母の死を境に、高校生の拓海と若き義父・宏樹は、ひとつ屋根の下でふたりきりになった。 父子という仮面を被りながら、拓海は自分の“揺らぐ感情”に怯え、宏樹は“失われた愛”の影に囚われていた。 心の奥に潜む孤独と渇きを、互いに知られまいとするうちに、ふたりの距離はやがて“許されない一線”を越えていく。 逃れられない過去と向き合いながら、彼らは関係に名前を与えることをやめた。 “家族”という言葉では覆いきれない絆、誰にも理解されない愛。 傷つき、赦し合い、それでも隣にいることを選んだふたりが辿り着いたのは、ひとつの祈りのかたちだった。 静かに燃える感情と、切なさの果てに紡がれる、唯一無二のラブストーリー。
View More教室のざわめきが、遠くに聞こえるようだった。周囲の笑い声や椅子を引く音、紙の擦れる気配も、どこか膜越しに届いていた。拓海は窓際の席に座り、開いたノートを見つめていた。だが、視線はページの上をすべり、言葉を捉えることなく空回りしていた。ペン先はずっと同じ行で止まっていて、それに気づくこともできなかった。三限目の現代文。授業内容は好きなはずなのに、今日は何も入ってこない。教科書を読む声も、教師の問いかけも、すべてが薄っぺらく感じた。「拓海、元気ないな。寝てた?」隣の席から、小さな声がかけられる。藤野だった。笑っているのか心配しているのか、判別しにくい顔で、ノートを覗き込んでくる。拓海は少し首をすくめるようにして、視線を下に落とした。「…大丈夫」口から出た言葉は、自分のものとは思えなかった。感情のない、乾いた音。藤野は少し間をおいて、気まずそうに笑った。「そっか、ならいいんだけどさ」もう一度ノートに視線を戻してきたが、それ以上は何も言わなかった。気遣いなのだろう。けれど、その沈黙さえも、どこか自分を責めているように思えてしまう。大丈夫、なんて嘘だ。何がどう大丈夫じゃないのかさえ、言葉にできなかった。ただ、自分の中にあるこの重さが、日常のどこにも馴染まないことだけはわかっていた。宏樹のこと。あのキス。忘れろと言われたこと。拒絶なのか、錯覚なのか、それさえ明確ではない。言葉にできない。誰にも言えない。それ以前に、こんな感情を抱いている自分が、間違っているのではないかという思いが、喉元を締めつけていた。男同士で、しかも親子で。「おかしい」と思われるに決まっている。いや、何よりも自分自身が、それを恐れている。チャイムが鳴っても、立ち上がれなかった。机に両手をついたまま、しばらく動けずにいた。授業が終わり、生徒たちはそれぞれの場所へと散っていく。教室が空になっていく音が、冷たい空気のように背中を撫でた。
キッチンの蛇口から流れる水音だけが、朝の沈黙をかすかに濡らしていた。外は薄く曇っていて、窓の外の景色は白みがかっている。雨は上がっていたが、どこか湿気を含んだ空気が漂っていた。拓海はいつもより早く目が覚めていた。ベッドの中でしばらく身動きもせず、天井を見つめていたが、何も考えないようにすることに疲れて、起き上がった。キッチンに立ち、無言で湯を沸かし、トーストを焼き、冷蔵庫から卵を取り出す。油をひいて、火加減を見ながらスクランブルエッグを作る手は、どこかぎこちなかった。匂いに気づいたのか、足音が廊下からゆっくりと近づいてくる。拓海はそれに反応せず、黙ったまま皿に卵を盛りつけた。ダイニングの椅子が、少しきしむ音を立てて引かれる。「…おはよう」宏樹の声は低く、どこか擦れていた。昨夜の酒の名残か、それとも別の何かか。顔を見ようとすれば、すぐに思い出してしまいそうで、拓海は視線を皿に落としたまま、返事をしなかった。返事がないことに宏樹は何も言わず、トーストにバターを塗る音だけが続いた。いつもの朝なら、もう少し言葉があった。天気のことや、新聞の見出し、学校の予定。けれど今朝は、そのどれもが口に出せない空気のまま、時だけが過ぎていく。拓海はマグカップに紅茶を注ぎながら、自分の手元を見ていた。指先がわずかに震えていることに気づき、深く息を吸って肩を落とす。宏樹はパンにかじりつくふりをして、何度も唇を濡らしていた。何かを言おうとして、言葉が喉で引っかかっている。そんな気配が伝わってくる。数分の沈黙のあと、宏樹が口を開いた。「昨日のことは…忘れろ」その言葉は、パンのかけらを皿に残したまま、どこか投げ捨てるように放たれた。拓海は瞬きもせず、その言葉だけを胸の中で反芻した。忘れろ。あの夜、唇に落とされたあのキス。それを、「なかったこと」にしろと。怒鳴ったわけでも、冷たく突き放したわけでもない。むしろ、どこか苦しげな響きだった。でも、それでも。そう言われたことが、何よりも深く突き刺さった。
拓海の部屋は、雨音を隔てた薄い膜のような静けさに包まれていた。電気は消してあり、ベッドサイドのスタンドだけが点いている。壁に反射する光が、ゆっくりと揺れていた。彼はまだ眠れずにいた。掛け布団を腹の上まで引き寄せ、目だけが開いていた。今日のすべてが、皮膚の内側でざわついていた。宏樹の顔、声、酔った足取り、その残像が瞼の裏にこびりついて離れない。時計の針が、小さな音で時を刻んでいた。その音に耳を澄ませるふりをして、思考を止めようとする。けれど胸の内は、逆に騒がしくなるばかりだった。そのときだった。ドアが、音もなく開いた。拓海は息を止めた。照明の光がわずかに廊下へ漏れ、影が差し込んだ。ゆっくりとした足取りで、宏樹が部屋の中に入ってくる。姿勢は少し前かがみで、手をポケットに突っ込んだまま。目は、拓海を見ていない。けれど、確かに彼の方へ向かってきていた。拓海は体を起こすことも、声をかけることもできなかった。全身がこわばり、喉が塞がれてしまったようだった。布団の中で、手のひらにじわりと汗がにじむ。宏樹はベッドの傍らで立ち止まった。その顔には、いつものような鋭さも、どこかに向けた感情の気配もなかった。ただ、何かを見失ったまま歩いてきたような、空白のような顔をしていた。彼は、静かに、手を伸ばした。その手が拓海の頬に触れた瞬間、空気がきしむような感覚が走った。冷たいわけでも、熱いわけでもなかった。ただ、そこに“他人の手”があるという、はっきりとした事実だけが、拓海の皮膚に深く刻まれた。目が合うことはなかった。そしてそのまま、宏樹は、ゆっくりと身をかがめた。唇が、触れた。それは軽いキスだった。押しつけるでもなく、熱を求めるでもなく、ただそこに落とされたような、それこそ“沈黙”のようなキスだった。拓海は何もできなかった。まぶたを閉じることも、逃げることも、拒むことすらも。宏樹の唇が離れると、彼はふらりと体を起こし、そのまま無言で背を向けた。何も言わずに
時計の針が一時をまわった頃、家の鍵が回る音がした。重く、やや手間取るような金属音。拓海はソファに座ったまま、音の出どころに視線を向けた。テレビは消してあった。窓の外は雨。しとしとと降るその音が、部屋の静けさをかすかに濡らしていた。ガチャリと扉が開き、数秒の間を置いて、宏樹が姿を現す。黒いコートの肩に雨粒が浮き、髪もやや濡れていた。ネクタイは少し緩んでいて、シャツの第一ボタンが外れている。玄関に踏み入れた彼は、ゆっくりと靴を脱ごうとして、バランスを崩しかけた。「…っと」腰をかがめたまま、少し笑いながら体勢を整える。普段ならあり得ないほどの緩慢な動作だった。そのまま顔を上げ、拓海の姿に気づくと、小さく目を見開いた。「拓海か…起きてたんだな」少し遅れて、声が続いた。「ただいま」その言葉がやけに間延びして聞こえた。酔っている。明らかに。酒の匂いが距離を越えてこちらに届く。鼻の奥に鋭く、けれどどこか甘さも混じった、アルコール特有のにおい。拓海は口を開きかけた。「…」けれど、声が喉元で止まった。ただいま、と言われて返すべき言葉は頭に浮かんでいたはずだった。それでも、言葉にならなかった。身体が先に反応してしまっていた。視線が宏樹のシャツの襟元に落ちる。濡れた髪が額に張りつき、頬はいつもより少し赤い。目の奥がとろんとしていて、焦点が定まらない。見慣れたはずのその人が、どこか違って見えた。酔いが、彼の纏う空気を柔らかくしすぎていた。いつものような張りつめた静けさも、孤独も、今日はその輪郭が曖昧だった。誰かの“父親”であり、“作家”である宏樹の鎧が、酒によって、ほんのわずか緩んでいた。宏樹は脱いだ靴を乱雑に揃え、ふらふらと廊下に足を踏み出す。その動きも、足音も、どこか子供じみていた。体温が少し高そうな肌。ふらつく足取り。無防備、という言葉が頭をよぎる。「飲み会、長引いてな…」ぽつりと言いながら、宏樹は壁にもたれ
拓海はベッドの上で仰向けになり、天井を見つめていた。カーテン越しに揺れる街灯の明かりが、壁に淡い波紋をつくっている。眠る気配は、まるで気配すら持たずに彼の部屋を通り過ぎていった。静かだった。けれどその静けさは、いつものものとは少し違っていた。耳に届くのは、遠くで降り続く雨の音と、時計の秒針が刻む微かな音。その中で、彼の頭の中だけが、ひどく騒がしかった。さっき読んだ草稿の言葉が、まだ脳裏を離れなかった。「そばにいてくれるだけでいい」そう書かれていたあの一文が、妙に胸の奥に残っていた。拓海は目を閉じ、呼吸を深くしてみた。けれど息を吸えば吸うほど、肺の奥に引っかかるような重さが残った。仰向けになったまま、手を伸ばし、カーテンの端を少しだけ持ち上げる。外はまだ降っていた。雨粒が窓ガラスを叩く音が、まるで誰かが優しくノックしているように聞こえる。心が落ち着かない。寝返りを打ち、枕に顔をうずめた。けれど、その柔らかささえ煩わしかった。草稿の中の人物たちは、声を持たないまま、確かに感情を持っていた。愛して、傷ついて、時に諦めて、それでも誰かを求めていた。宏樹は、それを言葉にして書いていた。それが、どうしようもなく美しかった。そして、それが、自分にはどうしようもなく、遠く思えた。拓海は自分の胸の内に湧き上がるものに、名前をつけられずにいた。あの人の言葉を読んで、心が揺れた。けれど、それがただの感動なのか、それとももっと別のものなのかがわからない。「苦しい」呟いて、天井を見上げる。声に出したのは、それが初めてだった。誰かを好きになるって、こんなに、息が詰まるものなんだろうか。胸の奥が、じわじわと痛む。うまく言葉にならないそれが、全身のどこかで静かに膨らみ続けていた。宏樹のことを想うと、呼吸が浅くなる。目を合わせたときのあの無防備な瞳、たばこの香り、ふとした沈黙。それらすべてが、今夜はやけに鮮明だった。もしかしたら、自分はーー。そこまで考えて、拓海はまた目を閉じた。いや、違う。そんなはずはない。そ
拓海は静かに廊下を進んだ。階下からはテレビの音も話し声もなく、家の中はいつも通り、夜の沈黙に包まれていた。宏樹が寝室のドアを閉める微かな音がしたのは、ほんの数分前のことだ。時計の針は、日付が変わる手前で止まりそうに眠たげだった。ドアノブを握る手が、わずかに汗ばんでいた。書斎の扉を開けると、いつもの煙草と紙の混じった香りが鼻先をくすぐった。淡い木の香りとインクの匂い。宏樹の匂い。足元に目をやると、机の傍に積まれたプリントアウトの束がある。タイトルも章立てもない、印字されたままのA4用紙。彼が最近取りかかっている新作の草稿だった。拓海はそれを一枚、そっと拾い上げた。蛍光灯の光は消したまま。カーテンの隙間から漏れる街灯の灯りが、紙の文字を鈍く照らしていた。慎重に椅子を引き、座る。背筋が自然と伸びる。ページをめくるたび、紙が擦れる音が空気に触れ、妙に大きく響いた。最初の数行は、ただ追うだけだった。内容はよくわからなかった。ただ、文章の節々に、言葉にならない温度があった。登場人物の誰かが誰かを想って、しかしそれを伝えるすべがなく、胸の内だけで守っている──そんな場面だった。次第に、文字が意味を帯びて胸に染み込んできた。誰かを見つめる眼差しの描写。言葉を交わさずとも滲む、心の機微。台詞ではなく、行間に宿る感情が、拓海の中にゆっくりと広がっていった。登場人物の一人が、恋人でも家族でもない相手を「見守る」という言葉で語る場面があった。「ただ、そばにいてくれるなら、それでいいと思ったんだ」その一文を読んだ瞬間、拓海は息を止めた。胸の奥が、小さく軋む。宏樹は、小説の中で、こんなふうに人を想っていたのか。机の上には、黒の万年筆。横にはマグカップ、底にわずかに乾いたコーヒーの跡。ペン先を見て、彼の手の動きを想像した。ページを繰るたび、宏樹の視線が、呼吸が、そして感情がそこにあった。「この人、誰を想って、こんなふうに書いたんだろう」ふとそんな考えが浮かび、拓海は自分の胸のうちに走った感情の名を、探そうとした。けれど、答えは出なかった。ただ、頬が少し熱
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