Masuk母の死を境に、高校生の拓海と若き義父・宏樹は、ひとつ屋根の下でふたりきりになった。 父子という仮面を被りながら、拓海は自分の“揺らぐ感情”に怯え、宏樹は“失われた愛”の影に囚われていた。 心の奥に潜む孤独と渇きを、互いに知られまいとするうちに、ふたりの距離はやがて“許されない一線”を越えていく。 逃れられない過去と向き合いながら、彼らは関係に名前を与えることをやめた。 “家族”という言葉では覆いきれない絆、誰にも理解されない愛。 傷つき、赦し合い、それでも隣にいることを選んだふたりが辿り着いたのは、ひとつの祈りのかたちだった。 静かに燃える感情と、切なさの果てに紡がれる、唯一無二のラブストーリー。
Lihat lebih banyak春の雨がやんだ午後、光を含んだ雲がゆっくりと流れていた。都心から少し離れた出版社の編集部に、拓海はコートを腕にかけて戻ってきた。傘は乾ききらず、入り口のスタンドに掛けられている。シャツの袖口に雨粒がにじんでいるのを払って席に戻ると、机の上には分厚いゲラがひとつ、静かに置かれていた。表紙には、宏樹の名と、新作のタイトル。角の丸まった紙束には、すでに何度も目を通した跡が残っていた。三年という時間が流れた。ふたりは新居に根を張り、静かに生活を続けてきた。宏樹は小説家として、年に一作のペースで作品を発表し、前作は海外翻訳が決まり、今も根強い読者を得ていた。拓海はそのすべての作品を“担当編集者”として伴走している。名刺にある肩書きは、誰の目にも立派なものだったが、それ以上に、日々の原稿のやりとりや校正のひとつひとつが、自分たちの関係の積み重ねだった。拓海はゲラのページを一枚、静かにめくった。そこには、少し変化した文体があった。以前よりも余白を大事にするようになった言葉選び。読者に託すような行間。けれど、根底に流れる感情の温度は変わらない。過去を見つめ、痛みを掬い、どこまでもやさしい語り口で未来へつないでいく。それが、宏樹の小説だった。「戻ったか」編集部の入り口から声がする。顔を上げると、マスクを外した宏樹が立っていた。黒のシャツにスラックス、少し癖のある前髪が、春の湿気にふわりと浮いていた。「早いな。今日は家で作業してるって…」「メール見て、手直しの箇所確認しようと思ってな」「めずらしい。自分から来るなんて」拓海は軽く笑いながら、ゲラを差し出す。「ほら、気になるって言ってた第二章。こっちで構成案も出してある」宏樹はうなずき、隣の空いていた椅子に腰を下ろす。ゲラを手に取り、ざっと目を通しながら言った。「…こうして隣で赤を入れてくるやつ、他にいないな」「当然でしょ。俺は“あなたの最初の読者”だから」「…ずっと?」
夕方の光が、ゆるやかに土手の草を照らしていた。春の風はやわらかく、まだ冷たい川面をなぞるように吹いて、拓海の髪をほんの少し揺らす。河川敷の舗装された道を、ふたりは並んで歩いていた。時折、犬を連れた人や、ランニングする高校生が通りすぎていく。けれど、ふたりの歩幅は乱れず、黙ったまま同じペースを刻んでいた。遠くに見える鉄橋の上を、電車がごう、と音を立てて通り過ぎる。風の音と、その残響だけが、夕暮れに浮かぶ輪郭のように辺りを満たしていた。拓海が、ふと足を止めた。そして、ぼんやりと空を仰ぎながら言った。「俺たちって、なんなんだろうな」宏樹は驚くでもなく、その言葉をそのまま受け止めた。ほんの一拍おいてから、顔をゆるめて、少し笑った。「さあな。でも…“ずっと隣にいる人”ってのはどうだ?」拓海はゆっくり視線を戻し、宏樹を見つめた。彼の表情に、軽さはなかった。ただ、静かで、あたたかく、そこに“揺るがないもの”が宿っていた。「名前、なくてもいいんだな」「名前があっても、なくても、変わらないだろ」宏樹は言った。「必要だったらつければいいし、必要なければ、ただ隣にいればいい」拓海は頷いた。その言葉の持つ重みに、思っていた以上に胸がふるえた。何かに名を与えることで、安心しようとしてきた自分。恋人だとか、パートナーだとか、説明できる言葉を持たないと、不安になるのは、人との境界を正確に測りたかったからだ。でも今はもう、境界など曖昧でいいと思えた。風が、少し強く吹いた。マフラーの端が舞い、宏樹がそれをそっと直してやる。「…昔は怖かったんだよ」拓海がぽつりと言った。「何が?」「こうして隣にいるのが、ずっとじゃないかもしれないって思うことが。名前がないと、なくなりそうでさ」「今も、怖いか?」拓海は考えるように空を見た。
窓から差し込む午後の光が、フローリングの上にやわらかな模様を落としていた。カーテンの縁が春風にふくらみ、小さな呼吸のように揺れる。部屋には、時計の針の音とページをめくるかすかな音だけが漂っている。拓海はソファに腰を沈めて、膝の上に乗せたゲラを読んでいた。視線の先には赤ペン、そして余白に書かれた校正メモ。時折眉を寄せたり、小さく首を傾けたりしながらも、姿勢はくずさない。集中の熱が、無言のうちに部屋を満たしていく。ダイニングテーブルの向かい側、宏樹はノートにペンを走らせていた。定期的にページをめくり、何かを確かめるように視線を遠くへ投げる。手元に置かれた湯気の立つマグから、コーヒーの香りがたゆたっていた。ふたりの間に会話はない。けれど、不思議なほどの親密さがあった。沈黙は壁ではなく、むしろ橋だった。それぞれの作業に没頭しながらも、気配だけは互いの輪郭を捉えていた。しばらくして、宏樹が席を立ち、キッチンで静かに二杯目のコーヒーを淹れる。ドリップの音と、湯の注がれる音が、部屋の静けさに溶けていく。カップを持って戻ると、拓海の隣にそっとそれを置いた。拓海は目線を上げて、ふと笑う。「ありがとう」「砂糖なしでいいよな」「うん、ちょうどよかった」ふたたび視線はゲラに戻る。だが、今度は一瞬、ページをめくる手が止まった。拓海は首を少し傾け、空気のように軽い声で言った。「なあ、宏樹さん」宏樹はペンを止めて、視線を拓海に向ける。「何してるっていうより…“いる”ってことだけで、落ち着くな」その言葉は、まるで湯気のように、音もなく立ちのぼった。それでいて、深く沁み入るものだった。宏樹は少しだけ目を細めて、口角をゆるめた。「それ、書けそうだな」「俺が言ったんだけどね」拓海は照れくさそうに笑い、ゲラの角を指でなぞる。宏樹はその横顔を見ながら、心のどこかがやわらかくほぐれていくのを感じていた。ただ、同じ部屋にいる。話さなくても伝わることがあり、触れなくても確かめ合える時間がある。それはかつ
夜の帳が落ちる頃、マンションの窓から洩れる灯りが、柔らかく部屋の輪郭を照らしていた。リビングには夕食の名残りと、どこか少し疲れの混ざった空気が漂っている。食後の皿を流しに運んだ拓海が、ふと振り返って言った。「そういえばさ…俺、まだこの家の鍵、持ってなかったんだよな」宏樹は手にしていたコーヒーカップをそっとテーブルに戻した。「…え?ずっと?」「うん。なんかタイミング逃しちゃって。別に困ったことなかったし、宏樹さんが家にいることが多かったから」拓海はそう言って、肩をすくめるように笑った。軽やかに聞こえるその声の奥に、どこか悪戯っぽさと、わずかな照れが混じっていた。宏樹はしばらく言葉を探し、それから呟くように言った。「…でも、それってけっこう、不便だっただろ」「そうでもなかったよ。ほら、いざとなれば近所で時間つぶせるし。ていうか、なんとなくさ」拓海はキッチンの棚からマグを取り出し、コーヒーを注ぎながら続けた。「鍵がなくても帰ってきていいって、思ってたんだよね。たぶん勝手に」それは無邪気とも思える言葉だった。でも、宏樹の胸には、小さな熱が灯ったような感覚が広がっていた。勝手に、という響きには、確信にも似た信頼があった。拓海はずっと、この部屋を“帰ってきていい場所”だと思っていた。その無意識の認識が、言葉よりも深く、宏樹の心に届いた。食卓の引き出しを開け、取り出した銀色の鍵を手のひらにのせて、宏樹は立ち上がる。「遅くなったけど」拓海が視線を向ける。宏樹は無言で鍵を差し出した。「もう、複製じゃなくて“こっちが本物”でいいよ」拓海は受け取った鍵をしばらく見つめてから、目を細めて笑った。「ありがとう」それ以上、何も言わなかった。ただ、手にしたその鍵を、ポケットではなく、胸元のシャツの上からぎゅっと握るようにした。その仕草が、返事の代わりだった。部屋の隅には、未だ片づけきれて