Tous les chapitres de : Chapitre 41 - Chapitre 50

88

この言葉が、背中を押した

窓の外では、風がカーテンをゆるやかに揺らしていた。深夜の静けさが部屋全体に降り積もるように広がり、壁の時計の針が小さな音を刻むたびに、その静けさはより深く身体に染み込んでいった。拓海は机に向かっていた。講義のノートを広げたまま、しかし視線はずっとノートの上ではなく、開いたままのメール作成画面に向けられている。キーボードの上に置いた指先は動かず、ただその場に凍りついたように止まっていた。画面の白い余白が、言葉のなさを際立たせていた。最初に打ち込んだ「お元気ですか」の五文字は、もう何度も書いては消され、上書きされてきた。慧の言葉が、まだ胸の奥でくすぶっていた。「伝えなきゃ、届かないままだよ」そう言った彼の目は真っ直ぐだった。ふざけた口調で言ったくせに、あの時だけは、ちゃんと自分を見ていた。冗談でも励ましでもなく、ただひとつの真実として。拓海は背もたれに身体を預け、天井を見上げた。白い天井に浮かぶシミのひとつをぼんやりと眺めながら、言葉とはなんだろうと考える。言えばいいだけなのに、それが一番むずかしい。感謝も、後悔も、憧れも。すべてを一言で済ませることなどできないとわかっているからこそ、手が止まる。だけど、言わなければ、本当に何も伝わらない。深く息を吐き、再び画面に目を戻す。キーボードに手を乗せる。「こんばんは。お久しぶりです」指がゆっくりと動き出す。ぎこちなく、慎重に、でも確かに。「大学に入って、毎日忙しくしています。授業もバイトも、思ったより大変です。でも、なんとかやっています」書きながら、心の奥に広がる微かな熱を感じる。書けば書くほど、自分の中にあるものが浮かび上がってくる。あの日、祖母の家で一人、窓を見つめていた自分。あの時の沈黙も、こうして言葉にすれば、少しずつ意味になる。一度、手を止めた。画面にはいくつもの文が並んでいる。どれも平易で、取り立てて特別な言葉ではない。それでも、拓海にとっては、それらすべてが、今の自分の精一杯だった。目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。胸の中がざわめいていた。もう少しだけ書
last updateDernière mise à jour : 2025-09-08
Read More

“読者”としての手紙

パソコンの画面に、静かに新しいメールの通知が現れた。青白い未明の光が、窓の隙間から差し込む。宏樹は椅子にもたれかかり、背中を伸ばすように息を吐いた。長い夜だった。原稿はまだ、白いままだった。コーヒーの香りもすでに冷め、マグカップの底には褐色のしみがうっすらと残っている。通知音がなければ、今日も無言のまま朝を迎えるところだった。受信トレイには見慣れない名前があった。「山科拓海」その文字列を見た瞬間、指先がわずかに震えた。迷うようにマウスが止まる。けれど、手は自然とクリックしていた。件名はない。ただ本文が淡々と綴られていた。> こんばんは。お久しぶりです。> 大学に入りました。文学部です。毎日、授業とバイトでけっこう大変ですが、ちゃんと通えています。> ひとり暮らしもまだ慣れません。スクロールするたびに、宏樹の中に残っていた拓海の姿が、少しずつ上書きされていくようだった。あの細い背中、ぶっきらぼうな目線。沈黙の多い日々。それでも、時折見せた素直な笑顔の断片が、行間からこぼれていた。> 編集の仕事に興味を持ちました。> 最初はただ、文章が好きだと思っていたけど、最近は、それを「読む側」にいたいと感じています。そこまで読んだとき、宏樹はゆっくりと手を止めた。息を整えるように目を閉じる。部屋は静かすぎるほど静かで、彼の耳には自分の鼓動だけが鳴っていた。> あなたの小説を、俺は読んでいました。> 台所に置きっぱなしだった草稿を、こっそり読んでいたこともあります。> どこかで、自分に向けられていたような気がしたから。苦笑が漏れた。気づかれていたのか、と。あの夜も、この夜も。拓海が背を向けたと思っていた時間に、実は彼はずっと読んでいたのだ。> 読んでいるあいだだけ、自分がひとりじゃないような気がしました。> あなたの小説が、俺を救いました。> あれがなかったら、今の俺はいなかったかもしれません。画面の前で、宏樹はまばたきをひ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-08
Read More

紙の匂い、午後の窓辺

壁際に置かれた扇風機が、ぎい、とかすかに音を立てて首を振る。窓の向こうでは蝉の声が薄く重なり合い、午後の陽差しがレースのカーテン越しに床を照らしていた。拓海は、編集部の隅にある仮設のデスクに腰を下ろし、目の前に積まれたゲラ刷りの束を指先で整えた。インクの香りと、長く使い込まれた紙の匂いが混じって鼻をくすぐる。手のひらの下で、わずかにざらついた紙の質感が指に馴染んでいく。インターン初日。あらかじめ知らされていたとおり、彼の仕事は校閲補助と、編集者の作業の手伝いだった。だがそれでも、彼の心は妙な熱を帯びていた。この空間には、かつて誰かが書いた言葉が、今日も息づいている…そんな気配が、部屋中に染みついている気がした。通された編集部の一角には、壁際に古い本棚が並び、その中に雑誌のバックナンバーや参考資料、そして著者からの献本が所狭しと詰まっていた。時折、編集者が背表紙を指でなぞりながら引き抜き、ぱらぱらとめくる音が静かに響いた。拓海はその音に、ふと記憶を引き戻された。宏樹の書斎でも、似たような音があった。夜遅く、ページをめくる音。万年筆を試すカリカリという擦過音。そして、沈黙。思えば、自分の生活の中で「音」が印象に残る場所は、いつも本と一緒だった。「山科くん、こっち手伝ってもらえる?」声をかけてきたのは、若手の編集者だった。彼のデスクには校了間近の原稿が山のように積まれており、その隣で拓海は、段ボールから取り出された新刊のゲラを仕分ける。紙の重さは、意外とある。数十枚ずつまとめながら、拓海は思った。ここにある一枚一枚に、誰かの時間が詰まっている。それを壊さないように整え、送り出すのが、この仕事なのかもしれない。「それ、◯◯先生の新作の初校。見てみる?」編集者が無造作に差し出してきた束の表紙に、どこかで見覚えのある名前があった。それは、宏樹がかつて寄稿していた雑誌の常連作家だった。拓海は受け取った束を胸に抱えながら、内心で緊張していた。この部屋に、かつて宏樹も出入りしていたのかもしれない。同じ廊下を歩き、同じ椅子に座ったかもしれない。そこには、もう誰も何も言わないし、跡が残っているわけでもない。ただ、空気の
last updateDernière mise à jour : 2025-09-08
Read More

名前を伏せた書類

大学図書館の自習席。天井の蛍光灯が一定の間隔で並び、静かな光を放っている。足音やページをめくる音すら、ここでは異物のように響いた。拓海は窓際の席に座り、ノートパソコンの画面と向き合っていた。就職活動が本格化し、企業エントリーの締め切りが迫っている。インターンを終えてからというもの、彼の中には、奇妙な空白と、それを埋めようとする焦燥が同居していた。何社かの企業情報を開いては閉じ、エントリーシートの下書きを書いては削除する。そんなことを何時間繰り返していただろうか。目の奥がじんわりと痛む。けれど、その痛みさえも、いまは必要な気がしていた。画面のタブを切り替えた先にあったのは、あの出版社のページだった。あの夏、言葉の重みと熱を教えてくれた場所。インターン中、決して多くを語らなかった社員たちの手元からは、それでも確かに、熱が伝わっていた。拓海はゆっくりと、エントリーボタンを押した。フォームが開かれ、氏名や連絡先を淡々と入力していく。特筆すべき経歴もない。ただ、たった一度のインターンだけが、彼にとっては人生の曲がり角だった。問題は、自己PR欄だった。カーソルが点滅を繰り返す白い空間に、指が迷う。深く息を吸い、吐く。視界の端で、窓の外に灯る街灯が揺れている。秋の夜風に葉が鳴る音が、かすかに耳に届いた。拓海は、そっとキーを打ち始めた。「私は、人の言葉によって生かされた人間です」その一行が、思いのほか自然に出てきた。かつての自分なら、絶対に書けなかった言葉だった。恥ずかしいとか、重いとか、そういう感情が先に立っていたから。だが今は、それが自分の核であると、ようやく認められる。「読者として、ある一冊の小説に救われました。その物語に出会わなければ、今ここでペンを持つ自分はいなかったと断言できます」脳裏に浮かぶのは、宏樹の書いた一節。あの家で、夜中にひとりページをめくりながら、涙を流したこと。「言葉は、過去と現在、そして他者とを繋ぎます。それがどんなに細くても、切れそうでも、確かに“存在している”という感覚こそ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-09
Read More

岸本の沈黙

会議室の窓の向こうには、くぐもった灰色の空が広がっていた。午後三時。外はまだ明るいはずなのに、曇り空がビル群を鈍く濁らせている。出版社の五階。編集部の一角にある狭い会議室で、岸本は一人、書類の束を前にしていた。エントリーシート、面接記録、評価表。新卒採用の最終選考が終わり、その中でも特に気になっていた名前が、今、彼の手元にある。山科拓海。視線が自然と、その名前の書かれた一枚に吸い寄せられる。何気ない文字の並びなのに、心のどこかで引っかかるものがあった。苗字が、山科。そして、あの目。面接中、話すよりも先に、目が語っていた。控えめなのに、奥に火種のような光を宿している。岸本は背もたれに体を預け、深く息をついた。静かな室内に、椅子の軋む音が小さく響いた。記憶が遡る。あれは…もう何年前になるだろう。冬の午後、美幸と宏樹が並んで座っていた。彼の担当作家としてではなく、一人の人間として、あの二人の話を聞いた日。「再婚することにした」その時、宏樹は確かにそう言った。美幸の傍らで、言葉を選びながら、それでも確かに口にした。「高校生の息子がいるんだ。彼女の子どもで、まだ年頃だし、俺になついてるわけじゃない。でも…人を一人にして死なせるのが、もう怖くてさ」その声には、いつになく躊躇があった。普段、言葉で誰かの心をえぐるような文章を書く男が、まるで自分の選択を恐れているかのようだった。その後、連載が一時止まりかけたこともあった。美幸の病状が進んでから、宏樹は書くことそのものが変わっていった。まるで、時間に抗うように、言葉を重ねていた。…そして、その時間の果てに、今、ここに。山科拓海。岸本は改めて書類に目を落とした。最終面接では特に大きな失点もなかった。自己PRは簡潔で、けれど自分の言葉を持っていた。質問に対する受け答えも、言葉を選びつつ、自分の内側をにじませるタイプの話し方だった。正直、何かを見透かされてい
last updateDernière mise à jour : 2025-09-09
Read More

青い火種

電車が発車したばかりのホームは、どこか取り残されたように静かだった。秋の風が薄いシャツの袖を撫でる。乾いた空気に、葉を擦る音が混じっていた。拓海は改札へ向かう足を止め、再びポケットの中のスマートフォンに視線を落とした。画面には、短い通知が浮かんでいる。『内定のお知らせ』まるで自分のものではないような文字列。何度見ても、心の底から現実感が湧かない。指先で画面をスリープさせたが、すぐにもう一度つけ直してしまう。そしてまた読み返す。その会社の名前。幾度も手に取り、何度も名前を追いかけた雑誌。その奥付に印字された社名と、今、そこから届いたこの通知が、同じものとはどうしても思えなかった。インターンで通った夏の日々を思い出す。古びた木製の机、背表紙の焼けた本棚、印刷機の低い唸り音。あの場所に、今度は「働く人間」として足を踏み入れることになる。拓海はゆっくりとベンチに腰を下ろした。誰もいないホームに、遠くから次の列車のアナウンスが響いてくる。高揚しているわけではない。泣きたくなるほど感動しているわけでもない。ただ、静かに、胸の奥に火が灯ったような感覚があった。青い、息を潜めたような火。でも、それは確かに燃えている。自分の中で、確かに。この道を、誰かに決められたわけじゃない。憧れだけでは踏み出せなかった道。それでも、あの日、メールを送ってから変わった。「あなたの小説が、俺を救った」そう書いた時、自分の言葉が、ようやく誰かに届いた気がした。憎しみでも、依存でもない。ただ、「読者」として、ひとりの人間として。拓海は顔を上げ、夕暮れの空を見た。朱に染まりかけた雲がゆっくりと流れている。あの空の下、宏樹もどこかでこれを読んだのだろうか。いや、今はもう関係ない。これは、自分の選んだ道だ。電車がやってくる音が、ホームの向こうから
last updateDernière mise à jour : 2025-09-10
Read More

帰る場所を選ぶ

駅前のロータリーでタクシーを降りると、春の風が頬を撫でていった。スーツケースの車輪がアスファルトをかすかに鳴らす音が、やけに耳に残る。ここに戻ってくるのは、何年ぶりだったか。思い出すよりも、身体の奥が先に反応していた。懐かしいはずの匂いが、ほんの少しだけ胸をざらつかせる。歩き慣れたはずの道。けれど見慣れた景色も、今の自分にはどこか縁遠く感じられた。壁に沿った影の伸び方も、瓦屋根の反射も、昔と同じで、だからこそ怖い。あの日々にすべてを引き戻される気がして、足取りがほんの少し鈍くなる。ポケットに手を入れて、鍵を確かめる。手のひらに触れた金属の感触は、驚くほど冷たかった。この扉を、昔は何度も見ていた。開けたくなくて通り過ぎたことも、帰るふりをして駅前で時間を潰したことも。だが今日、自分はここを「通り過ぎる」ことをしない。玄関の前に立ち、深く息を吸い込んだ。花粉と土の混じった、春特有のにおいが喉の奥に広がる。耳の奥がじんわり熱を持ち、手の中の鍵を握る力が少しずつ強まる。鍵を差し込む。カチャリと音がして、ゆっくりとドアノブが回る。軋むような感触のあと、扉が少しだけこちら側に開いた。空気が、変わった。それは単に室内と外気の差ではない。長く閉じていた本のページをめくるときのような、封じられていた時間の匂いが、わずかに漂った。「…ただいま」声はほとんど無意識に漏れた。誰かに向けたものではなく、自分自身に向けた確認のように。その音は玄関の壁に吸い込まれ、反響は返ってこなかった。靴を脱ぎ、静かに上がる。床板のきしむ音すら、何かに踏み込んでいくような気がして、一歩ずつが重たかった。けれど、逃げようとは思わなかった。リビングのドアは閉まっていた。中に宏樹がいるかどうかは分からない。だが今はそれでいい。会話を交わす準備も、言い訳も、まだ持ち合わせていない。ただ、戻ってきたという事実だけを、自分に刻みつける。荷物を自室に運び込む。数年ぶりのその部屋は、思っていたよりも変わっていなかった。机の位置、壁の色、カーテンの柄。どれも昔のままなのに、そこに自分がいたことが遠い記憶のように思える。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-10
Read More

名もなき再会

夕陽が障子の向こうでぼんやりと揺れていた。薄橙の光が畳に斜めの線を落とし、埃の粒を照らしている。テレビの音が遠くから聞こえていたが、内容は頭に入ってこなかった。ソファに座ったまま、拓海は両手を膝に置き、微かに指先を組んでいた。居間の空気は、静かというより「整って」いた。余計な物音も、強い匂いもなく、ただ生活の温度だけがそこにあった。炊飯器の保温音、壁掛け時計の微かな駆動、あとは呼吸だけ。こんなにも音の少ない場所に、かつては息が詰まりそうだった。けれど今は、どこか居心地の悪さよりも、「戻ってきた」という現実の方が先に立っていた。ふと、襖の向こうで足音がした。スリッパを引きずる乾いた音。拓海の心臓が一瞬だけ跳ねた。反射的に背筋を伸ばす。だが次の瞬間には、その動きを自分で制し、少し肩を落として姿勢を戻した。襖が静かに開いた。宏樹だった。淡いグレーのニットに、くたびれたジーンズ。室内着に近い格好で、目元には軽い疲労の影が滲んでいる。それでも、あの日、あの頃に見た父親の姿とは少し違っていた。年を重ねたというより、重さを減らしたような…肩から力が抜けたような、そんな印象だった。「…帰ってきたんだな」宏樹の声は、昔よりもわずかに低く、そして柔らかかった。問いではなく、ただの確認。拓海はうなずいた。「うん。今日から、ここに住む」返事をしたあと、どう視線を置けばいいのか分からず、テレビの方に目を向けた。ニュースキャスターが何か深刻な表情で話していたが、その意味は頭に入ってこなかった。宏樹は静かに頷くと、ソファの対角に腰を下ろした。距離はテーブル一つ分。けれど、その距離が妙に正確だった。近すぎず、遠すぎず、言葉を交わさずとも「理解している」と伝えるような位置だった。しばらく、二人は何も言わなかった。沈黙は気まずくもあったが、耐え難いものではなかった。むしろ、それが必要な時間のように思えた。言葉にしないことで、保たれる何かがある。無理に埋めずとも、そこにはかすかな呼吸のリズムだけが共存していた。宏樹がテレビのリモコンに手を伸ばし、音量を少し下げた。ざ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-11
Read More

沈黙で満たす食卓

湯気が立ち昇る味噌汁の香りが、台所の天井にじわりと滲む。湯気はやがて照明の光に溶けて、ぼんやりと部屋全体を柔らかく包んでいた。食卓に並べられた器は、どれも素朴で、飾り気はない。白米、焼き魚、味噌汁に、ほうれん草のお浸し。特別ではない、けれど丁寧に整えられた夕食。その前に、拓海と宏樹が向かい合って座っている。「…いただきます」拓海が小さく呟く。宏樹は目を合わせず、ほとんど同時に同じ言葉を返した。箸を手に取る音、器の縁をかすめる微かな擦過音、それ以外に音はなかった。テレビはついていない。時計の針が静かに進む音だけが、空間に時間の流れを与えていた。二人とも、無言だった。以前なら、沈黙は気まずさを連れてきた。何を話せばいいのか分からず、沈黙が続けば続くほど、互いの居心地の悪さが積み重なった。けれど今、その沈黙は何かを求めているわけではなく、ただそこに在るだけのものだった。拓海は味噌汁に口をつけた。出汁の優しい塩気が舌を撫で、喉に落ちる。湯気で少し曇ったメガネを指先で拭きながら、ふと視線を上げた。宏樹は無言のまま、箸を器に運んでいる。何かを思案している風でもなく、ただ目の前の食事に集中しているようだった。その姿は、どこかしら自然で、かつてのぎこちなさや遠慮が薄らいでいるように見えた。焼き魚の骨を器用に外しながら、拓海は自分の胸の奥にある小さな変化を探っていた。この空気の中にある静けさは、不思議と嫌ではない。むしろ、少し心が落ち着く。思い出そうとすれば、かつてはこの時間が苦痛で仕方なかったことも覚えている。けれど今、食卓に流れているのは「嫌悪」ではなかった。「これ、味薄くなかったか?」突然、宏樹が声を発した。顔は上げないまま、味噌汁の椀を置く音だけが重なる。拓海は一瞬返答に迷い、少し考えてから答えた。「いや…ちょうどいい」宏樹はうなずいた。それ以上、会話は続かない。けれど、そこには気遣いがあった。会話がないことを気にしている風ではないが、味について聞いてきた宏樹の言葉の奥に、「美味しかったか」と尋ねる気持ちが
last updateDernière mise à jour : 2025-09-11
Read More

似た背中を見つける

二階の廊下を歩いていた足が、不意に止まる。半開きの書斎の扉から、かすかに紙の擦れる音が聞こえていた。拓海は物音を立てないよう、そっと近づいて隙間から中を覗く。宏樹が机に向かって座っていた。背中だけが見える。椅子の背もたれにやや体を預け、指先でページをめくっているらしい。窓際に置かれた観葉植物の葉が、午後の日差しを受けてゆるやかに揺れていた。その背中は、かつて見たものと似ているようで、どこか違っていた。肩の線が丸い。以前のように緊張で張り詰めているわけではなく、どこか緩やかで、疲れているようにも見えた。それでも、そこには不思議な落ち着きがあった。戦う姿勢でもなく、逃げるような構えでもなく、ただ、自分の居場所を受け入れているような。拓海はしばらく、その背中から目を離せなかった。かつては、この家にいると息が詰まった。宏樹と顔を合わせるたびに、何かがこじれる気がしていた。言葉にすれば壊れそうで、黙っていても傷ついていた。そんな時間が、長く長く積み重なっていた。けれど今、こうしてドアの隙間から見ている背中には、敵意も焦りも見えない。ただ静かで、そして少し、寂しそうだった。拓海は思い出していた。高校生の頃、まだ美幸が生きていた時のこと。夕飯の支度をする音が台所から聞こえる中、宏樹がこの書斎にこもって、何かを書いていた時間。ページをめくる音。ペンの走る音。それが生活の一部だった。その頃は、背中がもっと大きく見えた。頼りがいがあるというよりは、越えられない壁のようだった。今、同じ背中を見ているのに、不思議とその距離は縮まっていた。むしろ、似ているとさえ思った。拓海自身も、深夜にパソコンに向かいながら、肩に力が入っていたこと。周囲の期待や自分への苛立ちで、背中が張りつめていた日々。…そういうときほど、孤独だった。宏樹も、そうだったのかもしれない。美幸が亡くなったあとの数年間、家の中で宏樹がどこか浮いていたことを思い出す。言葉が足りなかったのは、恐らく互いに同じだった。誰かのために正しさを演じながら、それぞれが言葉の出口を見つけられずにいたのだ。「&hellip
last updateDernière mise à jour : 2025-09-12
Read More
Dernier
1
...
34567
...
9
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status