LOGIN田中美月は派遣家政婦として働く22歳。真面目で質の高い仕事ぶりが評価されていた。 そんなある日、特別な仕事が舞い込んでくる。 それは日本有数の大企業グループの御曹司、鳥羽翔吾の住み込み家政婦になるというもの。 翔吾は当初、美月に冷たい態度を取り続けるが、彼女の整える温かい家に少しずつ心を開いていく。 だが翔吾は大きな問題を抱えていた。政治家である父の基盤固めのために、望まぬ政略結婚を強いられていたのだ。 「美月さん。君に頼みがある。結婚の話が白紙になるまで、俺の婚約者のふりをしてくれないだろうか?」 思いもよらぬ提案に、美月の運命が大きく動き始めた。
View Moreすべての事件が解決してから、数ヶ月が過ぎた。穏やかな秋の午後のことである。 陽光がたっぷりと差し込む、明るく近代的なキッチン。美月は制服ではなくお気に入りのエプロンを身につけて、楽しそうに鼻歌を歌いながら、今夜の特別なディナーの準備をしていた。 壁には、何枚かの写真が飾られている。少し照れくさそうに笑う、翔吾と美月のツーショット。その隣には、穏やかな表情になった恭一郎を交えた三人の写真。そしてその向かいには、美月が大切に持ってきた、亡き祖父母の笑顔の写真が飾られている。(少し前まで、一人で食事をするのが当たり前だった。でも、今は……『ただいま』と帰ってきてくれる人がいる) 心の底から湧き上がる、確かな幸福感。彼女はもう孤独ではなかった。 仕事を終えた翔吾が、いつもより少し早く帰宅する。彼の表情は、一見すると今でも冷たい。けれど美月を見る時だけは、穏やかで優しい笑みを浮かべるのだ。「美月、少し出かけないか。君を連れて行きたい場所があるんだ」 彼の車が向かったのは、意外なことに、二人がかつて暮らしたあのペントハウスだった。すでに家具はすべて運び出され、がらんとした空間が広がっている。ただ窓の外には、変わらない都心の絶景が夕日に染まっていた。(私たちの『家』だった場所。もう、何もないんだな) 少しだけ寂しい気持ちで、美月は空っぽの部屋を見渡す。翔吾はそんな彼女の手を優しく取ると、リビングの中央へと導いた。「ここを覚えてるか。君が来る前、ここはただの冷たい箱だった。俺にとっては、眠るためだけに帰る場所。『家』だなんて、思ったこともなかった。……いや、ここ以外の場所でも、安らげる家など存在しなかった」 彼は美月に向き直る。夕日が差し込む何もない部屋が、二人だけの特別な空間へと変わっていく。「君が、ここを温かい場所に変えてくれた。君の作る食事、君の整える部屋、君の気配……君がいて初めて、俺は『家に帰る』という意味を知った」 翔吾は続ける。「この場所は、偽りの契約が始まった場所だ。だからこそ、俺たちの本当の物語を、ここから始めたい」 翔吾
翌朝、美月は翔吾の腕の中で目を覚ました。 昨夜、衰弱しきった彼女を一人にできず、彼が自分のベッドで眠らせてくれたのだ。翔吾の穏やかな寝顔と、規則正しい寝息がすぐそばにある。肌で感じられる温もりに、美月は自分が本当に生きて帰ってきたのだと実感した。(翔吾さんが、そばにいてくれる。もう、大丈夫……) これ以上ないほどの安心感に包まれながら、これから始まるであろう最後の戦いを思った。 その日の午後。翔吾は、父・恭一郎とビデオ通話で対峙していた。翔吾の隣には、パートナーとして美月が座っている。「父さん」 翔吾は感情を抑えた声で切り出した。「これが、あなたが鳥羽家の未来のためにと手を組もうとした人間の、本当の正体です」 彼はこれまで、有栖川家の調査で掴んだ数々の汚職の証拠を、表沙汰にするつもりはなかった。事が大きくなりすぎて、父の政治基盤にまで深刻な影響を及ぼす可能性があったからだ。 鳥羽グループのトップとはいえ、民間人である翔吾が政治家を告発する意味は薄い。 だが、麗華が美月の命にまで危害を加えたことで、翔吾の決意は固まった。もはや手加減はしない。有栖川一族を、その根源までも徹底的に断罪する、と。 翔吾は、モニター越しに次々と証拠を突きつける。有栖川家の政治家たちが関与した大規模な汚職の証拠。誘拐を実行した暴力団関係者からの、麗華が直接指示したことを示す全面的な自白。 そして監禁場所での、麗華が美月をサディスティックに脅迫する音声記録。 画面の向こうで、恭一郎は言葉を失った。顔色がみるみるうちに蒼白になっていく。築き上げようとしていた未来が、いかに醜くて危険な砂上の楼閣であったかを、彼はこの時、痛感した。 通話が終わり、一時間後。ペントハウスのインターホンが鳴る。そこに立っていたのは、鳥羽恭一郎本人だった。 彼はまず美月の前に進み出ると、深く頭を下げた。「田中さん……。すまなかった。私の判断の誤りで、君を恐ろしい危険に晒してしまった。本当に、申し訳ない」 そして、彼は息子に向き直る。その目には、涙が浮かんでいた。
絶望の底から這い上がった翔吾は、冷徹な司令官へと変貌していた。彼が個人的に信頼する、元自衛官で構成された危機管理チームが書斎に集結し、ペントハウスは緊迫した空気に満たされている。 モニターには、金の流れを示すデータ、有栖川家が所有する不動産リスト、暴力団関係者の情報などが、目まぐるしく表示されていく。「奴らが使った車両は特定できたか? Nシステムと全ての監視カメラを解析しろ。金の流れから、連中のアジトを絞り込め。時間は無い」 インカムに響く彼の声には、もはや悲しみや怒りといった感情はない。ただ目的を遂行するための、鋼のような意志だけがあった。 一方、麗華が去った後、美月は一人、暗闇と恐怖の中にいた。麗華が突きつけてきた、あまりにも残酷な「選択肢」。その言葉が、何度も頭の中で反響する。 絶望に飲み込まれそうになった時、彼女は翔吾の存在を心の支えにした。(大丈夫。翔吾さんは、必ず私を見つけ出してくれる。あの人は、そういう人だから) 倒された警護員の姿が脳裏をよぎる。翔吾は、もう自分がいないことに気づいているはずだ。(翔吾さん、お願い……無事でいて。そして、私を見つけて……!) 美月は暗闇の中で固く手を組む。ただひたすらに彼の無事と、救出を祈り続けた。 暴力団関係者はプロだった。足取りは巧妙に消されて、警察による公的な捜査は難航している。時間が刻一刻と過ぎていく中、追い詰められた翔吾は、最後の切り札に手を伸ばした。 それは麗華の嫌がらせが始まった頃、万が一に備えるために彼が美月の女性警護員に指示して、普段着のコートの裏地にこっそりと仕込ませておいた、米粒ほどの超小型GPS発信機だった。(彼女の信頼を裏切る行為だと分かっていた。だが、これ以上は時間をかけられない! すまない、美月) セキュリティレベルの最も高いPCを起動し、特殊な追跡アプリケーションを開く。やがてマップ上の一点に、小さな光点が現れた。神奈川県にある、有栖川家が所有するプライベートヴィラ。途中までは追えた犯行の車の足取りと、一致する。「場所は特定した」 インカムに響く翔吾の声は、確信に満ちていた。「警察への通報と同時に、我々も突入する。美月の安全確保を最優先。抵抗する者は、容赦するな」 作戦は、電光石火で行われた。深夜、警察が別荘の正面から陽動をかけると同時に、翔
ペントハウスの書斎は、嵐が過ぎ去った後のように荒れていた。翔吾は、拾い上げた防犯ブザーをただ掌で握りしめ、その場に座り込んでいる。最初の爆発的な怒りと絶望が過ぎ去り、今は重く、冷たい静寂が彼を支配していた。 部屋のモニターには、美月過ごした何気ない日常が、たセキュリティ映像として無音で流れている。笑いながら料理をする姿、帰宅した彼を迎える姿……。(俺のせいだ。俺が彼女をこの世界に引きずり込んだせいで……。俺がもっと強ければ、もっと早く手を打っていれば……!) 激しい自責の念が、彼の心を苛む。しかし美月の笑顔の映像を見つめるうち、彼の悲しみと後悔は、徐々に別の感情へと変質していった。氷のように冷たく、どこまでも研ぎ澄まされた純粋な怒りがふつふつと湧き上がってくる。(……許さない。麗華も、有栖川家も、関わった奴ら全員、絶対に許さない。美月は、俺がこの手で必ず取り戻す) 彼の瞳に、冷たい怒りの炎が灯る。炎は紫がかった瞳を照らし、美しくも苛烈な光を放った。+++ 薬品の気だるさが残る中、美月は目を覚ました。そこは豪華だが人の気配のない、冷たい部屋だった。窓には鉄格子がはめられ、自分が監禁されているという事実を突きつけられる。 最初に心をよぎったのは、恐怖ではなく翔吾への想いだった。(翔吾さん! きっと、心配している。私のせいで、また彼を苦しめてしまう) 次の瞬間、自分がどうなるのかという恐怖が全身を襲う。(どうしよう。私は、どうなるんだろう。殺されるの?) 恐怖にくじけそうになる心に、翔吾がくれた言葉が力強く響いた。『俺が、君の居場所になる』『俺は君を信じている』(ううん、駄目。ここで負けちゃ駄目だ。翔吾さんは、今きっと私を探してくれてる。信じなきゃ。私は、翔吾さんのパートナーなんだから) その想いが恐怖を打ち消して、美月に強さを与えた。 部屋のドアが開いて、麗華が姿を現した。その表情は完全な勝利を手にした者の、傲慢な優越感に満ちていた。「目が覚
昨夜の翔吾の言葉を胸に、美月は新しい決意と共に目を覚ました。彼の「居場所になる」という約束が、彼女に確かな安心感と力を与えてくれている。 リビングに出ると、翔吾はすでに活動を始めていた。しかし、いつもと様子が違う。会社のスーツではなく、動きやすいが上質な私服姿で、書斎のドアを開け放ち、複数のモニターを前に誰かと激しく電話で議論している。 ペントハウスの空気は、もはや静かな住居のものではなかった。反撃の策を練る、司令部の緊迫感に満ちている。(翔吾さん……。本気で、戦ってくれてるんだ) 電話口の相手に、冷徹
スキャンダルが報じられた翌日、ペントハウスは美月にとって重苦しい鳥かごとなった。 翔吾は彼女の身を案じ、安全が確保されるまで外出を固く禁じた。彼は書斎に籠り、ひっきりなしに電話をかけ、弁護士や広報チームと対策を練っている。その背中には、これまで以上の緊迫感が漂っていた。 吉報はなかなか訪れない。それだけ麗華のやり口が巧妙だったのだ。(翔吾さんは、私のために戦ってくれている。なのに、私は何もできずに、ただ守られているだけ。なんて情けないんだろう) 焦りと無力感が、彼女の心を苛む。家政婦として人の役に立つことが、美月のプライドだった。
パーティーから数日。ペントハウスでの生活は、先日の波乱が嘘のように穏やかだった。翔吾は美月とダイニングで食事を共にするのが常となり、仕事の話などを少しずつしてくれるようになった。 ある夜、彼が少し嬉しそうに帰宅した。帰りを待つ美月を見て、初めてはにかむような、自然な笑みを浮かべる。(夢みたい。翔吾さんと、こんなふうに笑い合えるなんて) 彼の笑顔に、美月の心は幸福感で満たされる。(ここが、私の『居場所』なのかな……) この幸せが永遠に続けばいいと、彼女は心から願った。
数日後、翔吾が珍しく険しい表情で美月に告げた。今週末、鳥羽グループが主催するチャリティーパーティーに出席する必要がある、と。「父や有栖川家への牽制のため、我々が順調な婚約者であることを周囲に見せつける必要がある。これは重要な『業務』だ」 彼はあえて『業務』という言葉を使い、あくまで契約の一部であることを強調した。「パーティー!? 私が、翔吾さんの隣に? 無理、絶対に無理ですよ!」 庶民である自分が、きらびやかな社交界に足を踏み入れる。想像しただけで、血の気が引く思いだった。麗華のような、ああいう場所が似合う女性が立つべき場
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