境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい

境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい

last updateLast Updated : 2025-09-01
By:  中岡 始Updated just now
Language: Japanese
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母の死を境に、高校生の拓海と若き義父・宏樹は、ひとつ屋根の下でふたりきりになった。 父子という仮面を被りながら、拓海は自分の“揺らぐ感情”に怯え、宏樹は“失われた愛”の影に囚われていた。 心の奥に潜む孤独と渇きを、互いに知られまいとするうちに、ふたりの距離はやがて“許されない一線”を越えていく。 逃れられない過去と向き合いながら、彼らは関係に名前を与えることをやめた。 “家族”という言葉では覆いきれない絆、誰にも理解されない愛。 傷つき、赦し合い、それでも隣にいることを選んだふたりが辿り着いたのは、ひとつの祈りのかたちだった。 静かに燃える感情と、切なさの果てに紡がれる、唯一無二のラブストーリー。

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透明な朝食
朝の光は柔らかく、カーテン越しに淡く差し込んでいた。まだ春の気配を引きずる風が、キッチンの窓を小さく震わせる。湯気をあげる味噌汁の鍋が、静かな空間の中でかすかな存在感を主張している。拓海は淡々と手を動かしていた。卵を溶いて、火を弱め、フライパンの上で優しく転がす。焼き魚は昨夜の残りで、温め直すだけだった。そうやって、朝食はいつも通りに整っていく。誰のためとも言えないその手際が、まるで毎朝の儀式のようだった。「…いただきます」不意に後ろから聞こえた声に、拓海は振り返らなかった。聞き慣れた、けれどどこか間の抜けたような、眠たげな声。山科宏樹。母の再婚相手であり、拓海にとっては戸籍上の“父”になる男。三十三歳。在宅の小説家。髪は無造作に伸びかけ、Tシャツの首元は少しだけよれている。だけど顔立ちは整っていて、街中で見かければ確実に二度見される。最近は目の下に少し隈があって、タバコの匂いをまとっていることが多い。拓海は炊きたてのごはんをよそい、宏樹の席の前に置いた。会話はない。礼も、言わない。いや、宏樹は言っているのかもしれない。ただ、記憶に残らない程度の声で。拓海も何も返さず、自分の分を皿に盛る。食卓に向かい合って座る。二人で暮らし始めてから、一年が経つ。母が亡くなったのは、ちょうどその一年前。病気だった。倒れるのは突然だったけれど、思い返せば兆しはあった。疲れた表情、微熱、食欲の減退、病院の予約。拓海は、何も気づかなかったわけじゃない。でも、何も言えなかった。そして、今。母のいない家に、拓海と宏樹だけが残されている。宏樹は朝からぼんやりとしていた。茶碗を持ったまま視線を落とし、ごはんを口に運ぶだけ。何かを考えているふうでも、何かを感じているふうでもなかった。ただ、生きて、そこにいるというだけの姿だった。「今日、学校?」ようやく出た声は、思った以上に掠れていた。「うん」短く答えたが、目は合わせなかった。宏樹もそれ以上は何も言わない。どうでもいい会話ができないのは、近くにいるからだろうか。それとも、血がつながっていないからだろう
last updateLast Updated : 2025-08-21
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模範解答
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が緩む。誰かが椅子を引く音がして、誰かが弁当袋を机に叩きつけるように置いた。笑い声、缶のプルトップを引く乾いた音、スマホの画面を擦る指の音。全部が同時に押し寄せてきて、教室の壁がわずかに震えたように思えた。拓海は教科書を閉じ、無言で鞄の中に入れた。机の上を整えてから、ペットボトルの水を一口飲む。それだけで、昼休みをどう過ごすかの姿勢が見えてしまう。誰ともつるまない。誰とも関わらない。最初から、そう決めていたわけじゃない。でも気づけば、こういう立ち位置になっていた。斜め前の席で、女子二人がこそこそと話しているのが聞こえた。名前までは知らない。たぶん、同じクラスになってから一度も会話をしたことがない。「やばくない?あの顔であの成績って」「しかもクール系だし…ってか、人間味ないよね、あの人」声ははっきりとは届かない。けれど、感じ取るには十分だった。言葉の意味より、温度でわかる。誉め言葉のように聞こえて、そうじゃないことを。窓際の自分の席。薄曇りの空が、カーテン越しにぼんやり光を落とす。気温は快適だったはずなのに、なぜか腕の内側にじっとり汗がにじんでいた。周囲からの評価は常に高い。通知表には欠点のない数値が並び、定期テストの順位もほとんど一桁。顔つきについても何かと話題になり、モデルとか俳優とか、現実味のない単語まで飛び交うこともある。けれど、そういった言葉に一度も心が動いたことはない。教師に呼び止められたのは、その日の放課後だった。廊下の端、窓のない進路指導室の前で、学年主任の男が手を振った。「山科、今ちょっといいか?」「はい」拓海は立ち止まり、ドアの向こうへ促されるままに入った。主任は、自分の机の前に座らせると、プリントを一枚差し出してきた。進学に関するアンケート。志望校、学部、希望職種。空欄の多いその紙に、主任は「優等生が苦手とするやつだよな」と冗談めかして言った。「山科、お前は何でもできるっていうか、模範的すぎてちょっと心配になるんだよな」拓海は答えなかった。
last updateLast Updated : 2025-08-22
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告白、という儀式
下校のチャイムが鳴ったあとの教室には、緩んだ空気が漂っていた。誰かの笑い声、荷物をまとめる音、椅子が擦れる鈍い音。喧騒というほどではないけれど、時間が次の段階へ移ったことを知らせる気配が、教室全体をゆるやかに包んでいた。拓海は、閉じた教科書を鞄に滑らせ、最後に筆箱を上に乗せた。今日は寄り道する予定もなく、まっすぐ帰るだけ。宏樹が何か言うことはないだろう。黙っている限り、互いの生活は継ぎ目なく進んでいく。そのとき、隣の席の女子が声をかけてきた。「山科くん、ちょっと…いい?」椅子の背から鞄を持ち上げた手が、途中で止まった。顔を上げると、彼女は少し緊張した面持ちで立っていた。目が揺れている。口元も、僅かに歪んでいた。「…いいけど」そう答えると、彼女は少しほっとしたように笑って、「外、いいかな」と、指で廊下の方を指した。歩きながら、拓海はすでに結論を出していた。告白だ、と。何度かあった流れと似ている。妙に丁寧な声かけ、場所を移したがる態度、言葉の選び方。それらすべてが、予定調和の一部に思えた。中庭に出ると、空はすでに淡く赤みを帯びていた。太陽は校舎の向こうに隠れかけていて、木々の影が長く伸びていた。春の風が、制服の裾をかすかに揺らす。「…あのさ」彼女が言葉を探すようにして口を開いた。「山科くんって、いつも一人でいるじゃん。なんか、話しかけたら迷惑かなって思ってたけど…それでも、やっぱり、ずっと気になってて」拓海は、黙って聞いていた。声の高さ、間の取り方、言葉の選び方。どれも、どこかで聞いたことのあるものだった。違うのは相手の顔と名前だけ。内容も、気持ちも、たぶん本物なのだろう。だけど、自分の心がどこにも動いていないことに気づいていた。彼女は一歩踏み出し、小さく笑って言った。「よかったら、付き合ってくれないかなって…」風が止んだ瞬間のように、空気が沈んだ。拓海は目を伏せ、答えた。「ごめん。俺、そういうの
last updateLast Updated : 2025-08-23
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ガラスのような目
昼下がりの教室は、妙にうるさくて、そして、どこか遠かった。風に揺れるカーテンが、くたびれたレースの音を立てる。窓の外には、青みを帯びた空が広がっていた。季節は春。けれど、その明るさは拓海の内側に、何ひとつ届かない。高校三年生になってから、周囲の会話が少しずつ変わり始めているのを、拓海は感じていた。受験や進路、部活の引退時期。けれど、それ以上に増えてきたのは「恋」の話だった。あの子が可愛いとか、誰と誰が付き合ってるとか。自分には縁のない音列が、日常のBGMのように流れ続ける。「お前さ、藤野と歩いてるとき、めっちゃ顔赤かったよな?」「うるせーって、そういうこと言うなよ」後ろの席から、男子たちの笑い声が響く。恋人未満の駆け引きに似た空気。くすぐったそうな声の響きが、机の上をすべって届いてくる。拓海はノートを開いたまま、シャーペンを持つ指に力を入れた。書くことはない。けれど、何かしていなければ、自分がそこにいる理由を失いそうだった。「山科はどうなの?」突然、名前を呼ばれた。顔を上げると、斜め前の席の藤野が笑っていた。体育の後に乱れた前髪が、そのままにされている。まっすぐな瞳が、悪意のない興味を滲ませていた。「彼女とか、いないの?」「…いない」「今まで付き合ったことある?っていうか、好きになったこととか…」そこまで聞かれて、拓海は一瞬だけ言葉を探した。あったかもしれない。でも、その「あった」が、周囲の言う「あった」と同じものなのか、確信できなかった。「ない…と思う」答えると、藤野は首をかしげた。「へえ…なんか意外。だって、顔、めっちゃいいじゃん?性格もたぶん悪くないし。変な意味じゃなくてさ」「…別に、興味ないだけだから」口をついて出た言葉に、違和感が残った。自分で言いながら、自分が何を否定しているのかわからない。けれど、それが嘘じゃないことだけは確かだった。藤野は「そっか」と言って、ほんの少し笑
last updateLast Updated : 2025-08-24
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見透かされたくない
夜のリビングは、どこか乾いていた。雨上がりの湿気が窓にうっすらと残り、外の景色を曇らせている。テレビはついていたが、誰も真剣に見ているわけではない。淡々とニュースの声が部屋に流れ、それが静けさを際立たせていた。拓海はソファに背を預けたまま、視線だけを横に滑らせる。ローテーブルの向こう、机に向かう宏樹の背中があった。少し猫背で、指はキーボードを叩いていたり、時には止まって資料を見返していたり。無造作な髪が光を鈍く弾いていて、左手には消えかけた煙草が握られていた。「ただいま」と言ったとき、宏樹は顔も上げずに「おかえり」とだけ返した。それで会話は終わった。声の奥に責めも干渉もなかった。優しいといえば優しかった。でも、まるで他人の言葉みたいだった。いつも、こんな感じだ。二人暮らしになって、もうすぐ一年になる。家の中は落ち着いている。宏樹は、何かを強制してくるような大人ではない。口うるさくもない。だけど、それはたぶん、責任や情ではなく、必要以上に関わらないという暗黙の了解の上に成り立っていた。「今日は雨だったね」ふと、言葉が喉まで上がった。でも、声にはならなかった。そんな会話を交わす必要があるのか、ないのか。自分でもわからない。言ったところで、宏樹は何と答えるだろう。そう考えるうちに、口の中に残った温度が冷めていく。テレビの中で誰かが笑った。けれど、拓海の胸の奥は静かだった。気づけば、自分の目線は壁の写真に向いていた。木製のフレームにおさめられた一枚。母、美幸の笑顔がそこにあった。白いブラウス、淡いメイク、光の中で少し髪が透けて見える。その顔を、拓海はいつの間にか“鏡”のように見るようになっていた。「似てきたな」と言われたことがある。親戚も、先生も、時には宏樹も。鏡を見るたび、どこかでその言葉を意識してしまう。目元、鼻筋、唇の形。たしかに、重なる部分はある。でもそれは、本人にとっては複雑な感情を呼び起こす材料でしかなかった。母なら――
last updateLast Updated : 2025-08-25
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硝子のなかの体温
廊下の照明は、夜の空気を照らすにはやや弱かった。白熱灯のような温もりのある光ではなく、青みがかった蛍光灯の冷たい明かりが、壁と床を静かに染めていた。玄関の扉も、リビングのカーテンも閉まっていて、外気は一切入ってこない。それなのに、家の中は微かに蒸していた。拓海は自室の扉の前で、足を止めた。手には使い終えたグラスが一つ。洗ってから寝ようかと考えていた矢先、風呂場の方から足音が近づいてくるのが聞こえた。パタ…パタ…と、水気を含んだ裸足の音が、廊下のフローリングに落ちてくる。タオルで髪を拭きながら現れたのは、宏樹だった。黒いTシャツに、紺のスウェット。腕や首元には湯上がりの赤みが残り、濡れた髪の先から雫がこぼれ落ちていた。一瞬、目が合いかけた。でも、宏樹はそれを避けるように、すぐ視線を逸らした。「…風呂、ありがとな」小さな声で、それだけ言うと、宏樹はグラスに目をやり、「それ、置いといていいよ。あとで俺がやるから」と、声をかけた。拓海は「うん」とだけ返し、そのまますれ違った。すれ違いざま、タオルが腕にかすかに触れた。その一瞬、肌の熱が滲んで伝わってくる。湯気の残り香と、石鹸の匂い。タバコの匂いは、まだ完全には抜けきっていない。生っぽい温度だった。それが自分の体に乗ったとき、拓海は思わず息を呑んだ。たったそれだけのことだった。けれど、心臓が小さく跳ねたのを、誤魔化しようがなかった。足音が遠ざかる。宏樹は、きっと気づいていない。いや、気づいたとしても、意味など持たせていない。日常の延長にすぎない。触れたのも、立ち止まらなかったのも。だが、拓海の中には何かが引っかかっていた。爪で撫でられたようなざわめきが、皮膚の奥で疼いている。部屋に戻り、ドアを閉めた。小さな「カチリ」という音が、まるで世界と遮断された合図のようだった。ベッドに腰を下ろし、腕を見つめた。さっき、タオルが触れた場所。なにも痕は
last updateLast Updated : 2025-08-26
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昼休みの境界線
教室の窓は大きく開け放たれ、初夏の匂いが風に乗って流れ込んできていた。乾いた草のにおいと、誰かが買ってきた菓子パンの甘い匂いが混ざって、教室の空気はざらついていた。昼休みのチャイムが鳴ってからまだ十分も経たないうちに、クラスの中心に輪ができていた。声を張り上げる男子、生ぬるく笑う女子、机を囲んだその一角は、小さな舞台のように熱を帯びていた。「結局、さきちゃんと付き合うことにしたわけよ」「マジ?あのさきちゃん?すげえな」「いや、俺も正直ちょっと迷ったんだけどさ、やっぱ告白されたら、な?」笑い声が、教室の天井で跳ね返っては散っていく。その場にいる全員が、楽しげな芝居に無意識のうちに参加しているようだった。拓海は、自分の席で弁当箱の蓋を開けながら、その騒がしさを遠巻きに眺めていた。誰にも話しかけられていないわけではない。教科書の貸し借りも、グループ活動も、最低限の交流はある。けれど、こうして昼休みになると、拓海はいつもひとりになった。一人で食べているわけではない。隣の席の男子や前の席の女子が、ときどき声をかけてくれる。それでも、会話の輪の中には入れない。入ろうとも思えなかった。「でさ、どこまで行ったんだよ」「お前下品すぎ。まだ付き合って三日目でしょ?」「でもさ、キスとかしたんじゃないの?」その瞬間、男子のひとりがこちらに目をやった。視線が合う。「拓海くんとか、どうなん?モテそうなのに、彼女できたことあんの?」質問は、ごく軽いノリだった。何の悪意もなかった。けれど、教室の空気が一瞬だけ凍ったような気がした。「ないよ」短く答えると、周囲の笑いが少しだけ薄れた。「え、マジで?意外。タイプとかいなさそうだけど」「てか、女子に興味ないとか?」声が上ずっていたのは、自分か、それとも彼らか。笑いながら言ったその言葉に、拓海はなにも返さなかった。返せなかった。そして、それ以上は誰も何も言わなかった。輪は、すぐに別の話題に移った。「てかさ、次のテスト範囲めっちゃ広く
last updateLast Updated : 2025-08-27
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無防備な横顔
階段を上ってくる足音が、木製の床に微かに響いて、拓海は手にしていたシャツの袖を折る手を止めた。干し終えた洗濯物を取り込み、自室でたたんでいたところだった。時計の針は午後六時を少し過ぎていた。夕方の光がまだ窓際に薄く残っていて、部屋の中は電気を点けるには少し早い。「ただいま」低い声が玄関から届いたが、拓海は返事をしなかった。言葉が喉まで上がってきたが、引き返していった。かわりに静かに立ち上がり、たたみかけのシャツを持ってリビングへ向かう。リビングの扉を開けると、ちょうど宏樹がソファに倒れ込むように座るところだった。彼は玄関で上着と荷物を投げ置いて、Tシャツとジーンズというくたびれた格好に着替えていた。「ふぅ…」長い息を吐きながら、背もたれに体をあずけて伸びをする。頭の後ろで腕を組んだ拍子に、Tシャツの裾がわずかにめくれ、腹部の皮膚がちらりと覗いた。血色のいい肌、引き締まってはいないがだらしなくもない身体。拓海はその一瞬を見て、なぜか目を逸らせなかった。自分でも理由はわからない。ただ、視線がそこに吸い寄せられてしまった。宏樹は三十三歳。母の再婚相手であり、今は亡きその妻――拓海の母の死後も、こうして同じ屋根の下で暮らしている。義父というには若すぎて、兄というには遠すぎる存在。今の関係を言葉にするなら「同居人」…それが一番近いかもしれない。「今日、洗濯機の音うるさかったな。脱水長かった?」ソファから身を起こして、宏樹が言った。タバコの箱を手に取り、指で軽く弾く。「…多めだったから」拓海は短く返し、たたんだシャツを重ねる作業に戻った。手の中の布の感触が、いつもより柔らかく感じられた。宏樹の言葉には悪意もなく、無関心でもない。ただ、必要最低限の気遣いだけで構成されたような、そんな温度。「ちょっとベランダで吸ってくるわ」拓海は視線を上げた。宏樹がスリッパを引きずり、窓を開けて外に出る。カーテンがふわりと揺れて、微かな夜風が室内に流れ込んだ。リビングには、彼がつけたレコードから
last updateLast Updated : 2025-08-28
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藤野の一言
学校の裏門を出ると、薄曇りの空が頭上に広がっていた。灰色に沈んだ雲が、地上に鈍い光を投げかけている。涼しげな風が頬をかすめ、セーターの袖を揺らした。「今日はちょっと肌寒いな」藤野が言った。拓海の隣を歩く彼の声は、いつもと変わらず、軽やかだった。二人は同じクラスで、同じ帰り道を通っている。話す頻度は決して多くはないが、放課後のこの道だけは、自然と並んで歩くことが多かった。「ねえ」「ん」拓海は問い返しただけで、視線は前を向いたまま。アスファルトの継ぎ目を目で追っていた。「拓海ってさ、もしかして、ゲイなの?」言葉は、ほんの冗談のつもりだったのかもしれない。藤野の口調には悪意も毒も感じられなかった。ただ、ふと浮かんだから口にした、そんな他愛のない一言。けれど、その瞬間、胸の奥にヒビが走るような音がした。拓海は足を止めそうになったが、なんとか歩き続けた。顔の筋肉が動かない。返事をする声が、喉の奥でかすれて消えていった。「いや、悪い意味じゃないよ?なんか、女子の話とかさ、あんましないからさ」藤野は続けた。拓海の反応を見て、何かまずいことを言ったのだと気づいたのかもしれない。言葉を継ぎ足すその声が、やけに遠く聞こえた。「別に誰が誰を好きでもいいと思うし、今ってそういう時代だしな」拓海は、無言のまま歩き続けた。「ちょっと前もさ、他のクラスの奴が、男の先輩に告白したとか言ってて、まあ勇気あるよなーって」何を言ってるんだろう、と頭の片隅で思った。目の前の景色が霞んで見えた。空が低く垂れこめ、風が冷たく腕を撫でていく。胸の奥が、ずっとざわついていた。あの問いが、自分の中のどこか、まだ触れたことのない場所を正確に刺し貫いたからだ。「違う」と否定しなかった自分。「そうだ」と肯定する勇気もなかった自分。どちらでもないその沈黙が、まるで自分の正体を暴露してしまったかのように思えた。会話は自然と途切れた。藤野ももう、何も言わなかった。二人の歩調は合っていたが、そこに
last updateLast Updated : 2025-08-29
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濡れた制服、濡れた声
玄関の扉を閉めた瞬間、湿った冷気が靴の中まで染み込んでいたことに気づいた。制服の裾は脚にまとわりつき、髪からはしずくがぽたぽたと落ちて、床に小さな水溜まりを作っている。リビングの奥から、静かなキーボードの打鍵音が聞こえた。宏樹はいつものように原稿に向かっている。いつもの夜。雨が降ろうが、自分が濡れて帰ろうが、それを知らせる言葉も、誰かの出迎えもない。制服のまま、鞄も落とさず、拓海はそのままリビングへ歩いた。濡れた靴下がフローリングに吸いつく音が、部屋の静けさに紛れて不自然に響く。宏樹が顔を上げた。「…どうした?傘、なかったのか」いつもの低く落ち着いた声。タイピングを止め、彼は椅子を回してこちらを向いた。拓海は無言で立ち尽くしていた。濡れたシャツが冷えて、皮膚の上に貼りついている。雨に濡れても、走っても、歩いても、心の中のざわつきは何も変わらなかった。「拓海?」名前を呼ばれ、ようやく足が動いた。数歩進んで、テーブルの端に手をつく。重く、呼吸がうまくできない。目の奥が熱くて、何かが溢れそうなのを必死に堪える。「なあ、着替えてから…」宏樹が立ち上がろうとした、その瞬間だった。「女に…触れられないんだ」拓海の声は、ひどくかすれていた。喉の奥から無理やり引き出されたそれは、言葉というよりも、吐息に近かった。宏樹が動きを止める。「……どういう意味だ?」「そのままの意味。触れられると、拒否反応が出る。気持ち悪くて、鳥肌が立って、息ができなくなる」言葉が出たあと、全身が震えていた。冷えているのか、感情のせいなのか、自分でももうわからなかった。「今日も、学校で…女子に手を触れられて、すぐに引いた。そしたら…『やっぱ変わってるね』って、笑われた」拓海は唇を噛んだ。唇の内側に歯が食い込む痛みで、今ここが現実だと確かめようとしていた。「周りはみんな、『恋バナ』とかして、誰が好きとか、どの子
last updateLast Updated : 2025-08-30
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