エリート御曹司に買われた花嫁は、やがて唯一の光となる

エリート御曹司に買われた花嫁は、やがて唯一の光となる

last updateDernière mise à jour : 2025-08-28
Par:  黒兎みかづきComplété
Langue: Japanese
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田中美月は派遣家政婦として働く22歳。真面目で質の高い仕事ぶりが評価されていた。 そんなある日、特別な仕事が舞い込んでくる。 それは日本有数の大企業グループの御曹司、鳥羽翔吾の住み込み家政婦になるというもの。 翔吾は当初、美月に冷たい態度を取り続けるが、彼女の整える温かい家に少しずつ心を開いていく。 だが翔吾は大きな問題を抱えていた。政治家である父の基盤固めのために、望まぬ政略結婚を強いられていたのだ。 「美月さん。君に頼みがある。結婚の話が白紙になるまで、俺の婚約者のふりをしてくれないだろうか?」 思いもよらぬ提案に、美月の運命が大きく動き始めた。

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Chapitre 1

01

 若い夫婦が住む、モダンなマンションの一室。ここが田中美月の今日の仕事場だ。

 美月は、リビングの床に散らばったベビー用のおもちゃを、音を立てないように一つ一つ拾い上げていく。ぬいぐるみ、プラスチック製のラッパ、小さな絵本。それらを手際よく収納ボックスに収めながら、隣の寝室へと意識を向けた。

 少しだけ開いたドアの隙間から、母親と赤ちゃんの穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。

(よかった、お二人ともぐっすり眠ってる。今のうちに、できるだけ家事を進めないと)

 掃除機をかけようと思ったが、音がうるさくて起こしてしまうかもしれない。代わりに固く絞った布でフローリングを丁寧に拭き上げることにした。彼女の動きに一切の無駄はない。

 家事代行の顧客である若い母親は、夫が激務で、ほとんど一人で育児をしているのだという。昨晩も眠れなかったと、美月が来たときに疲れ切った顔で話していた。少しでも長く休んでもらいたい。その一心だった。

 リビングの片付けと掃除を終えると、美月はキッチンに立つ。今日の依頼は家事全般と、簡単な食事の作り置きだ。

(温めるだけですぐに食べられるものじゃないと。自分の食事は後回しになっちゃうって言ってたから)

 冷蔵庫にある人参、玉ねぎ、じゃがいも、それから鶏肉。美月はそれらの食材を使って、根菜がたっぷり入ったポトフを作ることにした。コトコトと鍋を煮込むうち、コンソメと野菜の優しい香りが部屋に満ちていく。

 この香りを嗅いだら、少しは元気になってくれるだろうか。食べる相手を思う気持ちが、彼女の料理には常に込められている。

 依頼終了の時刻が近づいた頃、寝室のドアが静かに開いた。料理の香りで目を覚ましたのだろう、母親がそっと顔を出す。彼女は綺麗に片付いたリビングを見回し、目を丸くした。

「すごい……あんなに散らかってたのに。いつの間に」

「起こしてしまってすみません」

 美月が言うと、母親は力なく首を振った。

「ううん、お料理のいい匂いで目が覚めたの」

「温かいポトフ、できていますよ」

 そう声をかけると、母親の目にじわりと涙が浮かんだ。

 母親は、美月の作ったポトフをひとくち食べた。「おいしい……」と呟き、ぽろりと涙をこぼす。「こんなに温かくて美味しいもの、いつぶりに食べたか分からない……」。

 母親は涙を拭うと、美月の手をそっと握った。

「田中さんが来てくれる時間が、私の唯一の救いなの。こうやっておいしいお料理を食べたら、また頑張ろうと思える。本当にありがとう。……美月さんにも、誰かにこうやって優しくしてもらえる、温かい場所があればいいのに」

 その言葉は、美月の胸に静かに深く響いた。

 仕事を終え、美月は自分のアパートに帰り着いた。ドアを開け、返事のない部屋に向かって「……ただいま」と呟く。

 部屋は古いが、よく掃除が行き届いていて、清潔だった。

 小さな棚に飾られた、優しい笑顔の老夫婦の写真。美月は心の中で、亡き祖父母に今日の出来事を報告する。顧客の母親が流した涙と、感謝の言葉。人の役に立てたという満足感が胸を温める一方で、自分自身の孤独を強く意識させられた。

 美月は小さい頃に両親を亡くした。交通事故だった。

 それ以来、祖父母に引き取られて暮らしていたけれど、美月が成人した前後に、祖父母も相次いで亡くなってしまった。近しい親戚もおらず、天涯孤独の身。

 美月が中学生になった頃から、祖父母は体を悪くしていた。だから美月は家事を担ってきた。特に料理は得意で、食べた人がおいしいと言ってくれると幸せな気持ちになる。

 得意な家事を仕事に活かせて、幸運だったと彼女は思う。

 でも。

(私も……誰かに『おかえり』って言ってもらいたいな。温かいご飯を作って、待っててくれる人がいたら……)

 ふと込み上げてきた寂しさに、唇をきゅっと結ぶ。

(……ううん、しっかりしなきゃ! ないものねだりをしても、仕方ないよ。明日も仕事なんだから)

 気持ちを切り替えるように、美月は自分のためにキッチンに立った。今日の夕食は、作り置きで使った食材の残りでこしらえた、シンプルな野菜炒めと豆腐の味噌汁だ。

 小さな食卓に丁寧に並べられた、一人分の夕食。手を合わせ、「いただきます」と小さく呟く。シャキシャキとした野菜の甘みが口に広がる。その味と温かさが、一日の疲れと心の寂しさを、じんわりと溶かしていくのだった。

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ぷっかりん
ぷっかりん
寂しい御曹司に暖かい家庭をあげて!頑張って仕事してるのに追い詰められて可哀想…
2026-03-29 12:53:41
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01
 若い夫婦が住む、モダンなマンションの一室。ここが田中美月の今日の仕事場だ。 美月は、リビングの床に散らばったベビー用のおもちゃを、音を立てないように一つ一つ拾い上げていく。ぬいぐるみ、プラスチック製のラッパ、小さな絵本。それらを手際よく収納ボックスに収めながら、隣の寝室へと意識を向けた。 少しだけ開いたドアの隙間から、母親と赤ちゃんの穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。(よかった、お二人ともぐっすり眠ってる。今のうちに、できるだけ家事を進めないと) 掃除機をかけようと思ったが、音がうるさくて起こしてしまうかもしれない。代わりに固く絞った布でフローリングを丁寧に拭き上げることにした。彼女の動きに一切の無駄はない。 家事代行の顧客である若い母親は、夫が激務で、ほとんど一人で育児をしているのだという。昨晩も眠れなかったと、美月が来たときに疲れ切った顔で話していた。少しでも長く休んでもらいたい。その一心だった。 リビングの片付けと掃除を終えると、美月はキッチンに立つ。今日の依頼は家事全般と、簡単な食事の作り置きだ。(温めるだけですぐに食べられるものじゃないと。自分の食事は後回しになっちゃうって言ってたから) 冷蔵庫にある人参、玉ねぎ、じゃがいも、それから鶏肉。美月はそれらの食材を使って、根菜がたっぷり入ったポトフを作ることにした。コトコトと鍋を煮込むうち、コンソメと野菜の優しい香りが部屋に満ちていく。 この香りを嗅いだら、少しは元気になってくれるだろうか。食べる相手を思う気持ちが、彼女の料理には常に込められている。 依頼終了の時刻が近づいた頃、寝室のドアが静かに開いた。料理の香りで目を覚ましたのだろう、母親がそっと顔を出す。彼女は綺麗に片付いたリビングを見回し、目を丸くした。「すごい……あんなに散らかってたのに。いつの間に」「起こしてしまってすみません」 美月が言うと、母親は力なく首を振った。「ううん、お料理のいい匂いで目が覚めたの」「温かいポトフ、できていますよ」 そう声をかけると、母親の目にじわりと涙が浮かんだ。 母親は、美月の作ったポトフをひとくち食べた。「おいしい……」と呟き、ぽろりと涙をこぼす。「こんなに温かくて美味しいもの、いつぶりに食べたか分からない……」。 母親は涙を拭うと、美月の手をそっと握った。「田中さんが来てく
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02
 翌日の昼過ぎ、美月は派遣会社の事務所を訪れて、昨日の業務報告書を提出していた。所長は報告書に目を通しながら、人の良さそうな満面の笑みで顔を上げる。「田中さん、昨日のお客様、朝一番でお電話くださったのよ。『田中さんのおかげで、久しぶりに人間らしい時間が過ごせた』って。涙声で、本当に感謝していたわ。これからもぜひ田中さんを、ってお願いされちゃった」「そうですか……。よかったです」(よかった。少しでも、あの人の力になれたんだ) 美月はにっこりと微笑んだ。 自分の仕事が誰かの救いになった。その事実が、胸を温かいもので満たす。これこそが、この仕事の一番のやりがいだった。「田中さんは、いつもお客様からの評判がいいのよね。仕事は真面目で、腕もいい。これからもよろしくね」「はい、もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」 その日の午後に訪れたのは、都心で働く単身のキャリアウーマンの部屋だった。 部屋はミニマルでよく片付いているが、どこか生活感に乏しい。今回の契約には、掃除と洗濯に加え、「簡単な食事の作り置き」が含まれていた。 キッチンを確かめると、ゴミ箱に捨てられたコンビニの容器が山盛り。顧客の多忙な生活を物語っている。冷蔵庫の中も、栄養ドリンクとミネラルウォーターがほとんどを占めていた。(これでは、体を壊してしまう。契約は『簡単な食事』だけど、少しでも栄養のあるものを食べてほしいな) 祖父母の健康を気遣っていた頃の癖で、つい相手の体のことを考えてしまう。美月は顧客のライフスタイルを想像し、最適なメニューを頭の中で組み立てていった。(温め直すだけで美味しく食べられて、野菜がたくさん摂れるもの。何がいいかしら) 買い物を代行した新鮮な野菜と、冷蔵庫にあった冷凍の鶏肉を使い、手際よく調理を始める。鶏肉の照り焼き、彩り野菜のきんぴら、ひじきの煮物。甘辛い照り焼きの香ばしい匂いが、殺風景だったキッチンに温かい生活感をもたらしていく。 完成した料理を、美月は一つ一つ保存容器に詰めていく。容器には、料理名と温め方を書いた小さな付箋を丁寧に貼り付けた。 冷蔵庫に綺麗に並べられた数々の作り置き。単なる「仕事」として作られたものを超えて、食べる相手の健康を願う美月の温かい心が形になったものだった。 仕事帰り、美月は公園のそばを通りかかった。夕暮れの優しい光の
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03
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04
 まだ薄暗い中で、美月は目を覚ました。 一瞬だけここがどこかわからなくて、すぐに思い出した。 ここは鳥羽翔吾のペントハウス。美月は昨日から住み込み家政婦として、寝泊まりすることになったのだ。 慣れないベッド、しんと静まり返った空気。家政婦用として与えられた部屋は清潔で機能的だったが、彼女のアパートにあったような手作りの温かみはない。 窓の外には、朝焼けに染まり始めた空と、宝石のようにきらめく都心のビル群が広がっている。息を呑むほど美しい、しかしどこか現実感のない景色だった。 美月はぱりっと糊のきいた制服に着替え、鏡の前でぎゅっと唇を結んだ。(今日から、ここが私の職場であり、家になる。大丈夫、いつも通りやればいいんだわ) プロとしての矜持が、彼女の不安を打ち消していく。失敗は許されない。でも、私の仕事は家を綺麗にして、住む人が心地よく過ごせるようにすること。それは、どこでも同じはずだ。 リビングに出ると、家はまだ静寂に包まれていた。翔吾の気配はない。 美月はまず、家全体の空気を入れ替えるために、そっと窓を開ける。ひんやりとした朝の空気が流れ込んできた。 キッチンカウンターの上には、一枚のメモが置かれている。翔吾の筆跡であろう、無機質で美しい文字。『朝食はブラックコーヒーのみ。夕食は不要。掃除と洗濯は必要に応じて』。 広いキッチンは最新式の調理器具が揃っているが、使われた形跡はほとんどなかった。冷蔵庫を開けると、その中身はミネラルウォーターと高級なコーヒー豆、そして栄養補助食品の類が数本だけ。生活の匂いが全くしない。(本当に、ここで生活しているのかしら。家というよりも、要塞みたい) そのあまりの無機質さに、美月は胸が詰まる思いがした。(夕食はいらない、か……。ちゃんと、食べているのかしら) つい、彼の健康を心配してしまう。 メモの指示は最低限のものだったが、美月は自分の仕事をそれだけで終わらせるつもりはなかった。(ただ言われたことをやるだけじゃ、プロの家政婦とは言えないわ。お客様の心を汲み取ってこそ) 翔吾が起き出す前に、美月は指示通りに完璧なブラックコーヒーを淹れた。そして、ほんの少しだけのおせっかい。小さなガラスの器に彩りよくカットフルーツを盛り合わせ、そっと添えておく。 翔吾が起き出してきた。「おはようございます」 挨拶
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05
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06
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07
 その夜、美月はベッドに入ったものの、全く眠ることができなかった。 天井をぼんやりと見つめながら、翔吾の言葉を何度も頭の中で反芻している。『俺の婚約者のふりをしてほしい』。あまりにも現実離れした言葉。そして、その言葉を口にした時の、彼の必死な瞳。(私なんかに、そんな大役が務まるわけがない……) 鳥羽グループの御曹司の婚約者。彼の家族や、本来の婚約者だという女性に会う。マスコミの取材だって来るかもしれない。考えただけで、心臓が縮み上がる思いだった。(でも、あの時の鳥羽様の顔……本当に追い詰められていた。今まで見たことのない、助けを求めるような目だった) 彼の孤独が、自分の孤独と重なる。あの氷のような仮面の下で、彼もまた一人で戦っている。(あの人も、私と同じ。ただ温かい家庭が、安らげる居場所が欲しいだけなのかもしれない……) 彼を助けたいという気持ちと、自分には不相応だという気持ちが、天秤の上で揺れ動いていた。   結局ほとんど眠れないまま朝を迎えて、美月は少しぼんやりとした頭で仕事の準備をしていた。その時、スマートフォンの通知音が鳴る。開いてみると、先日まで担当していた、育児中の母親からのメッセージだった。家事代行の事務所から転送されてきたのだ。『田中さん、その節は本当にありがとうございました。おかげさまでゆっくり休めて、昨日、初めて息子を連れて夫と三人で公園に行けたんです。田中さんは、本当に私の救い主です』 感謝の言葉と、赤ん坊の可愛らしい写真が添えられている。そのメッセージを読んだ瞬間、美月の心にもやがかかっていた霧が、すうっと晴れていくようだった。(そうだ。私は、誰かの役に立てるのが嬉しいんだ。おじいちゃんとおばあちゃんにも、そう教わったじゃない) 彼女の心に、静かだが固い覚悟が決まる。(鳥羽様を助ける……。それは、私が家政婦としてできる、一番大きな『おせっかい』なのかもしれない
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08
 契約を結んだ翌朝、キッチンの空気は昨日までとは明らかに違っていた。静かではあるが、どこかぎこちない緊張感が漂っている。 美月は約束通り、栄養バランスを考えた和朝食を準備した。湯気の立つご飯、焼き鮭、丁寧に巻かれただし巻き卵、そして具沢山の味噌汁。 やがてスーツ姿の翔吾がダイニングに現れて、自らテーブルの席についた。約束どおりとはいえ、初めてのことだ。彼は無言で、一品一品を確かめるように食事を進めて、すべてを綺麗に平らげていく。(よかった、ちゃんと約束を守ってくれてる) 美月はほっと胸をなでおろした。けれど同時にこれから始まるであろう未知の日々を思い、不安が胸をよぎる。(本当に私に、婚約者のふりなんてできるのかな……) 食事を終えた翔吾は、ぽつりと言った。「……美味かった」「お粗末様です」 と美月が答える間もなく、彼は続ける。「今日、今後の打ち合わせをする。夕食後、リビングに」 部下に仕事を指示を出すような、事務的な口調だった。   日中、翔吾が仕事で不在の間、美月は家事をこなしながらも心は落ち着かなかった。休憩時間になると、スマートフォンを手に取って、震える指で検索窓に文字を打ち込む。『鳥羽翔吾』『有栖川麗華』。 画面には、きらびやかな世界の写真が並んでいた。パーティーで完璧な笑みを浮かべる翔吾。その隣で、自信に満ち溢れた輝くような美女、麗華が寄り添っている。 経歴を見れば、非の打ちどころのないエリート官僚。一流大学を優秀な成績で卒業後、上級資格を取って財務省入りしている。 有栖川家の系譜を辿れば、有力な政治家や官僚、学者などが多く名を連ねていた。 美月の学歴は高校まで。大学に行く余裕はなかったし、奨学金を取るほどの成績でもなかった。 当時は病気で弱っていく祖父母の面倒を見るのに必死で、日々を過ごしていた。(麗華さん……なんて綺麗な人。それに、す
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09
 決戦の日の午後。 美月は与えられた自室で、翔吾が用意したシンプルだが上質なワンピースに着替えながら、落ち着かない時間を過ごしていた。頭の中では、昨日暗記した『偽りの設定』がぐるぐると回っている。(どうしよう、心臓が口から飛び出しそう……。私なんかが、鳥羽様のご子息の婚約者だなんて、絶対にすぐバレてしまう) 鏡に映る自分は、あまりにも普通で、これから会うであろう人々とは不釣り合いに思えた。「でも、これは翔吾様を助けるための仕事。私がしっかりしないと!」 震える手で、ぎゅっとスカートを握りしめる。 リビングに出ると、スーツ姿の翔吾が待っていた。美月の緊張を見透かしたように、低い声で言う。「余計なことは考えるな。相手は敵だと思え。君はただ、俺の隣で頷いていればいい」 その言葉は冷たく響いたが、彼女の役割を単純化してくれるものでもあり、美月の心は少しだけ軽くなった。   都心の一等地に佇む、格式高い料亭の個室。部屋に通された瞬間、美月は息を呑んだ。 重厚な木のテーブルを挟み、翔吾の父である鳥羽恭一郎、そして有栖川麗華とその父、有栖川芳正がすでに着座していた。空気が鉛のように重い。 恭一郎は、翔吾をさらに鋭く厳しくしたような顔立ちの、威厳のある男だった。 麗華は、写真で見た以上に華やかな美女。美月を一瞥すると、まるで値踏みでもするかのように冷たい視線を向けた。(空気が重い。これが、翔吾様がいつも戦っている世界) 美月は、法廷に呼び出された被告人のような気分になった。練習した通り、背筋を伸ばして完璧な角度でお辞儀をする。 翔吾は動じることなく、美月を促して席につかせると、静かに口を開いた。「父さん、有栖川さん。こちら、俺が結婚を決めた、田中美月さんだ」 食事が運ばれてくるが、会話は麗華が主導する、美月への尋問のようだった。「田中美月さん、でしたね」 麗華は作り物めいた笑みを浮かべ、口火を切った。
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10
 滑るように走るドイツ製の高級車の中で、美月と翔吾は並んで座っていたが、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。 ハンドルを握る翔吾は、固い表情で前だけを見つめている。その指が、革のステアリングを強く握りしめているのが見て取れた。車内には、低いエンジン音だけが響いている。 窓の外を、都心のきらびやかな夜景が流れていく。しかし、美月の目には何も映っていなかった。頭の中では、麗華の冷たい言葉と、自分を守るために激昂した翔吾の姿が何度も再生されていた。 逆光に照らされた翔吾の横顔は、まるで彫刻のような美しさ。美月はいつものことながら、気後れを感じた。(翔吾様、私のためにあんなに怒ってくれた。偽物の婚約者なのに……) 彼の行動に、契約関係以上のものを感じてしまい、心臓が戸惑うように高鳴る。(でも、彼の立場を、もっと悪くしてしまったんじゃないだろうか。あんなに、お父様と対立してしまって) 感謝と同時に、自分が彼の重荷になっているのではないかという罪悪感が押し寄せてきた。   ペントハウスに戻ると、張り詰めていた緊張感がどっと体にのしかかってくる。疲労のあまり、美月はすぐにでも自室に引っ込みたかった。だがその前に、どうしても言わなければならないことがあると感じた。 彼女は翔吾に向き直り、深く、深く頭を下げる。「本日は、申し訳ありませんでした。私のせいで、翔吾様にご迷惑をおかけしてしまって」「君が謝ることじゃない」 翔吾は、美月の言葉を遮るように言った。その声は、いつもよりずっと穏やかだった。「悪いのは俺と、俺の家の問題だ。――それより君こそ、大丈夫か?」 美月は弾かれたように顔を上げる。彼の瞳が、初めてまっすぐに自分を、そして自分の心を気遣っている。そうと気づいて、堪えていたものが込み上げてきた。 堰を切ったように、目に涙が滲む。慌てて手の甲で拭い、ぶんぶんと首を横に振った。「は、はい、大丈夫です。翔吾様……翔吾さんが、
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