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All Chapters of 追憶の荒野: Chapter 11 - Chapter 14

14 Chapters

第11話

飛行機に乗り込んだとき、枝里子の心は不思議なほど静かだった。悲しみも、昂ぶりもない。前回帰国したときの胸のざわめきとは、まるで別物の落ち着きだった。アイマスクを手にした瞬間、通路から長身の影が近づき、彼女の隣で立ち止まった。「すみません、僕は窓側の席です」落ち着いた声が耳に届く。枝里子は思わず顔を上げ、その男の顔を目にして一瞬固まった。越也の顔立ちは整っているほうだ。長い時間を彼と過ごしてきたせいで、他の男を見ても「格好いい」と思うことはほとんどなかった。けれど、この男は違った。柔らかな気配をまといながらも、凛とした立ち姿で、不思議と目を引きつけられる。そのとき、枝里子の携帯が震えた。担当教員からの着信だ。教授の名を口にし、流暢な外国語で受け答えをしていると、隣の男がちらりとこちらに視線を寄越すのに気づく。通話を終えて顔を上げると、彼は微笑みながら枝里子の向かう大学の名を口にした。「……奇遇ですね。僕もその大学の学生なんです」思いがけない言葉に、枝里子も思わず微笑む。「ええ、本当に奇遇ですね」それ以上言葉を交わす間もなく、機内アナウンスが離陸を告げる。枝里子は軽く会釈し、アイマスクをつけて目を閉じた。空港に降り立ったとき、二人は一度すれ違いざまに目を合わせたが、すぐに人波に飲まれた。枝里子は追おうとはしなかった。ただの一期一会の校友、それだけのことだ。大学に戻ると、教授はまるで家族のように彼女の身を案じた。枝里子が少し打ち明けただけで、教授は不器用ながらも、枝里子の母国語で憤りを露わにする。「そんな男、目が曇ってるわ!あなたみたいに優秀な人を傷つけるなんて!」枝里子は苦笑し、静かに首を振った。教授はすぐに気を取り直し、机の引き出しから書類を取り出した。「落ち込むことはないわ。別れを選んだ彼のほうが損をしたのよ。この資料を見てごらんなさい。君にぴったりの研究プロジェクトを申請しておいたの。君の祖国に関わるテーマなのよ。成功すれば未来は大きく開けるはず。ただ、このプロジェクトは極秘で進められているから、外部との連絡はできないし……それに、帰国の目処も立たないのだけれど」教授の説明が終わる前に、枝里子はもう頷いていた。「問題ありません。祖国のために力になれるなら、ぜひ参
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第12話

三年後、A市で開かれた「海外優秀人材歓迎会」。枝里子と清臣は、国外での実績を評価され、この都市に招かれる形で凱旋した。市のトップたちが催した歓迎会とあって、会場となったホテルの大広間は、きらびやかなシャンデリアの光で満ちていた。枝里子はドレスに身を包み、毅然とした笑みを浮かべて来賓と握手を交わしていた。隣に立つ清臣もまた、端正な立ち姿で人々の注目を集める。握手した市の幹部が、微笑みながら言う。「いやぁ、まさに才子佳人。もしご結婚が近いようなら、ぜひ私にも知らせてくださいね」清臣が即座に一歩出て応じる。「それはもちろんです」幹部が離れると、枝里子は軽く眉を寄せて清臣を睨む。「まったく、どうしてそういうことまで平然と返すの?」三年という月日を共に過ごした二人は、今や互いに遠慮のいらない関係になっていた。清臣は何度も想いを告げてきたが、枝里子はいまだ返事を保留にしている。清臣は誠実で優秀な男だ。その真摯さに心惹かれないはずはない。だが彼女は、帰国してから結論を出そうと決めていた。なぜなら、帰国すれば必ず越也と顔を合わせることになる。そのとき、清臣が自分の過去をどう受け止めるのか……彼女自身もわからなかったからだ。舞台に上がり表彰を受けるとき、枝里子は強い視線に気づいた。その視線は、人混みの中でもひときわ濃く、彼女を逃さぬように絡みついてくる。――やはり。視線の先にいたのは、越也だ。久しぶりに見る彼の顔は、かつての輝きを失い、少し老け込んでいた。枝里子は内心、驚きを覚える。一方の越也は、込み上げる感情をどうにも抑えられなかった。歓迎会に参加する前から、彼は枝里子が帰ってくると知っていた。しかしその情報は夢のように儚かく、今日、枝里子と目があった瞬間、ようやく実感が湧いたのだ。三年の間、彼は一度たりとも枝里子を探すことをやめなかった。国内外に事業を広げる傍らで、枝里子の痕跡を追い続けた。だが世界はあまりに広く、彼女の行方は霧のように掴めなかった。それでも、彼女が自ら戻ってきた、自分のそばへ。人々が彼女と清臣のことを、「美男美女のカップル」と口々に称える声を耳にしても、越也は動じなかった。彼の心には絶対的な自信があった。枝里子の青春はすべて自分に捧げられた。その記憶を凌ぐ存在など、あるは
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第13話

越也の動揺がまだ収まらないうちに、枝里子はバッグを掴んで足早に会場を後にした。途中、アルコールを染み込ませたティッシュを取り出し、触れられた肌を何度も拭う。あの男に汚されたところを、綺麗にしないと。車に戻ると、ハンドルを握る清臣がちらりと視線を向ける。彼は枝里子の変化を敏感に察知し、あえて平静を装いながら探るように口を開いた。「……何かあった?」三年のあいだ、枝里子はかつての恋人について多くを語らなかった。清臣が知っているのは、西原越也という男が彼女の婚約者で、裏切りによって関係が破綻したということだけだ。調べようと思えば調べられる。しかし清臣は、それを彼女自身の口から聞きたいと思っていた。清臣がキャップを緩めたネラルウォーターを差し出すと、枝里子はそれをひと口含み、しばらく沈黙したのち、唐突に切り出す。「……あなたには、私と越也の過去をちゃんと話すべきかもしれない。その上で、まだ私を好きでいられるかどうか考えてほしいの」それは、誰にとっても耐え難いほど暗い記憶だった。自分の恋人が、そんな屈辱と苦難を味わっていたと知れば、受け止められないかもしれない――そう思っての言葉だった。しかし、清臣は眉を寄せ、不機嫌そうに首を振った。「……もういい。言わなくていい」枝里子の手からペットボトルが滑り落ちそうになる。彼がこんなふうに冷たく見えるのは初めてだった。やっぱり受け入れられないのだろうか。だから、彼にとって自分は「時間の無駄」で、自分の過去を聞く必要もないと思った。それなら仕方がない、と枝里子は心の中で自分に言い聞かせる。笑って冗談でも飛ばして空気を和ませたいのに、頭が真っ白で言葉が出てこない。ただ、目尻に滲んだ涙を慌てて拭い、ドアに手を伸ばした。「ごめん、ちょっと急用を思い出したの」だが、ドアは開かなかった。ロックがかけられていた。次の瞬間、清臣は枝里子に近づいてきた。普段は澄んだ光を宿す瞳が、今は底知れぬ暗さを帯びている。「僕が好きなのは今のあなたで、これからのあなただ。過去なんて関係ない。あなたが西原に傷つけられた過去など、そんなことを話せば、過去の傷を抉るだけだ。枝里子さん、僕が望むのは、あなたが何のしがらみもなく笑っていられることだ。僕たちの関係は澄んだものでいい。余計な
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第14話

枝里子は思いもよらなかった。越也が連れてきたのは、二人の母校だったのだ。懐かしさと違和感がないまぜになった校門。留学して以来、一度も足を運んだことのない場所。後悔とも、未練ともつかぬ思いが胸に広がる。枝里子が意図的に距離を取って歩くと、越也は一歩後ろから彼女の小さな背を追いながら、校庭を指差して口を開いた。「一年の頃は夜まで授業ばかりだったな。授業が終わると必ずこのグラウンドを歩いて……その日あったことを話し合って。飽きることなんてなかった」食堂の前に差しかかると、彼は足を止めて横顔を向ける。「ここ、お前が一番好きだった食堂だ。まだお気に入りの店、残ってるかな。入ってみるか?」「いいえ」枝里子は首を横に振る。過去を辿るより、恩師の元を訪ねたい。心から助けてくれた先生に会いたかった。だが越也はその気持ちを読み取らず、大きなエンジュの木を見上げて続ける。「ここ、カップルの聖地だったな。よく一緒に日向ぼっこして……熱くなって、キスしたりすることも……」「やめて」枝里子はきっぱり遮った。「私にとっては、それはもう美しい思い出でもなんでもない。できることなら、あなたと出会わなかったことにしたいくらい」傷が深ければ深いほど、過去の甘美な記憶は皮肉にしか響かない。その時、背後から呼び声がした。「枝里子?越也?」振り返ると、そこに立っていたのは、懐かしい恩師だった。枝里子の顔に、ぱっと花が咲くような笑みが広がる。それは彼女が帰国後、越也が一度も目にしたことのない笑顔だった。胸の奥に鋭い痛みが走る。恩師は二人が別れたことを知らないまま、枝里子の留学の話を聞き、越也に向かって言った。「これからも彼女を大事にしなさいよ。三年もかかるはずの単位を、枝里子は二年で修めて身体を壊すほど頑張ったんだ。全部、君と早く一緒にいたいからだってね」事情をまったく把握できていない越也は呆然とつぶやいた。「……二年制だって、彼女が言ってたが……」恩師は笑って答える。「心配させないために、ついた小さな嘘だよ」枝里子も笑みを添えて、しかしきっぱりと言った。「先生、もう彼とは別れました」短い言葉に、恩師は一瞬言葉を失う。だが枝里子は気まずさを与えまいと、すぐに恩師の腕に自分の手を絡めて明るく話題を変えた。「先生のお
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