All Chapters of 捨てられ薬師は騎士団長と偽りの婚約を結ぶ: Chapter 11 - Chapter 20

23 Chapters

11

 マリーは妖しくも美しい「黒百合」を、慎重に布で包んだ。布は薬液に浸して絞ったもの。こうすれば、当面は黒百合の毒が漏れ出る心配はない。 心を満たしていたのは、もはや恐怖ではなかった。人の命とアランの誠意を弄ぶクラリッサへの、氷のように冷たい怒りだった。 迷わずアランの執務室へ向かう。その足取りには、以前のようなおどおどとした様子は微塵もなかった。 執務室では、アランとリオネルが例の噂――騎士団長の婚約者は、得体のしれない薬草で団長の体を無理やり回復させている――について話し合っていた。「失礼します」 ノックもそこそこにマリーが入ってくる。ただならぬ気配に二人は言葉を切った。 マリーは無言で、布に包んだ『黒百合』を机の上に置く。毒草を解説し、クラリッサの狙いが何であるかを説明した。「ひどすぎる! すぐに王家へ突き出して、断罪してもらいましょう!」 リオネルが叫んだが、アランは黙ったままだった。静謐さの中に激しい怒りを滲ませている。彼の青い瞳は、凍てつく冬の湖のように冷たい光を放っていた。「私を狙うだけならいい。だが、マリーに濡れ衣を着せるとは……!」 底知れない怒りを秘めた声音だった。「待ってください」 そんな二人を、マリーの凛とした声が制止した。「ただ突き出しただけでは、彼女はきっと『知らなかった』『良かれと思って贈った希少な薬草に、そんなものが混じっていたなんて』と白を切るでしょう。黒百合はとても珍しい薬草で、たとえ薬師であっても毒性を知る人は多くありません。ただの水掛け論になってしまいます」 マリーは黒百合を手に取り、二人に向き直った。緑色の瞳には、強い決意と薬師としての自信が宿っていた。「この毒は、扱い方によっては最高の薬にもなります。ごく一部の古文書にしか載っていない、幻の調合技術ですが……私ならできます。毒を完全に無効化し、滋養強壮の効果だけを引き出すことが」 彼女は不敵に微笑んだ。「クラリッサ様は、私があなたを毒殺するのを見たいのですよね
last updateLast Updated : 2025-08-13
Read more

12

 ガーデンパーティーまでの数日間を、マリーは研究室にこもりきりで過ごした。 目の前には、妖しく咲き誇る一輪の「黒百合」。その花弁から毒を抜き出して薬効だけを残す作業は、一瞬の気の緩みも許されない、危険で繊細なものだった。 微量単位の調合、温度の徹底管理。額には玉の汗が浮かぶ。緑の瞳は尋常ではない集中力の光を宿して、輝いていた。(怖い。もしも失敗したら、大変なことになる。でもこの技術が、私とアラン様を守る唯一の剣になる) マリーは恐怖に晒されながらも、手を止めようとしない。極限状態での経験が、薬師としてさらなる成長を促していた。   その頃。侯爵令嬢クラリッサは、自室の豪華な鏡の前で侍女たちにパーティーで着るためのドレスを選ばせていた。「まあ、クラリッサ様、本当にお美しいですわ」「当たり前でしょう」 侍女の賞賛に、クラリッサは見下した笑みを浮かべる。「明日は大事な記念日。あの小汚い薬師が団長毒殺未遂の罪で引き立てられる、記念すべき日になるのだから。せいぜいお洒落をして、最高の見物をして差し上げないと」 自分の計画の成功を微塵も疑っていない。その傲慢さが、自らの首を絞めることになるとは知らずに、クラリッサは笑い続けた。   一方、騎士団の訓練場では、アランがいつも以上に激しく剣を振るっていた。苛烈だが迷いのある剣筋。マリーを危険な計画の中心に置いてしまったことへの苛立ちと不安が表れている。 金の髪が陽光を弾いて、黄金のように輝く。青い瞳が冴え冴えとした光を灯す。 いつもの真っ直ぐな豪剣を知る部下たちは、見慣れない団長の姿に動揺している。「団長」 リオネルが声をかけた。「マリー様を信じましょう。彼女は俺たちが思うより、ずっと強い女性ですよ」 アランは剣を振るうのをやめ、息を切らしながら答える。「わかっている。だが、信じることと、心配することは別だ。もし、万が一のことがあれば。私
last updateLast Updated : 2025-08-14
Read more

13

 王城の庭園は、まるで地上に現れた楽園のようだった。 花壇には色とりどりの花々が咲き誇り、美しい蝶が舞っている。宮廷楽団が奏でる音楽はあくまで優雅で、絹のドレスや上質な礼服を纏った貴族たちの穏やかな談笑の邪魔をしない。テーブルに用意された料理の数々は目にも鮮やかで、いかにもおいしそうだ。何もかもが完璧に整えられた光景だった。 そんな光景の中にあって、マリーは戦場に臨むような緊張感を胸に秘めていた。緑色の瞳はただ花を愛でるのではなく、その一つ一つの薬効や毒性を見極めるように、冷静に周囲を観察している。 アランはマリーの緊張を察して、彼女の手を力強くも優しく支えていた。美しく気品のある立ち振舞だったが、青い瞳は鋭い光を宿している。さりげない動作で周囲を警戒していた。 パーティーが中盤に差し掛かる頃。クラリッサは王妃の側近である伯爵夫人など、影響力のある貴婦人たちの輪の中心にいた。近くの茂みに紛れたリオネルが、会話に聞き耳を立てる。「アラン様の最近のご様子、皆様もご心配でしょう?」 クラリッサは、心から元婚約者を心配しているかのような、悲しげな表情を浮かべた。「森から来たというあの方が、得体のしれない薬草を毎日煎じて飲ませているとか……。あれが本当に、アラン様のおためになっているのか、私には不安で……」「まあ、それは聞き捨てなりませんわね」 伯爵夫人が扇で口元を隠す。「騎士団長の健康は、この国の安全保障に関わる問題ですもの」「ええ、その通りです」 クラリッサはマリーを単なる恋敵ではなく、「国の安全を脅かす存在」として巧妙に印象付けて、着々と包囲網を完成させていた。   一方アランはマリーを伴って、あえて人々の注目が集まるティースペースへと向かった。 先日の夜会でマリーを評価したローゼンタール公爵を見つけると、自ら挨拶に行く。マリーを「私の婚約者であり、類稀なる才能を持つ薬師です」と、誇らしげに紹介した。 マリーは、レッスン通り優雅にお辞
last updateLast Updated : 2025-08-15
Read more

14

 マリーは一杯目のお茶をアランのカップに注いだ。ハーブの穏やかな香りが、周囲にふわりと広がる。 アランが、そのカップを静かに口に運ぼうとした、その時のこと。 クラリッサが悲鳴に近い声で叫んだ。「お待ちになって、アラン様! そのお茶を飲んではいけませんわ!」 芝居がかった仕草でアランの腕を押さえ、カップをテーブルに戻させると、震える指でマリーを指さした。美しい金色の瞳には、計算され尽くした恐怖と怒りが浮かんでいる。その奥に浮かぶ嘲りは見事なまでに隠されていて、誰にも気づかれなかった。マリーとアラン以外には。 その声に応じるように、近くに待機していた王宮衛兵と、威厳のある初老の男性――王宮薬師長が姿を現した。 クラリッサは、周囲に響き渡る声で高らかに言う。「皆様、お聞きください! この女が、我らが騎士団長を毒殺しようとしています! そのお茶には、古来より暗殺に使われる猛毒、『黒百合』が仕込まれているのです!」 会場は水を打ったように静まり返り、次の瞬間、大きな驚きの声とどよめきに包まれた。クラリッサが事前に根回しをしていた貴婦人たちは、顔を見合わせ、さも「やはり」と言いたげに頷き合う。 衛兵たちは、マリーとアランを取り囲むように立って逃げ道を塞いだ。「馬鹿なことを言うな、クラリッサ嬢!」 アランは即座にマリーの前に立ち、彼女を背にかばう。「私の婚約者への、許しがたい侮辱だ!」 と、冷たい怒りを込めて言い放った。 しかしマリーは彼の袖をそっと引いて、「アラン様、大丈夫です」と囁いた。 クラリッサを真っ直ぐに見つめる。その緑色の瞳に恐怖はない。静かな憐れみのような色すら浮かんでいた。落ち着き払った態度に、クラリッサは内心で苛立った。 王宮薬師長が、厳粛な面持ちで進み出る。「クラリッサ様からのご懸念を受け、鑑定させていただきます」 そう告げると、アランのカップからお茶を少量採取し、持参した銀の小箱から特殊な試薬を取り出した。お茶に一滴垂らす。 すると透明だった液体が、またたく間に不吉な黒紫色へと変化した
last updateLast Updated : 2025-08-15
Read more

15

 衛兵が、マリーに手をかけようとした瞬間。「お待ちください」 静かだが、凛として会場全体に響き渡る声。 告発された罪人であるはずのマリーは、少しも動じることなく、勝ち誇るクラリッサをまっすぐに見つめていた。わずかに浮かべた微笑みはそのままに、続ける。「ええ、薬師長のおっしゃる通りです。このお茶には、確かに黒百合の毒素が含まれております」 会場が、今度こそ本当に静まり返った。アランですら計画を知っていたはずなのに、一瞬、驚きの表情を浮かべる。クラリッサは「自白した」と確信し、金色の瞳を歓喜でぎらりと輝かせた。 しかし、マリーは動揺する周囲を意にも介さず、王宮薬師長に向き直った。その姿は罪人ではなく、教壇に立つ学者のようだった。「薬師長様。薬学の基本は、毒と薬は表裏一体であるということ。全ての毒は薬でもあり、薬も用法を間違えれば毒になる。その違いを決めるのは、調合と、扱い方ですね?」「ああ、そのとおりだ」 薬師長は頷いた。 マリーは周囲の貴族たちにも聞こえるように、落ち着いた声で続ける。「古文書によれば、黒百合の毒は、ある特殊な薬草と特定の温度で煮出すことで、その毒性だけを完全に無効化できると記されています。残るのは、比類なき滋養強壮の効果だけ。それは騎士の疲労を癒し、生命力を高める『究極の薬』となるのです」「そ、それは古文書にのみ記された、成功例のない幻の調合! 黒百合の実物を目にする機会ですら少ないのに、まさか……」 王宮薬師長が、信じられないという顔で目を見開く。彼の驚きが、マリーの言葉がただの戯言ではないことを証明していた。 そして、マリーは究極の証明へと移る。 王宮の侍従に許可を得て、マリーはもう一つのカップを手に取った。黒百合のハーブティが入ったポットから、お茶を注ぐ。 彼女は、アランに向かって優しく微笑んだ。「アラン様、信じてくださいますね?」 アランは、彼女の緑色の瞳に宿る絶対的な自信を見て、迷いなく頷いた。「君の淹れる茶が、私にとって毒になるはずがない」 次の瞬間、会場の誰もが息を呑んだ。 アランは、毒だと断罪されたカップのお茶を。マリーは、今しがた注いだそれを。同時に口にしたのだ。二人の動作に一切の迷いはなかった。 アランとマリーは一滴残らず、お茶を飲み干した。 庭園に痛いほどの沈黙が落ちた。誰もが、二
last updateLast Updated : 2025-08-16
Read more

16

 わめき続けるクラリッサが衛兵に連行されると、気まずい沈黙が王城の庭園を支配した。 貴族たちはどう振る舞うべきか測りかね、遠巻きにアランとマリーを見つめている。その視線にはもはや侮蔑の色はなく、畏怖と当惑と、強い好奇心が混じり合っていた。 そこへ、パーティーの主催者である国王夫妻自らが、威厳のある足取りで二人の元へ歩み寄った。周囲の貴族たちがさっと道を開ける。「マリーよ」 国王は、まずマリーに向かって深く頷いた。「お前の勇気と類稀なる知恵に、心から敬意を表する。そしてフェルディナンド卿、君は誠に素晴らしい婚約者を見つけられたな。彼女は、我が王国の至宝と言えよう」 王家からの最大級の賛辞。それは、マリーの立場が完全に保証されたことを意味した。先ほどまで様子見を決め込んでいた貴族たちが、手のひらを返して我先にと二人へ賞賛の言葉を述べに来る。 マリーはその変わり身の早さに戸惑いながらも、アランの隣で毅然と振る舞い続けた。   騎士団詰所へ戻る馬車の中、興奮冷めやらぬリオネルが、今日の出来事をまくし立てていた。「見ましたか、団長! クラリッサのあの顔! まさに最高の気分だ。あの後、貴族たちがマリー様に群がって、どんな薬草を使っているのか質問攻めでしたよ!」 アランとマリーは苦笑した。(私、すごいことをしてしまったのね) 無我夢中でアランを守ったつもりだった。侯爵令嬢という身分の高い人を相手に戦って、無事で済むか不安だった。 アランの横顔を見れば、微笑みを返される。「安心していい。たとえ侯爵家といえど、あそこまでの罪を明確に突きつけられれば、言い逃れはできないさ」 穏やかな表情に、マリーはやっと緊張が解けていくのを感じた。   その夜。アランの執務室に、リオネルが王家からの正式な沙汰を持って駆け込んできた。彼の顔は、興奮で紅潮している。「決定しました! クラリッサは、騎士団長暗殺計画の首謀
last updateLast Updated : 2025-08-17
Read more

17

 クラリッサの罠という嵐が過ぎ去った後、騎士団詰所では穏やかな日々が訪れていた。 ガーデンパーティの翌朝。アランの私室で、二人は初めて心から安らげる時間を過ごしていた。もはや契約者としての緊張感はなく、新しい恋人同士のような、少しぎこちないが甘い空気が流れている。「口に合うか?」 アランが、不慣れな手つきでマリーのためにお茶を淹れながら尋ねる。今まで見せたことのない優しい笑みが浮かんでいた。「はい、とても美味しいです」 マリーは、はにかみながら答える。(幸せ。幸せすぎて、どうにかなってしまいそう。この時間が、一日でも長く続きますように) 口に含んだお茶は、温かくて優しい味がした。   昼下がり。マリーはリオネルに案内されて、騎士団の訓練場を訪れた。 騎士たちに猜疑の眼差しはもうない。皆、敬意と親しみを込めて挨拶してくれた。「マリー様、この前の湿布、すごく効きました! ありがとうございます!」 訓練で捻挫した若い騎士が、笑顔で駆け寄ってくる。「マリー様の薬のおかげで、傷口が膿まずに済みました。もう治りかけです」 魔獣討伐で負傷した騎士も、怪我をした腕を振ってみせる。「よかった。でも、怪我をしないのが一番ですから。気をつけてくださいね」「はい!」 マリーはもはや「団長の婚約者」としてだけでなく、「騎士団の信頼する薬師」として、完全に受け入れられていた。 和やかな雰囲気の訓練場を出て、マリーは研究室へと向かった。山積みの古文書を前にすると、表情が切り替わる。 みなに愛される優しいマリーから、責任感あふれる薬師へと。真剣な目で古文書を呼んでいると、アランが顔を出した。「熱心だな。何か進展はあったか?」「……それは」 マリーは顔を上げて、真剣な表情で告げた。「アラン様。私が毎日お淹れしているお茶は、あくまで呪いの進行を抑制し、時間を稼いでいるに過ぎま
last updateLast Updated : 2025-08-18
Read more

18

 夜明け前、騎士団詰所の厩舎はまだ薄暗い静寂に包まれていた。 アランは旅装束に身を包み、愛馬の準備をしていた。騒ぎを最小限に抑えるため、リオネルと数名の精鋭騎士だけを連れて、秘密裏に出発するつもりだった。 彼の懐には、マリー宛の置き手紙が忍ばせてある。必ず帰るという誓いと、彼女を危険に晒したくないという本心が綴っておいた。愛する人を守るための、彼なりの最善の策だった。 アランが馬に乗り込もうとした、その時。「お待ちください、アラン様」 凛とした声に振り返れば、マリーが立っていた。彼女もまた丈夫な旅の服に身を包んでいる。薬草や治療道具が詰まった大きな鞄を肩から下げていた。 泣いたり、懇願したりする様子はない。彼女の緑色の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。 彼女の後ろには、リオネルが困ったような、しかしどこかマリーを支持しているような顔で立っている。「マリー。ここは君が来るべきではない。危険すぎる。部屋に戻りなさい」 アランの驚きは、すぐに厳しい声に変わった。 けれどマリーは一歩も引かなかった。「『月光花』について、一番詳しいのは誰ですか? 正確に見分けられるのは? もしあなたが魔獣に傷つけられた時、その場で治療できるのは誰ですか? 私を連れて行くことが、正しい選択です」「私を誰だと思っている。必ず手に入れて戻ってくる。君はここで待っていればいい!」「あなたの誇りを傷つけたいわけではありません。ですが、あなたの命がかかっているのです。私たちの未来が。私の技を、信じてくだらないのですか?」 二人とも声を荒げているわけではない。しかし激しい意志の応酬であると、リオネルや他の騎士たちにもはっきりと伝わっていた。 アランは君を守るのが義務だと言い、マリーはあなたを救うのが使命だと言う。 見かねたリオネルが、二人の間に割って入った。「団長、マリー様のおっしゃる通りです。彼女の知識は、今回の作戦の成功率を格段に上げるでしょう。それに……正直に言って、彼女を置いていっても、きっと一人で後を追ってきますよ」
last updateLast Updated : 2025-08-18
Read more

19

 王都を離れて数日、一行は人の手が入っていない荒野を進んでいた。 夜の冷気の中、騎士たちが硬い干し肉をかじりながら野営の準備を進める。 マリーは周囲の荒れ地を散策し、食べられる野草や、疲労回復効果のあるハーブを摘み集めていた。「マリー様、それは……?」 リオネルが訝しげに尋ねる。マリーはにっこりと微笑んで、摘んだ野草と持参した僅かな食料で、温かいスープを作り始めた。薬師としての知識が、こんな場面でも役立つことが嬉しかった。 やがて焚き火の鍋から優しい香りが立ち上る。騎士たちの顔がほころんだ。予期せぬ温かい食事に、彼らの士気は目に見えて上がった。 食事の後、アランとマリーは二人きりで焚き火のそばに座っていた。「君は、本当に何でも知っているのだな。森の薬草だけでなく、荒野の草まで」 アランが感心したように言う。「孤児院にいた頃、森や野原が私の遊び場でしたから」 マリーは少し照れながら、初めてアランに自分の生い立ちを語った。親に捨てられた孤児であることは、マリーにとって引け目だった。『自分はいらない子』そんな思いを引きずって、打ち明けることができなかった。 でも、もうそんなことは気にしない。アランであれば、全てを受け止めてくれる。 アランは彼女の言葉に静かに耳を傾けた。騎士になる前の、自身の不器用だった少年時代の話を少しだけ打ち明けてくれた。二人の間に、より深い心の繋がりが生まれていく。 その時だった。 夜の静寂を破り、闇の中から複数の影が飛び出してくる。血と呪いの気に引き寄せられる魔獣「墓場の狼(グレイブウルフ)」の群れ。狼たちの狙いは明らかだ。呪いを宿すアランに、一斉に襲いかかる。「マリー、下がっていろ!」 アランは即座に彼女を背後にかばい、剣を抜く。彼の青い瞳が、戦闘時の冷たい光を放った。圧倒的な技量で狼を斬り伏せるが、呪いの影響で、その体力は平時よりも早く消耗していく。 その一瞬の隙を突き、一匹の狼が防御をかいくぐり、彼の腕を鋭い爪で切り裂いた。「アラン様!」
last updateLast Updated : 2025-08-19
Read more

20

「嘆きの谷」の入り口に立った瞬間、マリーは全身の肌が粟立つのを感じた。 空気が違う。これまでの荒野とは比べものにならないほど、濃密で冷たい瘴気が淀んでいる。まるで生きた巨大な獣の体内に入り込んでしまったかのような、不快な圧迫感。天を突くようにそびえる牙のような岩肌は、訪れる者すべてを拒絶している。「全員、気を引き締めろ! ここからは何が起きてもおかしくない!」 リオネルが鋭く叫び、騎士たちが緊張した面持ちで頷く。 その時だった。先頭を進んでいたアランの馬が、苦しげにいなないて立ち止まった。「どうしましたか、アラン様?」 マリーが声をかけるより早く、アランの体がぐらりと大きく傾いだ。彼は咄嗟に手綱を掴み直して体勢を立て直そうとしたが、その顔からは見る見るうちに血の気が引いていく。「ぐっ……ぅ……!」 歯を食いしばる彼の額に、脂汗が噴き出した。マリーが毎日淹れていた抑制薬の効果を、谷の瘴気が打ち消して、さらに呪いを活性化させているのだ。「アラン様!」 マリーは悲鳴を上げて馬から飛び降りた。リオネルたちも慌てて駆け寄り、苦悶の表情で馬から落ちそうになるアランの体をなんとか支える。 彼の体は火のように熱く、それでいて肌を通して伝わってくるのは、死を思わせる氷のような冷たい気配だった。胸元の呪いの痣が、服の上からでもわかるほど禍々しい色を放ち、脈打っている。「いけない……このままでは呪いに体を喰い尽くされる……!」「マリー様、どうすれば」「とにかく、少しでも瘴気の薄い場所へ! 岩陰を探して!」 マリーの指示で、騎士たちは近くの岩窟へアランを運び込んだ。彼はもはや意識も朦朧とし、荒い呼吸を繰り返すばかり。その苦しそうな様に、マリーの心はナイフで抉られるように痛んだ。 リオネルが騎士たちに周囲の警戒を命じ、岩窟の入り口を固める。その間、マリーは一人、必死にアランの看病にあたった。 持ってきた鞄から薬草を広げ、
last updateLast Updated : 2025-08-20
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status