LOGINマリーは森で暮らす薬師。孤児で天涯孤独の身ながらも、村人に慕われながら穏やかに暮らしていた。 しかしその生活は、ある夜の訪問者によって一変してしまう。 マリーの元にやってきたのは、瀕死の騎士アラン。 死の呪いに侵された彼を救うため、マリーは「契約」を受け入れる。 形だけの婚約者として、王都に同行することとなる。 アランの本来の婚約者、公爵令嬢クラリッサの罠を跳ね返しながら、マリーとアランは思いを深めていく。 これは、偽りの関係から始まった二人が、困難を乗り越え真実の愛と幸せな未来を手に入れる物語。
View More木々の葉が擦れ合う音は、まるで穏やかな囁きのようだ。人々の暮らす村から少し歩いた先、森の入り口にその小屋はひっそりと佇んでいる。
マリーがこの場所を選んだのは、一つには広々とした薬草畑を作る土地が必要だったから。そしてもう一つは、多種多様な恵みをもたらしてくれる深い森へ、すぐに入れるためだった。昼下がりの優しい光が、彼女の薬草畑に降り注いでいる。ラベンダーの優しい紫、カモミールの可憐な白、ミントの力強い緑。それらはすべて、マリーが丹精込めて育てた、彼女にとって宝物のような存在だった。
「よし、今日の分はこれくらいかな」
籠に摘みたての薬草を入れながら、マリーは呟いた。太陽の光を浴びてキラキラと輝く茶色の髪は、作業の邪魔にならないように、きっちりとした三つ編みに結われていた。薬草を慈しむように見つめる瞳は、まるで雨上がりの森の葉のような深く澄んだ緑色。
孤児院を出てこの森で暮らし始めてもう三年。魔法やその他の才能に恵まれなかった彼女にとって、この薬草の知識と調合の技術だけが、たった一つの拠り所だった。
捨てられた孤児であるマリーは、他に生きるすべを持たない。天涯孤独で頼れる人もいない。
だから精一杯生きて行こうと決意した。
籠を手にマリーは慣れた小道を下って村へ向かった。彼女の姿を見つけると、井戸の近くで遊んでいた小さな女の子が駆け寄ってくる。
「マリー! この前の薬でママの咳が治ったよ、ありがとう!」
「よかった、アンナ。お母さんによろしく伝えてね」マリーがはにかんで答えると、アンナは嬉しそうに頷いて母親の元へ駆けていった。すれ違った老婆が、皺の刻まれた顔で優しく微笑む。
「やあ、マリー。いつもすまないねぇ。あんたは本当に、この村にとって森の天使様だよ」
「そんな、エルマさん。天使だなんて、とんでもないです」マリーは慌てて首を横に振った。
「私にできるのは、薬草の力を借りることだけですから」
その言葉に嘘はない。けれど、心のどこかで、本物の奇跡を起こせる治癒魔法使いへの憧れと、そうなれない自分への小さな引け目があることも事実だった。
+++ 夕暮れ時、マリーは自分の小屋に戻っていた。壁一面に並んだ薬草棚、古い薬学書が積まれた机、質素だが隅々まで掃き清められた室内。摘んできた薬草を種類ごとに仕分け、慣れた手つきで天井から吊るしていく。窓の外が茜色に染まるのを眺めながら、ことことと鍋でスープを煮込む。村でのアンナの笑顔や、エルマさんの優しい言葉を思い出し、胸が温かくなった。
(私にも、できることがある)
そう思う一方で、ふとした寂しさが胸をよぎる。
もし自分にもっと大きな力があれば。特別な治癒魔法が使えたなら、助けを求める人々の苦しみを一瞬で取り除いてあげられるのに。孤児院にいた頃から、ずっとそう願ってきた。「……ううん、私にできることを頑張ろう」
自分に言い聞かせるように呟き、マリーは前向きに気持ちを切り替えた。彼女は自分の無力さを知っている。それでも、決して諦めはしなかった。
――と。
穏やかな森の空気が、ぴんと張り詰めた。それまで聞こえていた鳥たちの声が、ぴたりと止む。不自然な静寂。 次の瞬間、森の奥から何かが強く地面に打ち付けられるような鈍い音と、バキバキと木々の枝が派手にへし折れる音が響き渡った。それは熊や猪のような、聞き慣れた森の獣の音ではなかった。スープをかき混ぜていたマリーの手が、止まる。
彼女の穏やかな緑の瞳が、瞬時に鋭い警戒の色を帯びた。本能が危険を告げている。 マリーは音を立てないように暖炉のそばに置いてあった護身用のすりこぎ棒を手に取ると、息を殺してゆっくりと扉に近づいた。扉の向こう側から、苦しげな、押し殺したような息遣いが聞こえる。
マリーは固唾を飲んだ。「……誰か、いるの?」
彼女のかすかな声は、静まり返った森に吸い込まれていった。
王都へ帰還したアランとマリーを、騎士団の仲間たちは、まるで英雄の凱旋のように熱狂的に出迎えた。「団長! ご無事で!」 「マリー様も、よくぞご無事で!」 アランが呪いから完全に解放されたという事実は、騎士団にとって何よりの吉報だった。詰所は喜びに包まれて、誰もが二人の無事を心から祝った。 その喜びは、すぐに確信へと変わる。 数日後に行われた模擬戦で、アランは部下たちを赤子扱いするかのように圧倒した。呪いから解放された彼の剣技は、人間の限界を超えて冴え渡る。美しく気品あふれる一挙手一投足は、見る者を魅了した。 時を同じくして、国境で魔獣の大発生が勃発した際には、自ら先陣を切って出陣。わずか一日で完璧に鎮圧し、「王国最強」の伝説を改めて王国中に知らしめた。騎士団の士気は、かつてないほどに高まっていた。 一方、マリーの存在もまた、騎士団にとって不可欠なものとなっていた。 彼女の提案で、詰所の裏庭には本格的な医務室と、陽当たりの良い薬草園が新設された。責任者はもちろんマリーだ。彼女が調合する回復薬や特製の傷薬は、騎士たちの任務における生存率を劇的に向上させた。 いつしかマリーは、団員たちから畏敬と親しみを込めて「騎士団の至宝」「俺たちの守護天使」と呼ばれるようになっていた。かつて「平民風情」と侮蔑された少女は、今や騎士団という新しい家族の中で、誰よりも愛され、信頼される存在となっていたのだ。 やがて季節が巡り、柔らかな日差しが降り注ぐ春の日。 騎士団の仲間たちに見守られながら、アランとマリーのささやかな結婚式が執り行われた。国王や大貴族を招いた盛大なものではなく、気心の知れた「家族」だけが集う、温かな誓いの場だった。「マリー。君に改めて、永遠の愛を誓おう。私の全ては、君のもの」 「ええ、アラン様。私の全ても、永遠にあなたのものです」 純白のドレスを纏ったマリーの隣で、アランが誇らしげに微笑む。リオネルが涙ながらに祝福の言葉を述べ、騎士たちが口々に二人を祝う。「おめでとう、団長、マリー様!」 「おめでとう! お幸せに!」 「み
守護者に見守られながら、マリーは月光花を数輪、慎重に摘み取った。その花弁は、指先に触れると淡い光の粒子を放つ。不思議な温もりと芳しい香りが伝わってきた。 一行は急いで岩窟へと戻った。ここが、最後の戦いの場となる。 他の薬草や調合道具は、全て準備を整えてきた。あとは月光花を加えるだけだ。「アラン様。少しだけ、血をいただきます」 マリーはアランの腕を取り、小さなナイフで彼の指先をほんの少しだけ傷つけた。滴り落ちた血の中には、呪いの根源である微小な黒い結晶が混じっている。それをガラスの小皿に受け止めると、マリーは調合に取り掛かった。 岩窟の中は、息を呑むような静寂に包まれていた。リオネルも他の騎士たちも、固唾を飲んでマリーの手元を見守っている。 すり鉢に月光花を入れ、ゆっくりとすり潰していく。花弁は銀色の光を放ちながら、甘く清らかな香りを漂わせた。そこへ、アランの血を数滴加える。 ジュッ、と黒い煙が上がり、二つの物質が激しく反発し合う。マリーは眉一つ動かさず、そこに浄化作用のある聖なる泉の水を一滴ずつ垂らし、丹念に練り上げていった。 まるで神聖な儀式のようだった。マリーの緑の瞳は尋常ではない集中力に満ちて、手つきに一切の迷いはない。薬師として培ってきた全ての知識と技術、そしてアランへの愛が、一つ一つの動作に注ぎ込まれている。 やがてすり鉢の中身は、まばゆい光を放つ黄金色の液体へと変化した。満月の色を持つ、特効薬の完成だった。「アラン様……」 マリーが差し出す小瓶を、アランは静かに受け取った。彼の青い瞳には、マリーへの絶対の信頼が宿っている。彼は迷うことなく、黄金色の液体を一気に飲み干した。 次の瞬間、信じられないことが起こった。「ぐっ……あああああっ!」 アランの体から、これまでとは比較にならないほどの黒い瘴気が激しく噴き出したのだ。それは断末魔の叫びを上げるように渦を巻き、彼の体を内側から破壊しようと暴れ狂う。「団長!」 リオネルたちが悲鳴を上げる。しかし、マリーは叫んだ。「大丈夫です! これは、呪
マリーの不眠不休の看病と、二人の魂の誓いが奇跡を起こしたのか。夜が明ける頃には、アランを苛んでいた激しい発作は嘘のように治まり、彼の呼吸は穏やかな寝息へと変わっていた。 マリーの調合した薬が、彼の生命力をかろうじて繋ぎとめている。その綱渡りのような状態のまま、一行は谷のさらに奥深くへと進んだ。 そして、運命の夜が訪れる。 谷の瘴気を振り払うかのように、満月が煌々と夜空を照らし始めた。その青白い光が、一行の進む先に信じられないほど幻想的な光景を映し出す。 谷の最深部、小さな泉が湧く開けた場所に、それはあった。 淡い銀色の光を放つ花々が、一面に咲き誇っている。月光を花弁に吸い込んだかのような、儚く美しい光景。 マリーが古文書で見た、幻の薬草『月光花』の群生地だった。「なんて、美しい……」 マリーが息を呑む。その神々しいまでの光景に、リオネルたちも言葉を失っていた。 花々に駆け寄ろうとした瞬間。泉の奥の暗がりから、巨大な影がゆっくりと姿を現した。 それは獅子だった。だが、ただの獅子ではない。体躯は馬の何倍も大きく、たてがみは月光を編み込んだ銀糸のように輝いている。そして何より、琥珀色の瞳には凶暴な獣性ではなく、悠久の時を生きてきた者だけが持つ、深い知性と威厳が宿っていた。 古の魔獣、『月詠みの獅子』。伝説に謳われる、谷の守護者である。 その場にいる全員の頭の中に直接、重々しい声が響き渡った。『この花は、清らかなる魂を持つ者にしか触れることは許されぬ』 魔力による念話。極めて高度な魔法だ。マリーはゴクリと喉を鳴らした。『お前たちの中に、その資格を持つ者はいるか。いるならば、その覚悟を、ここで示せ』 守護者の言葉に、アランがマリーの前に立ちはだかるように剣を抜いた。彼の体はまだ万全ではない。それでも、その青い瞳には愛する者を守るという騎士の誇りが燃えていた。「この花は、我々の未来に必要不可欠なもの。もし力ずくで奪わねばならぬのなら、この命に代えても!」 「お待ちください、アラン様」 アラ
「嘆きの谷」の入り口に立った瞬間、マリーは全身の肌が粟立つのを感じた。 空気が違う。これまでの荒野とは比べものにならないほど、濃密で冷たい瘴気が淀んでいる。まるで生きた巨大な獣の体内に入り込んでしまったかのような、不快な圧迫感。天を突くようにそびえる牙のような岩肌は、訪れる者すべてを拒絶している。「全員、気を引き締めろ! ここからは何が起きてもおかしくない!」 リオネルが鋭く叫び、騎士たちが緊張した面持ちで頷く。 その時だった。先頭を進んでいたアランの馬が、苦しげにいなないて立ち止まった。「どうしましたか、アラン様?」 マリーが声をかけるより早く、アランの体がぐらりと大きく傾いだ。彼は咄嗟に手綱を掴み直して体勢を立て直そうとしたが、その顔からは見る見るうちに血の気が引いていく。「ぐっ……ぅ……!」 歯を食いしばる彼の額に、脂汗が噴き出した。マリーが毎日淹れていた抑制薬の効果を、谷の瘴気が打ち消して、さらに呪いを活性化させているのだ。「アラン様!」 マリーは悲鳴を上げて馬から飛び降りた。リオネルたちも慌てて駆け寄り、苦悶の表情で馬から落ちそうになるアランの体をなんとか支える。 彼の体は火のように熱く、それでいて肌を通して伝わってくるのは、死を思わせる氷のような冷たい気配だった。胸元の呪いの痣が、服の上からでもわかるほど禍々しい色を放ち、脈打っている。「いけない……このままでは呪いに体を喰い尽くされる……!」「マリー様、どうすれば」「とにかく、少しでも瘴気の薄い場所へ! 岩陰を探して!」 マリーの指示で、騎士たちは近くの岩窟へアランを運び込んだ。彼はもはや意識も朦朧とし、荒い呼吸を繰り返すばかり。その苦しそうな様に、マリーの心はナイフで抉られるように痛んだ。 リオネルが騎士たちに周囲の警戒を命じ、岩窟の入り口を固める。その間、マリーは一人、必死にアランの看病にあたった。 持ってきた鞄から薬草を広げ、