Tous les chapitres de : Chapitre 31 - Chapitre 40

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沈む季節、沈むペン

窓の外に、ひとひらの葉が舞っていた。黄と茶の混じった細い葉が、風に押され、回転しながら空を切って落ちていく。軋むような音を立てて窓枠をかすめた瞬間、宏樹はペンを握ったまま視線をそちらに向けた。書斎の空気は、妙に澄んでいた。冷たくも、暑くもない。けれど、肌を撫でる空気には明確な“変化”が混じっていて、何かが終わっていく気配がした。目の前のノートには、白紙のままのページ。万年筆のインクが紙に触れないまま、小さな影だけが落ちている。「…くそ」低く呟いて、彼はペンを置いた。微かな音すらも部屋に響く。その瞬間、背後の静けさが増幅された。拓海がいない。それだけのことが、空間のすべてを変えてしまっていた。椅子の軋む音も、シャワーの音も、リビングで交わす短い会話もない。気づけば、キッチンも、リビングも、静まり返っていた。あの少年が歩くたびに揺れていた空気の、あの熱が、ここにはもうない。宏樹は立ち上がり、書斎の棚をぼんやりと眺める。指先が無意識に引き出しの取っ手に触れ、そして躊躇なくそれを開けた。奥にあった、小さなフォトスタンド。金属の縁が少しくすんだそれには、笑っている美幸と、高校に入学したばかりの拓海が写っている。写真の中の彼女の目元に、窓から射した光が反射して、瞬いたように見えた。その瞬間、胸の奥が鈍く揺れた。「…もういいだろ」誰に向けた言葉でもなく、ただそう言って、彼はゆっくりと写真立てを裏返し、引き出しの奥にそっとしまった。ほかにも、小さなアルバム、メモ帳、端のちぎれた封筒。全部まとめて、一番下の引き出しに押し込むように仕舞い込む。音を立てないように、静かに、まるで何かを葬るように。手を離したあと、何もなかったように引き出しは閉まった。静寂が戻る。目を閉じれば、思い出す。あの夜、酔って帰ってきた自分が、どうしてあんなことをしたのか。無意識のようで、でも確かに自分の手で起こした出来事。その後の、拓海の表情。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-04
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家族だった記憶

岸本が宏樹の家に向かって歩き出したのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。空は曇っていたが、さっきまで降っていた雨はようやく上がり、歩道には水たまりがまだらに残っていた。革靴の裏が湿ったアスファルトを叩く音を聞きながら、岸本はふと、数年前のことを思い出していた。打ち合わせ帰り、あの夕方の喫茶店のことを。当時、宏樹の新作は順調に売れていて、出版社としても期待の看板作家だった。が、あの日、彼の口から唐突に出た話題は、原稿の内容でもなければ、読者の反応でもなかった。「実は、彼女には子どもがいるんだ」岸本は、目の前のカップを持つ手を止めた。まだミルクの膜が張ったままのコーヒーの表面に、店内の照明がぼんやりと映っていた。「…彼女?」「再婚しようと思ってる」宏樹の口調は、驚くほどあっさりとしていた。まるで今日の天気について語るように。「高校生になる息子がいる。名前は拓海。俺とは、まあ…最初はお互いぎこちないけどさ」それを聞いたとき、岸本の中に浮かんだのは、一瞬の戸惑いと、ほんの少しの不安だった。宏樹という作家は、私生活では極めて無口で、他人との距離を慎重に計る男だった。そういう人間が、いきなり十代の少年と家族になろうとしている。「…無理してるんじゃないのか?」思わずそう口にしてしまったことを、岸本は今でも覚えている。けれど宏樹は、その言葉に怒るでもなく、ただグラスの水をひとくち飲んで、少しだけ目を伏せた。「彼女、美幸は…病気なんだ。完治はしないって言われてる」そのときの空気が、一瞬で変わった。店内の喧騒が遠くなる。誰かのスプーンがソーサーに当たる音が、異様に響いた。「…それで、急いでるのか」岸本の声は、無意識に低くなっていた。宏樹は少し笑った。寂しさを含んだ笑いだった。「人を一人で死なせるのが怖いんだ」その一言が、なにより強く残った。それは、誰よ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-04
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祖母の庭、静かな日常

縁側に腰を下ろすと、木の軋む音がわずかに背中を押した。空はすっかり秋の気配で、どこか澄んでいて、湿気を含んだ夏の空気は、もう庭の隅にも残っていなかった。目の前に広がる庭は、背の低い金木犀がぽつぽつと咲き始め、朝露を含んだ葉が風に揺れていた。その匂いにまじって、味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。台所からは澄江の足音と、味噌椀を並べる控えめな音。「たく、冷めるわよ」呼ばれる前に行こうと思っていたのに、その声に反応して立ち上がった自分が、少しおかしくて、拓海は唇の端を小さく曲げた。食卓には、焼き魚と小鉢が二つ、炊きたての白米が湯気を上げている。「いただきます」手を合わせると、澄江が目を細めて頷いた。静かな時間だった。テレビもついていない。新聞も読まない。箸が茶碗に触れる音と、鳥の鳴き声と、遠くで聞こえる車のエンジン音だけが、日常の音として部屋に広がっていく。「今日は、畑のほうに大根を植えようと思ってるの」澄江の言葉に、拓海は「うん」と返す。それは約束ではなく、共有された予告のようなものだった。何をするでもなく、ただ一緒にいるというだけの、静かな肯定だった。目を落とすと、味噌汁の中で豆腐がふわふわと揺れていた。その白さを見ているうちに、ふと、あの朝を思い出す。宏樹の背中。言葉を交わせなかった食卓。味噌汁をすする音の後、彼は「昨日のことは忘れろ」とだけ言った。拓海は何も言えず、ただ無表情で皿を洗った。あの瞬間、何かが壊れたと思った。けれど今は、あの沈黙すら、過去の出来事として胸の底に沈んでいる。箸を休め、ふと庭を見る。金木犀の奥、石畳の隙間から小さな草が顔を出していた。伸びようとしている、ひたむきな緑。「拓海、もうすぐ寒くなるわ。毛布、出しておかないとね」「…うん。夜、ちょっと冷えるもんね」他愛のない会話。でもその温度が、どこか落ち着く。宏樹の声が、背中が、ふと脳裏にかすめる瞬間がまだある。洗面所でタオルを手にしたとき。歯磨き粉の残りが少なくなったことに気づいたとき。買い物メモに
last updateDernière mise à jour : 2025-09-05
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ページが白いまま

カタリ、とキーボードの隅が揺れたのは、右手の薬指がわずかに動いたせいだった。けれど画面は変わらない。白いまま、まるでこちらの内側を映し返す鏡のように、空白のページがじっと宏樹を見返していた。ランプの灯りが、机の上だけを照らしている。外はすっかり暗く、雨でも降ったのか、窓の向こうの空気が湿っていた。風の音もしない。音は、何もなかった。左手がカップを探したが、そこにあるはずの湯気はすでに冷えきっていて、唇をつけた瞬間、無味な水のような苦味が広がった。「……違うな」自分に向けてそう呟いてみる。だがその言葉すら、指先を通ってはくれない。カーソルは依然として瞬きを続け、何ひとつ、綴られていなかった。机の脇には、積まれたままの資料と、何度も書き直したあとの原稿用紙。その端が少しめくれていた。風など吹いていないはずなのに、不意に誰かがそこに触れたような錯覚を覚える。「君なら、どう書く?」誰に向けての問いか、自分でも分かっている。書斎の右手、奥の椅子。かつて拓海がよく、そこに足を投げ出して本を読んでいた。音も立てずに現れては、気がつくと隣にいて、視線だけで「邪魔してないよ」と主張してきた少年。目を閉じれば、彼の気配はまだ、そこにある気がした。だが開けば、ただの空っぽの椅子だ。何もない。誰もいない。「いないのか、君は」口に出すと、それはあまりに確かな言葉だった。いない。ただ、それだけの事実に、ここまで身体が固くなるとは思わなかった。背中にあった誰かの呼吸が、いつの間にか消えていて、それでも気づかないふりをしていたのだ。ページが白いままなのは、言葉がないからではない。誰に向けて書くかを、見失っていたからだ。拓海の存在が、宏樹の書く物語の背後にあった。それは意図して取り込んだわけではなく、自然と染み込んだ温度だった。彼の目線、息遣い、思考の揺らぎ。そうしたものが、どれほど創作に必要だったか。失って初めて知る。「君が、そばにいる生活が、物語だったのか」その事
last updateDernière mise à jour : 2025-09-05
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進路表に書いた言葉

窓の外に差し込む夕陽が、教室の机をひとつずつ淡く照らしていた。長く伸びた影が、床の上に静かに溶けていく。放課後の教室にはすでに半分ほどしか生徒がおらず、数人がプリントをめくる音と、椅子を引く小さな軋みだけが残っていた。拓海は前かがみになり、机の上に配られた白い紙をじっと見つめていた。進路希望調査票。名前欄の下に「第一希望 第二希望」と、整然と並ぶ罫線がまっすぐに引かれている。隣の席では、クラスメイトがペンを走らせながら、ため息混じりに言った。「うちの親がさ、経済学部にしとけって。将来困らないからだってさ」もう一人が笑いながら同調する。「オレも。正直、どこでもいいんだけどな」そんな言葉が当たり前のように教室を満たす。拓海はそれを聞きながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。どこでもいい。それができたら、どれほど楽だったろう。ペンを握る指先に力が入る。けれどなかなか書き出せない。罫線がこちらを試すように、無言で揺れていた。目を閉じる。あの書斎の匂いが、ふいに鼻先をかすめた。コーヒーと紙と、インクの混じった匂い。風が抜ける窓辺、背を向けてキーボードを叩く音。そして、ときおり読み上げられた文章の断片。生きている人間よりもずっと鮮やかに、宏樹の言葉たちが頭の中に蘇る。誰かを、真っ直ぐに見つめるような文章だった。拓海には、まだそれが「好き」という感情なのか分からなかった。ただ、読みたかった。誰よりも先に、深く、理解したかった。それは、あの人のことを知りたかったからかもしれないし、もう知るすべがないとわかっていたからかもしれない。手が、動いた。「文学部」と、一文字ずつ、慎重に書き込む。まるで何かを刻むように。そして、その下の欄。自由記入欄に、ためらいながらも、ペン先を走らせる。「出版・編集に興味あり」その言葉が、まっすぐ線に乗った瞬間、胸の奥で何かが静かに着地した。好きだからなりたい、わけじゃない。宏樹の書いたものを、世界で一番深く読める人間でありたい。それが、自分に
last updateDernière mise à jour : 2025-09-05
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白紙の先を、誰と歩くか

窓の外、風が木の枝を揺らしていた。どこか遠くで虫の声がひとつ、そしてまたひとつ、夜の冷たさを際立たせるように響いてくる。宏樹は部屋の灯りを落とし、デスクの前に静かに座っていた。キーボードには触れず、画面も消えたままのノートパソコンが、そのままそこに置かれている。手元には一冊のノート。表紙は少し色褪せ、角が丸くなっていた。何ヶ月も閉じたままにしていたそれを、今夜、ふと手に取った。ページをめくる音が静寂に溶けていく。途中まで埋められた文字の列が、まるで誰かに語りかけるようにそこに残っていた。その筆致に、かすかな熱が宿っていたことを思い出す。拓海のいない部屋は、相変わらず静かだった。洗い物の数も、炊飯器の設定も、ひとり分に変わったはずなのに、生活はどこか歪なままだ。あの少年の声が、笑いが、問いかけが、この部屋の空気を少しずつ変えていたのだと、今なら分かる。けれど、宏樹は電話をかけなかった。あまりに多くのことを、まだ言葉にできそうになかった。ただ、目の前のノートに、ゆっくりと手を伸ばす。白いページがそこにあった。何も書かれていない、まっさらな空間。ペン先を静かに置く。何かが始まる気配だけが、確かにそこにあった。同じころ、拓海もまた、自分の部屋の窓を細く開けていた。風が、薄いカーテンをやさしく持ち上げる。祖母の家の夜は静かで、遠くから電車の音がかすかに届く。天井の灯りはすでに消され、机の上には進学説明会のチラシが一枚、折り目もつけられずに置かれていた。その表紙に書かれた「文学部」の文字を、拓海はじっと見つめていた。窓の外を仰ぐと、星がひとつ、木々の隙間から顔を出している。あの人も、いま、同じ空を見ているのだろうか。そんなことを考える自分に、拓海は少しだけ苦笑した。けれど、電話はしない。今はまだ、話すべきことが見えない。ただ、見えない距離の先で、何かが動き始めている気がした。それが未来なのか、再会なのかは分からない。それでも、自分が書いた言葉が、今日の自分を繋ぎ止めてくれている気がする。進路票のコピーをファイルに入れながら、拓海は小さく
last updateDernière mise à jour : 2025-09-06
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鍵を回す音

鍵が回る音が、やけに大きく耳に残った。新居のドアを開けた瞬間、ひやりとした空気が胸の奥まで滑り込む。誰もいない空間には、すでに設置された冷蔵庫の無音や、壁際に積まれた段ボールの影が、やけに存在感を放っていた。春だというのに、部屋の匂いは乾いた埃と少しの孤独を混ぜたようで、まだ「生活の温度」がどこにも宿っていない。玄関に靴を並べると、手に持っていたトートバッグが自然に床へ滑り落ちた。その音が、部屋全体に反響する。拓海はゆっくりと腰を下ろし、段ボールの山を見上げた。『衣類』『書籍』『キッチン用品』。黒マジックで書かれたラベルは、どれも手書きで、祖母が手伝ってくれたものもあった。小さな箱の一つに、マグカップが二つ入っていたのを思い出す。宏樹が使っていた白いマグと、自分が選んだグレーのやつ。なぜか、どちらも持ってきていた。カーテンはまだ付けていない。窓の向こうには、隣のアパートの白い壁と、ゆるやかに揺れる洗濯物。風が吹くと、それがこちらに手を伸ばしてくるように見えた。「これが、一人暮らし…か」言葉に出してみても、実感は湧かない。声は空間に吸い込まれ、返ってくるものは何もなかった。拓海はゆっくりと立ち上がり、部屋の中央に置かれた段ボールを一つずつ開け始めた。音もなく、ただガムテープを剥がす音と、自分の呼吸だけが耳を満たす。何かを取り出しては、棚に置き、クローゼットに押し込み、流れるように動く。頭の中は空白に近く、身体だけが手順通りに動いている感覚だった。一段落ついた頃には、夕方の光が斜めに差し込み始めていた。部屋の隅に差し込む日差しが、床の埃をうっすらと照らしている。窓を開けた。春の風が、乾いた部屋にやっと入り込む。カーテンレールの金具が風に揺れ、カチリと鳴る。その音が妙に心に刺さった。拓海は窓辺に腰を下ろし、風の匂いを嗅いだ。草の匂い。花粉の匂い。遠くで子どもの声がする。トラックのエンジン音も聞こえる。どれも、誰かの暮らしの音だ。でも、ここにはまだ、誰の声も、誰の音もしない。ふと、宏樹の背中を思い出す。あの朝、駅まで送ることもなく、ただ玄関で「じゃあ」と言ったきりの
last updateDernière mise à jour : 2025-09-06
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出会いは校舎の影で

講義が終わると、教室を出る学生たちの足音と、ざわついた声が廊下に溢れ出した。拓海は、肩にかけたトートバッグの紐を握りしめながら、そっと人波を避けて歩く。春とはいえ、午後の日差しは強く、ガラス張りの廊下に反射する光が、彼の目を細めさせた。大学に入ってまだ数日。講義の進みは早く、誰が誰だかも把握しきれないまま、ただ時間だけが過ぎていく。誰かと会話を交わすわけでもなく、名前を呼ばれることもなく、拓海は透明な存在としてその場にいた。ふと、校舎の影の落ちる植え込みのそばで、誰かが声をかけてきた。「君、文学部? てか、出版志望でしょ?」その言葉に、拓海は思わず足を止めた。見上げると、背の高い青年が、飄々とした笑みを浮かべてこちらを見ている。黒縁のメガネ。ゆるく巻いた髪。胸元には、レインボーカラーのピンバッジが小さく光っていた。「えっと…どうして…」「だって、ガイダンスでの自己紹介で言ってたじゃん。拓海くんでしょ。俺、小日向慧。慧って書いて、けい。よろしく」いとも簡単に距離を詰めてくるその空気に、拓海は少し圧倒された。「…覚えてたんだ」「わりと、覚えてるタイプ。ていうか、俺も編集志望なのよ。ほら、同志」そう言って、慧は握手を求めるように手を差し出してきた。拓海は戸惑いながらも、その手をそっと握る。指先が、ほんのりと温かい。会ったばかりの相手とは思えないほど、慧の立ち居振る舞いには、揺るがない自信があった。「このあと、空いてる? 学食ってもう激混みだし、近くのカフェ、穴場知ってるんだよね。良かったら、行かない?」拓海は一瞬、断る言葉を探しかけた。だが、それよりも早く、別の感情が胸に浮かんだ。…話してみたい。慧の、軽やかさの裏にあるもの。自分を堂々と示すその強さ。さっきまでの無色の時間が、淡く色づき始めていた。「…うん。行く」その答えに、慧は満足そうに笑った。校舎を出ると、春風が二人の間を通り抜ける。通学路には、新入生らしいグ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-06
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開かれた扉の向こうで

ガラス窓越しに斜陽が射し込むカフェの片隅、テーブルには教科書とノートが広げられていた。騒がしすぎず、静かすぎもしない、大学近くにしてはちょうどいい喧騒。その中に、慧の声が軽やかに混じっていた。「この課題、要は“読者の視点”ってことだよね。作者の意図とかより、どう読ませるか。編集志望的にはさ、そこ重要じゃん」そう言って、慧はコーヒーに口をつけた。その指先には、昨日見たのと同じレインボーカラーのピンバッジが光っている。拓海は頷きながらも、気持ちはうまく集中できていなかった。慧の言葉ひとつひとつが、当たり前のように空気に溶け込む。その自然さが、時に拓海の中の「無言」を鋭く照らした。「…拓海はどう思う?」不意に振られた問いに、拓海はペンを止めて顔を上げた。「俺は…まだ、うまく言葉にできない。自分が、読者だったときの感覚を思い出そうとすると…どうしても、主観ばっかりになってしまって」「主観、いいじゃん。そういうのが読者だし。ていうかさ…」慧はスプーンをくるくる回しながら、どこか遠くを見るように呟いた。「俺、小学生のときに初めて“好きな子”に手紙書いたんだよね。で、それが男子だったの」拓海の手が止まった。心臓が、一瞬だけ跳ねたように感じた。「そのときは、恋って言葉すら知らなかったけど。ああ、自分はきっと“普通”じゃないんだなって、初めて思った。で、そのあと誰にも言えなくて…でも今は、別に隠してない。好きって言葉は、自分を守るものじゃなくて、自分を知ってもらうためにあるんだって気づいたから」慧の声は変わらなかった。淡々と、けれど芯のある響きで、言葉を紡ぐ。拓海は視線を落とし、目の前のノートの罫線をじっと見つめた。心がざわついていた。慧が言ったことに驚いたのではない。驚くべきなのは、自分が驚いたことに、だった。――自分は、どこまでを他人に見せている?好き嫌いも、恐れも、憧れも、すべて、無難に包み込んで
last updateDernière mise à jour : 2025-09-07
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バイト終わりの空

街の空はすっかり夜に染まっていた。黒に溶け込むような雲が薄く流れ、その下でコンビニの明かりや車のテールランプが、ぼんやりとした赤や白を灯している。拓海は、制服のシャツをパーカーに着替えたまま、コンビニの脇にある自販機の前で立ち止まっていた。バイトが終わった直後、通勤客に混じって最寄り駅からここまで歩いてきたが、どうにも足が止まったのだった。財布の中身を確認する。小銭入れには、百円玉が二枚と十円玉が数枚。自販機のボタンの明かりを眺めながら、どれを押そうかと迷ってはみるものの、何を飲んでも空腹は埋まらないと知っていた。「…別に、家に帰れば、何かある」そう自分に言い聞かせるように呟いたが、足はまだ動かない。お腹が空いているというより、何かが足りない。温かいものでも、甘いものでもない、別の何かが。冷たい風が首筋を撫でた。春だというのに、夜の空気は容赦なく肌を刺す。駅前のざわめきは遠ざかり、この場所はひどく静かだった。その時、スマホが震えた。ズボンのポケットから取り出すと、画面には慧の名前があった。「今日もおつかれー。バイト死んだ? 生きてる?笑」短い文と、軽い調子。でも、そのひと言が、どうしようもなく温かく感じられた。指が勝手に動いた。「生きてる。ギリで」そう返して、ポケットにスマホを戻そうとしたが、ほんの数秒後、また震えが返ってきた。「えらい。てか、明日ゼミ前に学食寄るけど、一緒にどう?」その一文を読んだ瞬間、拓海の体から少しずつ力が抜けていった。今、自分がこの場にいることを、誰かが知ってくれている。それだけのことが、こんなにも心に沁みるなんて。「行く」短い返事を送り、スマホをしまう。手のひらに残ったぬくもりのような感覚が、指先から腕へ、肩へと広がっていく気がした。もう一度自販機に目を向けると、先ほどまで無機質だったボタンの灯りが、ほんの少しだけ柔らかく見えた。拓海は百円玉を一枚、自販機に差し込み、ホットミルクティーを選んだ。缶を手に取ると、掌に広がる熱
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