All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 691 - Chapter 700

700 Chapters

第691話

珠里の頬はますます熱を帯びた。シートベルトをぎゅっと握りしめた。「な、何でもないから、運転に集中して。私のことは気にしないでちょうだい」勝也は、珠里の体が決して丈夫ではないことをよく知っている。少し気温が下がっただけで、途端に体調を崩しやすいのだ。彼は迷うことなくハンドルを切り直した。「まず、病院で診てもらいましょう」珠里は慌てて身を乗り出し、勝也の手首を掴んで止めた。「本当に大丈夫よ!どこも悪くないんだから」「駄目です。この前だって、バスルームから出た後にベランダで涼んで風邪を引いたくせに、病院へ行かなかったせいで、四十度の熱を出したじゃないですか。まさか覚えていないんですか」図星を突かれ、珠里はむっとして勝也を睨みつけた。あれは、そもそも勝也のせいだった。あの日は二人で些細な口論になり、頭に来た珠里が頭を冷やそうとベランダに出て夜風に当たっていた結果、あっけなく風邪を引いてしまったのだ。病院の駐車場に着くなり、勝也は自身のシートベルトを外して降車し、助手座のドアを開けた。そのまま身をかがめて珠里のシートベルトを外すと、抵抗する間も与えず、ひょいと軽々と彼女を抱き上げて車から降ろしてしまう。珠里は勝也の硬く引き締まった腕に手が触れ、動揺から思わず声を荒らげた。「だから、何でもないって言ってるでしょ!」しかし勝也は涼しい顔で正面を向いたまま、「何かあってからでは遅いんです」と取り付く島もない。珠里は頭にきて、抗議の意を込めて勝也の分厚い胸板を一発ぽかっと殴った。だが、まるで鋼のような筋肉に弾き返され、じんわりと痛んだのは殴った自分の手の方だった。慌てて手を引っ込め、涙目で自分の拳をさする。勝也はそんな彼女をちらりと横目で見て、いっそ涼しい顔で言い放った。「何度やっても懲りない人ですね。私には効かないんですから、痛い思いをするのは自分でしょう」珠里はふんと鼻を鳴らし、これ以上彼を相手にするのをやめた。結局、勝也に半ば引きずられるようにして診察を受け、一通りの検査を受けた。結果は、言うまでもなく「異常なし」だった。珠里は不満げに頬を膨らませた。「ほら、やっぱり何でもないって言ったじゃない。仕事が詰まってるのに、こんなところで時間を取られて……工場に着く頃には、絶対に遅い時間になっちゃうわよ」勝也
Read more

第692話

工場に到着するなり、珠里は足早に倉庫へと向かった。倉庫の責任者と手際よく打ち合わせを済ませると、そのまま棚の前に立って商品の確認作業に取りかかった。頭上の棚には、ダンボールや梱包された荷物が隙間なくびっしりと詰め込まれていた。珠里がチェックのために一番上の衣類の包みを一つ引き抜こうとした瞬間――バランスを崩した残りの荷物が、まるで雪崩を打って崩れ落ち、珠里の頭上めがけて一斉に降り注いできたのだ。弾かれたように飛び退こうとしたが、もう間に合わない。その瞬間、傍らに控えていた勝也が素早く腕を伸ばして珠里を引き寄せ、自身の広い胸の中へとかばい込んだ。珠里は勝也の腕にすっぽりと包まれたまま、目の前の床に折り重なるように散乱した数十個の荷物を呆然と見つめていた。心臓が早鐘のように打ち鳴らされていた。そっと勝也の顔を見上げて告げた。「……ありがとう」勝也は静かに腕を離し、低い声で言った。「気をつけてください」その時、珠里は勝也の逞しい腕に、一筋の赤い擦り傷が走っているのに気がつき、心配そうに声を上げた。「どうしたの、怪我してるじゃない!」だが勝也は自分の腕の傷をちらりと一瞥しただけで、さして気にする素振りも見せなかった。「大したことはありませんよ。痛くもありませんし、こんなもの絆創膏を貼っておけば十分です」珠里は呆れて思わず笑ってしまった。「こんなに深くえぐれて血も滲んでいるじゃない。絆創膏で済む話なの?ばい菌が入って化膿でもしたらどうするのよ」有無を言わせず勝也の手を引いてオフィスへ向かいながら、倉庫の責任者に声をかける。「すぐに消毒用アルコールと綿棒を持ってきてちょうだい!」「は、はいっ!」責任者はすぐさま応じて走り去った。引かれるがままの勝也は珠里を見つめた。本来なら「この程度の傷は何でもない」と主張したかったのだが、怒りと心配の入り混じった彼女の真剣な横顔を見て、しぶしぶ口を閉ざした。オフィスに入ると、珠里は勝也をソファに座らせた。すぐに責任者が救急箱から消毒液と綿棒を持ってきてくれたので、珠里がそれを受け取り、彼の前にしゃがみ込んで手当てを始めた。責任者のスマホが鳴り、彼は電話に出るため席を外した。静まり返った部屋に、二人だけが残される。珠里は綿棒にたっぷりと消毒液を含ませ、傷口にそっと当てた。染みて
Read more

第693話

プロのスタイリストの手が加わったおかげか、千鶴と伊織はオーディションの時よりもずいぶんと垢抜けて、見違えるほど洗練されていた。香代子が智美に事情を話す。「今夜の会合には、有名なシンガーソングライターが何人か顔を出すし、人気バラエティ番組の大物ディレクターやプロデューサーも集まるの。二人にとっては顔を売る絶好のチャンスだから、同行させることにしたわ」智美は納得して頷いた。この厳しい業界で生き残っていく以上、こういった社交の場での人脈作りは絶対に欠かせない。香代子は、智美のふっくらとしたお腹にちらりと目を向けた。「本当は体調も気遣って、あなたには来てもらうつもりはなかったんだけど……やっぱり、あなたがいると周りの目の色が全然違うのよ!だから、悪いと思いながらも無理を言って付き合わせちゃった」智美はふふっと笑った。「それならいっそ、『岡田の妻です』と書いた名札でも首から下げてこようかしら」香代子は堪えきれずに声を上げて笑った。「あははっ!そうしてくれたら、営業的にはもう最高なんだけど!」千鶴と伊織は二人の軽快なやり取りを見て思わず口元をほころばせたが、それでも表情にはまだ硬い緊張が残っていた。どれだけ気さくに接してもらっても、やはり社長という立場の人間に対しては、相応の礼儀と緊張感が必要になる。華やかな会場に着くや否や、顔見知りの音楽会社の社長たちが次々と智美のもとへ挨拶に訪れた。彼らは以前の会食や経済ニュースの報道を通じて智美と面識があり、何より、悠人がいかに智美を大切にしているかを誰もが熟知している。だからこそ、誰もが丁重に接してくるのだ。妊娠中の智美を気遣って、わざわざ座り心地の良い席まで案内してくれる人や、気の利いたスタッフにフレッシュジュースを持ってこさせる人までいた。智美はにこやかに、愛想のいい笑みを浮かべた。「今夜は、何か新しい出会いと良いご縁があればと思い参加させていただきました。これほどまでにお気遣いいただけて、かえって恐縮してしまいます」「とんでもないことでございます」と大げさに手を振って返したのは、大手芸能プロダクションの社長だった。「こちらこそ、ぜひとも一緒に大きなお仕事をさせていただきたいと願っているくらいですよ」智美とつながることは、すなわち背後にいる強大な岡田家とつながることを意味する。
Read more

第694話

もしリンゴテレビの林(はやし)社長が乗り気になってくれれば、それに越したことはない。だが、仮に渋られたとしても、何らかの条件交渉で話をまとめる手は用意されている。智美は悠人が言っていた言葉を思い出した。岡田家は毎年、各主要テレビ局で自社の広告枠を持っている。もし必要なら、その広告枠を新しい事業のための交換材料として使っていいと、彼はお墨付きを与えてくれていたのだ。ちょうど林社長に声をかけようとしたその時――あろうことか、拓郎と香月が、智美たちより先に林社長の元へ向かっていくのが見えた。久々に見る香月の姿は、以前とは別人のようにずいぶんと変わっていた。今夜の彼女は、照明を浴びて煌めくシルバーのスパンコールドレスを身に纏い、愛らしく華やかな雰囲気を醸し出している。首元には高級な本真珠のネックレス、手首には同ブランドのパールブレスレット。その隙のない装いは、明らかに格式ある雰囲気を漂わせていた。彼女は林社長に向けてにっこりと微笑みながら、巧みな話術で楽しげに談笑している。香代子が訝しげに智美へ耳打ちした。「……ねえ、あの着こなし、全部有名ブランドよ。あの毛利がそこまで気前よく買い与えるとは思えないし、かといってあれほどのブランドのスポンサーを引っ張ってこれる知名度はまだないはずだわ」智美にも、香月が突然こんな財力を手にした理由は分からなかったが、軽く笑って言った。「まあ、いいじゃない。向こうは向こうでやり方があるんでしょう。私たちは私たちのやり方でいきましょう」拓郎と香月が林社長との話を終えたのを見計らって、智美と香代子が歩み寄ろうとした。すると、拓郎と香月もこちらの存在に気づき、笑顔を浮かべて近づいてきた。「智美さん」香月が甘く微笑んだ。「お久しぶりです。こんなところでお会いできるなんて」挨拶をしながら、香月はさりげなく、智美の全身を値踏みするように見た。智美は今夜、金の光沢が流れるような美しいロングドレスを纏っていた。上品で、それでいて気品に満ちている。実は、香月は以前、オーダーメイドショップでこのドレスの試着をしたことがあったのだ。しかし、既に予約が入っているからと断られてしまった。まさか、あのドレスを予約したのが智美だったとは。しかも、悔しいことに智美の方が、比べ物にならないほど似合っている。妊娠中でさえ、そ
Read more

第695話

「リンゴテレビの新しいオーディション番組のことですよね?さっき新人を二人連れてきているのも見ましたよ。あの子たちのために林社長とお話されるんでしょう?でも、残念でしたね。林社長、さっき約束してくれたんです。最後のひと枠は特別に私にくれるって。だからもう定員は完全に埋まってしまったんですよ。智美さんがこの後でお話しに行っても、無駄足になるだけだと思います」香月の声には、隠しきれない得意げな色がたっぷりと滲んでいた。まるで長年の雪辱を果たし、智美に一矢報いたかのように、あからさまに勝ち誇っている。しかし、智美は表情一つ変えなかった。「そうなの。じゃあ、林社長に直接確かめてみることにするわ」自分が嘘をついていると疑われたのだと察し、香月は不快そうに顔を曇らせた。智美はそれ以上、彼女をまともに取り合うつもりはなかった。関わること自体が貴重な時間の無駄だ。隣で聞いていた香代子が、呆れたような顔で拓郎に目を向けた。「ずいぶんとまあ……あなたが契約した新人さんは、落ち着きがないのね。自分が得た機会を、そんなに言いふらしたいものかしら?」香代子の鋭い皮肉に、香月の顔がさっと真っ赤に染まった。拓郎は当然、自分の連れである香月の肩を持つ。なんといっても、彼女は大切なスポンサーからの預かりものなのだ。香代子に向かって、不快感を露わにして言い返した。「この子に何も問題はない。彼女には才能も、スターとしての可能性も十分にある。だからこそ、あの林社長も特別に出場枠を認めてくれたんだ。それより香代子、お前こそ最近めっきりメディアの露出が減っているじゃないか。一年もすればすっかり人気も落ちて、業界の人間から名前すら忘れられるんじゃないのか?」香代子は余裕の笑みで眉を上げた。「ご心配なく。私の業界での立場は盤石よ。一年やそこらで落ちるような安い人気じゃないわ。それより、あなたが新しく契約した彼女のことをちゃんと考えてあげたら?一発屋で終わらなきゃいいけど……というか、一発も当たらないかもしれないけどね。以前もどこかのオーディション番組に出ていたみたいだけど、私の名前に便乗して、それでもまったく話題にもならなかったじゃない。また性懲りもなくオーディション番組に出すって、どういうこと?あなたの育て方に問題があるんじゃないの?」痛いと
Read more

第696話

しかし、林社長は少し困ったように表情を曇らせた。「奥様のお気持ちは痛いほど分かりますし、彼女は確かに素晴らしい素質がありそうだ。ただ……非常に申し上げにくいのですが、番組の枠がもう完全に埋まってしまっていまして。私としても、こればかりはどうしようもないんですよ」それは、体よく断る時の業界の常套句だと、智美もとっくに承知していた。それでも、ここで素直に引き下がるつもりはない。「確か、この新しい番組のメインスポンサーはまだ決定していませんでしたよね?」智美は軽く咳払いをして、手札から切り札をすっと切った。「実は夫が、岡田グループとして今年、羽弥市の各テレビ局への広告予算枠を大幅に増やす方向で検討しているようなんです。この番組に彼が興味を持ってくれるかどうかは……私には分かりませんが」林社長はすぐさまその言葉の裏にある巨大な意図を読み取り、パッと顔を輝かせた。「いやあ、藤沢さんのお顔、実に強運を持っていらっしゃる。きっとうちの番組を大いに盛り上げてくれる逸材に違いない!よろしい、特別に一枠、追加で用意しましょう。私が直接現場に掛け合って、必ず彼女を出演させてみせますよ」話はあっさりまとまった。智美は胸の内でしみじみ思った。名利の渦巻くこの世界は、確固たる資本の後ろ盾がなければ、たとえ岡田家という名前を出したところで、そう簡単には人は動かないのだと。自然と、悠人への深い感謝が湧き上がってきた。もし彼が、岡田グループの巨大な資産と権力を自由に使わせてくれると言ってくれなければ、自分ひとりの力でこのマネジメント会社をここまで軌道に乗せることなど、絶対に不可能だった。林社長と短い挨拶を交わしてその場を離れるなり、香代子が興奮気味に言った。「智美、旦那さん頼もしすぎるわよ!グループの莫大な資本まで使わせてくれるなんて」千鶴もまた、潤んだ感謝の眼差しを智美に向けた。デビューしたばかりの身で、いったいつになれば世間に注目してもらえるのかと不安でいっぱいだったのに、まさかこんなに早く、これほどまでに大きなチャンスを与えてもらえるとは思ってもみなかったのだ。「私も、今回うまくいったのは彼のおかげだと思ってる。帰ったら、ちゃんとお礼をしないとね」智美は優しく笑って言った。香代子が意味ありげに片目をつぶって見せる。「あなたが甘い言葉を
Read more

第697話

シャンデリアの光が上から降り注ぎ、見つめ合う二人の顔を柔らかく照らし出す。それは誰もが目を奪われる美しい光景だった。傍らで見ていた香代子は、たまらず感嘆のため息をついた。もしこの二人が揃って芸能活動でもすれば、間違いなく瞬く間に世間の話題をさらうだろうに。本当に惜しいことに、この完璧な夫婦が興味を持っているのは、冷徹なビジネスの世界だけなのだ。林社長が慌てて近づいてきて、悠人に愛想の良い笑顔を向けた。「岡田社長!いやはや、さっき奥様からお話を伺っておりましたよ。まさか今夜いらっしゃるとは」悠人は軽く頷いてウエイターからグラスを受け取り、林社長に向けて優雅に持ち上げた。「今夜は、妻が大変お世話になりました」「とんでもないことでございます」グループのトップとして経営に携わるようになってからというもの、悠人が放つ気配はいっそう研ぎ澄まされていた。常に冷静で、言葉に重みがあり、頂点に立つ者だけが纏うことを許される絶対的な威厳を感じさせる。林社長は内心でつくづく感じ入った――岡田家の男たちは、本当に誰も彼もが桁外れだ、と。一方の香月は、彼氏が会場に到着したことに気づいていた。甘えて腕に寄り添おうと嬉々として歩み寄ろうとしたが、なんと彼氏は、まるで香月など見えていないかのように彼女の横を素通りし、真っ直ぐに悠人のもとへ向かっていったのだ。「岡田社長」不意に声をかけられ、悠人はゆっくりと振り向き、見覚えのない男を静かに見据えた。「私、ハヤテ映画株式会社の浅見真一(あさみ しんいち)と申します」男は恭しく名刺を差し出した。「実は現在、弊社で大型の新作映画の制作を予定しておりまして……もしご興味をお持ちいただけるようであれば、ぜひ一度お時間をいただき、ご相談させていただきたく存じまして」真一は、羽弥市の映画・映像業界ではそれなりに名の知れた人物だった。数年前に手がけた大作がいくつか立て続けに当たり、一時代を築いたこともある。だがここ数年は映像市場全体が低迷し、ショート動画の台頭が長編ドラマや映画の市場を確実に侵食していた。会社の受注は目に見えて減り、利益も急激に落ち込んでいるのが現状だった。彼の元妻も、夫の度重なる浮気癖についに見切りをつけ、数年前に離婚を突きつけている。香月とは、仕事の付き合いの食事の席で偶然出会っ
Read more

第698話

林社長と真一は、これまで何度も仕事で顔を合わせてきた仲だ。だからこそ、少しだけ詳しく事情を話してやってもいいという気になった。「岡田社長があれほどお忙しい中、わざわざ奥様のお迎えに足を運んで、付きっきりで付き添っているんですよ。あのお二人の仲が悪いわけがないでしょう」真一は、その言葉の意味を即座に呑み込んだ。上流社会には、世間体を繕うためだけの仮面夫婦も決して珍しくはない。だが、一握りではあるが、本当に心底睦まじい夫婦というのも確かに存在するのだ。悠人と智美は、間違いなくその後者なのだろう。林社長から智美の話をいくつか聞くうちに、彼女がこの羽弥市で自ら起業し、しかもマネジメント会社まで立ち上げていると知って、真一の目が怪しく光った。岡田の奥様が映像業界に関心を持っているのなら、そこを足がかりにして、岡田家そのものと深い繋がりを持てるかもしれない。そこへ、先ほど真一から冷たくあしらわれた香月が歩み寄ってきた。不満を隠しもしない顔だった。「真一さん、さっきはどうして私のことを無視したの?」まだ付き合い始めて間もなく、相手に飽きていなかった真一は、にこやかに香月の肩を抱き寄せて林社長に引き合わせた。林社長も、彼女が彼の新しい相手だということは百も承知だが、愛想よく挨拶を返すだけですぐに他の客の相手に戻っていった。林社長が離れたのを見て、香月は真一に尋ねた。「真一さんも立派な社長さんなのに、さっきはどうしてあの岡田社長にあんなに腰を低くしてたの?」「媚びを売っていたんだ」と正直に言いたいところだったが、男としての面子を傷つけそうで言葉を濁した。真一は苦い顔で香月をちらりと見下ろした。「いいか、この羽弥市には名家の御曹司が道楽で経営しているような会社なんて腐るほどあるんだ。あの岡田社長の絶大な権力の前で、俺みたいなものが通用すると思うか?ああやって徹底的に下に出なければ、映画の出資なんて夢みたいな話を持ちかけられると思うか?」香月は、先ほど真一が悠人に必死で取り入ろうとし、結果的に自分が智美に大きく水をあけられた形になった悔しさを、未だに引きずっていた。でも、だからといって彼にむやみに機嫌を悪くして八つ当たりするわけにもいかない。真一は、香月が苦労してやっと掴み取った強力なスポンサーだ。怒らせて機嫌を損ね、あっさ
Read more

第699話

智美と悠人は車に乗り込んだ。今夜迎えに来た車は、悠人がいつも乗っている重厚な黒いマイバッハではなく、洗練されたロールス・ロイスだった。しかも色は、夜の街でも少し目を引く鮮やかな紫だ。智美は不思議そうに聞いた。「どうして急に車を替えたの?」悠人は淡々と答えた。「先日、輝煌グループの盛田(もりた)社長と対談番組に出たんだが、彼に感化されてね。それで、車を替えることにしたんだ」智美は首を傾げた。たかが対談番組に出たくらいで、どうして急に車を替えることになるのか。「だって、君が紫を好きだろう」「理由はそれだけ?」「それだけだ」釈然としないのに、何か隠しているような気がする。智美は車内で自分のスマホを取り出し、ブラウザで悠人の名前を検索してみた。すると、彼が言っていた盛田社長との対談番組の記事が、トップニュースとしてすぐに見つかった。記事を読み進めると、前半は業界の動向や互いの事業についての極めて堅い内容が続いていた。だが後半になると、司会者が空気を変えるように、二人の家庭生活について尋ねている。悠人はもともとそういった場では奥手なため、答えも非常に短くそっけないものだった。ところが、一方の盛田社長は、それはもう堰を切ったように惚気話のオンパレードだったのだ。「私の着ているスーツも、ネクタイも、靴も靴下も、これは全部妻が選んでくれているんです。私は彼女の選んだ服しか着ませんからね。毎晩必ず十時までに帰宅するように言われていますし、出張は三泊まで、もし三泊を超えるようなら一緒に連れて行くようにと厳命されています。私はその約束をずっと律儀に守り続けているんですよ。妻の好みはすべて完璧に頭に入っていなければなりませんし、毎年の記念日には必ず盛大なサプライズを用意します。私にとって、そんなことは全く難しいことではありません。記憶力には自信がありますからね。それから、普段私が乗る車の色も、妻の一番好きな色にしています。送り迎えするたびに、センスがいいと彼女から褒めてもらえるんですよ。まあ、そうでなければ、あんな素晴らしい妻の心を射止めることなどできなかったでしょうね!」記事によれば、盛田社長は愛妻の話が止まらず、三十分近くも熱く語り続けたらしい。司会者がとうとうたまらず口を挟んだ。「岡田さんもご結婚され
Read more

第700話

「さすがは太っ腹な上司ね」智美は感心したように頷いた。「私は仕事の方を少し片付けてから行くつもりだけど、急ぎのものは出発前に全部終わらせておかないと。あなたも最近忙しいでしょうに、ちゃんと抜けられるの?」悠人は余裕の表情で頷いた。「兄さんがいるから問題ない。あいつは最近随分と楽ばかりしていたからな。そろそろ馬車馬のように働いてもらわないと」智美は思い出した。確かに、和也は最近よく会社を抜け出していたが、悠人はそれに対して特に何も文句を言わなかった。てっきり兄だから大目に見ているのだと思っていたが、実はわざと貸しを作っておいたのか。そう気づくと、思わず笑いがこみ上げてきた。こうして見ると、悠人の方がよほど計算高くて兄らしい。落ち着きという点では、間違いなく和也より一枚も二枚も上手だ。実家に戻ると、リビングには和也と美穂の姿があった。悠人は玄関で靴を脱ぎながら智美のバッグを自然に受け取り、彼女の手を引いてリビングへ向かった。美穂と並んでテレビを見ていた和也が、にやにやとからかうように声をかけてきた。「お、残業してから智美を迎えに行ったのか?ご苦労なこったな」悠人はそんな兄に冷ややかな視線を向け、窮屈だった袖口を直し、ネクタイをゆっくりと緩めながら宣告した。「兄さん。俺、数日後に智美と一緒に大桐市へ行くから。あとは頼むぞ」和也がぎょっとして目を丸くした。「おいおい、まさかまた弁護士に戻る気じゃないだろうな?悠人、あんな事務所は人に任せておけばいいんだよ!お前が会社に来てくれないと会社も困るし、何より俺が困る!」優秀な弟が山のような仕事を分担してくれているのに、今さら逃すわけにはいかない。悠人は慌てる和也をちらりと一瞥した。「弁護士に戻るんじゃない。智美の友人の結婚式に付き合うだけだ」和也はほっと大げさに胸を撫で下ろした。「なんだ、そういうことか。それならよかった、本気でびっくりしたぞ。で、何日いるんだ?」「三日だ」和也は少し不服そうに唇を尖らせた。「三日は長いな……お前が関わってるプロジェクト、俺には手に負えないものもあるんだぞ……まあいい、なるべく早く戻ってこいよ」悠人はぶつくさと文句を言う兄を相手にせず、智美の手を引いてさっさと二階の自室へ上がっていった。リビングに取り残された和也は、美穂に向かって子ども
Read more
PREV
1
...
656667686970
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status