王城の庭園は、まるで地上に現れた楽園のようだった。
花壇には色とりどりの花々が咲き誇り、美しい蝶が舞っている。宮廷楽団が奏でる音楽はあくまで優雅で、絹のドレスや上質な礼服を纏った貴族たちの穏やかな談笑の邪魔をしない。テーブルに用意された料理の数々は目にも鮮やかで、いかにもおいしそうだ。何もかもが完璧に整えられた光景だった。そんな光景の中にあって、マリーは戦場に臨むような緊張感を胸に秘めていた。緑色の瞳はただ花を愛でるのではなく、その一つ一つの薬効や毒性を見極めるように、冷静に周囲を観察している。
アランはマリーの緊張を察して、彼女の手を力強くも優しく支えていた。美しく気品のある立ち振舞だったが、青い瞳は鋭い光を宿している。さりげない動作で周囲を警戒していた。パーティーが中盤に差し掛かる頃。クラリッサは王妃の側近である伯爵夫人など、影響力のある貴婦人たちの輪の中心にいた。近くの茂みに紛れたリオネルが、会話に聞き耳を立てる。
「アラン様の最近のご様子、皆様もご心配でしょう?」
クラリッサは、心から元婚約者を心配しているかのような、悲しげな表情を浮かべた。
「森から来たというあの方が、得体のしれない薬草を毎日煎じて飲ませているとか……。あれが本当に、アラン様のおためになっているのか、私には不安で……」
「まあ、それは聞き捨てなりませんわね」伯爵夫人が扇で口元を隠す。
「騎士団長の健康は、この国の安全保障に関わる問題ですもの」
「ええ、その通りです」クラリッサはマリーを単なる恋敵ではなく、「国の安全を脅かす存在」として巧妙に印象付けて、着々と包囲網を完成させていた。
一方アランはマリーを伴って、あえて人々の注目が集まるティースペースへと向かった。 先日の夜会でマリーを評価したローゼンタール公爵を見つけると、自ら挨拶に行く。マリーを「私の婚約者であり、類稀なる才能を持つ薬師です」と、誇らしげに紹介した。 マリーは、レッスン通り優雅にお辞マリーは一杯目のお茶をアランのカップに注いだ。ハーブの穏やかな香りが、周囲にふわりと広がる。 アランが、そのカップを静かに口に運ぼうとした、その時のこと。 クラリッサが悲鳴に近い声で叫んだ。「お待ちになって、アラン様! そのお茶を飲んではいけませんわ!」 芝居がかった仕草でアランの腕を押さえ、カップをテーブルに戻させると、震える指でマリーを指さした。美しい金色の瞳には、計算され尽くした恐怖と怒りが浮かんでいる。その奥に浮かぶ嘲りは見事なまでに隠されていて、誰にも気づかれなかった。マリーとアラン以外には。 その声に応じるように、近くに待機していた王宮衛兵と、威厳のある初老の男性――王宮薬師長が姿を現した。 クラリッサは、周囲に響き渡る声で高らかに言う。「皆様、お聞きください! この女が、我らが騎士団長を毒殺しようとしています! そのお茶には、古来より暗殺に使われる猛毒、『黒百合』が仕込まれているのです!」 会場は水を打ったように静まり返り、次の瞬間、大きな驚きの声とどよめきに包まれた。クラリッサが事前に根回しをしていた貴婦人たちは、顔を見合わせ、さも「やはり」と言いたげに頷き合う。 衛兵たちは、マリーとアランを取り囲むように立って逃げ道を塞いだ。「馬鹿なことを言うな、クラリッサ嬢!」 アランは即座にマリーの前に立ち、彼女を背にかばう。「私の婚約者への、許しがたい侮辱だ!」 と、冷たい怒りを込めて言い放った。 しかしマリーは彼の袖をそっと引いて、「アラン様、大丈夫です」と囁いた。 クラリッサを真っ直ぐに見つめる。その緑色の瞳に恐怖はない。静かな憐れみのような色すら浮かんでいた。落ち着き払った態度に、クラリッサは内心で苛立った。 王宮薬師長が、厳粛な面持ちで進み出る。「クラリッサ様からのご懸念を受け、鑑定させていただきます」 そう告げると、アランのカップからお茶を少量採取し、持参した銀の小箱から特殊な試薬を取り出した。お茶に一滴垂らす。 すると透明だった液体が、またたく間に不吉な黒紫色へと変化した
王城の庭園は、まるで地上に現れた楽園のようだった。 花壇には色とりどりの花々が咲き誇り、美しい蝶が舞っている。宮廷楽団が奏でる音楽はあくまで優雅で、絹のドレスや上質な礼服を纏った貴族たちの穏やかな談笑の邪魔をしない。テーブルに用意された料理の数々は目にも鮮やかで、いかにもおいしそうだ。何もかもが完璧に整えられた光景だった。 そんな光景の中にあって、マリーは戦場に臨むような緊張感を胸に秘めていた。緑色の瞳はただ花を愛でるのではなく、その一つ一つの薬効や毒性を見極めるように、冷静に周囲を観察している。 アランはマリーの緊張を察して、彼女の手を力強くも優しく支えていた。美しく気品のある立ち振舞だったが、青い瞳は鋭い光を宿している。さりげない動作で周囲を警戒していた。 パーティーが中盤に差し掛かる頃。クラリッサは王妃の側近である伯爵夫人など、影響力のある貴婦人たちの輪の中心にいた。近くの茂みに紛れたリオネルが、会話に聞き耳を立てる。「アラン様の最近のご様子、皆様もご心配でしょう?」 クラリッサは、心から元婚約者を心配しているかのような、悲しげな表情を浮かべた。「森から来たというあの方が、得体のしれない薬草を毎日煎じて飲ませているとか……。あれが本当に、アラン様のおためになっているのか、私には不安で……」「まあ、それは聞き捨てなりませんわね」 伯爵夫人が扇で口元を隠す。「騎士団長の健康は、この国の安全保障に関わる問題ですもの」「ええ、その通りです」 クラリッサはマリーを単なる恋敵ではなく、「国の安全を脅かす存在」として巧妙に印象付けて、着々と包囲網を完成させていた。 一方アランはマリーを伴って、あえて人々の注目が集まるティースペースへと向かった。 先日の夜会でマリーを評価したローゼンタール公爵を見つけると、自ら挨拶に行く。マリーを「私の婚約者であり、類稀なる才能を持つ薬師です」と、誇らしげに紹介した。 マリーは、レッスン通り優雅にお辞
ガーデンパーティーまでの数日間を、マリーは研究室にこもりきりで過ごした。 目の前には、妖しく咲き誇る一輪の「黒百合」。その花弁から毒を抜き出して薬効だけを残す作業は、一瞬の気の緩みも許されない、危険で繊細なものだった。 微量単位の調合、温度の徹底管理。額には玉の汗が浮かぶ。緑の瞳は尋常ではない集中力の光を宿して、輝いていた。(怖い。もしも失敗したら、大変なことになる。でもこの技術が、私とアラン様を守る唯一の剣になる) マリーは恐怖に晒されながらも、手を止めようとしない。極限状態での経験が、薬師としてさらなる成長を促していた。 その頃。侯爵令嬢クラリッサは、自室の豪華な鏡の前で侍女たちにパーティーで着るためのドレスを選ばせていた。「まあ、クラリッサ様、本当にお美しいですわ」「当たり前でしょう」 侍女の賞賛に、クラリッサは見下した笑みを浮かべる。「明日は大事な記念日。あの小汚い薬師が団長毒殺未遂の罪で引き立てられる、記念すべき日になるのだから。せいぜいお洒落をして、最高の見物をして差し上げないと」 自分の計画の成功を微塵も疑っていない。その傲慢さが、自らの首を絞めることになるとは知らずに、クラリッサは笑い続けた。 一方、騎士団の訓練場では、アランがいつも以上に激しく剣を振るっていた。苛烈だが迷いのある剣筋。マリーを危険な計画の中心に置いてしまったことへの苛立ちと不安が表れている。 金の髪が陽光を弾いて、黄金のように輝く。青い瞳が冴え冴えとした光を灯す。 いつもの真っ直ぐな豪剣を知る部下たちは、見慣れない団長の姿に動揺している。「団長」 リオネルが声をかけた。「マリー様を信じましょう。彼女は俺たちが思うより、ずっと強い女性ですよ」 アランは剣を振るうのをやめ、息を切らしながら答える。「わかっている。だが、信じることと、心配することは別だ。もし、万が一のことがあれば。私
マリーは妖しくも美しい「黒百合」を、慎重に布で包んだ。布は薬液に浸して絞ったもの。こうすれば、当面は黒百合の毒が漏れ出る心配はない。 心を満たしていたのは、もはや恐怖ではなかった。人の命とアランの誠意を弄ぶクラリッサへの、氷のように冷たい怒りだった。 迷わずアランの執務室へ向かう。その足取りには、以前のようなおどおどとした様子は微塵もなかった。 執務室では、アランとリオネルが例の噂――騎士団長の婚約者は、得体のしれない薬草で団長の体を無理やり回復させている――について話し合っていた。「失礼します」 ノックもそこそこにマリーが入ってくる。ただならぬ気配に二人は言葉を切った。 マリーは無言で、布に包んだ『黒百合』を机の上に置く。毒草を解説し、クラリッサの狙いが何であるかを説明した。「ひどすぎる! すぐに王家へ突き出して、断罪してもらいましょう!」 リオネルが叫んだが、アランは黙ったままだった。静謐さの中に激しい怒りを滲ませている。彼の青い瞳は、凍てつく冬の湖のように冷たい光を放っていた。「私を狙うだけならいい。だが、マリーに濡れ衣を着せるとは……!」 底知れない怒りを秘めた声音だった。「待ってください」 そんな二人を、マリーの凛とした声が制止した。「ただ突き出しただけでは、彼女はきっと『知らなかった』『良かれと思って贈った希少な薬草に、そんなものが混じっていたなんて』と白を切るでしょう。黒百合はとても珍しい薬草で、たとえ薬師であっても毒性を知る人は多くありません。ただの水掛け論になってしまいます」 マリーは黒百合を手に取り、二人に向き直った。緑色の瞳には、強い決意と薬師としての自信が宿っていた。「この毒は、扱い方によっては最高の薬にもなります。ごく一部の古文書にしか載っていない、幻の調合技術ですが……私ならできます。毒を完全に無効化し、滋養強壮の効果だけを引き出すことが」 彼女は不敵に微笑んだ。「クラリッサ様は、私があなたを毒殺するのを見たいのですよね
夜会の翌朝、騎士団詰所の空気は明らかに変わっていた。 マリーに向けられていた猜疑の眼差しは、好奇心と、一部には尊敬の色すら混じったものになっている。すれ違う騎士たちが、ぎこちないながらも「マリー様、おはようございます」と挨拶をしてくるようになった。 その変化をアランも感じていた。彼はリオネルを呼ぶと、団内に響く声で命じた。「マリー嬢が行う治療に必要な薬草や器具について、予算は問わない。国内で手に入る最高のものを用意しろ。彼女の研究は、私の体調に直結する重要任務だ」 彼女の薬師としての価値を、アランが公に認めさせた瞬間だった。 昼下がり、アランは「治療の経過報告」という名目で、マリーの小さな研究室を訪れた。熱心に薬学書を読み解き、薬草を調合する姿を、興味深そうに眺める。「君はいつも、これほど集中しているのか」「あなたの呪いを解くためには、一刻も無駄にはできませんから」 騎士と薬師。立場は違うものの、真剣に仕事に取り組むさまはアランの心に響いた。「……頼りにしている」 マリーは思わず手を止めた。初めて告げられた、信頼の言葉。 心に温かいものがこみ上げる。「私、もっと頑張りますね」 必ず呪いを解かなければ。マリーは決意を新たにして、調合に取り組んだ。 穏やかな日々は長くは続かなかった。 数日後、王家主催のより格式高い「ガーデンパーティー」への招待状が届いたのである。時を同じくして、リオネルが憂鬱な顔で報告に来る。「団長、妙な噂が流れています。『騎士団長の婚約者は、得体のしれない薬草で団長の体を無理やり回復させている。あれは本当に薬なのか?』と……」 アランは眉をひそめた。真っ先に思い当たったのは、クラリッサ。嫌がらせに反撃され、プライドを傷つけられた彼女が噂を流しているのでは? しかしすぐに首を振った。アランの敵、政敵は他にもいる。決めつけは危険だ。 ガーデンパーティ
バルコニーから大広間へ戻ると、明らかに空気が変わっていた。 囁き声は続いているが、その内容は侮蔑的な嘲笑から、「あの娘は何者なのだ?」という強い好奇心と、ある種の畏敬へと変化している。二人が歩くと、さざ波が引くように人々が自然と道を開けた。 まだ緊張は解けないものの、アランのたくましい腕に支えられ、マリーは先ほどよりも少しだけ背筋を伸ばして前を向くことができた。彼の隣に立つ、ということの重みを実感する。 その時、人垣を割って、白髪の老紳士が二人の元へ歩み寄ってきた。王国の重鎮であり、誰の派閥にも属さないことで知られるローゼンタール公爵その人だった。周囲の貴族たちが、固唾をのんでその様子を見守っている。「フェルディナンド卿の心を射止めたご令嬢は、随分と芯の強いお方のようだ」 公爵の鋭いが、どこか温かみのある目がマリーに向けられる。「マリー殿とやら、あなたの趣味は何かな?」 突然の問いにマリーは一瞬戸惑ったが、正直に答えた。「趣味、と呼べるほどのものではございませんが……。薬草を育て、その効能を調べるのが好きです」 その答えに、公爵は満足そうに深く頷いた。周囲に聞こえるように言う。「ほう、薬草とな。見かけの美しさよりも、人を癒す実践的な知識の方が、よほど価値がある。フェルディナンド卿は、実に良いお相手を見つけられたな」 この一言が、マリーに対する評価を決定づけた。大物貴族からの「お墨付き」を得たことで、もはや誰も彼女を公然と侮辱できなくなる。アランの青い瞳に、安堵とマリーへの誇らしさが浮かんだ。 公爵は続ける。「若者たちよ。只々人を貶めるだけでなく、自らの力を役立てるよう、心しなさい。このお嬢さんは平民だが、よい心構えをしている」 公爵はクラリッサの行いを見て、貴族にあるまじきことと眉をひそめていた。とはいえこの貴族社会で、少々の嫌がらせ程度で折れるような者は必要ない。 クラリッサのいじめを跳ね返したアランとマリーを、公爵は気に入ったのだった。 その光景を、クラリッサが遠くから苦々しく見つめていた。