田中美月は派遣家政婦として働く22歳。真面目で質の高い仕事ぶりが評価されていた。 そんなある日、特別な仕事が舞い込んでくる。 それは日本有数の大企業グループの御曹司、鳥羽翔吾の住み込み家政婦になるというもの。 翔吾は当初、美月に冷たい態度を取り続けるが、彼女の整える温かい家に少しずつ心を開いていく。 だが翔吾は大きな問題を抱えていた。政治家である父の基盤固めのために、望まぬ政略結婚を強いられていたのだ。 「美月さん。君に頼みがある。結婚の話が白紙になるまで、俺の婚約者のふりをしてくれないだろうか?」 思いもよらぬ提案に、美月の運命が大きく動き始めた。
Lihat lebih banyak若い夫婦が住む、モダンなマンションの一室。ここが田中美月の今日の仕事場だ。
美月は、リビングの床に散らばったベビー用のおもちゃを、音を立てないように一つ一つ拾い上げていく。ぬいぐるみ、プラスチック製のラッパ、小さな絵本。それらを手際よく収納ボックスに収めながら、隣の寝室へと意識を向けた。 少しだけ開いたドアの隙間から、母親と赤ちゃんの穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。(よかった、お二人ともぐっすり眠ってる。今のうちに、できるだけ家事を進めないと)
掃除機をかけようと思ったが、音がうるさくて起こしてしまうかもしれない。代わりに固く絞った布でフローリングを丁寧に拭き上げることにした。彼女の動きに一切の無駄はない。
家事代行の顧客である若い母親は、夫が激務で、ほとんど一人で育児をしているのだという。昨晩も眠れなかったと、美月が来たときに疲れ切った顔で話していた。少しでも長く休んでもらいたい。その一心だった。リビングの片付けと掃除を終えると、美月はキッチンに立つ。今日の依頼は家事全般と、簡単な食事の作り置きだ。
(温めるだけですぐに食べられるものじゃないと。自分の食事は後回しになっちゃうって言ってたから)
冷蔵庫にある人参、玉ねぎ、じゃがいも、それから鶏肉。美月はそれらの食材を使って、根菜がたっぷり入ったポトフを作ることにした。コトコトと鍋を煮込むうち、コンソメと野菜の優しい香りが部屋に満ちていく。
この香りを嗅いだら、少しは元気になってくれるだろうか。食べる相手を思う気持ちが、彼女の料理には常に込められている。依頼終了の時刻が近づいた頃、寝室のドアが静かに開いた。料理の香りで目を覚ましたのだろう、母親がそっと顔を出す。彼女は綺麗に片付いたリビングを見回し、目を丸くした。
「すごい……あんなに散らかってたのに。いつの間に」
「起こしてしまってすみません」
美月が言うと、母親は力なく首を振った。
「ううん、お料理のいい匂いで目が覚めたの」
「温かいポトフ、できていますよ」
そう声をかけると、母親の目にじわりと涙が浮かんだ。
母親は、美月の作ったポトフをひとくち食べた。「おいしい……」と呟き、ぽろりと涙をこぼす。「こんなに温かくて美味しいもの、いつぶりに食べたか分からない……」。母親は涙を拭うと、美月の手をそっと握った。
「田中さんが来てくれる時間が、私の唯一の救いなの。こうやっておいしいお料理を食べたら、また頑張ろうと思える。本当にありがとう。……美月さんにも、誰かにこうやって優しくしてもらえる、温かい場所があればいいのに」
その言葉は、美月の胸に静かに深く響いた。
仕事を終え、美月は自分のアパートに帰り着いた。ドアを開け、返事のない部屋に向かって「……ただいま」と呟く。 部屋は古いが、よく掃除が行き届いていて、清潔だった。 小さな棚に飾られた、優しい笑顔の老夫婦の写真。美月は心の中で、亡き祖父母に今日の出来事を報告する。顧客の母親が流した涙と、感謝の言葉。人の役に立てたという満足感が胸を温める一方で、自分自身の孤独を強く意識させられた。美月は小さい頃に両親を亡くした。交通事故だった。
それ以来、祖父母に引き取られて暮らしていたけれど、美月が成人した前後に、祖父母も相次いで亡くなってしまった。近しい親戚もおらず、天涯孤独の身。美月が中学生になった頃から、祖父母は体を悪くしていた。だから美月は家事を担ってきた。特に料理は得意で、食べた人がおいしいと言ってくれると幸せな気持ちになる。
得意な家事を仕事に活かせて、幸運だったと彼女は思う。でも。
(私も……誰かに『おかえり』って言ってもらいたいな。温かいご飯を作って、待っててくれる人がいたら……)
ふと込み上げてきた寂しさに、唇をきゅっと結ぶ。
(……ううん、しっかりしなきゃ! ないものねだりをしても、仕方ないよ。明日も仕事なんだから)
気持ちを切り替えるように、美月は自分のためにキッチンに立った。今日の夕食は、作り置きで使った食材の残りでこしらえた、シンプルな野菜炒めと豆腐の味噌汁だ。
小さな食卓に丁寧に並べられた、一人分の夕食。手を合わせ、「いただきます」と小さく呟く。シャキシャキとした野菜の甘みが口に広がる。その味と温かさが、一日の疲れと心の寂しさを、じんわりと溶かしていくのだった。すべての事件が解決してから、数ヶ月が過ぎた。穏やかな秋の午後のことである。 陽光がたっぷりと差し込む、明るく近代的なキッチン。美月は制服ではなくお気に入りのエプロンを身につけて、楽しそうに鼻歌を歌いながら、今夜の特別なディナーの準備をしていた。 壁には、何枚かの写真が飾られている。少し照れくさそうに笑う、翔吾と美月のツーショット。その隣には、穏やかな表情になった恭一郎を交えた三人の写真。そしてその向かいには、美月が大切に持ってきた、亡き祖父母の笑顔の写真が飾られている。(少し前まで、一人で食事をするのが当たり前だった。でも、今は……『ただいま』と帰ってきてくれる人がいる) 心の底から湧き上がる、確かな幸福感。彼女はもう孤独ではなかった。 仕事を終えた翔吾が、いつもより少し早く帰宅する。彼の表情は、一見すると今でも冷たい。けれど美月を見る時だけは、穏やかで優しい笑みを浮かべるのだ。「美月、少し出かけないか。君を連れて行きたい場所があるんだ」 彼の車が向かったのは、意外なことに、二人がかつて暮らしたあのペントハウスだった。すでに家具はすべて運び出され、がらんとした空間が広がっている。ただ窓の外には、変わらない都心の絶景が夕日に染まっていた。(私たちの『家』だった場所。もう、何もないんだな) 少しだけ寂しい気持ちで、美月は空っぽの部屋を見渡す。翔吾はそんな彼女の手を優しく取ると、リビングの中央へと導いた。「ここを覚えてるか。君が来る前、ここはただの冷たい箱だった。俺にとっては、眠るためだけに帰る場所。『家』だなんて、思ったこともなかった。……いや、ここ以外の場所でも、安らげる家など存在しなかった」 彼は美月に向き直る。夕日が差し込む何もない部屋が、二人だけの特別な空間へと変わっていく。「君が、ここを温かい場所に変えてくれた。君の作る食事、君の整える部屋、君の気配……君がいて初めて、俺は『家に帰る』という意味を知った」 翔吾は続ける。「この場所は、偽りの契約が始まった場所だ。だからこそ、俺たちの本当の物語を、ここから始めたい」 翔吾
翌朝、美月は翔吾の腕の中で目を覚ました。 昨夜、衰弱しきった彼女を一人にできず、彼が自分のベッドで眠らせてくれたのだ。翔吾の穏やかな寝顔と、規則正しい寝息がすぐそばにある。肌で感じられる温もりに、美月は自分が本当に生きて帰ってきたのだと実感した。(翔吾さんが、そばにいてくれる。もう、大丈夫……) これ以上ないほどの安心感に包まれながら、これから始まるであろう最後の戦いを思った。 その日の午後。翔吾は、父・恭一郎とビデオ通話で対峙していた。翔吾の隣には、パートナーとして美月が座っている。「父さん」 翔吾は感情を抑えた声で切り出した。「これが、あなたが鳥羽家の未来のためにと手を組もうとした人間の、本当の正体です」 彼はこれまで、有栖川家の調査で掴んだ数々の汚職の証拠を、表沙汰にするつもりはなかった。事が大きくなりすぎて、父の政治基盤にまで深刻な影響を及ぼす可能性があったからだ。 鳥羽グループのトップとはいえ、民間人である翔吾が政治家を告発する意味は薄い。 だが、麗華が美月の命にまで危害を加えたことで、翔吾の決意は固まった。もはや手加減はしない。有栖川一族を、その根源までも徹底的に断罪する、と。 翔吾は、モニター越しに次々と証拠を突きつける。有栖川家の政治家たちが関与した大規模な汚職の証拠。誘拐を実行した暴力団関係者からの、麗華が直接指示したことを示す全面的な自白。 そして監禁場所での、麗華が美月をサディスティックに脅迫する音声記録。 画面の向こうで、恭一郎は言葉を失った。顔色がみるみるうちに蒼白になっていく。築き上げようとしていた未来が、いかに醜くて危険な砂上の楼閣であったかを、彼はこの時、痛感した。 通話が終わり、一時間後。ペントハウスのインターホンが鳴る。そこに立っていたのは、鳥羽恭一郎本人だった。 彼はまず美月の前に進み出ると、深く頭を下げた。「田中さん……。すまなかった。私の判断の誤りで、君を恐ろしい危険に晒してしまった。本当に、申し訳ない」 そして、彼は息子に向き直る。その目には、涙が浮かんでいた。
絶望の底から這い上がった翔吾は、冷徹な司令官へと変貌していた。彼が個人的に信頼する、元自衛官で構成された危機管理チームが書斎に集結し、ペントハウスは緊迫した空気に満たされている。 モニターには、金の流れを示すデータ、有栖川家が所有する不動産リスト、暴力団関係者の情報などが、目まぐるしく表示されていく。「奴らが使った車両は特定できたか? Nシステムと全ての監視カメラを解析しろ。金の流れから、連中のアジトを絞り込め。時間は無い」 インカムに響く彼の声には、もはや悲しみや怒りといった感情はない。ただ目的を遂行するための、鋼のような意志だけがあった。 一方、麗華が去った後、美月は一人、暗闇と恐怖の中にいた。麗華が突きつけてきた、あまりにも残酷な「選択肢」。その言葉が、何度も頭の中で反響する。 絶望に飲み込まれそうになった時、彼女は翔吾の存在を心の支えにした。(大丈夫。翔吾さんは、必ず私を見つけ出してくれる。あの人は、そういう人だから) 倒された警護員の姿が脳裏をよぎる。翔吾は、もう自分がいないことに気づいているはずだ。(翔吾さん、お願い……無事でいて。そして、私を見つけて……!) 美月は暗闇の中で固く手を組む。ただひたすらに彼の無事と、救出を祈り続けた。 暴力団関係者はプロだった。足取りは巧妙に消されて、警察による公的な捜査は難航している。時間が刻一刻と過ぎていく中、追い詰められた翔吾は、最後の切り札に手を伸ばした。 それは麗華の嫌がらせが始まった頃、万が一に備えるために彼が美月の女性警護員に指示して、普段着のコートの裏地にこっそりと仕込ませておいた、米粒ほどの超小型GPS発信機だった。(彼女の信頼を裏切る行為だと分かっていた。だが、これ以上は時間をかけられない! すまない、美月) セキュリティレベルの最も高いPCを起動し、特殊な追跡アプリケーションを開く。やがてマップ上の一点に、小さな光点が現れた。神奈川県にある、有栖川家が所有するプライベートヴィラ。途中までは追えた犯行の車の足取りと、一致する。「場所は特定した」 インカムに響く翔吾の声は、確信に満ちていた。「警察への通報と同時に、我々も突入する。美月の安全確保を最優先。抵抗する者は、容赦するな」 作戦は、電光石火で行われた。深夜、警察が別荘の正面から陽動をかけると同時に、翔
ペントハウスの書斎は、嵐が過ぎ去った後のように荒れていた。翔吾は、拾い上げた防犯ブザーをただ掌で握りしめ、その場に座り込んでいる。最初の爆発的な怒りと絶望が過ぎ去り、今は重く、冷たい静寂が彼を支配していた。 部屋のモニターには、美月過ごした何気ない日常が、たセキュリティ映像として無音で流れている。笑いながら料理をする姿、帰宅した彼を迎える姿……。(俺のせいだ。俺が彼女をこの世界に引きずり込んだせいで……。俺がもっと強ければ、もっと早く手を打っていれば……!) 激しい自責の念が、彼の心を苛む。しかし美月の笑顔の映像を見つめるうち、彼の悲しみと後悔は、徐々に別の感情へと変質していった。氷のように冷たく、どこまでも研ぎ澄まされた純粋な怒りがふつふつと湧き上がってくる。(……許さない。麗華も、有栖川家も、関わった奴ら全員、絶対に許さない。美月は、俺がこの手で必ず取り戻す) 彼の瞳に、冷たい怒りの炎が灯る。炎は紫がかった瞳を照らし、美しくも苛烈な光を放った。+++ 薬品の気だるさが残る中、美月は目を覚ました。そこは豪華だが人の気配のない、冷たい部屋だった。窓には鉄格子がはめられ、自分が監禁されているという事実を突きつけられる。 最初に心をよぎったのは、恐怖ではなく翔吾への想いだった。(翔吾さん! きっと、心配している。私のせいで、また彼を苦しめてしまう) 次の瞬間、自分がどうなるのかという恐怖が全身を襲う。(どうしよう。私は、どうなるんだろう。殺されるの?) 恐怖にくじけそうになる心に、翔吾がくれた言葉が力強く響いた。『俺が、君の居場所になる』『俺は君を信じている』(ううん、駄目。ここで負けちゃ駄目だ。翔吾さんは、今きっと私を探してくれてる。信じなきゃ。私は、翔吾さんのパートナーなんだから) その想いが恐怖を打ち消して、美月に強さを与えた。 部屋のドアが開いて、麗華が姿を現した。その表情は完全な勝利を手にした者の、傲慢な優越感に満ちていた。「目が覚
穏やかな昼下がりだった。美月は夕食の準備をしながら、鼻歌を歌っている。翔吾は書斎で仕事をしていたが、そのドアは以前と違って少し開けられていた。二人の間の心地よい信頼関係を示す、小さな変化。 ――と。 突然、翔吾のスマートフォンが鋭く鳴り響いた。彼は訝しげに電話に出るが、その表情がみるみるうちに険しくなっていく。「何だと!? 父が倒れた? 分かった、すぐに行く!」 翔吾は「すまない、父が倒れたらしい。緊急事態だ」とだけ美月に告げると、ジャケットを掴んで慌ただしく部屋を飛び出していく。その背中には、これまで見せたことのない焦りが浮かんでいた。(お父様、大丈夫かしら。翔吾さん、あんなに慌てて) 翔吾と父・恭一郎は不仲に見えた。だが、あれだけ心配そうにしているのだ。他人にはわからない絆があるのだろう。 美月は彼の父の身を案じ、何もできない自分をもどかしく思った。 翔吾が出て行って十数分後。今度は、ペントハウス内に甲高い火災報知器の警報音が鳴り響いた。『火災が発生しました。速やかに避難してください』という無機質なアナウンスが繰り返される。 美月は一瞬パニックになりかけて、すぐに気を取り直した。コートを羽織って玄関を出ると、廊下で待機していた女性警護員が、冷静に避難を始める。「美月様、落ち着いてください。私に従って非常階段へ」「……あっ!」 急いでいた美月は、翔吾にもらった防犯ブザーを取り落としてしまった。バッグチャーム型の高価なものだ。今まで使う機会がなかったけれど、美月のお気に入りの品だった。 慌てて拾おうとするものの、警護員に制止される。「今は避難を優先させてください。さあ、こちらへ」 しかし、非常階段は他のフロアからの避難者でごった返していた。その混乱の中、消防服を着た二人の男が「こちらの方が安全です!」と、美月と警護員を人の少ないサービス用の通路へと誘導する。 それが罠だった。 通路に入った瞬間、男の一人が警護員をスタンガンで無力化する。美月が悲鳴を上げる間もなく、もう一人の男が、薬品を染み込ませた布を彼女の口と
インタビュー記事が公開された日の朝。 麗華は、自室である高級マンションの一室で、タブレットの画面を睨みつけていた。そこには翔吾と美月のインタビュー記事と、それに続く好意的なコメントの嵐が映し出されている。『本物の愛』『家柄とか学歴なんて関係ない』『あの家政婦さんを応援したい』 麗華は、怒りのあまりわなわなと震える。手に持っていたティーカップを壁に叩きつけた。ガシャン、という甲高い音と共に、高級ブランドの磁器が粉々に砕け散る。(ありえない……! あんな親なしの家政婦風情の女に、この私が負けたというの!? 世間は揃いも揃って、見る目のない愚か者ばかりね!) プライドをズタズタに引き裂かれ、彼女の心はどす黒い憎悪で満たされる。(翔吾は私のものだった。鳥羽グループの頂点に立つのは、この有栖川麗華だったはず! あんな女に、奪われてたまるものですか!) その時、スマートフォンが鳴った。父の芳正からだった。「麗華! 何てことをしてくれたんだ! お前の軽率な行動のせいで、世論が完全に鳥羽側についたじゃないか。これでは我々の立場が危うくなる。しばらく大人しくしていろ!」「お父様は黙っていてください! これは私の問題です!」 彼女は、父の言葉も聞かずに一方的に通話を切った。父からの叱責が、彼女の焦燥に火を注ぐ。(もう、正攻法では駄目。あの女がいる限り、翔吾は私の元へは戻ってこない。……ならば、あの女を『消す』しかないじゃない) 彼女の思考は、もはや常軌を逸し始めていた。 麗華はドレッサーの奥に隠していた、プリベイトのスマートフォンを取り出した。その画面には、登録名のない番号が一つだけ。ほんの一瞬だけためらった後、決然とした表情で、その番号に電話をかけた。「私よ。仕事をお願いしたいの」 電話の向こうの男は、暴力団関係者。犯罪絡みの仕事を引き受ける、有栖川家の裏の顔だ。 麗華は氷にように冷たい声で続けた。「ええ、厄介払いを。後始末は綺麗にお願いするわ。報酬は弾むから、抜かりなくやってちょうだい」 電話を
Komen