Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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優しさの距離

タオルを受け取った手をぎこちなく握りしめ、拓海は立ちすくんでいた。宏樹はそれ以上、近寄らなかった。部屋の中心には乾きかけた空気があり、互いの温度だけが取り残されていた。「風邪ひくぞ」宏樹がやわらかく促す声は、穏やかで、どこか遠かった。拓海はうなずき、ゆっくりと踵を返した。足元には雨のしずくがしみた靴下の跡が点々とついていた。部屋の照明がその濡れた足跡に薄い影を落とす。脱衣所までの廊下を、拓海は無言で歩く。シャツを脱ぎ捨て、冷えた肌にタオルを当てる。濡れた髪が額に張りつき、温もりと冷たさが交互に皮膚を撫でていく。タオルの繊維が水を吸うたび、指先にかすかなざらつきが残る。「そっか」宏樹が言ったその一言が、脳裏にこだまする。まるで、既に何度も同じ相談を受けたような、答え慣れた声色。驚きも、戸惑いも、戸口すら見せなかった。だが、それがかえって拓海の胸に、冷えた水のように広がっていた。理解されたのに、どこにも届いていない。寄り添ってくれたのに、触れられていない。母さんだったら、もっと狼狽えて、困ったように笑ったかもしれない。言葉を選んで、何度も確かめようとして、うまく言葉にできず、でも抱きしめてくれたかもしれない。あの人は、いつもそうだった。拓海は新しい部屋着に着替え、髪を乾かしもせずに自室に戻った。扉を閉めた瞬間、まるで自分だけが世界から切り離されたような錯覚に襲われる。机の上には勉強道具と閉じたままの参考書。開けたままのカーテンの向こう、雨はまだやまない。街灯の光が濡れたアスファルトを照らしていて、音もなく降る雨の粒が、静かに光を砕いていた。ベッドに腰を下ろし、背中を丸めて膝を抱えた。自分の腕のなかに収まる体の小ささが、こんなにも孤独に感じるのは、何年ぶりだろう。あれほど勇気を出して、ようやく言えたことだったのに。心の中には、もう少し違う反応を期待していた自分がいた。手を伸ばしてほしかった。叱られてもよかった。もっと、拓海個人として向き合ってほしかった。でも、宏樹はただ、「そっか」と言った。
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朝の煙と白い背中

朝の光は、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。柔らかくて、どこか頼りなくて、それでも空気をゆっくりと温めていく。五月の初め、風の匂いは少しだけ湿っていて、それが休日の朝の静けさをより濃く感じさせた。拓海はソファの上に膝を立て、ぼんやりとベランダを見つめていた。視線の先には、白いシャツを肩にかけたまま煙草をくゆらせる宏樹の背中がある。猫背気味で、右肩が少しだけ落ちている。無造作に巻かれた袖の隙間から、日に焼けた前腕が覗いていた。宏樹はシャツのまま下着すら身に着けていないようで、淡い布地越しに肌の色が透けていた。薄い布が風に揺れて、時おりラインをなぞるように肌に張りついた。朝食の準備も、洗濯も、まだ何ひとつ始めていない。拓海はただ、身体を動かすことを忘れたように、その背中を眺めていた。「ん…あー、うまい」宏樹の声が、小さく漏れる。タバコをくゆらせる吐息と混ざって、低くかすれた声が朝の空気を震わせた。その瞬間、拓海の指先がわずかに跳ねる。なぜだか、心臓が妙に意識されて、胸の奥がほんのり熱くなった。煙がゆっくりと流れて、朝の光と重なり合い、ひとつの帯のように消えていく。その様子は、現実感がなくて、夢の中の出来事のようだった。拓海は唇を噛んだ。自分が何を見ているのか、なぜ目を離せないのか、よくわからなかった。ただ、その背中とその空気と、その一瞬が、今朝の世界のすべてを支配しているように思えた。宏樹は煙草を持つ手をゆっくりと下ろし、カップに口をつけた。白いシャツの襟元がずれ、うなじが露わになる。首筋に少しだけ寝癖が残っていて、それが妙に人間くさく、拓海の喉の奥をかすかにざわつかせた。部屋の中に漂ってくる煙の匂いは、母が生きていた頃には絶対に許されなかったものだ。母は、タバコの煙が嫌いだった。だから宏樹も、ベランダで吸うようになったのだろう。けれど今は、誰も咎めない。誰も、いない。ベランダ越しに見える宏樹は、喪失のあとに残された大人だった。全てを手放したような背中で、けれど何ひとつ口にせずに生きている。拓海の知らない過去が、その白いシャツの皺のひとつひとつに刻まれている
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家事と体温

リビングの窓から差し込む陽射しは、床の上に淡い格子を描いていた。風は穏やかで、レースカーテンがときおりふわりと舞い上がる。遠くで洗濯機が回る音がして、家の中に柔らかな律動が生まれている。拓海は黙って畳んだ洗濯物を膝に乗せ、一枚ずつ丁寧に手を動かしていた。白いタオル、濃紺の靴下、母が生きていた頃と同じ畳み方を、そのまま守っている。誰に教わったわけでもない。ただ、そうしなければならない気がしているだけだった。そして、手の中にTシャツが落ちてきた。色褪せたチャコールグレー。首元が少しだけ緩んでいて、袖口にはうっすらと擦り切れが見える。宏樹のTシャツだ。いつも家の中で着ている、あの何気ない服。目を閉じれば、無精髭のある顎と、眠たげな目と一緒に思い出せる。拓海はその布を持ったまま、しばらく手を止めた。指先に触れる感触は、柔らかく、長く使い込まれたもの特有のぬくもりを含んでいた。乾いているはずなのに、どこかまだ湿ったような温度が残っていて、それが指の腹からじんわりと伝わってくる。ほんのりと香るのは、洗剤の香りに混じった、宏樹の匂い。タバコと、インクと、コーヒーと、たまに夜更かしをした朝の空気。それがすべて一つになって、この布に染み込んでいる。拓海はそのTシャツをもう一度、膝の上に広げた。何をしているのか、自分でもわからなかった。ただ、畳もうとする手が動かなかった。布のしわを指でなぞるたびに、心の奥で何かがゆっくりと音を立てる。意識しているわけじゃない。ただ、無意識のままに目が止まり、指が止まり、呼吸の音がやけに大きく響いていることに気づく。…なんで、こんなに長く触っているんだろう。ふと我に返って、拓海は自分の手を引っ込めた。まるで熱を持ったものに触れていたかのように、指先が少しだけ震える。膝の上のTシャツを、急いで畳もうとする。でも、どうしても折り目がうまく揃わない。布が指先をすべって、二度、三度とやり直す。昼下がりの静けさの中で、カーテンがまた風に揺れる。その音が、やけにうるさく聞こえた。拓海は膝の上の洗濯物をまとめて立ち上がった。何も
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写真立ての中の微笑み

書斎の扉が半開きになっていた。夕陽が沈みかける頃の、空気が少し湿って、部屋の輪郭がぼやけて見える時間帯だった。拓海は洗濯物を持って廊下を歩いていたが、その隙間からふと中の様子が目に入った。思わず足が止まる。宏樹が机に向かっていた。椅子にもたれ、原稿のファイルを閉じたまま、しばらく動かずにいる。その視線の先にあるのは、机の隅に置かれた銀縁の写真立てだった。窓の外は曇りがかっていて、光が薄く、部屋の中は橙に沈んでいた。白いシャツの袖がわずかに揺れて、タバコの煙が細く上がる。視線の先にある写真は、拓海も何度も見てきたものだった。美幸。微笑む母の顔が、そこにあった。長く伸ばした髪、柔らかい目元、明るい口元。カメラの向こうの誰かをまっすぐに見つめている。その写真は、拓海がまだ中学生のころ、何気ない休日に撮られたものだった。けれど今、その笑みが、遠い誰かのもののように思えた。宏樹は何も言わず、ただ煙草を指に挟んだまま写真を見ていた。感情を押し殺したような横顔。何かを懐かしむでもなく、何かに許しを乞うでもなく、ただ静かに見つめている。拓海の胸の奥で、何かがざらりとした音を立てた。それは怒りでも、悲しみでもなかった。もっとややこしく、もっと始末の悪い感情だった。嫉妬だ。そう思った瞬間、自分自身にうろたえそうになった。母のことを、嫌いだったわけじゃない。むしろ、あの人のことは好きだった。誰よりも、大切に思っていた。でも今、宏樹の目に映る母の姿が、自分を押しのけているように思えた。あの人は、まだ母を愛している。そのことに、胸がきゅうっと締めつけられる。その顔じゃ、俺のほうなんか、見てない。喉の奥に鉛のようなものが詰まる。言葉にしたいのにできなくて、思考だけがどんどん絡まり合っていく。写真の中の美幸と、自分の顔が、重なる瞬間があった。鏡を見るたびに、ふとした表情が似ていると思うことがある。けれど、だからこそ怖かった。もし宏樹が、俺のことを見ているとしたら――それは、母の幻影のためじゃないか?
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似ている顔、似ていない想い

洗面所の鏡の前で、拓海は手を止めた。ブラシの先が宙で止まり、いつもより少し長く、鏡の中の自分と目を合わせたまま動かなくなる。夜の照明は蛍光灯の白さが際立っていて、肌の色をほんのり冷たく見せる。湯上がりの髪をざっと乾かしただけで、ところどころ濡れて額に張りついていた。ぼんやりと見つめているうちに、ある輪郭が浮かび上がってくる。目元。頬骨の高さ。唇のかたち。拓海の顔は母親に似ている。そう言われることは昔からあった。親戚に会うたびに、「美幸さんにそっくりだね」と笑われた。そのたびに曖昧に頷き、適当な愛想笑いでやり過ごしてきたが、最近になってその言葉が妙に重く響く。目の前の顔は、自分のものなのに、どこか他人のようだ。拓海は静かに息を吐き、前髪をかき上げる。その仕草すらも、母に似ていたかもしれないと、ふと思う。宏樹はあの顔を見て、どう思っているんだろう。自分を見ているようで、母を見ているんじゃないか。過去を追いかけるように、もう触れられないものの代替として、拓海を見ているのではないか。その疑念が、頭の奥から静かに広がっていく。…もし、自分が母に似ていなかったら。もし、この顔じゃなかったら。宏樹はこんなふうに、自分を見ただろうか。どんな言葉をかけてくれただろう。どんな声のトーンで、どんな眼差しで。全部が、母の影に引っ張られている気がして、拓海の胸の奥が鈍く痛んだ。「母さんに、似てるから…か」誰にも届かない声で、鏡に向かってつぶやいた。口に出してしまえば何かが軽くなるかと思ったのに、返って喉が詰まったように感じた。母と同じ顔をしているのに、自分は母にはなれない。母が宏樹を愛したようには、自分は宏樹に何もしていない。それでも、拓海は気づいていた。あの人の視線を求めている自分がいることに。それが、“父”としてなのか、“家族”としてなのか、“それ以
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呼吸の交差点

夜のリビングは、蛍光灯の照明が天井から柔らかく降りて、テレビの音だけが空間を満たしていた。ニュース番組の中継映像に、拓海はほとんど注意を向けていない。ただ画面を眺めているだけだ。宏樹は、そのすぐ隣にいる。ソファの端に腰を下ろしたとき、少しだけ距離を空けたはずだった。けれど、何気なく腕を伸ばした宏樹が欠伸をした拍子に、肩と肩がかすかに触れた。それは、本当に一瞬だった。…なのに、内側の鼓動だけが派手に跳ねた。生ぬるい熱が、触れたところから広がる。宏樹は気にしていないらしく、手を頭の後ろに組んでソファに身体を預けた。息を吐く音が、いつもより近い。拓海は動けなかった。逃げるように距離を取ることも、逆に気づかぬふりでそのままにすることもできなかった。身体は正面を向いたまま、意識だけが隣に集中していく。香水のような香りはない。けれど、洗い立てのシャツと、微かにタバコの匂いが混ざった空気が、拓海の鼻先をくすぐった。あの煙の匂いは、ずっと嫌いだったはずなのに、今はなぜか呼吸の邪魔にならなかった。「…あれ、見たっけ?去年の豪雨の映像だって」宏樹が少し声を上げる。拓海は遅れて画面に目を向けた。テレビには茶色く濁った川が暴れるように流れていて、住民が避難している様子が映っていた。「ああ。…たしか、母さんが、この近くの川も危ないとか言って、非常食詰めてた」言葉が口をついて出たのは無意識だった。その一言で、宏樹の身体がわずかに揺れる。「そうだったな」「……」返事は短く、だがどこか懐かしむような調子だった。沈黙が戻る。そのまま時間が止まったように、ふたりは並んで座り続ける。肌と肌が直接触れているわけではない。でも、ほんの少しの体温と、ほんの少しの空気の揺れが、確かにそこにあった。拓海は息をひそめた。鼓動が早くなるのを誤魔化すように、ゆっくりと息を吸い、また吐いた。心の奥に渦巻いていた感
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母さんじゃない

廊下の空気は、夜になるとひどく冷たくなる。熱がこもるでもなく、風が通るでもなく、ただ静かにそこにある。家の中の誰もが言葉を発さない時間帯、壁も床も、音を吸い込むような沈黙で満ちていた。部屋のドアを閉めようとして、拓海はふと足を止めた。視線の先、リビングの明かりがぼんやりと漏れている。ドアのすき間からこぼれるオレンジの灯りに、誰かの影がわずかに揺れていた。宏樹だ。きっとまだ、ソファにいるのだろう。膝を立て、原稿を片手に、静かにページを繰っている姿が目に浮かんだ。拓海は黙って廊下に立ち尽くしたまま、少しだけ視線を落とす。足元には、脱ぎっぱなしの自分の靴下が転がっていた。拾って洗濯カゴに入れようか…そんな些細な思考さえも、すぐにかき消えた。背後に開けた自室のドアからは、薄い青のカーテン越しに月明かりが差し込んでいる。自分の部屋は、あまりにも整いすぎていて、居心地が悪いと感じることがある。宏樹は、いまだに美幸の写真をリビングに飾っている。誰に見せるわけでもない。客が来るような家でもない。ただ…日常の一部として、そこにある。拓海は、見てしまったのだ。昨日の夕方、書斎のドアがわずかに開いていて、宏樹がその写真に目を落としている姿を。あのときの視線。あのときの表情。やわらかく、懐かしむような、微笑みを帯びたまなざし。あんな顔、今の自分には向けられたことがない。言葉にするつもりはなかった。こんな風に、夜の廊下で、唐突に。けれど、声は口から滑り落ちた。「……俺の顔が、母さんに似てるから?」沈黙が、ピンと張り詰める。廊下の向こうで、宏樹の動きが止まった気配がした。「…何の話だ?」低く、けれど戸惑いを含んだ声だった。拓海は微かに唇を噛む。「母さんのこと、今でも好きなんでしょ」「……」「
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物語の中の誰かを、愛していた

拓海は静かに廊下を進んだ。階下からはテレビの音も話し声もなく、家の中はいつも通り、夜の沈黙に包まれていた。宏樹が寝室のドアを閉める微かな音がしたのは、ほんの数分前のことだ。時計の針は、日付が変わる手前で止まりそうに眠たげだった。ドアノブを握る手が、わずかに汗ばんでいた。書斎の扉を開けると、いつもの煙草と紙の混じった香りが鼻先をくすぐった。淡い木の香りとインクの匂い。宏樹の匂い。足元に目をやると、机の傍に積まれたプリントアウトの束がある。タイトルも章立てもない、印字されたままのA4用紙。彼が最近取りかかっている新作の草稿だった。拓海はそれを一枚、そっと拾い上げた。蛍光灯の光は消したまま。カーテンの隙間から漏れる街灯の灯りが、紙の文字を鈍く照らしていた。慎重に椅子を引き、座る。背筋が自然と伸びる。ページをめくるたび、紙が擦れる音が空気に触れ、妙に大きく響いた。最初の数行は、ただ追うだけだった。内容はよくわからなかった。ただ、文章の節々に、言葉にならない温度があった。登場人物の誰かが誰かを想って、しかしそれを伝えるすべがなく、胸の内だけで守っている──そんな場面だった。次第に、文字が意味を帯びて胸に染み込んできた。誰かを見つめる眼差しの描写。言葉を交わさずとも滲む、心の機微。台詞ではなく、行間に宿る感情が、拓海の中にゆっくりと広がっていった。登場人物の一人が、恋人でも家族でもない相手を「見守る」という言葉で語る場面があった。「ただ、そばにいてくれるなら、それでいいと思ったんだ」その一文を読んだ瞬間、拓海は息を止めた。胸の奥が、小さく軋む。宏樹は、小説の中で、こんなふうに人を想っていたのか。机の上には、黒の万年筆。横にはマグカップ、底にわずかに乾いたコーヒーの跡。ペン先を見て、彼の手の動きを想像した。ページを繰るたび、宏樹の視線が、呼吸が、そして感情がそこにあった。「この人、誰を想って、こんなふうに書いたんだろう」ふとそんな考えが浮かび、拓海は自分の胸のうちに走った感情の名を、探そうとした。けれど、答えは出なかった。ただ、頬が少し熱
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言葉にならない、胸のざわめき

拓海はベッドの上で仰向けになり、天井を見つめていた。カーテン越しに揺れる街灯の明かりが、壁に淡い波紋をつくっている。眠る気配は、まるで気配すら持たずに彼の部屋を通り過ぎていった。静かだった。けれどその静けさは、いつものものとは少し違っていた。耳に届くのは、遠くで降り続く雨の音と、時計の秒針が刻む微かな音。その中で、彼の頭の中だけが、ひどく騒がしかった。さっき読んだ草稿の言葉が、まだ脳裏を離れなかった。「そばにいてくれるだけでいい」そう書かれていたあの一文が、妙に胸の奥に残っていた。拓海は目を閉じ、呼吸を深くしてみた。けれど息を吸えば吸うほど、肺の奥に引っかかるような重さが残った。仰向けになったまま、手を伸ばし、カーテンの端を少しだけ持ち上げる。外はまだ降っていた。雨粒が窓ガラスを叩く音が、まるで誰かが優しくノックしているように聞こえる。心が落ち着かない。寝返りを打ち、枕に顔をうずめた。けれど、その柔らかささえ煩わしかった。草稿の中の人物たちは、声を持たないまま、確かに感情を持っていた。愛して、傷ついて、時に諦めて、それでも誰かを求めていた。宏樹は、それを言葉にして書いていた。それが、どうしようもなく美しかった。そして、それが、自分にはどうしようもなく、遠く思えた。拓海は自分の胸の内に湧き上がるものに、名前をつけられずにいた。あの人の言葉を読んで、心が揺れた。けれど、それがただの感動なのか、それとももっと別のものなのかがわからない。「苦しい」呟いて、天井を見上げる。声に出したのは、それが初めてだった。誰かを好きになるって、こんなに、息が詰まるものなんだろうか。胸の奥が、じわじわと痛む。うまく言葉にならないそれが、全身のどこかで静かに膨らみ続けていた。宏樹のことを想うと、呼吸が浅くなる。目を合わせたときのあの無防備な瞳、たばこの香り、ふとした沈黙。それらすべてが、今夜はやけに鮮明だった。もしかしたら、自分はーー。そこまで考えて、拓海はまた目を閉じた。いや、違う。そんなはずはない。そ
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酔いと沈黙

時計の針が一時をまわった頃、家の鍵が回る音がした。重く、やや手間取るような金属音。拓海はソファに座ったまま、音の出どころに視線を向けた。テレビは消してあった。窓の外は雨。しとしとと降るその音が、部屋の静けさをかすかに濡らしていた。ガチャリと扉が開き、数秒の間を置いて、宏樹が姿を現す。黒いコートの肩に雨粒が浮き、髪もやや濡れていた。ネクタイは少し緩んでいて、シャツの第一ボタンが外れている。玄関に踏み入れた彼は、ゆっくりと靴を脱ごうとして、バランスを崩しかけた。「…っと」腰をかがめたまま、少し笑いながら体勢を整える。普段ならあり得ないほどの緩慢な動作だった。そのまま顔を上げ、拓海の姿に気づくと、小さく目を見開いた。「拓海か…起きてたんだな」少し遅れて、声が続いた。「ただいま」その言葉がやけに間延びして聞こえた。酔っている。明らかに。酒の匂いが距離を越えてこちらに届く。鼻の奥に鋭く、けれどどこか甘さも混じった、アルコール特有のにおい。拓海は口を開きかけた。「…」けれど、声が喉元で止まった。ただいま、と言われて返すべき言葉は頭に浮かんでいたはずだった。それでも、言葉にならなかった。身体が先に反応してしまっていた。視線が宏樹のシャツの襟元に落ちる。濡れた髪が額に張りつき、頬はいつもより少し赤い。目の奥がとろんとしていて、焦点が定まらない。見慣れたはずのその人が、どこか違って見えた。酔いが、彼の纏う空気を柔らかくしすぎていた。いつものような張りつめた静けさも、孤独も、今日はその輪郭が曖昧だった。誰かの“父親”であり、“作家”である宏樹の鎧が、酒によって、ほんのわずか緩んでいた。宏樹は脱いだ靴を乱雑に揃え、ふらふらと廊下に足を踏み出す。その動きも、足音も、どこか子供じみていた。体温が少し高そうな肌。ふらつく足取り。無防備、という言葉が頭をよぎる。「飲み会、長引いてな…」ぽつりと言いながら、宏樹は壁にもたれ
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