Tous les chapitres de : Chapitre 51 - Chapitre 60

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仮の平和と、呼吸の音

夜が更けるほどに、家の中の音はますます遠のいていった。拓海はベッドに背を沈めたまま、天井の暗がりをじっと見つめていた。照明はとっくに落としてあって、部屋の中にはカーテンの隙間から射し込む街灯の薄明かりが、わずかに床を照らしている。この部屋で眠るようになって、何日が過ぎただろうか。あの再会の夕暮れから、拓海と宏樹は毎日を穏やかに過ごしていた。互いに必要以上の会話はしない。必要なことだけを短く伝え、台所や居間では互いに道を譲り、気遣いを交わす。どこにも衝突の気配はなく、食器の音も、湯の沸く音も、淡々と生活を支えていた。けれど、それは本当に「平穏」と呼べるものなのだろうか、と拓海は思う。掛け布団の端を指先でつまむ。わずかに冷えた布の感触が、皮膚の記憶に絡みつく。息を吸って、ゆっくりと吐き出す。その音が部屋に小さく響いた。時計の針が時を刻む音と混ざって、まるでこの静けさに、誰かが耳を澄ませているような錯覚に陥る。「居心地は悪くない」拓海は心の中でそう言い聞かせてみる。たしかに、あの頃のような緊張はない。けれど、心が触れ合っている実感も、どこか希薄だった。まるで、互いに波立てないことだけを優先して、ぎりぎりの距離感を保っているような。会話がないのが苦しいわけではない。無理に話さなくても成立する関係は、むしろ大人として健全なのかもしれない。でも、今の空気には、「言わないこと」が「言えないこと」と紙一重で並んでいるような怖さがあった。拓海は体を横に向けた。壁際には、本棚と、小さな観葉植物の影が静かに揺れている。この家に戻ってきたとき、自分は「進むため」だと信じていた。過去を乗り越えるとか、赦すとか、そんな大げさなものではない。ただ、もう一度、目を逸らさずに向き合ってみたいと思ったのだ。でも――本当に向き合えているのだろうか。宏樹の背中は、あの日見た通り穏やかだった。肩の力は抜けていて、かつてよりずっと自然体だった。でもそれは、何かを諦めたようにも、疲れ果ててしまったようにも見えた。たとえ言葉を交わしても、もう手遅れなのではないか。取り戻せるものなんて、最初からなかったの
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ただいま、を言うために

鍵がかすかな音を立てて回る。暗い玄関に、その機械的な響きが不意に降りた夜の静けさを破った。拓海はゆっくりと扉を押し開ける。外の空気よりも少しぬるく、けれど微かな生活の匂いがする家の空気が、胸の奥までじわりと染みこんでくる。電気はついていない。廊下の奥、リビングのドアの隙間から、わずかに漏れるテレビの明かりが、床に斜めの帯をつくっている。スーツの裾が重たく肩にのしかかっているような感覚のまま、彼は玄関で靴を脱いだ。かかとが床に触れるたび、少しだけ湿った革の音がする。それはいつも通りの帰宅のはずだった。遅くまで続いた作業、終電ひとつ前の電車、冷えきった空気。ポケットの中で携帯が震えることもなければ、誰かと連絡をとるでもない。だけど、今夜はなぜか、扉を閉める手がゆっくりと止まった。拓海は玄関の中に立ち尽くしたまま、深く息を吸った。冷たい空気が鼻を通り、喉の奥をかすめて肺に入る。そして、声を出した。「ただいま」その声は小さく、しかし喉の奥から絞るようにして出ていた。何かを許すような響きでもあり、求めるような気配もあった。誰に向けたものかも分からないまま、それでも確かに、誰かに届いてほしいと願って発せられた声だった。リビングの奥で、空気がわずかに動いた気がした。数秒の静寂のあと、その沈黙を破るようにして、低く、けれどはっきりとした声が返ってきた。「おかえり」拓海は思わず肩を揺らした。驚いたわけではなかった。ただ、返ってきたことが、少しだけ信じられなかった。宏樹の声だった。けれどそれは、かつての「父親」としてのものではない。叱責でも、気遣いでも、形式ばったものでもない。名前のついていない、ただの「宏樹」としての声だった。拓海はリビングの方を見た。ドアは開いていない。けれど、その先に誰かがいるという気配だけは、確かに感じられた。テレビの音が小さく流れている。おそらくバラエティ番組の、誰かが笑っている声。その日、宏樹の姿を見たのは朝の一瞬だけだった。食卓で交わした短い会話、「今日は遅くなる」と言ったとき、宏樹はただ「分かった」とだけ答えた。
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書斎の灯、眠れぬ夜に

雨の音で目が覚めた。遠くで水が途切れなく落ちている。初夏の湿った夜気が、部屋の薄いカーテン越しにじわじわと入り込んできていた。タオルケットを蹴った足が床の冷たさに触れたとき、もう眠気は戻ってこないと悟った。時計を見る。午前二時を過ぎていた。家の中は当然すべてが眠っている時間…だと思っていた。だが、気配があった。ほんのかすかに、廊下の奥の方から、明かりが漏れていた。拓海は無言のままベッドから体を起こし、ゆっくりと足音を忍ばせて扉を開ける。廊下に出ると、湿った空気が肌にまとわりついてくる。そこに、静かすぎる音が交じる。紙がめくられる微かな音。タイピングではなく、印刷された紙の束を扱う、あの独特のかさついた響き。光は、宏樹の書斎から洩れていた。ドアは少しだけ開いていて、隙間から蛍光灯の白い光が滲み出ていた。拓海は足を止め、そっと息を吸う。躊躇いと、よく分からない衝動が胸の奥で同時に疼く。音を立てないようにして、数歩だけ近づく。廊下のフローリングが、ほんのわずかにきしんだ。書斎の中の音がぴたりと止まったかに思えたが、それはただ、自分の鼓動が大きくなったせいだった。拓海はドアに背をつけるようにして、そっとその隙間から中を覗いた。宏樹は机に向かって座っていた。薄手のシャツの背中が照明に照らされ、少しだけ肩甲骨が浮かび上がっている。姿勢は以前と同じようでいて、どこか違って見えた。力が抜けているのか、それとも疲れているのか、その境界は分からない。だが、その背中は「今」だった。机の上には、A4の紙が重なり、印刷された原稿が散らばっている。マグカップからは湯気が立っていない。長くそこに座っていたのだと、空気の重さで察せられた。宏樹は、何も話していなかった。「執筆してる」とも、「見てほしい」とも言わなかった。言われても、たぶん拒否していただろう。だけど今、拓海の足は動かなかった。帰ろうとも、声をかけようとも思えなかった。ただ、彼の背中を、明かりの中で見つめていた。ページをめくる音が、ふたたび響いた。短く、やわらかく、乾いた音。その音と光が、妙に遠くに感じられた。世界と、自分の身体
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行間の中の、俺たち

宏樹が席を立ったのは、湯を淹れに行ったのだろう。書斎の椅子がほんの少し軋んで、扉が音もなく閉まる。静寂が戻る。けれど、部屋の空気は確かに、拓海を内側に引き込んでいた。机の上に積まれた原稿の山。白い紙に黒く浮かぶ文字が、無造作に、しかし丁寧に並べられていた。最初はただ、目の端にそれが映っていただけだった。けれど気がつけば、指先がそっと一枚を持ち上げていた。何かを破る音のように、紙が震えながら揺れた。最初の段落を読む。誰かの話だった。ある少年の、家を出た夜のこと。見慣れた場所が急に異物のように感じられ、寒さよりも孤独が肌を刺したと書かれていた。ページをめくる。無意識だった。読むという行為ではなく、引き込まれるという感覚。活字が眼球に焼きつくようにして、次の言葉へ、また次の行へと、視線が滑っていった。少年は、言葉がうまく言えない。誰かに本音を見せるのが怖い。でも、それでも、心のどこかで“見つけてほしい”と願っている。…その姿に、拓海は既視感を覚えた。指先が湿る。手汗ではなかった。落ちた雫が、紙の上に小さなしみを作る。読み進めるごとに、胸が締めつけられた。ページの中のその人物は、拓海ではなかった。名前も違うし、家族構成も、背景も別物だった。けれど、そこに息づいていたのは、確かにかつての自分の感情だった。わかってもらえなかったこと。言えなかったこと。逃げたかったこと。そして、それでもずっと、誰かの傍にいたかったということ。言葉ではない何かが、今ようやく、拓海の奥底に触れてきた。…宏樹は、見ていたのだ。拓海が家を飛び出していったとき。母の死を言葉にできなかったとき。何も話せなかった夜。ずっと、何もなかったふりをしていたあの時間。宏樹は、ただの無関心ではなかった。原稿の行間に、それがあった。拓海の口から出なかった声、表情にできなかった願い、そのすべてが紙の上に、別人の物語として、静かに綴られていた。涙が止まらなかった。喉が詰まり、呼吸が乱れる。鼻をすする音すら憚られるような空気の中、拓海は原稿を胸に抱いたまま、肩を震わせた。こんなにも
last updateDernière mise à jour : 2025-09-13
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愛ではなく、隣に

拓海は原稿を胸に抱えたまま、静かに廊下を歩いた。足裏が床をすべるたび、ぬるりとした湿気が肌を撫でた。リビングのドアを押し開けると、そこだけ灯りが残っていた。天井の照明ではなく、ソファ脇のスタンド。白熱球の光が低く、柔らかく、部屋の輪郭をぼやかしている。窓の外は暗闇だった。雨がガラスに打ちつける音が、空間全体を沈めている。ソファには宏樹が座っていた。背を少し丸めて、手のひらで額を押さえている。テレビはつけていない。部屋の中にあるのは、二人分の呼吸と雨音だけだった。拓海は、何も言えなかった。手の中の原稿がじっとりと湿っていた。読み終えたあとの涙は、もう乾いているはずなのに、手のひらが妙に熱い。ソファの前まで行くと、宏樹が静かに顔を上げた。彼の目は赤くなっていない。けれど、わずかにまぶたが重そうで、頬の骨ばった線に影が落ちていた。「…どうした」宏樹の声は低く、眠たげだった。でも、問い詰めるでも責めるでもない。ただ、ここにいるという印のようだった。拓海はその隣に腰を下ろした。距離は一人分。けれど、これまでのどんな距離よりも、いま近いと感じた。「読んだよ。草稿」声が掠れていた。宏樹は少し驚いたように目を見開き、それからすぐ、どこか諦めたように口を閉じた。返事はなかった。拓海は視線をテーブルに落とす。手元にある原稿を、両手でぎゅっと抱きしめる。「…あれ、俺のことじゃないのに」小さく笑ってみせた。自嘲でも皮肉でもない。ただ、ほんとうに不思議で。ページの中にいたのは別人の名前の、別人の物語だったのに、全部が自分に見えてしまった。「俺が、あの時どう思ってたかなんて、自分でもうまく言えなかった。でも…見ててくれたんだね」沈黙が流れる。雨音が、間を満たしていく。宏樹はなにも言わない。けれど、それを責める気にはならなかった。言葉よりも、隣にいるという事実が、なにより大きかったから。「宏樹さん」拓海は、顔を上げて宏樹を見た。まっすぐに。「好きです、って言うのは、なんかちょっと違う気がする。&h
last updateDernière mise à jour : 2025-09-13
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触れる、という選択 1

カーテンの向こうで雨が降り続けていた。部屋の空気は少し湿っていて、それが肌の上に静かにまとわりつく。電気をひとつだけ残して、拓海は宏樹と並んでベッドに座っていた。シーツの端に指を置き、掌をそっと押しつける。視線をあげると、宏樹が真剣な顔でこちらを見ている。ふたりの間の距離は、もう声を上げたらすぐに崩れてしまいそうなほど近いのに、まだ触れてはいなかった。宏樹が小さく息を吸う。「本当に…いいのか」言葉は低くて静かだった。心の奥を揺らす、雨音よりも深く響く声だった。拓海はすぐに頷くことができない。心臓がどくどくと、知らないリズムを刻む。怖いのか、欲しいのか、自分でもうまく判別できないまま、唇だけがかすかに動いた。「…うん」その一言だけで、空気が少し動いた気がした。宏樹が片手を差し出し、拓海の頬にそっと触れる。体が跳ねるように反応する。冷たいのか、熱いのか分からない温度だった。指が頬を撫でて、顎をすべり、髪に絡まる。宏樹の顔が近づいてくる。薄く開いた唇が、拓海のそれに重なる。雨音の中に、ふたりの呼吸が混じり合う。最初のキスは、柔らかくて、濡れた紙みたいに繊細だった。「…大丈夫か」キスの合間、耳元で囁かれる。拓海は小さく頷く。そのたびに、首筋に息がかかり、背筋がぞくりと震えた。拒まなければ、このまま進んでしまう。だが、もう後戻りしたいとは思えなかった。キスが深くなり、舌がわずかに触れる。逃げるように目を閉じても、宏樹の手が髪の奥に差し込まれ、もう逃げられない。ひとつ、またひとつ、ボタンが外されていく音が部屋に広がる。衣擦れの音と、雨が窓を打つ音だけが続く。シャツが肩から滑り落ちた。肌が冷える前に、宏樹の手が撫でる。その重さに、拓海は自分の身体が急に別物のように感じる。触れられるたび、どこか遠くから響いてくるような鼓動が、身体の奥からあふれ出す。宏樹は決して急がない。指が、肩、腕、鎖骨、胸元へと降りていく。どこに触れられても、初めてで、恥ずかしくて、だけどそれ以上に嬉しい。「怖かったら…やめる」「…やめなくていい」かすれるような声しか出せなかった。宏樹の指先が胸をなぞり、背中を撫でる
last updateDernière mise à jour : 2025-09-14
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触れる、という選択 2

シーツの上で静かな余韻が漂っていた。拓海はまだ息が整わず、胸の奥で鼓動が不規則に跳ねている。さっきまでの絶頂の残り香が、身体の内側にぬくもりとなってとどまっていた。雨音が遠くに滲み、世界がふたりきりになったような錯覚が続く。宏樹は黙ったまま、拓海の背中をそっと撫でる。その手のひらは、熱を伝えるよりも先に、不安を溶かしていく。今まで感じたことのない静かな満ち足りなさが、徐々に、しかし確実に体の奥に広がっていった。首筋に唇が触れ、もう一度だけ、宏樹の呼吸が混じる。沈黙。ふたりの息遣いだけが、部屋の湿度とともに、確かに存在している。「…このまま、続けてもいいか」静かな声で、宏樹が尋ねる。拓海は一瞬、肩を震わせる。意味を理解しながらも、すぐには答えられなかった。怖い。それははっきりしていた。だが、その怖さの中に、なぜか安堵と、心のどこかからわきあがる「預けたい」という渇望が入り混じっている。「うん…いい」唇の隙間から、小さな声が漏れる。宏樹の手がゆっくりと、拓海の腰に回り込む。その動きは慎重で、息を呑むほどに優しい。潤滑剤が冷たく肌にのる。ぬめりの感触と宏樹の指の熱が交錯し、拓海は思わず眉をしかめる。身体が拒否しそうになるたび、宏樹の声がふわりと頭上に降る。「痛かったらすぐ言って。無理は絶対、しない」その言葉を信じたかった。拓海は両手でシーツを握りしめ、目を閉じた。宏樹の指が、何度もゆっくりと入口を撫で、慣らすように少しずつ進めていく。最初はただ、異物感と鈍い痛み。自分の身体なのに、まるで自分のものじゃないような、遠い感覚。何度もびくっと背筋が跳ねてしまう。「大丈夫か」「…痛い。でも…やめないで」宏樹の指は決して無理をせず、何度も出入りを繰り返す。体が徐々に、その存在を受け入れていく。吐く息が少しずつ浅くなり、熱が上がっていく。痛みと怖さの中で、時折、快感が波のように横切る。肩を抱かれ、キスをもらい、耳元で名前を呼ばれるたび、身体の奥が少しずつほどけていく。「拓海、ゆっくり、な?」「うん…」
last updateDernière mise à jour : 2025-09-14
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夜の底、白い音

行為の終わりは、思いがけず静かなものだった。しばらくは、どちらも何も言わなかった。雨音だけが窓を伝い、夜の空気に微かな震えを与えていた。拓海は、シーツの上に仰向けになったまま、胸の上で小さく呼吸を繰り返していた。身体の奥には、まだ先ほどまでの痛みと熱がほんのり残っている。その余韻のなかで、自分の全身が今この瞬間、宏樹の腕の中におさまっているのだという実感が、じわじわと広がっていく。宏樹は、横に並んで静かに息をしている。手のひらがそっと拓海の髪を梳き、時折、汗ばんだ額や耳のうしろを指先でなぞった。その優しさが、言葉よりも深く、拓海の芯まで沁みわたる。部屋には、しっとりとした湿度が満ちていた。雨に濡れた夜の匂いと、ふたりの体温。シーツが肌に貼りつく感覚。どれもが「自分のもの」ではなくなっている気がして、不思議な安心感があった。拓海はゆっくりと、宏樹の胸に顔をうずめる。すべてを見せてしまったあとの、恥ずかしさと戸惑い。それでも、どこにも行きたくなかった。もう逃げない。そう心の中で呟きながら、目を閉じる。「…宏樹さん」呼びかける声は、ひどくかすれていた。宏樹は答えず、ただ拓海の背中を撫で続ける。その手のひらに、拓海は全身を預けていた。しばらくして、拓海がぽつりと呟いた。「ここが夜の底だと思ってた。でも…まだ朝になってなかったんだね」自分でもなぜその言葉が出たのか、よくわからなかった。けれど、胸のどこかに残っていた暗い重みが、雨の白い音の中で少しずつほどけていく。宏樹は静かに微笑む。「朝にするのは、俺たちの仕事だろ」その一言に、拓海はほっとする。何も特別なことは言っていない。ただ、ふたりで夜を越えて、ここから新しい朝を迎えればいいのだと思えた。外ではまだ雨が降り続けている。ふたりの間に言葉は少なかったが、それでも心は不思議なほど穏やかだった。拓海は、宏樹の腕の中で小さく息を吐く。痛みも、恥も、孤独も、雨音と一緒に遠くへ流れていく。窓の外の空はまだ暗いけれど、その底には確かに、朝へ向かう微かな光が差し込んでいた。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-15
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ただいまのある場所

玄関の鍵を回す手に、わずかな水滴が落ちた。雨はもう止んでいたが、街の匂いにはまだ濡れたアスファルトの名残があった。傘をたたんで傘立てに置き、拓海は靴を脱ぐ。廊下には小さな明かりが灯っていて、奥のリビングからはほのかなカレーの匂いが漂ってきた。「ただいま」声に出してから、宏樹が答えるかどうかを待つ自分に気づく。少しだけ情けない気もしたが、返事はすぐに届いた。「…おかえり」相変わらずの低くて、かすれた声だった。感情の色が読み取りづらいその響きが、今は不思議と落ち着く。玄関の照明を消して、拓海はゆっくりとリビングへ歩を進めた。ダイニングテーブルには、まだ食器が並んでいなかった。宏樹はいつものようにソファに腰を下ろし、ぼんやりとテレビを見ている。けれど画面を見ているようには思えなかった。照明の下、彼の輪郭だけがやわらかく浮かび上がっている。Yシャツの袖をまくり、煙草の匂いがかすかに残るシャツの襟元に、拓海の目が一瞬とどまった。キッチンへ向かい、鍋のふたを開ける。火にかけて温めなおす間、冷蔵庫からサラダとドレッシングを出し、静かに盛り付けを始めた。動作ひとつひとつに特別な意味はないけれど、身体の奥にしみ込んだ手順のように自然に動いていた。「今日は遅かったな」ふいに宏樹の声が背後から届いた。「会議が伸びて、あと新人の校正が一件あって」「…そうか」それ以上の言葉はなかった。問い返されることも、感想を求められることもない。ただ“聞いた”という事実だけがそこにある。それでも、それで充分だった。温めたカレーを皿に盛り、ふたつのプレートを運ぶ。箸とスプーンを並べると、宏樹が静かにソファから立ち上がり、向かいの席に座った。「水、要る?」「うん」グラスを手に取って水を注ぐとき、キッチンの明かりがグラスの内側に反射して、小さな光が指に触れたように見えた。ふたりして黙ったまま食べる夕食は、昔は息が詰まりそうだった。でも今は、咀嚼音と食器の触れ合う音が、確かに“会話&rdquo
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静けさに宿る創作

雨音は止み、代わりに時計の秒針が部屋の静けさを刻んでいた。深夜零時をまわったリビングには、天井のダウンライトがひとつだけ灯っている。薄明るい光が、隣室の扉の隙間からこぼれ、書斎へと繋がっていた。拓海はそっと足音を忍ばせて、マグカップを両手で支える。湯気は細く立ち上り、鼻先をくすぐる苦味と甘さの混ざった香りに、少しだけ気が緩んだ。扉を開けると、書斎の奥で宏樹が机に向かっていた。椅子に背を預けず、やや前のめりの姿勢。肩越しに見えるモニターには、小さな文字が規則正しく並び、カーソルが瞬いている。キーボードの打鍵音が不規則に続くたびに、その体のどこかがわずかに動いていた。部屋には、言葉が生まれる前の匂いがあった。紙の束、インクの乾いた匂い、古い辞書の革の表紙。どれも拓海が高校生の頃から見慣れてきたもので、けれど今、その空間に自分が“在る”ことの意味はまったく違っていた。机の端に、マグカップを置いた。陶器の底が木の天板に触れる、控えめな音。宏樹の指が止まり、ほんのわずかに顔を上げる。その視線は拓海には届かず、代わりに、低く小さな声が落ちてきた。「…ありがとう」顔を見ようとはせず、画面へと視線を戻すその横顔に、拓海は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。「飲みすぎると寝られなくなるよ」ささやくように言ってから、返事は求めなかった。代わりに静かに書斎を後にし、扉を半分だけ閉じる。その瞬間、再びキーボードの音が部屋を満たす。乾いた音の向こうに、誰にも知られずに動き続ける物語があった。リビングに戻った拓海は、ソファの端に腰を下ろした。自分のノートPCを膝に置き、今度は自分の仕事に目を通す。企画案の原稿、校正指示のメモ、資料として印刷した小説の抜粋。それらの文字が、静かな夜の中で意味を持ち始める。けれど耳の奥には、あの部屋で響いている音が残っていた。キーを叩く音、マグカップを持ち上げるかすかな気配。宏樹は今、書いている。そのことが拓海の呼吸をゆっくりと整えていく。以前の宏樹は、人が近くにいると筆が止まっていた。気配に敏感で、誰にも気を遣わせず、誰にも寄り
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