All Chapters of 花咲の響き、何処とも知らず: Chapter 21 - Chapter 29

29 Chapters

第21話

花咲は今回、帰ってきたことをほとんど誰にも知らせていなかった。だが、昔の仲間たちが「お帰り会をしよう」としきりに誘ってきた。結局、押し切られるようにして顔を出すことにした。何年もの歳月が過ぎても、顔ぶれは昔と変わらない。けれど、そこにある物語はすでにすっかり入れ替わっていた。家業を継いだ者、子どもを授かった者、病を抱えるようになった者――中でも、最も口にのぼったのは、花咲と遼のことだった。何しろ、かつてこの二人は周りから理想のカップルと羨まれる存在だった。「たとえ世界が終わろうとも、この二人は決して別れない」――そんな言葉まで囁かれていたほどだ。それなのに、結局、別れてしまった。しかも、こんなにも不名誉な形で。昔なじみの友人が上機嫌で、花咲に次々と酒を勧めてくる。すっかり酔いが回り、頭がぼんやりしてきた頃、もうこれ以上はと手を振ろうとしたその瞬間。彼女の手にあったグラスが、不意に誰かに奪われた。耳に飛び込んできたのは、懐かしくも遠い声だった。「代わりに俺が飲むよ。こいつ、胃が弱いから飲むと辛くなる」花咲の体が一瞬こわばり、疑わしげな視線が真っ先に隣の友人へ向く。すると友人は、慌てて手を振りながら言った。「私、彼を呼んでないわよ……」遼は手にした酒を一気にあおると、すぐさま激しく咳き込みはじめた。やつれたその姿は、もともと整った温和な顔立ちを、今ではどこか病弱で頼りない印象へと変えている。咳き込むたびに身体ごと小刻みに震え、立っているのもやっとといった様子だった。花咲は、彼の手に残ったグラスを冷ややかに一瞥すると、何事もなかったかのように自分のグラスを新しいものに替えた。遼は酒を飲み干したあと、所在なげに彼女を見つめ、その瞳には落ち着かない色と、隠しきれない寂しさが浮かんでいた。やがて、見かねた誰かが場を取り持ち、遼を反対側の席へと連れて行った。北と南、互いに干渉しない距離。友人はなおも弁解を続けた。「本当に私じゃないのよ。彼には一言も知らせてないし……きっと、誰か気の利かない奴が、結城家に取り入ろうとしてわざわざ呼んだんだわ。花咲、怒らないで。あとでその空気の読めない奴、私がしっかり叱ってくるから」友人が拳を握るのを、花咲はそっと押さえ、微笑んだ。「いいの
Read more

第22話

男は黄ばんだ歯をむき出しにし、いやらしい視線で花咲の体を何度も這うように往復する。吐き捨てられる言葉はさらに下劣だ。「きれいなお嬢ちゃん、さっき俺にぶつかったよな?ほら、一杯くらい付き合ってくれなきゃ、筋が通らねぇだろ?」冷たい眼差しで、花咲は相手を睨みつけた。「離して。さもないと警察を呼ぶわ」そう言い放つと同時に、腕を振り払おうとした。相手は彼女の動きを察し、さらに力を込めて手首を握りしめた。手首に鋭い痛みが走る。その隙を突くように、男の仲間が彼女のスマホを奪い去った。男は不気味な笑みを浮かべ、花咲を暗がりの奥へと引きずっていった。バーの入口には人の往来が絶えなかったが、誰ひとりとして目を向ける者はいなかった。まるで見慣れた光景ででもあるかのように。花咲も、ついに恐怖に飲まれた。路地裏へ引きずり込まれそうになる瞬間、男の手に思いきり噛みついた。男が痛みに顔を歪めて手を放し、花咲はその隙に外へ逃げ出した。だが、助けを呼ぶ間もなく、男に髪をスッと掴まれた。体も勢いのまま地面に叩きつけられた。この衝撃で、花咲は立ち上がることもできそうになかった。恐怖と怒りが入り混じり、体が小刻みに震える。必死に助けを呼ぶも、返ってきたのは男の傲然とした嘲笑だけだった。「叫べよ、誰か助けに来るか見ものだな」そう言うと、男はにやりと笑い、ズボンに手をかけた。ちょうどその時、路地の入口に黒い影が現れた。素早くこっちに駆け寄り、手にしたレンガを振りかぶって男の頭めがけて叩きつけた。「早く逃げろ」その黒い影が花咲に向かって叫んだ。聞き覚えのある声に花咲は一瞬動きを止めたが、はっと気づくと、その隙を逃さず立ち上がって外へ駆け出した。視界の端に、遼があの連中と揉み合いになっているのが映った。暗がりで刃物のきらめきが走り、男が鋭いナイフを抜き放つのが見えた。花咲はよろめきながら路地を抜け、恐怖で膝から力が抜け、その場に座り込んだ。痛みを感じるより早く、温かな腕に包み込まれた。智也は血の気の失せた顔でうろたえる花咲を、焦りと切なさの入り混じった眼差しで見つめた。「花咲、どうしたんだ?」彼はもともと彼女を迎えに来るつもりだった。連絡がつかず、車を降りて探しに出たところで、必死の形相で
Read more

第23話

救急車に付き添って病院へ向かった。一晩中の救命措置を経て、遼がICUから運び出される姿を見たとき、花咲はようやく胸を撫で下ろした。彼女はそばの智也に、帰ってちゃんと休むよう声をかけようとした。ちょうどそのとき、急ぎ足のハイヒールの音が近づいてきた。次の瞬間、花咲の肩が掴まれ、ぐいと向きを変えさせられた。相手の顔を確かめる間もなく、乾いた音とともに重い平手打ちが頬に叩きつけられた。すぐそばにいた智也は即座に反応し、相手を突き飛ばして花咲を腕の中に庇った。その眼差しは氷のように冷たく、隠しきれない殺気と荒々しい怒りが宿っていた。花咲は焼けつくように熱い頬を押さえ、怒りをあらわにした由奈を見据え、声を冷たく落とした。「小林由奈、何を狂ったことしてるの?」由奈の胸のざわめきは激しく、かつての清らかで儚げな面影は、もうどこにもなかった。もがくようにして、再び花咲を殴ろうと手を伸ばした。「このあばずれ!自分から出て行ったくせに、なんで戻ってきたのよ!戻ってきたうえに、まだ遼にまとわりついて……見なさいよ、あんたのせいで彼がどんな目に遭ってるか」花咲はその言葉に冷ややかに笑みを浮かべた。「私が遼に付きまとっているって、何の証拠があるの?忘れないで。あの人との関係に最初に割って入ったのは、あなたよ。この世の誰もが私を責める資格はあるかもしれない。けれど、あなたにだけは絶対にない」由奈は花咲の気迫に気圧され、怒りで顔色を青くしたり白くしたりしながら、拳を固く握りしめ、憎悪を込めて吐き捨てた。「月岡花咲、三年前、あんたが負け犬だった。今も同じよ。覚えてなさい、必ず代償を払わせてやる。」言い終えると、またヒールを鳴らして怒りをまき散らすように立ち去った。智也は悔しげに目を細め、底冷えするような声を落とした。「花咲、怒るな。僕があいつを懲らしめてやる」花咲は腫れた頬を押さえ、智也の腕から抜け出してどうにか立ち上がった。そして、ふわりとした声で口を開いた。「いいの。あの人はもう、自分の罰を受けてる」由奈があそこまで怒った理由は、花咲にはすぐに察しがついた。由奈は、自分が花咲を追い出せば遼の愛を独り占めできると思っていた。けれど明らかに、その自信満々だった関係は、今や幸せとは程遠い。
Read more

第24話

「遼……」由奈はまだ諦めきれず、再び飛びつくようにして遼の手を握った。「私よ。そばに来たんだ」「出ていけ!出ていけ」遼は目を覚ましたばかりで声はまだかすれていたが、それでも由奈に向かって怒鳴りつけることには一点の迷いもなかった。由奈が動じないのを見て、彼女を追い出そうと、遼はさらに重傷の体を押してベッドから降りようとした。腰の傷口からは、無理な動きで再び血が滲み出した。ちょうど回診に来た医師と看護師が異変に気づき、すぐさま駆け寄って遼を押さえつけた。看護師も慌てて由奈を外へ促した。「ご家族の方、いったん外へ出てください。患者さんが取り乱しておられますので、落ち着かせないといけません」屈辱と悲しみで胸がいっぱいになり、由奈は唇を噛みしめた。もう少しで血が滲みそうだ。ついに堪えきれず、声を荒げた。「どうして私が出ていかなきゃいけないの!私は彼の恋人なの」その言葉を聞くなり、遼の感情はさらに激しく燃え上がった。血走った目で由奈を睨みつけ、その視線には恨みと冷たさが宿り、まるで仇敵を見るようだった。「どうしてお前なんだ……どうして花咲じゃない?俺のそばにいるべきなのは花咲だ!お前が花咲を追い出したんだろう!小林由奈、もう一度でも俺の前に現れたら、お前とその忌々しいガキをまとめて海外に叩き出してやる」最後の一言が、由奈の心を直撃した。抱いていたすべての希望を粉々に打ち砕いた。由奈は顔から生気を失ったまま、人に引きずられて病室から連れ出された。病院の廊下で行き交う人々の訝しげな視線など意にも介さず、そのまま力尽きたように床へ崩れ落ち、生気を失ったように座り込んだ。だが、スカートの裾を握る指先は、ゆっくりと力を込めていた。うつむいた髪の奥には、溢れんばかりの狂気と怨嗟が潜んでいた。人としての情けから、花咲はそれでも遼に一本の電話をかけ、容体を気遣った。電話の向こうで、遼は執拗に問いかけてくる。「一目でいい、会いに来てくれないか?」弱々しい声には、おずおずとした願いと切なる望みが滲んでいた。花咲は長い沈黙ののち、やがてひとつ言い訳を口にした。「午後の便で海外に行くの。ごめんなさい。」遼はまるで一気に空気の抜けた風船のように力を失い、苦みを帯びた声でぽつりとつぶやいた。
Read more

第25話

絵里の結婚式の当日、花咲と智也は時間通りに会場へ到着した。会場は賑やかな空気に包まれ、煩わしい顔ぶれもいない。花咲の気分はそれだけでずいぶん良くなっていた。歓声に包まれる中、新郎新婦が指輪の交換を始めた。智也は珍しく見とれており、美しい黒い瞳には読み取れない感情が揺れていた。時折、壇上の二人に視線を送り、また客席の花咲へと戻す。その意味は、言葉にしなくても明らかだった。花咲はあえて気づかぬふりを続けたが、その熱い視線だけは無視しきれなかった。ただ笑って言った。「絵里もこれで一生のパートナーが決まったし、次はあなたの番ね。あなたが結婚するとなった時は、私、たっぷりご祝儀を包むわ」目の前で朗らかに笑う花咲を見て、智也の瞳にはわずかな苦みが宿った。そしてぽつりと落とした。「花咲、もしあの時、もう少し勇気があったら、僕たちは今、違う結末を迎えていたんだろうか」その問いに、花咲は答えなかった。花咲がそれを知ったのは、ずっと後になってからだった。智也は、もっと前に彼女と出会っていたのだ。その頃、彼女の両親はまだ健在で、花咲は月岡家で最も愛されるお嬢様だった。両親に伴われて数々の華やかな社交の場を渡り歩く中、智也と初めて出会い、彼は一瞬で心を奪われた。白川家もまた大きな事業を抱えていたが、その多くは海外にあった。花咲に心を寄せてから、彼はずっと密かに彼女を見守ってきた。遼が花咲に熱烈な想いを寄せる姿も、そのすべてを目にしてきた。正々堂々と遼と競い合いたいと願ったが、二人が幼なじみで、すでに深い感情で結ばれていると知った。自分が踏み込めば、ただの第三者になるだけだった。智也は、そうして自らの想いを胸の奥に封じ込めた。やがて遼の想いが実り、二人がまもなく結婚の門をくぐろうとしていると知ったとき、智也は家の意向に従って海外留学を決めた。それでも彼女への関心が途切れることはなかった。花咲が勤務する病院からヨーロッパ研修への派遣が決まったとき、智也は七、八年学び続けた金融の道を捨て、医学を学び始めた。幸いにも、もともと学業に長けた彼は、心血を注いだ末に、花咲と同じ第一研究室に配属されることになった。再会の日、智也の胸は躍っていた。これが運命の贈り物だとずっと信じていた。
Read more

第26話

入口にたどり着いた花咲は、由奈の口から飛び出す言葉をはっきりと耳にした。彼女は、まだ二歳ほどに見える子どもを抱きしめながら、地面に膝をつき、涙で顔を濡らしていた。その後には、スマートフォンを構えた男女が数人。配信画面に向かって視聴者とやり取りをしている。一目で、由奈がわざわざ呼び寄せた配信者だとわかる。警備員たちも、こんな光景は初めてらしく、誰もがどうしていいかわからず立ちすくんでいた。下手に手を出して由奈や子どもを引き離せば、二人はさらに大きな声で泣き叫び、まるでいじめられたかのような芝居を打つだろう。しかも、この場には配信している人が大勢いる。もし動画がネットに上がり、誹謗中傷の的になれば、この先まともな日常などはもう望めない。花咲は人混みを抜け、カメラの前で泣き崩れている由奈を冷ややかな眼差しで見据えた。「小林さん、望みどおり私が来たわ。話があるなら、場所を変えて話そう。ここで騒ぐのはやめなさい」だが由奈は小さく身を縮め、怯えたように顔を上げた。「月岡家のお嬢様、あなたはお金も権力もお持ちですけれど、もし私と莉子が本当にあなたについて行ったら、私、生きて帰れるのでしょうか?」花咲は拳をぎゅっと握り、深く息を吸って怒りを押し殺した。「それで、何が望みなの?」由奈は子どもをそっと降ろし、膝をついたまま花咲の服を掴んだ。泥に伏すような卑屈さで、震える声を絞り出した。「ほかに望みはありません。ただ、私とこの子から手を引いてほしいんです」花咲はその言葉を聞き、思わず怒り混じりの笑みがこぼれそうになった。「私があなたから手を引く?それは逆じゃないか?三年前、あなたは遼を誘惑して私の家庭を壊した。私はそれを遼の自制のなさだと受け止め、あなたを責めずに身を引き、席を譲った。それなのに今になって、こうしてしつこくまとわりつくなんて」この騒ぎに気づいた往来の人々が、次々と足を止めた。花咲の言葉を耳にした人々は、すぐさま由奈を指さし、ひそひそと囁き合った。「こんな若くてきれいな子が、どうして不倫相手なんかになるのかしら」「見え見えじゃない。金持ちに取り入ろうとして、子どもまで産んだのに捨てられて、今度は元妻に絡んでるんだろう」「こんな恥知らずな不倫女に遠慮なんていらない。私なら人を呼んで叩き
Read more

第27話

認めざるを得ないが、由奈の演技は見事だった。涙は雨に打たれる花のようにこぼれ落ち、声は哀れを誘うほどか細く、まるで血を吐くかのような悲痛さを帯びていた。さらに傍らでは、泣きすぎて今にも声が枯れそうな幼い子がいいて、人々は否応なく彼女に同情を寄せ始めた。花咲が反論する間もなく、由奈は人前で涙ながらの訴えを続けた。「このあたりで、誰だって知ってるわ。遼はあなたを溺れるほど愛してる。そんな彼が浮気なんてするはずない。全部あなたたちが仕組んだことよ。私のお腹を借り物にして子どもを産ませるために。もし本当に浮気だったのなら、なぜあなたは彼と離婚せず、ひとりでヨーロッパへ行ったの?あれは夫婦そろっての芝居だったんよね。私はあの時、あなたの病院の婦人科を受診した記録だって持ってる。表向きは診察に見せかけて、実際には私のお腹をどう使うか相談してたじゃないか?」花咲はあまりの怒りに頭が真っ白になった。理由はただ一つ、こんなにも厚かましい人間は初めて見たからだ。黒を白と言い、白を黒と言いくるめる。だが同時に、花咲は一つの抜け穴に気づいた。彼女は由奈の手をぐいと掴み、冷ややかな笑みを浮かべて問い返した。「何を根拠に、私と遼が離婚していないと思っているの?」由奈は顔を上げ、涙はまだ頬を伝っていたが、その奥底には隠しきれない怨嗟と嫉妬が滲んでいた。「あなたはあの日の翌日には出て行ったじゃない?遼と一緒に役所へ行って離婚の手続きをしたわけでもないし、あれだけあなたを愛していた遼が、離婚に応じるはずがないわ。今だって、あなたたちはまだ夫婦のままよ。本当に彼の浮気が我慢ならないのなら、どうして今まで離婚していないの?」――これこそが、由奈が花咲を貶めるための切り札だった。花咲が去ってから、由奈は何度も遼と一緒になろうとした。だが、そのたびに遼はきっぱりと断った。さらには、人前でも容赦なく彼女の尊厳を踏みにじった。由奈は後になって、ようやく理由がわかった。それは、花咲がまだ遼を繋ぎとめたまま離婚しようとしないからだ。遼が彼女を拒み続けるのも、自分にまだチャンスがあると思い込んでいたから。今回、花咲が戻ってきて、遼が彼女のために命さえ投げ出そうとしたことで、由奈はますます自分の推測に確信を深めた。怒りに我を忘れていなけ
Read more

第28話

由奈が智也へ近づこうとするのを見て、花咲の胸がわずかにざわめいた。だが、彼女はあえて何か弁解しようとはしなかった。もし智也が本気で自分を疑い、由奈をかばうつもりなら、何を言っても無駄だと分かっていたからだ。ところが、智也は由奈が腕に触れようとするのをするりとかわした。その眼差しは氷のように冷たく、そして、わずかな嫌悪すら宿っていた。彼は口を開き、言葉を叩きつけるように放った。「口では花咲を罵りながら、その顔で僕を誘惑しようなんて。はっきり言っておく。事実がどうであれ、僕は彼女を信じるし、おまえみたいな女に惹かれることも絶対にない」その言葉に、由奈の美しい顔が怒りでゆがみかけた。足を踏み鳴らし、歯を食いしばって言い返した。「誰があなたなんか誘惑するのよ。ただ忠告しただけだ。騙されたいなら勝手にすれば」花咲は、智也が迷いなく自分の味方として立ちはだかる姿を見つめていた。ふと、三年前の誕生日パーティーの日を思い出した。あの時も、二者択一の場面だったが、遼は決して揺るぎなく彼女の側に立つことはなかった。その瞬間、花咲ははっきりと悟った。遼が抱いていたのは愛ではなく、ただの占有欲だったのだ。愛とは、無条件の信頼と守り抜くことだ。決してペットを檻に閉じ込めて飼うようなものではない。智也はその隙を逃さず、警察へ通報した。やがて警察が到着し、騒然としていた場はようやく鎮まっていった。由奈の瞳に一瞬、悔しさがよぎった。だが焦りはない。今回の件が虚偽の告発だとわかっているから、法的に花咲が処罰されることはない。けれど、遼と花咲が離婚していないのは事実だ。これから先、花咲の名誉は地に落ちるだろう。警察が来たのを見て、花咲は込み上げる悔し涙をこらえながら、顔なじみの男性に向かって声をかけた。「武おじさん」ここの警察署の署長は、かつては彼女の祖父の弟子で、両家の付き合いも深かった。それでも花咲は、こうした私事で彼らの手を煩わせ、治安の仕事に支障を与えるようなことは決してしなかった。もし今回、こんな濡れ衣を着せられることがなければ、彼女が口を開くこともなかっただろう。花咲は胸の奥で渦巻く感情を押さえ込み、口を開いた。「武おじさん、私が離婚しているかどうかを皆さんに教えていただけませんか?
Read more

第29話

花咲が遼の病室に足を踏み入れたとき、彼はちょうど窓際でガラス片を手に、自らの手首を切ろうとしていた。彼女の足音が近づくのを耳にして、彼はようやくその手を止め、ゆっくりと振り返った。灰色に沈んだ瞳に、ふっと星明かりのような光と喜びが差した。やつれた体を支え、弱々しく立ち上がった彼の真っ白な顔には、驚きと嬉しさが入り混じった笑みがあった。「花咲……どうしてここに?君、一昨日の便じゃなかったっけ?」花咲は手にしていた証拠をベッドの上に叩きつけ、冷えきった声で言い放った。「結城遼、もう白々しい芝居はやめなさい」遼は蒼白な唇をわずかに動かしたが、結局何も言い返さず、ただ苦く笑みを浮かべた。由奈が騒ぎを起こしてから、花咲はやはり何かがおかしいと感じていた。色々調べ上げ、そして辿り着いた答えに、胸の奥がすっと冷え込んだ。あの日、彼女を襲おうとした男――その影にいたのは、ほかでもない遼だった。由奈が配信者たちを集め、花咲を晒し上げることができたのも、遼の後押しがあったからだ。窓辺の男は、二十年以上前と変わらず端正で穏やかな面影を残していた。だが、もう、あの頃には戻れない。遼はその日、初めて知ったのだ。花咲が祖父の功績を使って、離婚を申し出ていたことを。あまりにもきっぱりとしていて、二人の間には、もう一片の余地すら残さなかった。彼女の瞳の奥で、氷のような冷たさが嫌悪へと変わっていく。それを見て、遼はついに取り乱した。目を赤くし、慌てて近づこうとした。だが、花咲は素早く後ずさり、その手を避けた。口を開き、冷たく感情のない声で告げた。「結城遼、私、後悔してる。あの時、あなたと結ばれるべきじゃなかった」その言葉は、遼の心を細切れにされるような痛みを与えた。彼はふらつく足取りで花咲の前に膝をつき、目尻を赤く染め、乞うように彼女を見上げた。「花咲……全部、愛してるからだ。俺は、君を愛しすぎたんだ。なのに、どうして償う機会さえ与えてくれないか?ただ……そばに置いておきたかっただけなんだ。小林由奈には、君を傷つけさせない。あいつは所詮ただの駒だ。君さえ戻ってきてくれれば、俺が必ずすべて片をつける」花咲は必死に縋りつく遼を見下ろし、胸の奥に失望が込み上げた。静かに首を振り、その言葉を遮った。「
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status