All Chapters of 花咲の響き、何処とも知らず: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

遼は、自分がどうやって車まで戻ったのかも覚えていなかった。頭の奥がじんじんと膨れ上がるように痛み、胸も締めつけられ、息さえ詰まってきた。歯を食いしばりながら、花咲に何度も電話をかけ続けた。指先は感覚がなくなるほど、繰り返して発信ボタンを押した。しかし、依然として電話はつながらなかった。もう、わかってしまった。恐らく電話番号も、着信拒否に入れられたのだ。心は、一瞬で底知れぬ海へと沈み込んだようだ。その身を覆い尽くすように、焦りが怒涛のように押し寄せてきた。遼は震える手でエンジンをかけ、急いで車を走らせて家へ戻った。玄関に着くなり、花咲を呼びかけていた。目に入ったのはがらんとしたリビングだけ。胸は激しく鼓動し、恐怖と不安が理性を押し流し、頭の中は混乱でいっぱいになった。階段を上がり、主寝室の隙間から漏れるほのかな明かりが目に入った。遼はやっと胸の奥の緊張を吐き出すように、そっと息をついた。その光は、バスルームから漏れているものだった。耳を澄ますと、中からしとしとと響く水の音さえも聞こえてきた。「花咲」遼は複雑な思いを抱えたまま、バスルームの前に立ち、どうしようもない嘆きと、押し隠せぬ愛情を滲ませた声で問いかけた。「どうして病院を辞めたんだ?しかも、ここを離れて別の場所へ行くなんて、嘘までついて……やっぱり、俺に怒ってるのか?でも、俺が一番愛してるのは、ずっとお前だけだ。あの時は、ただ、あの場をやり過ごすためだけだった。本当は、俺は……」言葉を言い終える前に、浴室のドアが開いた。立ちこめる湯気の中、遼の目に花咲の姿が映った。一瞬、遼の胸が揺れ、思わず彼女を抱き寄せていた。まるでここ数日の恐怖と不安が一気に解き放たれたようだ。遼は力を込めてその体を抱きしめた。骨の奥まで溶け込ませたいほどに。腕の中の彼女が落ち着かなげに身じろぎしたかと思うと、次いで甘く艶やかな声が響いた。「遼……そんなに急がないで、まだ準備ができていないの」遼の体がぴたりと固まった。まるで幽霊でも見たかのように、腕の中の女を勢いよく突き放した。由奈は足元を取られ、勢いよく床に倒れ込んだ。顔を上げた。そこにあったのは、花咲とどこか似通った面影だった。由奈は、遼がこれほどまでに激しい怒りを露わ
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第12話

由奈は、今日ここに入り込むために、この家のお手伝いさんたちに自分こそが遼の未来の妻であり、花咲はもう過去の女だと言い切ったばかりだった。まさか、その舌の根も乾かぬうちに、こうして自分の言葉が打ち砕かれるとは思ってもいなかった。体は小刻みに震えた。半分は寒さ、半分は恐怖と屈辱、そして怒りのせいだった。信じられない思いで彼女は遼を見つめ、溢れる涙をどうしても止められない。「どうしてよ、遼、あなた、私を愛してるって言ったじゃないか?」遼はリビングに立ち、白いハンカチで、節立った指をゆっくりと拭っていた。拭いたのは、さっき由奈の体に触れたところばかりだった。その表情からは怒気が消えたようにも見えたが、身にまとう空気はより冷え、全身から放たれる険悪な気配は息を詰まらせるほどだった。ハンカチを無造作にゴミ箱へ放り込み、遼は由奈の崩れ落ちそうな様子を一瞥することもなく、淡々と告げた。「俺がいつお前を愛した?俺が愛してるのは、花咲だけだ」言い終えるや、遼の眼差しが一変し、凶暴な光を帯びた。「もし花咲の失踪にお前が関わっていたと知ったら、その時は惨めな終わり方をさせてやる」その一言で、由奈の中にあった反発も怒りも、跡形もなく消え去った。彼女はそれ以上言葉を発さず、ただ唇を震わせ、血の気を失った顔で遼を頼りなく見上げていた。遼はもう視線を向けず、冷ややかに命じた。「こいつを外へ放り出せ」ボディーガードたちが由奈の腕を掴み引きずろうとしたとき、彼女は手のひらを強く握りしめすぎて、爪が折れそうになった。この男は、本当に狂っている。いや、もしかしたら元々狂人だったのかもしれない。ただ、花咲がそばにいた頃は、まだ理性の薄皮一枚で繋ぎ止められていただけだ。その花咲がいなくなった今では、もう完全に狂気へと堕ちていた。結城家は独立した一軒の別荘ではあったが、周囲にまったく人がいないわけではない。あの日、由奈の惨めでみっともない姿は、多くの人の目に焼きついた。それでも彼女は、諦めるつもりなどなかった。遼は、由奈が見つけられる中で最も太い金づるだった。しかも彼女には、花咲とどこか似た面影があった。それこそが、多くの女の中から遼が彼女を選んだ理由でもある。ましてや……由奈はそっと自分の下腹部に手を当て、
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第13話

「花咲という子は、とても芯の強い性格だ。普段の行動を見ていれば、すぐにわかる。居場所は教えられない。これは花咲の望みだ。もう自分を追い詰めるのも、彼女を探そうとするのもやめなさい」そう言い残し、院長はため息をついて病室を後にした。病室のベッドで、遼はゆっくりと目を開け、虚ろな目で天井を見つめていた。わずか半月の間に、遼はひどくやつれ、いつもの冷ややかな気高さは跡形もなく消えていた。端正だった顔立ちもこけ落ちた。まるで魂と生気を吸い取られた干からびた屍のようで、そこには一片の生気すら感じられなかった。遼はそのまま一晩中、乾いた目で天井を見つめ続けた。あの日、院長から聞かされた言葉が、どうやら心の奥に届いたらしい。それからの遼は、きちんと食事をとり、治療にも素直に応じ、二度と酒に溺れて身を持ち崩すことはなくなった。退院の日、秘書はどこかほっとした顔で、急いで遼に報告した。「この数日社長が落ち込んでいたので、会社はもう少しで大混乱になるところでした。でも、こうして元気を取り戻して、本当に良かったです。先日話を進めていた、あの数千万円規模の大型案件の担当者も、最近ぜひお話ししたいと言っているんですが、いつ頃お時間をお取りしましょうか?」「断れ」遼は一瞬の迷いもなく言った。秘書の笑みが口元で固まり、思わず自分の耳を疑った。遼の目つきがゆっくりと引き締まり、その奥にほとんど狂気にも似た執念がちらつく。「俺は花咲を探しに行く。たとえ世界中をひっくり返すことになっても、必ず見つけ出す」……ヨーロッパの、とある研究所の中。春の日差しがやわらかく差し込み、窓の隙間から吹き込んだ風が白いレースのカーテンを揺らした。淡い光の中で輪郭だけが浮かび上がる人影があった。シャツを脱ぎかけた男が、仰いだ首をわずかに反らし、喉仏を上下に震わせながら静かに息を漏らした。しなやかで引き締まった体つき、均整の取れた広い肩と細い腰、きれいに割れた腹筋がひときわ目を奪う。白い肌は上質な陶器のようで、全身から若さの熱がほとばしっている。花咲は、恥ずかしいという感覚すら忘れ、思わず見入ってしまった。ドアノブにかけた手を引くことも、押し開けることもできず、その場に立ち尽くした。やがてその男が気配に気づき、顔を向けた。
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第14話

白川智也(しらかわ ともや)は、まるで風のように軽やかに駆け抜け、すぐさま小走りで花咲に追いついた。ただし今度は、ちゃんと服を着ている。彼は花咲のすぐ隣にぴたりと張り付き、まるでおしゃべりが止まらない人のように話しかけてきた。「この近くに、けっこう雰囲気のいいバーができたんだ。よかったら、仕事終わりに一緒に行ってみないか?」花咲は首を横に振り、きっぱりと断った。「あなた一人でいけばいい。私、夜予定があるし、かなり忙しいの」その返事に、智也は即座に口調を変えた。「じゃあ、僕もやめとく。僕も忙しいから。花咲姉ちゃん、僕も連れてってよ。ちょうどこの報告書を書こうと思ってたところなんだ。一緒に作業すれば、きっと効率も上がるし」花咲はふいに足を止め、やや仕方なさそうに智也を見やった。智也はすぐに口をつぐみ、その瞳もおとなしく見えるようになった。彼はまつげが濃く、わずかに伏し目がちだ。そんなふうに目を落としたまま黙って見つめられると、どこか儚く、守ってやりたくなるような雰囲気をまとっていた。花咲は泣くに泣けず笑うに笑えなくて、しばらく言葉を探したあと、ようやく口を開いた。「私、あんたより一年しか年上じゃないのよ。姉ちゃんなんて呼ばれたら、年取った気になったじゃん」「え、じゃあ……花咲って呼んでいいってこと?それって……ちょっと、早すぎじゃないか?」と言った瞬間、智也の顔はぱっと赤くなり、耳の先まで一気に染まった。花咲は特に気に留めず、彼の肩を軽く叩いた。「好きにすればいいわ。ただ、私は邪魔されるのが嫌いなの。わかってくれると助かる」そう言い残し、花咲は足を踏み出した。正面から吹き抜ける春の風が頬をなで、顔にはのびやかな笑みが広がった。花咲はもうすっかり、このヨーロッパでの暮らしに馴染んでいた。ここでは知り合いも増え、友人の輪は日に日に広がっていった。そのおかげで、心もずいぶんと癒やされていった。かつて花咲は、一生も遼から離れられることはないと思っていた。二人は幼い頃からの知り合いだ。当時の遼は、家に引き取られたばかりの婚外子で、誰からも見下されていた。誰もが彼を踏みつけにできるようだった。お手伝いさんでさえ公然と彼を笑いものにした。怒りに震える遼は、小さな拳を握りしめ、まるで
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第15話

花咲は、ここ数日、研究室で飛び交っている噂を思い出し、なぜか頬がじんわりと熱くなった。立ち上がり、その場を離れようとした。「これはあなたには関係ないわ。用事があるから、先に失礼するわ」しかし、立ち上がった途端、手首を智也に掴まれた。花咲は動きを止め、視線を落として彼を見やり、わずかに眉をひそめた。「何してるの?」智也は執拗に花咲を見つめ、その瞳の色がじわじわと寂しげに変わっていった。「ごめん、花咲、僕が邪魔するべきじゃなかった。でも、この数日、君はずっと僕を避けてる。理由が分からない。君が怒って、二度と話してくれなくなるのを怖くて……だから、自分から会いに来るしかなかったんだ」言葉を重ねるほどに、その声音はますます切なげに沈み、目尻にはかすかな紅がにじむ。わずかに波打つ黒髪と相まって、その姿は花咲の目に、どこかある動物を思わせた。喉まで込み上げた不満の言葉は、そのまま胸の奥でつかえて消えた。もし今ここで一言でもきつく言えば、智也はきっとそのまま涙をこぼしてしまう――花咲には、そんな気がした。けれど不思議と、その様子が彼女の心を逆撫ですることはなかった。花咲の声色は、いつの間にか和らいでいた。「確かにわざと避けてたわ。でも、怒ってたわけでも、無視してたわけでもない。ただ、私は……」彼女は、できるだけやんわりと断る言葉を伝えようとしていた。しかし、智也はその余地を与えなかった。彼は勢いよく立ち上がった。190センチを超える長身。ヒールを履いても170センチ余りの花咲は、それでも頭ひとつ分低い。智也が一歩近づいた瞬間、ふっと影が覆いかぶさってきた。花咲は、胸の奥がざわめき、思わず一歩後ずさった。「花咲」智也の耳が再び赤く染まり、黒い瞳が真っ直ぐに彼女を捉えた。「噂じゃない、本当なんだ。好きだ。ずっと前から、君のことが好きだった。わ、分かってる。君が僕を受け入れてくれないかもしれないのは。でも、それでもチャンスをくれないか?僕は……自分のために、せめて一度だけ、賭けてみたいんだ」いつもなら実験結果の報告も分析も冷静で論理的な智也が、今は焦りのあまり言葉を詰まらせた。白い頬が赤みを帯び、耳の先まで熱を含み、握りしめた指先は無意識のうちに上着の裾をぎゅっと掴んでいる。
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第16話

花咲が、ぴたりと固まった。本当は認めたくなかった。けれど、見慣れた顔を目にして、どうしようもなく小さく息をついた。やっぱり、遼に見つかってしまった。花咲は、こうなる日が来ることを頭のどこかで覚悟していた。けれど、まさかこれほど早くとは思わなかった。あの日、由奈が闘志むき出しで挑発してきた。花咲は、あの女が遼の心を一生つなぎ止めておけるのだろうとさえ思っていた。だが、どうやらその手口も大したものではなかったらしい。心の奥にはさまざまな思いを抱えながらも、花咲の表情は変わらず微笑を湛えていた。彼女は淡く笑みを浮かべ、智也に言った。「あとでリーダーが来たら伝えて。私は体調が悪いから、先に帰るって」花咲がここまで来たのは、忌まわしい人や出来事から、できる限り遠ざかるためだった。遼と向き合う気など、あるはずがない。智也は視線を遼と花咲のあいだに行き来させ、意味ありげに笑った。「送っていくよ」そして、遼は、花咲が自分をまるで空気のように扱い、最初から最後まで隣の端正な男にだけわずかな笑みを向けているのを見ていた。彼女は迷いなく立ち上がり、遼の肩すれすれを通り抜け、そのまま振り返りもせずに歩き去った。すれ違いざま、若い男の喉からかすかな嗤いが漏れた。遼の顔色は、たちまち真っ白になった。再会の場面を何度も思い描いてきたが、こんな形になるとは夢にも思わなかった。「花咲」あのどうしようもない焦りが再び押し寄せ、遼はほかのことなど構わず人混みをかき分けて追いかけた。遼は二人の前に立ちふさがった。顔は青ざめ、目尻がほんのり赤く染まっていた。その声にはおずおずとした色が混じっていた。「まだ、俺に怒っているのか?怒っていたとしても、家に帰らないなんて駄目だろ。こんな無茶はやめてくれるよな?」花咲は顎をわずかに上げ、遼がこれまで見たことのない高慢な声と態度で言い放った。「家?何の話?あれはあんたの家で、私のじゃない。遼……私たちがこれだけ長く付き合いがあって、私の性格もよく知ってるはずよね。一度決めたことは、もう後戻りなんてしない。忠告するわ、早く帰ったほうがいい。ここに居座られても目障りだし、吐き気がするだけだ」吐き気――その文字が突き刺さり、遼の胸の奥で苦い感情が暴れ回った。反論し
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第17話

遼は、そのまなざしを自分への心配の証だと受け取り、瞳にわずかな希望の色を宿した。彼女の服の裾を、さらに強く握りしめた。この手を少しでも緩めたら、目の前の彼女は再び人波に紛れ、二度と見つけられなくなる――そんな恐怖に縋るように。だが。花咲はその裾を力任せに引き抜くと、存在しない埃を払う仕草をした。遼への冷たさと嫌悪を、これっぽっちも隠さずに。遼の顔から瞬く間に血の気が引き、体が何度かよろめいた。そして信じられないように、花咲を見つめた。花咲はもう遼を見ようともせず、声も冷え切っていた。「さっきまでは、ただ少し嫌いなだけだった。でも今は……軽蔑している。あなたは、私を丸め込もうとしているふりをして、説明しているように見せかけながら、実際はすべての責任を小林由奈に押しつけている。お茶はどれもお湯で淹れるものよ。あなたにその気がなければ、あの女がどんな手を使っても、どうにもできなかったはず」照明の下、花咲の顔ははっきりと輝き、その声は澄んで力強く、一語一語が遼の胸に重く突き刺さる。「私は小林由奈が好きじゃない。けれど、これは最初から、私と彼女の争いじゃない。私とあなたの間の話よ。遼、あなたは今まで一度も自分の過ちと向き合ってこなかった。よくも私に許しを乞えるものね」その姿に、遼はふと昔の記憶を思い出した。幼い頃、いじめられていた自分の前に立ち、相手を叱り飛ばした花咲の背中を。彼女の心を手に入れてから、遼はほとんど忘れかけていた。これこそが花咲の本当の姿。もともと彼女は、決しておとなしい性格ではなかった。ただ、かつてはあまりにも自分を愛してくれたから、その体に立っていた棘をしまっていただけだ。いまになって、自分が何を失ったのかを痛感した遼は、心ここにあらずのまま、自分の頬を何度も強く打ちつけた。その唐突な動きに、花咲も、遅れて来た研究室の面々も息を呑んだ。グループリーダーは遼の顔を見てすぐに正体を察し、驚きと戸惑いを隠せない。周囲の視線は探るような色を帯び、花咲と遼のあいだを行き来している。花咲は、その視線にさらされて少しばかり居心地の悪さを覚え、指先をぎゅっと握りしめた。言葉が見つからず、しばし沈黙しかなかった。彼女は、遼とのことを誰にも話したくなかった。ほかの理由なんてない。ただ、
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第18話

花咲は人前で遼の顔に泥を塗った。少なくとも数日は大人しくしてくれるだろう──そう思っていた。だが、まさか翌日、遼は花咲のいる研究室のビルの前に立っていた。手には花束を抱え、行き交う学生たちの不思議そうな視線も意に介さず、遼は頑なにビルの前で花咲が現れるのを待ち続けていた。花咲も、これではいくら隠そうとしても隠しきれなかった。彼女に向けられる詮索めいた目線はますます増えていった。何も弁解しないせいで、彼女の周りにはいろいろな噂まで飛び交うようになった。幸い、研究室の仲間たちは花咲をそういう人間だとは思っていない。グループリーダーも「今回の投資がうまくいかなくても、それは君の責任じゃない。うちの研究室は人間性に問題がある相手とは組まない」と言ってくれた。たとえ経緯の詳細を知らなくても、彼らは花咲を信じてくれた。その温かな思いやりに胸を包まれ、花咲は深く心を打たれた。そして、遼と早く決着をつけなければならないことも、彼女はわかっていた。そうしなければ、この先ずっと安らかな日々など訪れないと知っていた。一か月ぶりに、花咲は遼の番号を着信拒否リストから外し、短くメッセージを送った。【二人で話そう】その一文を見た瞬間、遼は宝くじに当たったかのような顔をした。もうすぐ三十歳になろうというのに、人目もはばからず泣き笑いを繰り返した。もともと勇気を振り絞って声をかけようとしていた何人かの女の子たちは、その様子を見て足を止め、遼が頭のおかしい人なのではないかと疑いの眼差しを向けた。約束の時刻までまだ一時間もあったが、遼はとっくに待ち合わせ場所に着いていた。さらにカフェを丸ごと貸し切った。それに、スタッフに頼んで店内を念入りに飾り付けさせた。あの日、プロポーズが成功した時と同じ演出。あのときの彼女の感動に満ちた眼差しを、遼はいまでも鮮明に覚えている。今日で彼女の心が戻るとは限らない。それでも、彼女の心にわずか触れることができるはずだ。一度でも、二人が共に過ごした日々を思い出してくれさえすれば、まだ望みはある。そう思うほどに、遼の胸には自信が満ちてきた。そしてその自信は、抑えきれない確信めいた微笑となって表情に滲み出た。だが、入口に現れた人物を見て、その笑みは凍りついた。来たのは智也
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第19話

遼は反応する間もなく、駆けつけた花咲にぐいと引き離された。危うく足元を崩しそうになり、体がぐらりと揺れた。彼女は慌てて智也の顔の傷を確かめることに気を取られ、動揺と狼狽を隠せない遼には一瞥すらくれなかった。遼の顔色は一気に青ざめ、どう振る舞えばいいのかもわからず、慌てて説明しようとした。「花咲、違うんだ、君が考えているようなことじゃない、俺……」「っ……」遼の言葉は、智也の低い呻き声にかき消された。さっきまでの挑発や冷ややかさはもうない。智也は痛ましげに負傷した顔を押さえ、震えるまつ毛の奥から花咲を見上げた。無力で、今にも崩れ落ちそうな声でつぶやいた。「花咲……僕、もう顔がダメになっちゃいそう」そう言って、顔を隠していた手をそっと離した露わになった頬は赤く腫れ上がり、花咲の瞳に一瞬だけ、憐れみの色がよぎった。だが、その憐れみの後に押し寄せてきたのは、燃えるような怒りだった。彼女はくるりと振り返り、元凶である遼を冷ややかに見据えた。声には抑えきれない憤りが滲んでいた。「結城遼、あなたどうしてまだ私に執着するの?裏切ったのはあなただし。私の信頼を踏みにじって、もう二度と会いたくもないのに、やっと静かに暮らそうとしているのに、どうして押しかけてくるの?」花咲は言葉をぶつけながら、遼に近寄った。外では突然、稲光が走り、雷鳴が轟いた。その低く響く音に、花咲の怒りを孕んだ冷たい声が重なり、遼の耳元に叩きつけられた。頭の奥で、鈍い唸りが鳴り止まなかった。遼は目を赤く滲ませながら必死に言葉を絞り出した。「違う、そういう意味じゃない。君を困らせたいわけじゃない。ただ一緒に帰ってほしい。もう一度だけ、俺にチャンスをくれ。花咲、俺たちは十年以上も共に過ごし、知り合ってからは二十年以上になる。本当に……全部手放せたのか?俺は信じない」その必死な言葉は、彼女を説得しているというより、自分に言い聞かせているようだった。花咲はふっと笑った。その笑みは嘲りに満ちていた。以前、国内で使っていたスマホを取り出し、彼女は遼の目の前でその録音を再生した。花咲の瞳は氷のように冷え切り、声はまるで凍てついた岩肌をかすめる氷の欠片のようだった。「これを最後まで聞いたら、さっきみたいな質問をする顔なんて、もう残
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第20話

あの日から、花咲は二度と遼の姿を目にすることはなかった。まるで彼がすっかり彼女の世界から消え去ってしまったのだ。花咲もようやく心の重荷を下ろすことができた。そして、三年という歳月は、振り返る間もなく過ぎ去っていった。智也は相変わらず彼女のそばにいた。だが花咲を困らせたくない一心で、一度も踏み越えるようなことはしなかった。ただ、彼のその約束を守り、花咲のそばで静かに見守り続けていた。花咲も心が揺れる瞬間はあった。けれど、遼との数年間の結婚生活は、彼女に心の傷を残し、まるでPTSDのように染みついていた。遼は花咲を愛していなかったのか?――いや、彼はとても愛していた。命に代えても惜しくないほどに。それでも彼は浮気をした。結局のところ、愛の行く末は、その人の良心ひとつに委ねられる――まさにその通りだった。花咲は、これからの人生を、そんな曖昧で儚い「良心」に縛られて生きるつもりはなかった。彼女のこれからの計画は、ヨーロッパでの研修を終えたら世界を巡り、気に入った場所があれば腰を落ち着けて医者として暮らすこと。この数年、所属する研究室のプロジェクトは大成功を収め、名声も金も十分に手に入れた。そのおかげで、残りの人生を何の不安もなく、穏やかに過ごせるだけの余裕はある。そんな未来のことを考えていたとき、花咲の肩が誰かに軽く叩かれた。振り向くと、研究室で一番仲の良い女の子――丸い頬に、人懐っこく義理堅い性格の篠原絵里(しのはら えり)が立っていた。絵里はぱちりと花咲のに向けてウインクをして、言った。「花咲、私ね、結婚するの。あなた、結婚式に来てくれる?」花咲はぱっと顔を輝かせた。「結婚するの?それは本当におめでたいわ。もちろん行くわよ。そのときはご祝儀をたっぷり包んであげる」絵里は軽く睨むようにして首を振った。「もう、そういうのはいらないの。ちゃんと来てくれればそれでいいの。ただ……あなたが来たくないんじゃないかって、ちょっと心配で。だって、結婚式は国に戻って東都でやる予定だから」その一言で、花咲が自信満々に口にした約束は、あっけなく行き場を失った。耳にしたその地名は、懐かしいようでいて、どこか遠い。東都へ戻ることなど、花咲はこれまで一度も考えたことがなかった。花咲が
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