拓海の部屋は、雨音を隔てた薄い膜のような静けさに包まれていた。電気は消してあり、ベッドサイドのスタンドだけが点いている。壁に反射する光が、ゆっくりと揺れていた。彼はまだ眠れずにいた。掛け布団を腹の上まで引き寄せ、目だけが開いていた。今日のすべてが、皮膚の内側でざわついていた。宏樹の顔、声、酔った足取り、その残像が瞼の裏にこびりついて離れない。時計の針が、小さな音で時を刻んでいた。その音に耳を澄ませるふりをして、思考を止めようとする。けれど胸の内は、逆に騒がしくなるばかりだった。そのときだった。ドアが、音もなく開いた。拓海は息を止めた。照明の光がわずかに廊下へ漏れ、影が差し込んだ。ゆっくりとした足取りで、宏樹が部屋の中に入ってくる。姿勢は少し前かがみで、手をポケットに突っ込んだまま。目は、拓海を見ていない。けれど、確かに彼の方へ向かってきていた。拓海は体を起こすことも、声をかけることもできなかった。全身がこわばり、喉が塞がれてしまったようだった。布団の中で、手のひらにじわりと汗がにじむ。宏樹はベッドの傍らで立ち止まった。その顔には、いつものような鋭さも、どこかに向けた感情の気配もなかった。ただ、何かを見失ったまま歩いてきたような、空白のような顔をしていた。彼は、静かに、手を伸ばした。その手が拓海の頬に触れた瞬間、空気がきしむような感覚が走った。冷たいわけでも、熱いわけでもなかった。ただ、そこに“他人の手”があるという、はっきりとした事実だけが、拓海の皮膚に深く刻まれた。目が合うことはなかった。そしてそのまま、宏樹は、ゆっくりと身をかがめた。唇が、触れた。それは軽いキスだった。押しつけるでもなく、熱を求めるでもなく、ただそこに落とされたような、それこそ“沈黙”のようなキスだった。拓海は何もできなかった。まぶたを閉じることも、逃げることも、拒むことすらも。宏樹の唇が離れると、彼はふらりと体を起こし、そのまま無言で背を向けた。何も言わずに
Dernière mise à jour : 2025-08-31 Read More