境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい

境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい

last updateDernière mise à jour : 2025-09-27
Par:  中岡 始Complété
Langue: Japanese
goodnovel16goodnovel
Notes insuffisantes
88Chapitres
780Vues
Lire
Ajouter dans ma bibliothèque

Share:  

Report
Overview
Catalog
Scanner le code pour lire sur l'application

母の死を境に、高校生の拓海と若き義父・宏樹は、ひとつ屋根の下でふたりきりになった。 父子という仮面を被りながら、拓海は自分の“揺らぐ感情”に怯え、宏樹は“失われた愛”の影に囚われていた。 心の奥に潜む孤独と渇きを、互いに知られまいとするうちに、ふたりの距離はやがて“許されない一線”を越えていく。 逃れられない過去と向き合いながら、彼らは関係に名前を与えることをやめた。 “家族”という言葉では覆いきれない絆、誰にも理解されない愛。 傷つき、赦し合い、それでも隣にいることを選んだふたりが辿り着いたのは、ひとつの祈りのかたちだった。 静かに燃える感情と、切なさの果てに紡がれる、唯一無二のラブストーリー。

Voir plus

Chapitre 1

透明な朝食

朝の光は柔らかく、カーテン越しに淡く差し込んでいた。まだ春の気配を引きずる風が、キッチンの窓を小さく震わせる。湯気をあげる味噌汁の鍋が、静かな空間の中でかすかな存在感を主張している。

拓海は淡々と手を動かしていた。卵を溶いて、火を弱め、フライパンの上で優しく転がす。焼き魚は昨夜の残りで、温め直すだけだった。そうやって、朝食はいつも通りに整っていく。誰のためとも言えないその手際が、まるで毎朝の儀式のようだった。

「…いただきます」

不意に後ろから聞こえた声に、拓海は振り返らなかった。聞き慣れた、けれどどこか間の抜けたような、眠たげな声。山科宏樹。母の再婚相手であり、拓海にとっては戸籍上の“父”になる男。

三十三歳。在宅の小説家。髪は無造作に伸びかけ、Tシャツの首元は少しだけよれている。だけど顔立ちは整っていて、街中で見かければ確実に二度見される。最近は目の下に少し隈があって、タバコの匂いをまとっていることが多い。

拓海は炊きたてのごはんをよそい、宏樹の席の前に置いた。会話はない。礼も、言わない。いや、宏樹は言っているのかもしれない。ただ、記憶に残らない程度の声で。

拓海も何も返さず、自分の分を皿に盛る。食卓に向かい合って座る。二人で暮らし始めてから、一年が経つ。

母が亡くなったのは、ちょうどその一年前。病気だった。倒れるのは突然だったけれど、思い返せば兆しはあった。疲れた表情、微熱、食欲の減退、病院の予約。拓海は、何も気づかなかったわけじゃない。でも、何も言えなかった。

そして、今。母のいない家に、拓海と宏樹だけが残されている。

宏樹は朝からぼんやりとしていた。茶碗を持ったまま視線を落とし、ごはんを口に運ぶだけ。何かを考えているふうでも、何かを感じているふうでもなかった。ただ、生きて、そこにいるというだけの姿だった。

「今日、学校?」

ようやく出た声は、思った以上に掠れていた。

「うん」

短く答えたが、目は合わせなかった。宏樹もそれ以上は何も言わない。どうでもいい会話ができないのは、近くにいるからだろうか。それとも、血がつながっていないからだろうか。

母がいた頃は、もっと賑やかだった。朝の食卓はパンの焼ける匂いがして、テレビがついていて、母の笑い声がしていた。小さなことで叱られて、文句を言って、でも最後には笑っていた。

今は、湯気の立つ味噌汁と、静かな咀嚼音だけがこの部屋を満たしている。

拓海は、箸を置いた。

「ごちそうさま」

それだけ言って、椅子を引いた。宏樹は軽く目を上げたようだったが、声はかけなかった。

流しに食器を持っていき、水を出す。温かさを持った水が手のひらを撫でる。でも、その温度すらも拓海には他人事のように思えた。

ふと、振り返ると、宏樹は煙草を取り出していた。口にくわえ、火を点ける仕草が妙に丁寧だった。

「…食事中はやめてって言ったろ」

声に刺を立てたつもりはなかった。でも、宏樹の手が一瞬止まり、煙草を外に持っていく気配もなく、口だけでこう言った。

「もう、食べ終わったじゃん」

拓海はそれ以上何も言わず、布巾で食器の水を拭いた。

宏樹の煙草の匂いは、初めてのときは嫌いだった。けれど最近は、どこか安心する。それがまた、気にくわなかった。母がいなくなっても、身体は何かの代わりを求めている。きっとその程度の存在なのだ、自分は。

「いってきます」

玄関に立ち、靴を履きながら小さく告げた声に、奥から返事はなかった。

拓海はドアを閉める直前、そっと振り返った。キッチンの奥、光の中に溶けるようにして宏樹が座っている。壁にかかった時計の針だけが、時間が進んでいることを告げていた。

閉じた扉の向こうに、音はなかった。春の空気が頬に触れても、何も感じなかった。

この家は、まだ母がいなくなったことを受け入れていない。いや、きっとどちらも、それを許していないのだ。

Déplier
Chapitre suivant
Télécharger

Latest chapter

Plus de chapitres
Pas de commentaire
88
透明な朝食
朝の光は柔らかく、カーテン越しに淡く差し込んでいた。まだ春の気配を引きずる風が、キッチンの窓を小さく震わせる。湯気をあげる味噌汁の鍋が、静かな空間の中でかすかな存在感を主張している。拓海は淡々と手を動かしていた。卵を溶いて、火を弱め、フライパンの上で優しく転がす。焼き魚は昨夜の残りで、温め直すだけだった。そうやって、朝食はいつも通りに整っていく。誰のためとも言えないその手際が、まるで毎朝の儀式のようだった。「…いただきます」不意に後ろから聞こえた声に、拓海は振り返らなかった。聞き慣れた、けれどどこか間の抜けたような、眠たげな声。山科宏樹。母の再婚相手であり、拓海にとっては戸籍上の“父”になる男。三十三歳。在宅の小説家。髪は無造作に伸びかけ、Tシャツの首元は少しだけよれている。だけど顔立ちは整っていて、街中で見かければ確実に二度見される。最近は目の下に少し隈があって、タバコの匂いをまとっていることが多い。拓海は炊きたてのごはんをよそい、宏樹の席の前に置いた。会話はない。礼も、言わない。いや、宏樹は言っているのかもしれない。ただ、記憶に残らない程度の声で。拓海も何も返さず、自分の分を皿に盛る。食卓に向かい合って座る。二人で暮らし始めてから、一年が経つ。母が亡くなったのは、ちょうどその一年前。病気だった。倒れるのは突然だったけれど、思い返せば兆しはあった。疲れた表情、微熱、食欲の減退、病院の予約。拓海は、何も気づかなかったわけじゃない。でも、何も言えなかった。そして、今。母のいない家に、拓海と宏樹だけが残されている。宏樹は朝からぼんやりとしていた。茶碗を持ったまま視線を落とし、ごはんを口に運ぶだけ。何かを考えているふうでも、何かを感じているふうでもなかった。ただ、生きて、そこにいるというだけの姿だった。「今日、学校?」ようやく出た声は、思った以上に掠れていた。「うん」短く答えたが、目は合わせなかった。宏樹もそれ以上は何も言わない。どうでもいい会話ができないのは、近くにいるからだろうか。それとも、血がつながっていないからだろう
last updateDernière mise à jour : 2025-08-21
Read More
模範解答
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が緩む。誰かが椅子を引く音がして、誰かが弁当袋を机に叩きつけるように置いた。笑い声、缶のプルトップを引く乾いた音、スマホの画面を擦る指の音。全部が同時に押し寄せてきて、教室の壁がわずかに震えたように思えた。拓海は教科書を閉じ、無言で鞄の中に入れた。机の上を整えてから、ペットボトルの水を一口飲む。それだけで、昼休みをどう過ごすかの姿勢が見えてしまう。誰ともつるまない。誰とも関わらない。最初から、そう決めていたわけじゃない。でも気づけば、こういう立ち位置になっていた。斜め前の席で、女子二人がこそこそと話しているのが聞こえた。名前までは知らない。たぶん、同じクラスになってから一度も会話をしたことがない。「やばくない?あの顔であの成績って」「しかもクール系だし…ってか、人間味ないよね、あの人」声ははっきりとは届かない。けれど、感じ取るには十分だった。言葉の意味より、温度でわかる。誉め言葉のように聞こえて、そうじゃないことを。窓際の自分の席。薄曇りの空が、カーテン越しにぼんやり光を落とす。気温は快適だったはずなのに、なぜか腕の内側にじっとり汗がにじんでいた。周囲からの評価は常に高い。通知表には欠点のない数値が並び、定期テストの順位もほとんど一桁。顔つきについても何かと話題になり、モデルとか俳優とか、現実味のない単語まで飛び交うこともある。けれど、そういった言葉に一度も心が動いたことはない。教師に呼び止められたのは、その日の放課後だった。廊下の端、窓のない進路指導室の前で、学年主任の男が手を振った。「山科、今ちょっといいか?」「はい」拓海は立ち止まり、ドアの向こうへ促されるままに入った。主任は、自分の机の前に座らせると、プリントを一枚差し出してきた。進学に関するアンケート。志望校、学部、希望職種。空欄の多いその紙に、主任は「優等生が苦手とするやつだよな」と冗談めかして言った。「山科、お前は何でもできるっていうか、模範的すぎてちょっと心配になるんだよな」拓海は答えなかった。
last updateDernière mise à jour : 2025-08-22
Read More
告白、という儀式
下校のチャイムが鳴ったあとの教室には、緩んだ空気が漂っていた。誰かの笑い声、荷物をまとめる音、椅子が擦れる鈍い音。喧騒というほどではないけれど、時間が次の段階へ移ったことを知らせる気配が、教室全体をゆるやかに包んでいた。拓海は、閉じた教科書を鞄に滑らせ、最後に筆箱を上に乗せた。今日は寄り道する予定もなく、まっすぐ帰るだけ。宏樹が何か言うことはないだろう。黙っている限り、互いの生活は継ぎ目なく進んでいく。そのとき、隣の席の女子が声をかけてきた。「山科くん、ちょっと…いい?」椅子の背から鞄を持ち上げた手が、途中で止まった。顔を上げると、彼女は少し緊張した面持ちで立っていた。目が揺れている。口元も、僅かに歪んでいた。「…いいけど」そう答えると、彼女は少しほっとしたように笑って、「外、いいかな」と、指で廊下の方を指した。歩きながら、拓海はすでに結論を出していた。告白だ、と。何度かあった流れと似ている。妙に丁寧な声かけ、場所を移したがる態度、言葉の選び方。それらすべてが、予定調和の一部に思えた。中庭に出ると、空はすでに淡く赤みを帯びていた。太陽は校舎の向こうに隠れかけていて、木々の影が長く伸びていた。春の風が、制服の裾をかすかに揺らす。「…あのさ」彼女が言葉を探すようにして口を開いた。「山科くんって、いつも一人でいるじゃん。なんか、話しかけたら迷惑かなって思ってたけど…それでも、やっぱり、ずっと気になってて」拓海は、黙って聞いていた。声の高さ、間の取り方、言葉の選び方。どれも、どこかで聞いたことのあるものだった。違うのは相手の顔と名前だけ。内容も、気持ちも、たぶん本物なのだろう。だけど、自分の心がどこにも動いていないことに気づいていた。彼女は一歩踏み出し、小さく笑って言った。「よかったら、付き合ってくれないかなって…」風が止んだ瞬間のように、空気が沈んだ。拓海は目を伏せ、答えた。「ごめん。俺、そういうの
last updateDernière mise à jour : 2025-08-23
Read More
ガラスのような目
昼下がりの教室は、妙にうるさくて、そして、どこか遠かった。風に揺れるカーテンが、くたびれたレースの音を立てる。窓の外には、青みを帯びた空が広がっていた。季節は春。けれど、その明るさは拓海の内側に、何ひとつ届かない。高校三年生になってから、周囲の会話が少しずつ変わり始めているのを、拓海は感じていた。受験や進路、部活の引退時期。けれど、それ以上に増えてきたのは「恋」の話だった。あの子が可愛いとか、誰と誰が付き合ってるとか。自分には縁のない音列が、日常のBGMのように流れ続ける。「お前さ、藤野と歩いてるとき、めっちゃ顔赤かったよな?」「うるせーって、そういうこと言うなよ」後ろの席から、男子たちの笑い声が響く。恋人未満の駆け引きに似た空気。くすぐったそうな声の響きが、机の上をすべって届いてくる。拓海はノートを開いたまま、シャーペンを持つ指に力を入れた。書くことはない。けれど、何かしていなければ、自分がそこにいる理由を失いそうだった。「山科はどうなの?」突然、名前を呼ばれた。顔を上げると、斜め前の席の藤野が笑っていた。体育の後に乱れた前髪が、そのままにされている。まっすぐな瞳が、悪意のない興味を滲ませていた。「彼女とか、いないの?」「…いない」「今まで付き合ったことある?っていうか、好きになったこととか…」そこまで聞かれて、拓海は一瞬だけ言葉を探した。あったかもしれない。でも、その「あった」が、周囲の言う「あった」と同じものなのか、確信できなかった。「ない…と思う」答えると、藤野は首をかしげた。「へえ…なんか意外。だって、顔、めっちゃいいじゃん?性格もたぶん悪くないし。変な意味じゃなくてさ」「…別に、興味ないだけだから」口をついて出た言葉に、違和感が残った。自分で言いながら、自分が何を否定しているのかわからない。けれど、それが嘘じゃないことだけは確かだった。藤野は「そっか」と言って、ほんの少し笑
last updateDernière mise à jour : 2025-08-24
Read More
見透かされたくない
夜のリビングは、どこか乾いていた。雨上がりの湿気が窓にうっすらと残り、外の景色を曇らせている。テレビはついていたが、誰も真剣に見ているわけではない。淡々とニュースの声が部屋に流れ、それが静けさを際立たせていた。拓海はソファに背を預けたまま、視線だけを横に滑らせる。ローテーブルの向こう、机に向かう宏樹の背中があった。少し猫背で、指はキーボードを叩いていたり、時には止まって資料を見返していたり。無造作な髪が光を鈍く弾いていて、左手には消えかけた煙草が握られていた。「ただいま」と言ったとき、宏樹は顔も上げずに「おかえり」とだけ返した。それで会話は終わった。声の奥に責めも干渉もなかった。優しいといえば優しかった。でも、まるで他人の言葉みたいだった。いつも、こんな感じだ。二人暮らしになって、もうすぐ一年になる。家の中は落ち着いている。宏樹は、何かを強制してくるような大人ではない。口うるさくもない。だけど、それはたぶん、責任や情ではなく、必要以上に関わらないという暗黙の了解の上に成り立っていた。「今日は雨だったね」ふと、言葉が喉まで上がった。でも、声にはならなかった。そんな会話を交わす必要があるのか、ないのか。自分でもわからない。言ったところで、宏樹は何と答えるだろう。そう考えるうちに、口の中に残った温度が冷めていく。テレビの中で誰かが笑った。けれど、拓海の胸の奥は静かだった。気づけば、自分の目線は壁の写真に向いていた。木製のフレームにおさめられた一枚。母、美幸の笑顔がそこにあった。白いブラウス、淡いメイク、光の中で少し髪が透けて見える。その顔を、拓海はいつの間にか“鏡”のように見るようになっていた。「似てきたな」と言われたことがある。親戚も、先生も、時には宏樹も。鏡を見るたび、どこかでその言葉を意識してしまう。目元、鼻筋、唇の形。たしかに、重なる部分はある。でもそれは、本人にとっては複雑な感情を呼び起こす材料でしかなかった。母なら――
last updateDernière mise à jour : 2025-08-25
Read More
硝子のなかの体温
廊下の照明は、夜の空気を照らすにはやや弱かった。白熱灯のような温もりのある光ではなく、青みがかった蛍光灯の冷たい明かりが、壁と床を静かに染めていた。玄関の扉も、リビングのカーテンも閉まっていて、外気は一切入ってこない。それなのに、家の中は微かに蒸していた。拓海は自室の扉の前で、足を止めた。手には使い終えたグラスが一つ。洗ってから寝ようかと考えていた矢先、風呂場の方から足音が近づいてくるのが聞こえた。パタ…パタ…と、水気を含んだ裸足の音が、廊下のフローリングに落ちてくる。タオルで髪を拭きながら現れたのは、宏樹だった。黒いTシャツに、紺のスウェット。腕や首元には湯上がりの赤みが残り、濡れた髪の先から雫がこぼれ落ちていた。一瞬、目が合いかけた。でも、宏樹はそれを避けるように、すぐ視線を逸らした。「…風呂、ありがとな」小さな声で、それだけ言うと、宏樹はグラスに目をやり、「それ、置いといていいよ。あとで俺がやるから」と、声をかけた。拓海は「うん」とだけ返し、そのまますれ違った。すれ違いざま、タオルが腕にかすかに触れた。その一瞬、肌の熱が滲んで伝わってくる。湯気の残り香と、石鹸の匂い。タバコの匂いは、まだ完全には抜けきっていない。生っぽい温度だった。それが自分の体に乗ったとき、拓海は思わず息を呑んだ。たったそれだけのことだった。けれど、心臓が小さく跳ねたのを、誤魔化しようがなかった。足音が遠ざかる。宏樹は、きっと気づいていない。いや、気づいたとしても、意味など持たせていない。日常の延長にすぎない。触れたのも、立ち止まらなかったのも。だが、拓海の中には何かが引っかかっていた。爪で撫でられたようなざわめきが、皮膚の奥で疼いている。部屋に戻り、ドアを閉めた。小さな「カチリ」という音が、まるで世界と遮断された合図のようだった。ベッドに腰を下ろし、腕を見つめた。さっき、タオルが触れた場所。なにも痕は
last updateDernière mise à jour : 2025-08-26
Read More
昼休みの境界線
教室の窓は大きく開け放たれ、初夏の匂いが風に乗って流れ込んできていた。乾いた草のにおいと、誰かが買ってきた菓子パンの甘い匂いが混ざって、教室の空気はざらついていた。昼休みのチャイムが鳴ってからまだ十分も経たないうちに、クラスの中心に輪ができていた。声を張り上げる男子、生ぬるく笑う女子、机を囲んだその一角は、小さな舞台のように熱を帯びていた。「結局、さきちゃんと付き合うことにしたわけよ」「マジ?あのさきちゃん?すげえな」「いや、俺も正直ちょっと迷ったんだけどさ、やっぱ告白されたら、な?」笑い声が、教室の天井で跳ね返っては散っていく。その場にいる全員が、楽しげな芝居に無意識のうちに参加しているようだった。拓海は、自分の席で弁当箱の蓋を開けながら、その騒がしさを遠巻きに眺めていた。誰にも話しかけられていないわけではない。教科書の貸し借りも、グループ活動も、最低限の交流はある。けれど、こうして昼休みになると、拓海はいつもひとりになった。一人で食べているわけではない。隣の席の男子や前の席の女子が、ときどき声をかけてくれる。それでも、会話の輪の中には入れない。入ろうとも思えなかった。「でさ、どこまで行ったんだよ」「お前下品すぎ。まだ付き合って三日目でしょ?」「でもさ、キスとかしたんじゃないの?」その瞬間、男子のひとりがこちらに目をやった。視線が合う。「拓海くんとか、どうなん?モテそうなのに、彼女できたことあんの?」質問は、ごく軽いノリだった。何の悪意もなかった。けれど、教室の空気が一瞬だけ凍ったような気がした。「ないよ」短く答えると、周囲の笑いが少しだけ薄れた。「え、マジで?意外。タイプとかいなさそうだけど」「てか、女子に興味ないとか?」声が上ずっていたのは、自分か、それとも彼らか。笑いながら言ったその言葉に、拓海はなにも返さなかった。返せなかった。そして、それ以上は誰も何も言わなかった。輪は、すぐに別の話題に移った。「てかさ、次のテスト範囲めっちゃ広く
last updateDernière mise à jour : 2025-08-27
Read More
無防備な横顔
階段を上ってくる足音が、木製の床に微かに響いて、拓海は手にしていたシャツの袖を折る手を止めた。干し終えた洗濯物を取り込み、自室でたたんでいたところだった。時計の針は午後六時を少し過ぎていた。夕方の光がまだ窓際に薄く残っていて、部屋の中は電気を点けるには少し早い。「ただいま」低い声が玄関から届いたが、拓海は返事をしなかった。言葉が喉まで上がってきたが、引き返していった。かわりに静かに立ち上がり、たたみかけのシャツを持ってリビングへ向かう。リビングの扉を開けると、ちょうど宏樹がソファに倒れ込むように座るところだった。彼は玄関で上着と荷物を投げ置いて、Tシャツとジーンズというくたびれた格好に着替えていた。「ふぅ…」長い息を吐きながら、背もたれに体をあずけて伸びをする。頭の後ろで腕を組んだ拍子に、Tシャツの裾がわずかにめくれ、腹部の皮膚がちらりと覗いた。血色のいい肌、引き締まってはいないがだらしなくもない身体。拓海はその一瞬を見て、なぜか目を逸らせなかった。自分でも理由はわからない。ただ、視線がそこに吸い寄せられてしまった。宏樹は三十三歳。母の再婚相手であり、今は亡きその妻――拓海の母の死後も、こうして同じ屋根の下で暮らしている。義父というには若すぎて、兄というには遠すぎる存在。今の関係を言葉にするなら「同居人」…それが一番近いかもしれない。「今日、洗濯機の音うるさかったな。脱水長かった?」ソファから身を起こして、宏樹が言った。タバコの箱を手に取り、指で軽く弾く。「…多めだったから」拓海は短く返し、たたんだシャツを重ねる作業に戻った。手の中の布の感触が、いつもより柔らかく感じられた。宏樹の言葉には悪意もなく、無関心でもない。ただ、必要最低限の気遣いだけで構成されたような、そんな温度。「ちょっとベランダで吸ってくるわ」拓海は視線を上げた。宏樹がスリッパを引きずり、窓を開けて外に出る。カーテンがふわりと揺れて、微かな夜風が室内に流れ込んだ。リビングには、彼がつけたレコードから
last updateDernière mise à jour : 2025-08-28
Read More
藤野の一言
学校の裏門を出ると、薄曇りの空が頭上に広がっていた。灰色に沈んだ雲が、地上に鈍い光を投げかけている。涼しげな風が頬をかすめ、セーターの袖を揺らした。「今日はちょっと肌寒いな」藤野が言った。拓海の隣を歩く彼の声は、いつもと変わらず、軽やかだった。二人は同じクラスで、同じ帰り道を通っている。話す頻度は決して多くはないが、放課後のこの道だけは、自然と並んで歩くことが多かった。「ねえ」「ん」拓海は問い返しただけで、視線は前を向いたまま。アスファルトの継ぎ目を目で追っていた。「拓海ってさ、もしかして、ゲイなの?」言葉は、ほんの冗談のつもりだったのかもしれない。藤野の口調には悪意も毒も感じられなかった。ただ、ふと浮かんだから口にした、そんな他愛のない一言。けれど、その瞬間、胸の奥にヒビが走るような音がした。拓海は足を止めそうになったが、なんとか歩き続けた。顔の筋肉が動かない。返事をする声が、喉の奥でかすれて消えていった。「いや、悪い意味じゃないよ?なんか、女子の話とかさ、あんましないからさ」藤野は続けた。拓海の反応を見て、何かまずいことを言ったのだと気づいたのかもしれない。言葉を継ぎ足すその声が、やけに遠く聞こえた。「別に誰が誰を好きでもいいと思うし、今ってそういう時代だしな」拓海は、無言のまま歩き続けた。「ちょっと前もさ、他のクラスの奴が、男の先輩に告白したとか言ってて、まあ勇気あるよなーって」何を言ってるんだろう、と頭の片隅で思った。目の前の景色が霞んで見えた。空が低く垂れこめ、風が冷たく腕を撫でていく。胸の奥が、ずっとざわついていた。あの問いが、自分の中のどこか、まだ触れたことのない場所を正確に刺し貫いたからだ。「違う」と否定しなかった自分。「そうだ」と肯定する勇気もなかった自分。どちらでもないその沈黙が、まるで自分の正体を暴露してしまったかのように思えた。会話は自然と途切れた。藤野ももう、何も言わなかった。二人の歩調は合っていたが、そこに
last updateDernière mise à jour : 2025-08-29
Read More
濡れた制服、濡れた声
玄関の扉を閉めた瞬間、湿った冷気が靴の中まで染み込んでいたことに気づいた。制服の裾は脚にまとわりつき、髪からはしずくがぽたぽたと落ちて、床に小さな水溜まりを作っている。リビングの奥から、静かなキーボードの打鍵音が聞こえた。宏樹はいつものように原稿に向かっている。いつもの夜。雨が降ろうが、自分が濡れて帰ろうが、それを知らせる言葉も、誰かの出迎えもない。制服のまま、鞄も落とさず、拓海はそのままリビングへ歩いた。濡れた靴下がフローリングに吸いつく音が、部屋の静けさに紛れて不自然に響く。宏樹が顔を上げた。「…どうした?傘、なかったのか」いつもの低く落ち着いた声。タイピングを止め、彼は椅子を回してこちらを向いた。拓海は無言で立ち尽くしていた。濡れたシャツが冷えて、皮膚の上に貼りついている。雨に濡れても、走っても、歩いても、心の中のざわつきは何も変わらなかった。「拓海?」名前を呼ばれ、ようやく足が動いた。数歩進んで、テーブルの端に手をつく。重く、呼吸がうまくできない。目の奥が熱くて、何かが溢れそうなのを必死に堪える。「なあ、着替えてから…」宏樹が立ち上がろうとした、その瞬間だった。「女に…触れられないんだ」拓海の声は、ひどくかすれていた。喉の奥から無理やり引き出されたそれは、言葉というよりも、吐息に近かった。宏樹が動きを止める。「……どういう意味だ?」「そのままの意味。触れられると、拒否反応が出る。気持ち悪くて、鳥肌が立って、息ができなくなる」言葉が出たあと、全身が震えていた。冷えているのか、感情のせいなのか、自分でももうわからなかった。「今日も、学校で…女子に手を触れられて、すぐに引いた。そしたら…『やっぱ変わってるね』って、笑われた」拓海は唇を噛んだ。唇の内側に歯が食い込む痛みで、今ここが現実だと確かめようとしていた。「周りはみんな、『恋バナ』とかして、誰が好きとか、どの子
last updateDernière mise à jour : 2025-08-30
Read More
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status