦那さんの故郷で盛大に行われることになっていたが、智美も祥衣も出席できなかった。智美が出産してから半月も経たないうちに、祥衣も病院で無事に出産したからだ。元気な男の子だった。美羽はラインで、少し寂しそうにしみじみと送ってきた。【式を挙げた時期が重なっちゃって残念だったけど、ふたりとも、ママになって本当におめでとう】祥衣は竜也にオムツ交換の細かい指示を出しながら、のんびりと返信した。【(笑)、大桐市のほうでの式にはちゃんと出席したんだから、たっぷりお祝いしたでしょ。美羽
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第716話

智美の体型をとやかく言えないとわかると、今度は「地位を固めるために子どもを産んだのだ」と陰口を叩く女たちも現れた。何しろ、智美が悠人と結婚してからそれほど日も経っていない。こんなに早く子どもを産んだとなれば、周囲が勝手な憶測を立てるのも仕方のないことだった。だが、そんな野次馬たちの声は、あっという間にかき消されてしまう。ひとたび赤ん坊の泣き声が響きわたった瞬間、宴席にいた全員の視線が吸い寄せられるようにそちらへ向かった。ベビーカーの周りには四人のベビーシッターが付き添っていた。泣き声を耳にするや、一人がすぐに赤ちゃんを抱き上げ、懸命にあやし始める。それでも赤ちゃんはなかなか泣き止もうとしない。智美が駆け寄ろうと腰を浮かせた、まさにその瞬間、悠人がすでに一歩先を越していた。名家の子息らしい端正で優雅な佇まいでありながら、赤ちゃんを抱く手つきはすっかり手慣れたもので、あやす声もどこまでも穏やかだった。日頃から進んで育児を担っているのだと、一目見れば誰もが理解した。先ほどまで泣き止まなかった小さな愛娘は、悠人にそっとあやされるうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。やがておとなしく彼の腕の中に収まり、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳でじっと父親を見上げた。その無垢な眼差しに、悠人の表情がじんわりとほぐれていく。頭を傾けて娘の額にそっと唇を寄せると、愛おしそうに呼びかけた。「よしよし、いい子だ」娘の岡田詩乃(おかだ しの)がようやく泣き止んだのを見届けて、智美も安堵の吐息を漏らした。抱っこを代わろうかと腰を上げかけた矢先、明日香がそっと智美の手を引き、微笑みながら言った。「悠人に任せておけばいいのよ。さあ、あなたは今のうちに少し召し上がれ」その言葉の奥に滲む慈しみは、その場にいた誰の目にもはっきりと伝わった。宴席に集まった奥様方は、いずれも世慣れた方々ばかりだ。この一幕を目にするなり、岡田家における智美の立場がいかに揺るぎないものかを、即座に察していた。もし智美が軽んじられる存在であれば、こんな席でゆったりと食事を楽しむなど許されるはずもない。赤ちゃんの傍らに立ち、ひたすら世話をし続けるのが精一杯のはずだ。それまで智美を侮っていた奥様方も、この瞬間、一様に見る目が変わった。中には声を潜めて娘に耳打ちする方もいた。
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第717話

梨沙子は、自分が惨めだとは微塵も思っていなかった。以前のようなブランドバッグは買えなくなったけれど、生活は十分に充実していたし、何より自分で稼いだお金を使うという確かな誇らしさがあった。世間の厳しさに身を置くうちに、梨沙子はずいぶんと変わった。自分の意見をしっかり持てるようになったし、物事の受け止め方も以前とはまるで違う。実の母の嘲りを前にしても、梨沙子は動じなかった。「佐倉さん、私のことはご心配なく。今のほうがずっと満たされていますから。名家の奥様なんて暮らし、今は少しも未練はありません」あの家の駒として使われる日々には、もう二度と戻りたくなかった。「佐倉さん」と呼ばれた瞬間、史子は怒りで顔を強張らせた。この薄情な娘め。史子がさらに言い返そうとした、そのとき。少し離れたところに目をやると、崇樹がじっと梨沙子を見つめているのが目に入った。――変だわ。最近、崇樹が梨沙子にアプローチしているという噂は、あちこちで耳にしていた。離婚歴があって、たいした取り柄もない娘のことを、あの深田崇樹が本気で相手にするはずがない。どうせ暇つぶしに決まっているとそう甘く見ていたのだが、噂はいつまで経っても消えなかった。そして今、崇樹が梨沙子を見る目を目の当たりにして、認めたくはないけれど、史子にもわかってしまった。あの男は本気だ、と。もっとも、深田家が梨沙子を受け入れるかどうかは別の話だが。史子は胸の内で悪態をついた。仕事ごっこに現を抜かす暇があるなら、崇樹を落として深田家に嫁いでしまえばいいのに。そうなれば、佐倉家も梨沙子を認めてやる気になるというものを。この頑固な娘ときたら、何が大事かもわかっていない。まあいい。どうあれ自分の娘なのだから、機会を見てまた話してみよう。史子はそう自分を納得させた。もちろん、梨沙子がそんな話に耳を貸すつもりなど、毛頭なかったのだが。……詩乃が一歳の誕生日を迎えた頃、智美と梨沙子は羽弥市に八店舗目の支店を出した。香代子との芸能事務所のほうも、所属アーティストが十人を数えるまでになっていた。そのうち新人の二人がバラエティ番組で少し注目を集め、じわじわと知名度が上がり、バラエティや連続ドラマの脇役のオファーが舞い込むようになった。香代子は自らのコンサートに向けた準備にも着手し、有望な新人を
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第718話

智美はくすっと笑った。「ええ、詩乃が好きなことを、思い切りやらせてあげたいと思っています」子どもを自分たちの都合で急き立てるつもりは、少しもなかった。自分がピアノを始めたのは、半分は純粋に好きだったから。でも残りの半分は、彩乃に強要されたからだった。十歳のとき、彩乃は誰かと張り合って、二年以内にピアノの検定で最高グレードを取るよう命じてきた。当時の智美はそれに反発し、もうピアノなんてやりたくないと思い詰めた。そのせいで、こっぴどく叱られたこともある。あの頃の傷ついた気持ちは、今も鮮明に残っている。母と同じ育て方を、詩乃にはしたくなかった。この子には、もっと自由に。もっと伸び伸びと育ってほしい。自分が歩んだ息苦しい子ども時代を、詩乃に繰り返させるつもりはなかった。一方で悠人も、相変わらず多忙な日々を送っていた。岡田グループの海外事業部で権力争いが勃発し、この半年ほどで手痛い不祥事が続いてしまったのだ。その後始末に追われ、悠人は出張続きの毎日だった。二人が顔を合わせる機会は、めっきり減った。それでも悠人は、出張中も欠かさず、智美が眠りにつく前にビデオ通話をかけてきた。智美も少しずつ、離れている時間に慣れていった。そのことを聞いた祥衣は、少し納得がいかない様子だった。ラインで智美にこう送ってきた。【詩乃もまだ小さいのに、二人ともそんなに忙しくて、すれ違いが続いたら、夫婦関係に亀裂が入ったりしない?】竜也とほとんど四六時中一緒にいる祥衣には、智美と悠人の距離感がどうにも理解できなかった。智美は返信した。【私たち、二人とも仕事が好きだし、べったり一緒じゃないと寂しいタイプでもないから、今のところ大丈夫。全然問題ないよ】悠人のことが恋しくないといえば、嘘になる。でもだからといって、仕事を投げ打って海外の悠人に同行するかといえば、そんな気にはなれなかった。祥衣はそれを読んで、素直に感心したように返した。【私には無理だわ。竜也が子供連れて三日以上実家に帰ったら、もう機嫌が悪くなる自信ある】祥衣には、傍にいてくれることと、情緒的な心の通い合いが欠かせなかった。今ならよくわかる。自分の性格には、同じように仕事一筋のタイプは向かない。家族を一番に考えてくれる竜也みたいな人だからこそ、うまくいくのだ。智美は微笑んで返信した
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第719話

そこへ拓真と謙太が飛び込んできて、詩乃を遊びに誘い出した。従兄たちに声をかけられると、詩乃はころりと機嫌を直した。二人の手をしっかりと握り、満面の笑みを浮かべて部屋を出ていく。その愛らしい後ろ姿を見送るうちに、智美の胸をよぎっていた一抹の寂しさも、すうっと溶けていった。これほど温かな家族がそばで見守ってくれているのだから、詩乃のことは何も案ずる必要はない。その後、智美は香代子とともに洋城や海知市など各地を巡り、全十一公演に及ぶコンサートツアーを見事に完走した。香代子にとっても、デビュー以来これほどの過密スケジュールをこなしたのは初めての経験だった。ツアーの幕が下りる頃には、さすがの香代子もすっかり精根尽き果てた様子で、「今回ばかりは、絶対に長めのお休みをもらうからね」と言い切った。智美は二つ返事で快諾した。これほど身を粉にして働いてくれたのだ。会社にもたらした貢献は、もはや言うまでもない。彼女の奮闘のおかげで、次なる事業拡大へ向けた資金にも十分な余裕が生まれていた。智美が羽弥市へ帰り着いたのは、もう年の瀬も押し迫った頃のことだった。時を同じくして、悠人もまた長期出張から帰宅していた。彼を乗せた車が岡田家のガレージに滑り込むと、そこにはちょうど帰り着いたばかりの智美の姿があった。久方ぶりの再会だというのに、二人の間には気恥ずかしいような、どこかぎこちない空気が漂った。先に動いたのは悠人だった。無言のまま歩み寄ると、そのまま智美の体をそっと腕の中に抱き寄せた。馴染み深い体温と、ふわりと漂う懐かしい香りに包まれた瞬間、智美の中で張り詰めていた何かが静かに解けていく。気付けば、彼女の両手も自然と彼の背中へと回されていた。二人はしばらくの間、ガレージに立ったまま抱擁を交わしていた。やがて指を絡ませて手を繋ぐと、並んで家の中へと足を踏み入れた。荷物はすべて運転手が運び入れてくれた。リビングへ入ると、詩乃がソファにちょこんと座り、和也が買ってきたというレゴブロックを真剣な面持ちで見つめていた。すぐ隣では謙太が、妹の遊びに根気よく付き合ってくれている。愛しい娘の顔を見た瞬間、智美の胸の奥にじんわりとした温もりが広がり、目元には自然と涙が滲んだ。詩乃のほうも気配を感じ取ったのか、ふっと顔を上げた。愛するママの姿を認めた瞬間、
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第720話

智美はすぐ傍の机に向かい、溜まった仕事の処理に追われていた。ただ母と娘が寄り添っているだけなのに、その空間にはなんとも穏やかで心地よい時間が流れていた。詩乃は遊んでいる合間に、ことあるごとに智美の膝元へすり寄ってきては抱っこをせがんだ。そのたびに智美はマウスから手を離し、しばらくの間、愛娘をぎゅっと抱きしめてやる。ママの体がふんわりと柔らかく、大好きな甘い匂いがするものだから、詩乃はすっかり安心しきって、なかなかその腕から離れようとしなかった。おもちゃより、今はただひたすらに甘えたいのだ――智美には、その無邪気なサインがすぐにわかった。智美はくすっと笑いながらノートパソコンを閉じ、詩乃を抱き上げて悠人の待つ寝室へと向かった。寝室では、ちょうど悠人がシャワーを浴び終えて出てきたところだった。智美は腕の中の詩乃を彼に託した。「少しの間、抱っこしてあげて。私もシャワーを浴びてくるから」「わかった」と短く応じ、悠人は詩乃を受け取ると、本棚から絵本を一冊選び出し、静かに読み聞かせを始めた。詩乃はその絵本をちらりと横目で見ると、不満そうに首を振った。「にいにはね、英語の絵本しか読んでくれないもん」もともと、就寝前の読み聞かせは家庭教師の役目だった。しかし、いつの間にか拓真と謙太もそこに混ざるようになり、やがて拓真が「先生の話は簡単すぎる。これじゃあ妹の教育によくない」と独断で切り捨て、自分の英語の絵本を持ち込んで読み聞かせるようになったのだ。すっかりお株を奪われた家庭教師は、しばらくの間、どうすべきかと途方に暮れていたほどだ。悠人は面白がるように詩乃に確かめた。「英語の意味がちゃんとわかってるのかい?」詩乃がこくんと力強く頷き、ベッドから這い降りて、とてとてと隣の自分の部屋へと駆けていく。やがてお気に入りの英語の絵本を抱えて戻ってくると、それをベッドの上に広げ、「パパ、これ読んで」とおねだりした。それが幼児向けのごく簡単な絵本だと確認すると、悠人は滑らかな発音でページをめくり、読み始めた。詩乃はパパのお腹の上にまたがり、ぽすっとその大きな胸にもたれかかりながら、真剣な眼差しで絵本を見つめる。悠人が試しにわざと単語を読み間違えてみると、詩乃はすかさず「違うよ」と正しい発音に直してみせた。悠人は思わず笑みをこぼした。も
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