All Chapters of 愛と彼女は、もうここにない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

氷川家の玄関前で、啓司は乱暴なほどの勢いでドアを叩いた。応じたのは柚葉の母だった。彼女は啓司の顔を見て、怪訝そうに眉をひそめる。「こんな朝早くに……どうしたの?」「お母さん、柚葉はいますか?」啓司は焦りを隠せずに問いかけた。「こんな時間にうちにいるわけないでしょ」その言葉に、啓司の胸が一気に冷え込む。それでも諦めきれず、なおも食い下がる。「じゃあ……柚葉がどこに行ったか、ご存じですか?昨夜、帰れなかったせいで怒らせてしまったみたいで、家に戻ったら彼女の物が全部なくなってたんです。探して、謝らないと……」「昨夜、帰らなかった……?」柚葉の母の表情が一変し、声が鋭くなる。「また外の女と一緒だったんじゃないでしょうね?前にどう約束したか覚えてる?あの女とはきっぱり切るって言うから、私は柚葉には黙って、あなたにやり直す機会をあげたのよ」啓司はうなだれ、悔恨を滲ませた声で言う。「……全部、俺が悪いんです。もう二度としません。だから、柚葉が行きそうな場所を教えてください。彼女なしじゃ……俺は……」「十中八九、浮気がばれたのよ」柚葉の母は怒気を含んだ声で言い放った。「今の柚葉は、あんたになんて会いたくないから姿を消してるの。いい?もし柚葉が離婚すると言ったら、私たちは止めないわ……自分でまいた種でしょ」そう言い捨てると、バタンと音を立てて扉を閉めた。「……柚葉、必ず見つけるから」啓司は踵を返し、その日一日、彼女の行方を探し続けた。知り合いに片っ端から電話をかけても、返ってくるのは首を振る声ばかり。朝から夜まで、何の手がかりも得られなかった。まるで、地上から忽然と消えてしまったかのように。車の中で青ざめた顔のまま、啓司は震える指で柚葉の勤務先の校長に電話をかけた。「もしもし……瀬名柚葉の夫の瀬名啓司です。妻のことで――」言葉を最後まで言い切る前に、受話器から返ってきたのは思いがけない一言だった。「柚葉先生なら、一週間前に退職されましたよ」啓司の手がぎゅっと携帯を握りしめる。……一週間前に退職?じゃあ、前から出て行くつもりで――?まさか……本当に浮気を知ってしまったのか。そんなはずは……いや、どうして……啓司は記憶を手繰り寄せる。この
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第12話

彼は思いもしなかった――自分の身勝手と放縦が、柚葉をここまで深く傷つけていたとは。子どもを、そして二人の婚姻そのものをも捨て、振り返ることなく去ってしまうほどに。啓司は後悔に駆られ、頭を拳で何度も叩いた。なぜもっと早く柚葉の異変に気づかなかったのか。なぜ欲望に目を曇らされ、澄香との間違った関係に溺れてしまったのか。胸を鷲づかみにされるような激しい締めつけが、息をするのさえ苦しくさせる。彼と柚葉は幼なじみだった。物心ついた頃から、啓司は彼女が好きだと知っていた。大きくなったら必ず柚葉と結婚し、子を授かり、一生仲睦まじく過ごす――そう心に決めていた。大学時代は遠距離恋愛。周囲の友人は遊び人ばかりで、二股を勧められることも少なくなかった。だがそのたび、啓司はきっぱりと断り、「俺が愛しているのは柚葉だけだ」と言い切った。彼女を裏切るなんて、ありえない。もしまたそんなことを口にしたら、友人でも縁を切る――そうまで言い放った。……それなのに、社会に出てから、彼は自分の本心を見失っていった。勤務初日、柚葉は心配そうに尋ねた。「お医者さんの世界って、風紀が乱れてるって聞くよ……啓司は流されないよね?」あの時、彼は自信満々に笑って言った。「柚葉、俺を信じろ。泥の中でも真っ直ぐに咲く蓮のように汚れない。環境なんかに流されるもんか」――その言葉は、虚しい嘘になった。数えきれない夜、彼は考え続けた。なぜ学生時代のように、柚葉への忠誠を保てなかったのか。手に入れてしまえば大切にできなくなる性分なのか。結婚生活の繰り返しの毎日が、夫婦の営みの型にはまった退屈さが、満たされない理由だったのか。それとも、仕事の重圧から逃れるためのはけ口が欲しかったのか。――おそらく、その全てだ。同僚たちの誘いもあり、彼は泥沼に足を踏み入れ、やがて同じ色に染まっていった。澄香と関係を持ち始めた当初は、行為の後に必ず虚しさが押し寄せた。「これが本当に自分の求めているものか?肉体の欲望は、柚葉との愛情よりも大切なのか?」そう自問し、もう終わりにしようと何度も思った。だが――浮気は、麻薬のように癖になる。男の奥底にある抑えきれない本能が、新しさと刺激を求め続ける。やめようと決意しても、澄香に再び誘われれ
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第13話

啓司は立ち上がり、荒々しく顔をぬぐった。視線は手元の離婚届に落ちる。考える間もなく、それを引き裂いた。――離婚など、ありえない。柚葉は自分のものだ。幼なじみとして共に育ち、この先の人生もずっと一緒にいる運命なのだ。死ぬときは、同じ墓に入る――それが当然だ。啓司の表情は揺らがず、瞳には固い決意が宿る。彼は、柚葉を決して諦めはしない。たとえ彼女に憎まれ、生涯許されなくとも、絶対に手放すことはない。引き裂かれた離婚届を放り投げると、紙片はひらひらと宙を舞い、いくつかが中絶証明書の上に落ちた。啓司の目が鋭く細められ、胸の奥が再び激しく締めつけられる。深く息を吸い込み、その証明書をそっと拾い上げ、寝室へと足を運んだ。家の中から柚葉の痕跡はすべて消え、この紙だけが彼女の唯一の置き土産だった。――これは大切に保管する。犯した罪を忘れぬために。魂を鞭打ち、柚葉を失ったこの胸の痛みを、深く刻み込むために。その後、啓司は半月もの間、仕事を休み、ひたすら柚葉の行方を追い求めた。無数の捜索ビラを貼り、ネットでも情報を拡散。謝礼金六百万円を約束し、居場所の情報提供を呼びかけた。だが、金欲しさに根拠のない情報を流す者が後を絶たず、捜索はかえって混乱を極めた。啓司はやむなくそれを取り下げる。考えた末、柚葉が自分を避けるのは当然だが、両親や兄弟にまで会わないはずがないと踏んだ。そこで、彼は複数の人間を雇い、二十四時間体制で氷川家の家族を見張らせた。日々が過ぎていく――あっという間に半月以上が経ったが、柚葉は一度も姿を現さなかった。啓司はさらにやつれ、目は血走り、体つきも痩せ細っていった。そんなある日、スマートフォンが鳴る。啓司の瞳がぱっと輝く。柚葉からだと思い、画面も見ずに通話ボタンを押した。「もしもし、柚葉か?やっと――」「啓司君、私だ」受話口から響いたのは上司の厳しい声だった。「君の休暇はもう限界だ。明日は必ず出勤してもらう」……柚葉ではなかった。「……分かりました」落胆の色を隠せぬまま答え、電話を切る。啓司はそのままソファに崩れ落ち、天井を虚ろに見つめた。幼い頃、路地裏で追いかけっこをした日々。大人になり、寄り添って過ごした温かな時間。そして、何も告げずに去
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第14話

啓司は怒号とともに喫煙スペースへ駆け込み、澄香の胸ぐらをつかみ上げた。「おまえには何度も警告したはずだ……柚葉に俺たちのことを絶対に知らせるなと!」予想外に聞かれていたことと、獲物を食い殺さんばかりの啓司の眼光に、澄香の体がびくりとすくむ。「せ、先生……わ、私……わざとじゃないの……」うるんだ瞳から涙がこぼれ、彼女は啓司の手を自分の腹に押し当てた。「もう……お腹に赤ちゃんがいるの。ただ、この子を……私たちの子を、世間から私生児にしたくないだけ……」哀れさを前面に押し出し、心を動かそうとする澄香。だが、啓司はもうその手には乗らなかった。彼は彼女を乱暴に突き放し、血走った目で低く唸る。「何度も言ったはずだ……俺が認める子どもは、柚葉が産んだ子だけだ。おまえの腹の子なんざ――何の価値もない!それを柚葉の前に突きつけるとは……」突き飛ばされた澄香は床に尻もちをつき、そばにいた別の看護師は青ざめて逃げ出した。澄香は腹をかばいながら、ぼろぼろと涙を落とす。「啓司……どうしてそんなひどいことを……私、あなたを愛してるのよ。柚葉と同じくらい、いえ、それ以上に……どうして私を見てくれないの!」「おまえにその資格はない!」啓司は身をかがめ、再び胸ぐらをつかむ。血に染まったような瞳が、底なしの憎悪を宿して彼女を射抜いた。「白状しろ。わざと俺たちの関係をバラして柚葉に知らせたんだろう?ほかに何を言った、何をした?柚葉がそこまで俺を見限る気になったのは、おまえのせいか!」柚葉が去ったと聞き、澄香の顔に喜色が差す。「いなくなったの?だったら、もういいじゃない。啓司、私と結婚しましょう?柚葉より、私のほうがずっとあなたを愛してる。一緒に、この子と三人で――」「お前なんかが!」啓司の胸が大きく波打つ。憎しみは頂点に達していた。「俺は一度だって柚葉と別れるつもりはなかった。お前なんざ、ただの遊び相手だ。俺が間違って一線を越えたせいで、調子に乗らせてしまった……」澄香の顔から血の気が引き、信じられないというように啓司を見つめ、叫び声を上げた。「遊び……?どうして……そんな……私、あんなに……」啓司は泣き声など意に介さず、彼女のポケットをあさってスマートフォンを奪い取った。画面を開くと、送信済みのメッセージは
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第15話

廊下に、今にも声が枯れそうなほど怒気をはらんだ女の叫びが響き渡った。彼女の背後には、険しい顔つきの親族たちがずらりと続き、誰もが澄香をこらしめる覚悟を目に宿している。騒ぎは瞬く間に周囲の医療スタッフや患者家族の耳目を引き、足を止めた者たちが次々と輪を作った。好奇と噂好きの視線が一斉に集まる。声を聞いた途端、澄香の膝から力が抜け、もう一度倒れ込みそうになる。慌てて周囲を見回すが、この廊下に身を隠せる場所などどこにもない。すでに彼女を見つけた柚葉の母は、数歩で間合いを詰め、一気に髪をつかみ上げた。「この恥知らずの女……うちの婿をたぶらかして、娘をあんなに苦しめて、家を飛び出させたまま今も帰ってこないのよ!その面下げてここをうろつくなんて、よくもまぁ!」言うが早いか、澄香の頬に勢いよく平手を叩きつけた。澄香の顔が横へはじかれ、口の中に血の味が広がる。泣きながら必死に懇願する。「す、すみません……お願いです、許してください……」「許すですって?」柚葉の母は鼻で笑い、「あんたが啓司を誘惑して、娘の幸せも家庭も壊したとき、あの子をあそこまで追い詰めて、よく平気でいられるわね!」その間にも野次馬は増えていき、ひそひそ声が飛び交う。「なにごと?ずいぶん揉めてるな」「聞いたわよ。あの女、人の旦那に手を出して家庭を壊したらしい」「はぁ……ほんと下品ね。そりゃ叩かれて当然よ」耳に突き刺さる言葉が、澄香の羞恥と恐怖をさらにあおる。柚葉の母は彼女の髪をぐいと引き、無理やり顔を正面に向けさせた。「今日ここで、あんたがやったことを皆に知らしめて、その上できっちりけじめをつけさせる!」そう吐き捨て、背後の親族に合図を送る。すぐさま数人が前へ出て、澄香に拳や足を浴びせた。澄香はお腹をかばいながら地面に丸まり、か細い声で繰り返す。「やめて……お願い……私のお腹には子どもが……」だが、怒りに燃える一同の手加減は一切なかった。見物人の中には気の毒そうな顔をする者もいたが、誰一人として止めに入らない。中には軽蔑の色を隠さず、「不倫女にはお似合いよ」と罵声を浴びせ、携帯を取り出して写真や動画を撮り始める者までいた。澄香は耐えきれない痛みに顔を歪め、助けを求めるように啓司へ視線を向け、泣き声を交えて叫んだ。
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第16話

柚葉の母が怒りをぶちまけたあと、親族たちを引き連れて騒然とした現場を後にした。ほどなくして、医療スタッフが駆けつけ、傷だらけの澄香を担架に乗せて運び出す。啓司のそばを通り過ぎるとき、澄香は苦しげに手を伸ばし、その手をつかもうとした。「啓司……先生……」しかし彼は身を引き、冷たい目でまるで見知らぬ人間のように見下ろした。「これから先、二度と俺の前に現れるな。さもないと……容赦しない」「……ひどい人……」澄香の頬を涙が伝い落ち、彼女はそのまま医療スタッフに運ばれていった。ほどなくして、啓司は院長室に呼び出される。院長は険しい表情で、深い失望の色を隠さずに言った。「啓司君……うちは常に病院の信用を大事にしてきた。君の私生活がここまで大きな騒ぎになり、院内中がその話でもちきりだ。病院の評判にとって、これ以上ない悪影響だ」啓司はうなだれ、顔には羞恥の色が濃く浮かぶ。「院長……俺の過ちです。病院に泥を塗ってしまいました」院長は立ち上がり、室内を行ったり来たりと歩きながら続けた。「君と澄香、それから奥さんとの間にどんな事情があろうと、病院という場でこんな事態は絶対に許されない」足を止め、厳しい口調で告げる。「院内で協議した結果――君と澄香、二人とも懲戒解雇とする」その言葉に、啓司の肩がわずかに震えた。だが、ほとんど反論はしなかった。これはすべて自分が招いたことだ。自らの手で壊した家庭も、前途あるキャリアも――誰のせいにもできない。「……わかりました。処分を受け入れます」院長室を出ると、啓司はすぐに退職手続きを終えた。整形外科の同僚たちが見送りに集まる。健介が気まずそうに言った。「啓司……悪かった。あの時、俺たちがそそのかさなければ……」他の仲間たちも口々に謝罪する。こんな大事になるとは、誰一人として想像していなかったのだ。啓司は彼らを見渡し、胸の奥に苦い思いが広がる。確かに、あのときは彼らを恨んだ。もし誰にもそそのかされなければ、自分は柚葉を裏切る道を選ばなかったかもしれない、と。だが今は、外からの誘惑だけが理由ではないと分かっている。自分が大学時代のように揺るがぬ意志を保ち、柚葉だけを想っていれば――こんな結末にはならなかったはずだ。結局のところ、すべ
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第17話

啓司が家の玄関をくぐった瞬間、重苦しい空気が全身を包み込んだ。居間のソファには彼の父が腰掛けており、顔は恐ろしく険しい。向けられる視線には、失望と怒りがありありと滲んでいた。「この不孝者が!」父の怒声が広い居間に響き渡る。「お前がしでかした醜態を見ろ!瀬名家の名を地に落としてくれたな!」啓司はうつむき、「……父さん、俺が悪かった」と低く答えた。「悪かっただと?今さら何になる!」啓司の父は立ち上がり、数歩で彼の前へ詰め寄る。「物心ついた頃から、お前には責任を持てる男になれ、妻を大事にしろ、愛に誠実であれと教えてきた。それなのに……お前は結婚を何だと思っている?家訓をどこへ捨てた!」そう吐き捨て、父は脇に置いてあった藤の鞭を手に取った。「今日はきっちり叩き込んでやる。この戒め、骨の髄まで刻め!」啓司は避けなかった。自分が犯したのは許されざる過ち。罰を受けるのは当然だった。畳の上に膝をつき、鞭が容赦なく背に打ち下ろされるたび、皮膚が焼けるように痛む。だが胸の奥の痛みのほうが、はるかに深かった。思い出すのは――かつての柚葉の優しさ、信頼、惜しみない愛情。二人で過ごした温かな日々。今やすべて、自らの手で壊してしまった。彼の目が熱を帯び、悔恨で心臓が締めつけられる。啓司の母はそばで胸を痛めながら見ていたが、口を挟むことはできなかった。――これは息子が受けるべき罰だ。柚葉はあんなにも良い娘だった。幼なじみであり、全身全霊で息子を愛し、義父母をも大事にしてくれた。幼い頃から「大きくなったら柚葉を幸せにする」と言っていた息子が、結婚してからその約束を踏みにじり、外で女を作り、彼女の心を粉々にした。啓司母は深く息を吐き、顔をそむけてそれ以上見ようとせず、静かに涙をこぼした。息子のしでかしたことが、あまりにも情けなく、胸が張り裂けそうだった。やがて打ち終えると、啓司は力なく畳に倒れ込んだ。背には無数の痕が走り、白いシャツは血に染まっている。彼の父はその姿を見下ろし、歯噛みしながら言った。「体を治したら柚葉を探せ。連れ戻せなかったら……親子の縁を切る。二度とこの家に足を踏み入れるな!」啓司は歯を食いしばり、かすれ声で答えた。「……必ず見つけます。必ず、償います」母はたまらず駆
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第18話

一年後、啓司はついに柚葉の居場所を突き止めた。旅暮らしをしている友人が、ネヴァールで現地の暮らしや文化を味わっていた折、たまたま市場に買い出しに来ていた柚葉を見かけたという。慌てて写真を撮って啓司に送り、その後、密かに事情を探ったところ、彼女は国際ボランティアの教師として活動していることが分かった。ただし、そのネヴァールでの支援も、あと一か月で終わり、次の国へ向かう予定だという。啓司は写真の中の柚葉の眉目に指先をなぞらせ、溢れる想いに胸が詰まり、次第に目頭がじんと熱くなった。「……柚葉。すぐに迎えに行く」彼は最速でネヴァール行きの手続きを済ませ、妻を探す旅へと飛び出した。機内で、啓司はその写真を固く握りしめ、胸は期待と不安で揺れ動いていた。彼女はまだ自分を恨んでいるのかもしれない。もし許してくれなかったら……どうすればいいのか。啓司の頭の中を取り留めのない考えがぐるぐると巡り、心はざわつくばかりだった。やがて飛行機が離陸し、窓外に広がる雲海を見つめるうち、少しずつ心は静まっていく。――何があっても、必ず許しを乞う。どれほどの時間がかかっても、一生をかけても構わない。柚葉が許してくれるのなら、それでいい。ネヴァールに到着すると、友人が出迎えてくれた。「まずはうちで休めよ」と言う友人に、啓司は首を振り、切迫した声で言った。「先に……柚葉に会わせてくれ」「柚葉さんが教えてる学校は山の中で、市街からかなり離れてる。車でも二、三時間はかかるんだ。今日は先にうちで休んで、体力を整えてから行こう」友人はそう宥める。「でも……」啓司は焦りを隠せなかった。このままでは、二度と会えなくなるのではないかという焦燥が胸を締めつけた。友人はその心を察し、「大丈夫だ。もう確認済みだが、柚葉は来月までネヴァールを離れない。安心しろ」と言った。「……分かった」啓司は渋々頷いた。確かに今は休息が必要だ。きちんと身なりを整え、最高の状態で柚葉の前に立つために。夜は更け、静寂が降りる。ベッドに横たわった啓司は、眠ろうとしても頭から柚葉の姿が離れなかった。何度も寝返りを打ち、一晩中ほとんど目を閉じられなかった。夜が明けきらぬうちに、啓司はもう起き出して身支度を始めた。鏡に映るのは、かつての覇
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第19話

柚葉は、視線を感じて顔を上げた。そして、啓司と目が合う。一瞬、彼女の動きが止まった。「……柚葉」啓司は低く名を呼ぶ。押し殺した声には、濃い恋慕と渇望が滲んでいた。柚葉は我に返り、無表情のまま静かに言った。「やっぱり……追ってきたのね」その声音には、啓司が予想したような冷ややかさも、怒りもない。ただ静かで――あまりに静かすぎて、かえって啓司の胸をざわつかせた。彼は数歩で距離を詰め、衝動のまま彼女の肩をつかむ。「……柚葉。話したいことがある」周囲では、好奇心に駆られた生徒たちがこちらを見ていた。柚葉は小さく息をつき、「……こっちへ」と囁く。彼女は啓司を空き教室へ案内し、手にしていた本を机に置いた。「それで……何を話したいの?」啓司は目の前の柚葉を見つめ、胸の奥が複雑な感情でいっぱいになり、言葉がすぐには出てこなかった。頬に残っていた幼さが薄れたことに気づき、思わず口をつく。「……柚葉、痩せたな」柚葉は窓の外、遠くの青い山並みに視線を向けたまま、答えない。啓司はそっと彼女の手に触れ、真摯な声で告げる。「……ごめん。俺は自分の手で、俺たちの愛も、結婚も……そして、子どもまで壊した。許されないことをした。お前がいなくなったこの一年、俺はずっと、痛みと悔いの中で生きてきた」声がかすれ、目の縁がさらに赤く染まる。「許してほしいなんて言わない。ただ……償わせてくれ。お前のために、やり直す機会をくれないか」柚葉は静かに耳を傾けたが、その声音は波ひとつ立たない水面のようだった。「……割れた鏡は二度と元には戻らない。無理に戻しても、亀裂は消えない。私たちにとって一番いいのは、それぞれの道を歩くこと。少しでも私に後ろめたさがあるなら……ここから離れて」彼女は啓司の手をそっと外す。「……柚葉、俺はお前を心底失望させた。でも、本当に……お前なしじゃ生きられない!」啓司は片膝をつき、両手で彼女の腕を掴む。その姿は、まるで土に額を擦りつけるような、極限まで低い姿勢だった。「頼む……追い出さないでくれ」柚葉は見下ろした。かつて誰よりも輝いていた男が、今は犬のように膝を折り、許しを乞うている。それでも、彼女の瞳は波立たず、愛も憎しみも映さない。まるで――関わりのない人
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第20話

啓司はネヴァールに留まった。やっとの思いで柚葉を見つけたのだ。たとえ彼女が許してくれなくても、諦めるつもりはない。たとえ疎まれても、彼女のそばに居続ける。一生をかけて悔い、償い続ける――それが彼の覚悟だった。柚葉のいない人生など、死んだも同然だ。啓司はネヴァールの言葉が分からない。この異国で、言葉も通じない生活は決して楽ではなかったが、それでも柚葉のそばに留まる決意は揺るがなかった。翻訳機を使って学校の校長とやり取りし、臨時の医務室を設けると、医療用品を自費で大量に買い込み、生徒や教師の診療にあたった。その医務室は、柚葉が毎日必ず通る道沿いにあった。彼女の姿を見つけるたび、啓司は胸が高鳴り、外に出て声をかけた。だが柚葉は一切視線を向けず、ただ通り過ぎるだけだった。遠ざかる背中を見送りながら、啓司の胸には寂しさが滲んだ。そんなある日、生徒の一人が話しかけてきた。「啓司先生、柚葉先生のこと、好きですか?」啓司はうなずいた。「ああ、愛してる。とても。…彼女は俺の妻だ」生徒は首をかしげる。「でも、ほかの先生たちは、柚葉先生は結婚してないって言ってます」「……」啓司は喉が詰まり、複雑な声で答えた。「俺が…彼女を深く傷つけてしまった。だから俺を拒んでいる。でも諦めない。必ず取り戻してみせる」生徒は少しためらってから、ぽつりと言った。「先生、頑張らないと。晴臣(はるおみ)先生も柚葉先生が好きですよ」啓司の胸が一瞬で強く締めつけられる。「……晴臣先生?誰だ」生徒は頭をかきながら、不慣れな言語で懸命に説明した。「晴臣先生も、ここで教えてます。柚葉先生に、とても優しいです。よく手伝ってあげて、花もあげます。でも、今は用事で出かけてて、あと二日で戻ります」啓司の表情は見る間に険しくなった。まさか、必死に柚葉を取り戻そうとしているこの時に、横から割り込む男が現れるなんて……彼は拳を固く握り、心の中で誓う。――絶対に、誰にも柚葉を奪わせない。その日から、啓司はこれまで以上に、柚葉への気遣いと働きかけを強めていった。学校の環境は決して恵まれておらず、食事の味も平凡だった。啓司は自費で物資を用意し、友人に託して学校へ届けさせ、食事の質を少しでも良くしようとした。柚葉が好物だ
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