Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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沈黙のキス

拓海の部屋は、雨音を隔てた薄い膜のような静けさに包まれていた。電気は消してあり、ベッドサイドのスタンドだけが点いている。壁に反射する光が、ゆっくりと揺れていた。彼はまだ眠れずにいた。掛け布団を腹の上まで引き寄せ、目だけが開いていた。今日のすべてが、皮膚の内側でざわついていた。宏樹の顔、声、酔った足取り、その残像が瞼の裏にこびりついて離れない。時計の針が、小さな音で時を刻んでいた。その音に耳を澄ませるふりをして、思考を止めようとする。けれど胸の内は、逆に騒がしくなるばかりだった。そのときだった。ドアが、音もなく開いた。拓海は息を止めた。照明の光がわずかに廊下へ漏れ、影が差し込んだ。ゆっくりとした足取りで、宏樹が部屋の中に入ってくる。姿勢は少し前かがみで、手をポケットに突っ込んだまま。目は、拓海を見ていない。けれど、確かに彼の方へ向かってきていた。拓海は体を起こすことも、声をかけることもできなかった。全身がこわばり、喉が塞がれてしまったようだった。布団の中で、手のひらにじわりと汗がにじむ。宏樹はベッドの傍らで立ち止まった。その顔には、いつものような鋭さも、どこかに向けた感情の気配もなかった。ただ、何かを見失ったまま歩いてきたような、空白のような顔をしていた。彼は、静かに、手を伸ばした。その手が拓海の頬に触れた瞬間、空気がきしむような感覚が走った。冷たいわけでも、熱いわけでもなかった。ただ、そこに“他人の手”があるという、はっきりとした事実だけが、拓海の皮膚に深く刻まれた。目が合うことはなかった。そしてそのまま、宏樹は、ゆっくりと身をかがめた。唇が、触れた。それは軽いキスだった。押しつけるでもなく、熱を求めるでもなく、ただそこに落とされたような、それこそ“沈黙”のようなキスだった。拓海は何もできなかった。まぶたを閉じることも、逃げることも、拒むことすらも。宏樹の唇が離れると、彼はふらりと体を起こし、そのまま無言で背を向けた。何も言わずに
last updateDernière mise à jour : 2025-08-31
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目を逸らした朝

キッチンの蛇口から流れる水音だけが、朝の沈黙をかすかに濡らしていた。外は薄く曇っていて、窓の外の景色は白みがかっている。雨は上がっていたが、どこか湿気を含んだ空気が漂っていた。拓海はいつもより早く目が覚めていた。ベッドの中でしばらく身動きもせず、天井を見つめていたが、何も考えないようにすることに疲れて、起き上がった。キッチンに立ち、無言で湯を沸かし、トーストを焼き、冷蔵庫から卵を取り出す。油をひいて、火加減を見ながらスクランブルエッグを作る手は、どこかぎこちなかった。匂いに気づいたのか、足音が廊下からゆっくりと近づいてくる。拓海はそれに反応せず、黙ったまま皿に卵を盛りつけた。ダイニングの椅子が、少しきしむ音を立てて引かれる。「…おはよう」宏樹の声は低く、どこか擦れていた。昨夜の酒の名残か、それとも別の何かか。顔を見ようとすれば、すぐに思い出してしまいそうで、拓海は視線を皿に落としたまま、返事をしなかった。返事がないことに宏樹は何も言わず、トーストにバターを塗る音だけが続いた。いつもの朝なら、もう少し言葉があった。天気のことや、新聞の見出し、学校の予定。けれど今朝は、そのどれもが口に出せない空気のまま、時だけが過ぎていく。拓海はマグカップに紅茶を注ぎながら、自分の手元を見ていた。指先がわずかに震えていることに気づき、深く息を吸って肩を落とす。宏樹はパンにかじりつくふりをして、何度も唇を濡らしていた。何かを言おうとして、言葉が喉で引っかかっている。そんな気配が伝わってくる。数分の沈黙のあと、宏樹が口を開いた。「昨日のことは…忘れろ」その言葉は、パンのかけらを皿に残したまま、どこか投げ捨てるように放たれた。拓海は瞬きもせず、その言葉だけを胸の中で反芻した。忘れろ。あの夜、唇に落とされたあのキス。それを、「なかったこと」にしろと。怒鳴ったわけでも、冷たく突き放したわけでもない。むしろ、どこか苦しげな響きだった。でも、それでも。そう言われたことが、何よりも深く突き刺さった。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-01
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言葉にならない傷

教室のざわめきが、遠くに聞こえるようだった。周囲の笑い声や椅子を引く音、紙の擦れる気配も、どこか膜越しに届いていた。拓海は窓際の席に座り、開いたノートを見つめていた。だが、視線はページの上をすべり、言葉を捉えることなく空回りしていた。ペン先はずっと同じ行で止まっていて、それに気づくこともできなかった。三限目の現代文。授業内容は好きなはずなのに、今日は何も入ってこない。教科書を読む声も、教師の問いかけも、すべてが薄っぺらく感じた。「拓海、元気ないな。寝てた?」隣の席から、小さな声がかけられる。藤野だった。笑っているのか心配しているのか、判別しにくい顔で、ノートを覗き込んでくる。拓海は少し首をすくめるようにして、視線を下に落とした。「…大丈夫」口から出た言葉は、自分のものとは思えなかった。感情のない、乾いた音。藤野は少し間をおいて、気まずそうに笑った。「そっか、ならいいんだけどさ」もう一度ノートに視線を戻してきたが、それ以上は何も言わなかった。気遣いなのだろう。けれど、その沈黙さえも、どこか自分を責めているように思えてしまう。大丈夫、なんて嘘だ。何がどう大丈夫じゃないのかさえ、言葉にできなかった。ただ、自分の中にあるこの重さが、日常のどこにも馴染まないことだけはわかっていた。宏樹のこと。あのキス。忘れろと言われたこと。拒絶なのか、錯覚なのか、それさえ明確ではない。言葉にできない。誰にも言えない。それ以前に、こんな感情を抱いている自分が、間違っているのではないかという思いが、喉元を締めつけていた。男同士で、しかも親子で。「おかしい」と思われるに決まっている。いや、何よりも自分自身が、それを恐れている。チャイムが鳴っても、立ち上がれなかった。机に両手をついたまま、しばらく動けずにいた。授業が終わり、生徒たちはそれぞれの場所へと散っていく。教室が空になっていく音が、冷たい空気のように背中を撫でた。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-01
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似てるだけなら、もういらない

食卓にカトラリーの音が響いた。カチャリ、という乾いた音だけが部屋に残る。テレビはつけていない。窓の外では風がわずかに木々を揺らし、カーテンの端がゆるやかに膨らんではしぼんだ。「編集部の岸本がさ、例の企画通ったって喜んでてさ。来月号に載せられそうだって」宏樹の声はいつもと変わらない。日常の延長線にある、静かな報告。けれど、耳に届いても何も残らなかった。拓海は黙ったままフォークを動かし、皿の上のサラダを転がすようにして眺めていた。咀嚼の音も立てず、ただ食べているふりをしていた。口の中に味はなかった。「…拓海?」宏樹が呼んだのは、確認のためだった。返事を求めるというより、自分の声が届いているかどうか確かめたような声色だった。それにも、拓海は返さなかった。もうずっと、胸の奥でくすぶっていた火種が、風に煽られて形を持ち始めていた。言葉にならない苛立ち。何度も飲み込んできた、名もない感情。宏樹がまた言葉を探すより早く、拓海は口を開いた。「母さんに…似てるからって、それでいいの?」フォークを皿に置いた音が、ひどく大きく響いた気がした。宏樹は、動きを止めた。それは一瞬の静止だった。けれど、ふたりの間の空気が凍りつくのに十分だった。「……どういう意味だ」宏樹の声は低かった。困惑と防御がにじむ、ぎこちない抑え方だった。拓海は立ち上がるでも、声を荒げるでもなく、ただ視線をまっすぐ向けたまま続けた。「俺を見てよ。母さんと顔が似てるからって…それだけで、隣に置かれてたんなら、そんなのいらない」食卓に置かれた手が、わずかに震えた。宏樹の手だった。拓海はそれを見ていた。怒りで責めたくて言ったわけじゃない。なのに、言葉は尖っていた。「ずっと…そう思ってたんだ。俺を見てる時の目。懐かしむような、失くしたものをなぞるような目」言いながら、喉の奥が詰まった。けれど止まるわけにはいかなかった。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-02
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静かな出発

朝の空気はまだ熱を含んでいて、濡れた洗濯物の匂いが風に混ざっていた。玄関のドアを開ける音が、思ったよりも大きく響いた。拓海は肩にかけたリュックの紐を握り直し、靴のつま先を揃えて立ったまま振り返った。宏樹は数歩離れた廊下に立っていた。シャツの袖は肘までまくり上げられており、髪はまだ寝癖が抜けきらない。手にはコーヒーのマグカップを持っていたが、口をつける気配はなかった。「行ってくる」そう言った自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。宏樹は少しだけ頷いた。それだけだった。沈黙が玄関に広がって、蝉の声だけが背後から押し寄せてきた。「…鍵、ポストに入れておけばいい?」問いかけたのは、自分なのに思った以上に切羽詰まっていた。宏樹はわずかに眉を動かし、ようやく声を出した。「ああ。それでいい」玄関と居間を隔てるわずかな距離が、何故か今日は果てしなく遠く感じた。言葉を交わすたびに、何かが剥がれていくようで、視線を合わせることができなかった。「向こう、暑くないといいけど」宏樹が続けてそう言った。とってつけたような一言だった。思いやりにも、後悔にも、何にも触れない。拓海は乾いた笑みを浮かべた。「ばあちゃん家、山の方だから。涼しいと思う」視線の先、磨かれた玄関の床に自分のサンダルが静かに並んでいる。その横に、数ヶ月前に宏樹と一緒に買ったスニーカーが並んでいるのが、なぜか目に痛かった。「それじゃあ」拓海は言葉を締めくくり、ドアノブに手をかけた。けれど、開ける直前でふと足が止まった。振り返れば何かが変わるような気がした。でも、変わらないのだろうと、すぐに思い直した。宏樹は相変わらず黙ったまま、ただそこにいた。ドアを開けると、外の光が背中に降り注いだ。蝉の声が一層強くなる。拓海は靴を履き替え、もう一度だけ家の中を振り返った。「…じゃあね」ほんの少しの期待を込めて声をかけたが、宏樹は静かに頷いただけだった。ドアを閉めると、薄い音がし
last updateDernière mise à jour : 2025-09-02
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虚ろな食卓

昼を過ぎても、キッチンは静まり返っていた。鍋の蓋が鳴る音も、まな板に包丁が当たる乾いた音も、今日はどこにも存在しない。宏樹はいつものようにコーヒーを淹れ、マグカップを手に仕事部屋へ戻ろうとしたが、ふと足が止まった。食卓の向こう、いつも拓海が座っていた椅子が、きちんと押し込まれたまま動いていない。そこにあるべき背中も、食器の音も、何もない。「…静かすぎるな」ぽつりと漏らした声が、自分の耳に滑稽に響いた。誰もいない家の中で、独り言がこんなにも生々しいとは思わなかった。マグカップの湯気が、天井に向かって消えていく。椅子を引いて座ると、机の上に昨日の新聞が置き去りにされていた。拓海がよく、無言で見出しを眺めていた姿を思い出す。読むというより、そこにある活字に触れることで、自分の中の何かを整えていたのだろう。宏樹はそれを思い返しながら、ひと口コーヒーをすする。苦味が舌に残り、妙に濃く感じた。冷蔵庫を開けても、作り置きの弁当も、洗って並べられた食器もない。拓海がいた時は、いつの間にか味噌汁の香りが漂い、白いご飯が湯気を立てていた。「別に、飯くらい一人でもどうとでもなる」独り言に、また苦笑が漏れる。午後になって、パソコンの前に座っても、キーボードの音は数分に一度しか鳴らなかった。画面上では書きかけの文章が点滅しているが、指が動かない。拓海が静かに原稿の束を整えたり、ページの隅を撫でるようにめくったりしていた日々が、どうしようもなく脳裏をかすめる。彼はただの“居候”だったはずだ。息子のようであり、他人のようでもあった。でも、いま自分の中に空いたこの感覚は、家族を失った喪失に近かった。時間はただ過ぎていく。カップの底が見えても、気温が下がっても、部屋の空気は変わらない。日が落ちていく。窓の外、洗濯物が干される隣家のベランダには、拓海がよく見とれていた風鈴が揺れている。「音がしないだけで、こんなにも息が詰まるんだな」そう呟いて、手元の原稿を閉じた。冷えた夕食を
last updateDernière mise à jour : 2025-09-02
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祖母の家の午後

庭先に射す午後の陽は、どこかやわらかく、暑さの輪郭をぼやかしていた。澄江の家は古く、小さな瓦屋根の下に、緩やかな時の流れが根を張っている。縁側の敷居に腰を下ろすと、目の前の風鈴が涼しげに鳴った。ガラスの音が風に混ざり、記憶の底に沈んでいた情景をゆっくりと掬い上げていく。拓海は、麦茶の入ったグラスを手にしたまま庭を見つめていた。背の低い百日紅(さるすべり)が濃いピンクの花を咲かせ、その根元には母がかつて植えたハーブが小さく香っていた。「水撒き、してくれてありがとね」後ろからかけられた祖母の声に、軽く頷いて返す。澄江は、濡れた手を前掛けで拭きながら、拓海の隣に座った。「この時間が、いちばん好きなのよ。暑さも少し落ち着いて、風が気持ちよくて」その言葉通り、そよいだ風が頬をなでていく。家の中からは煮物の湯気の香りが流れてきて、腹の底がじんわりと温まるような感覚がした。けれど、同時に胸の奥にひっかかる違和感もある。懐かしさに身を委ねきれないのは、ここに母の記憶が染みつきすぎているからだった。幼いころ、母と手をつないでこの縁側に座ったことがある。ハーブの名前を教えてもらい、風鈴の音を数え、縁側の木のささくれを指先でなぞった。今、自分がその位置に一人で座っていることが、どこか場違いのように感じられた。「美幸がね、この百日紅が好きだったのよ」祖母の言葉に、拓海の視線が自然と花の方へ向かう。「覚えてる。よく、一緒に水撒いてた」「ふふ。そうだったわね。『夏はこの花が似合う』って言って、何年も世話してくれてた」その声ににじむ懐かしさが、拓海の胸に染み込んでくる。けれど、そこにあるのは懐かしさだけではなかった。母を想うたび、胸の奥にはうまく形にできない苛立ちのようなものがわだかまる。なぜ、あの時、母は病気を隠していたのか。なぜ、もっと言葉にしてくれなかったのか。なぜ、突然いなくなったのか。けれど問いはどれも、どこにも届かない。答えを持つ人は、もうこの世にいない。「お茶、もう少し飲む?」祖母の問いかけに、小さく首を横に振った。喉は渇い
last updateDernière mise à jour : 2025-09-03
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遺されたもの

障子の向こうで虫の声が細く鳴いていた。夜の気配は家の中にまで染み込んで、畳の上に置かれた蝋燭の小さな灯が、天井に揺れる影を描いている。拓海は正座したまま、澄江が差し出した包みを見つめていた。柔らかな手拭いで丁寧に巻かれたそれは、古びた紙の匂いとともに、時の重さを滲ませている。「これね、美幸が置いていったのよ。捨てられなかったの。…拓海に渡すかどうか、ずっと迷ってたけど」その声は、どこかためらいと祈りが混ざった響きを帯びていた。拓海は、手拭いの端にそっと指をかけた。布がほどける音が、やけに大きく耳に届いた。中から現れたのは、革表紙のノートと、数通の封筒。どれも日焼けし、角が丸まっていた。ノートを開いた瞬間、そこに流れ込んできたのは、確かに知っている母の筆跡だった。丸みのある、けれど癖の強い文字。ときどき、書き損じを線で消したあとがあり、行間には貼られたシールや、幼い拓海の絵がはさまっていた。「今日、拓海が初めて“ママ”って言った。泣きそうなくらい嬉しかった。あの子の声は、何よりもやさしい音だ」読みながら、拓海は息を吸うのを忘れていた。文字の中から、母の声が聞こえてくるようだった。記憶の中の母はいつも微笑んでいたが、ここには不安も戸惑いも、怒りや疲れさえも残されていた。「夜中に熱を出して、抱きしめながら祈った。“お願い、拓海を連れていかないで”って。小さな体が、壊れてしまいそうで…怖かった」蝋燭の炎がわずかに揺れ、母の文字に影を落とした。拓海はページをめくる手を止められずにいた。そこには、母の“生”があった。苦しみながら、それでも愛していた日々の証が、ここにあった。手紙の束に手を伸ばすと、宛名はどれも「拓海へ」と書かれていた。一枚目の封を開くと、静かな香水の香りが漂った。「あなたがこれを読む頃、私はもう隣にいないかもしれません。そう思いながら書くのは、本当に辛い。でも、伝えておきたいの。私はね、あなたを育てられて幸せでした」行を追うごとに、目の奥
last updateDernière mise à jour : 2025-09-03
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空を仰ぐ日

アスファルトの切れ間から、稲の波が風に揺れていた。拓海はゆっくりと足を止め、陽に灼けたあぜ道に立った。風鈴の音も蝉の声もない、ただ稲の葉がすれる、かすかな擦過音だけが耳に残る。東京では感じられなかった匂いが、足元から立ち上がってくる。土のにおい。水のにおい。陽に焼けた草のにおい。手にした水筒の冷たさが、指の間から伝わってきた。喉は乾いていたけれど、口に運ぶ気にはなれなかった。空は高く、青かった。絵に描いたような、雲ひとつない八月の午後。「どこまで続いてるんだろうな」誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。返事などあるはずもなく、風だけが髪を揺らした。拓海は道路脇に腰を下ろした。遠くで農機具の音が響いていた。軽トラックのエンジン音が過ぎ、また静けさが戻る。東京にいたときは、この静けさが怖かった。考えすぎて、呼吸が浅くなるような気がして。けれど今は、違っていた。「ここでも、あっちでも…俺は、どこにもいないみたいだな」そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ疼いた。宏樹の家では、“家族”という名前の仮面をつけていた。澄江の家では、“孫”という位置に戻された。どこかに自分が根を下ろせる場所があったはずなのに、それがいつからか消えていた。というより、最初からなかったのかもしれない。目を閉じてみる。耳に入ってくるのは風と、虫の鳴き声、そしてときどき葉が擦れる音だけ。都会のざわめきに埋もれていた自分の声が、ここでは浮かび上がってくる気がした。母のいない世界に、慣れたと思っていた。宏樹と暮らしながらも、それを受け入れたつもりでいた。でも、きっとあれは慣れたのではなく、ただ見ないようにしていただけだった。「…どうしたいんだろう、俺」言葉にした途端、胸がじんと熱くなった。家族ってなんだ。場所ってなんだ。誰かの横にいることでしか、そこにいられないのなら、それは本当に“自分の居場所&rdquo
last updateDernière mise à jour : 2025-09-03
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電話の向こうの沈黙

風の音に混じって、遠くで虫の声が鳴いていた。祖母の家の一室。障子の向こうには、ほのかに月明かりが漏れている。畳の匂いに包まれながら、拓海は掛け布団の上に仰向けになっていた。部屋は静かだった。うるさいくらいだった東京の夜とは対照的に、ここでは音が一つひとつ際立って響く。携帯電話を握ったまま、指が迷っていた。連絡なんて、するつもりはなかった。出てくる前も、そして今日の昼間までも。でも、夜になると、あの人のことを考えてしまう。台所で立つ姿。コーヒーを啜る音。なぜか、目を合わせない時間。小さく息を吐き、通話履歴を辿ってタップする。呼び出し音がひとつ、ふたつと重なるたびに、心臓が妙に落ち着かなく跳ねた。「…はい」宏樹の声だった。少し掠れている。眠っていたのか、それとも酒でも飲んでいたのか、判断はつかなかった。拓海は一瞬、口を開いたまま言葉が出せなかった。「あ…俺」「…拓海か」電話の向こうも、同じように言葉を探している気がした。かすかな沈黙が、ふたりの間に挟まる。「ごめん、こんな時間に」「いや、大丈夫。…どうしてる?」「うん、別に。元気だよ」「そっか」返ってくる声は優しいでも冷たいでもなく、ただ淡々としていた。拓海はふと、昼間に歩いた田んぼ道のことを思い出した。風の音、空の青さ。何も語らない景色に包まれていた時間。宏樹といるときとは、まるで違う静けさだった。「そっちは?…仕事、進んでる?」「まあ、ぼちぼち」「…そっか」互いの声が交差しては消えていく。会話は続かない。何かを言えば、傷が深くなるような気がして、拓海は次の言葉を選べなかった。宏樹も同じだったのかもしれない。受話器の向こうから、軽く息を吐く音が聞こえた気がした。「じゃあさ…あんまり遅くなると悪いから、切るね」
last updateDernière mise à jour : 2025-09-04
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