穏やかな昼下がりだった。美月は夕食の準備をしながら、鼻歌を歌っている。翔吾は書斎で仕事をしていたが、そのドアは以前と違って少し開けられていた。二人の間の心地よい信頼関係を示す、小さな変化。 ――と。 突然、翔吾のスマートフォンが鋭く鳴り響いた。彼は訝しげに電話に出るが、その表情がみるみるうちに険しくなっていく。「何だと!? 父が倒れた? 分かった、すぐに行く!」 翔吾は「すまない、父が倒れたらしい。緊急事態だ」とだけ美月に告げると、ジャケットを掴んで慌ただしく部屋を飛び出していく。その背中には、これまで見せたことのない焦りが浮かんでいた。(お父様、大丈夫かしら。翔吾さん、あんなに慌てて) 翔吾と父・恭一郎は不仲に見えた。だが、あれだけ心配そうにしているのだ。他人にはわからない絆があるのだろう。 美月は彼の父の身を案じ、何もできない自分をもどかしく思った。 翔吾が出て行って十数分後。今度は、ペントハウス内に甲高い火災報知器の警報音が鳴り響いた。『火災が発生しました。速やかに避難してください』という無機質なアナウンスが繰り返される。 美月は一瞬パニックになりかけて、すぐに気を取り直した。コートを羽織って玄関を出ると、廊下で待機していた女性警護員が、冷静に避難を始める。「美月様、落ち着いてください。私に従って非常階段へ」「……あっ!」 急いでいた美月は、翔吾にもらった防犯ブザーを取り落としてしまった。バッグチャーム型の高価なものだ。今まで使う機会がなかったけれど、美月のお気に入りの品だった。 慌てて拾おうとするものの、警護員に制止される。「今は避難を優先させてください。さあ、こちらへ」 しかし、非常階段は他のフロアからの避難者でごった返していた。その混乱の中、消防服を着た二人の男が「こちらの方が安全です!」と、美月と警護員を人の少ないサービス用の通路へと誘導する。 それが罠だった。 通路に入った瞬間、男の一人が警護員をスタンガンで無力化する。美月が悲鳴を上げる間もなく、もう一人の男が、薬品を染み込ませた布を彼女の口と
最終更新日 : 2025-08-26 続きを読む