Tous les chapitres de : Chapitre 81 - Chapitre 90

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新しい日々の始まり PAGE8

『そうなの。彼を社長に任命したのもパパだったんだって。若い頃はどっちがママのハートを射止められるか争ってたらしいよ』 僕はその逸話をすでに知っていたが、初耳だったふりをして「へぇ……、そんなことが」と相槌を打っていると、電話の向こうから「その話はもう時効だから続けないでほしい」という加奈子さんの声が聞こえてきた。「――それはともかく、明後日は朝十時から就任会見が開かれるんですね。スピーチの原稿は用意しておいた方がよろしいですか?」 僕は気を取り直し、これが秘書としての初仕事だと考えて絢乃さんにお訊ねした。 篠沢グループほどの大企業グループで新会長就任の記者発表が行われるとなれば、当然TVやネットなどで生中継されるはずである。それだけ世間の注目を集めるトピックスなのだ。そんな公の場で、絢乃さんに恥をかかせるわけにはいかなかった。 だって、彼女の会長デビュー=僕の秘書としての初陣だったのだから。『そうだなぁ、わたしとしてはあった方が気持ち的に助かるけど。大まかな内容で作っておいてくれたら、あとは自分で考えて話すから』 それはいかにも彼女らしい答えだった。僕もこれまで何度も彼女のスピーチや記者会見などを側で拝見してきたから分かるのだが、絢乃さんは自分のお言葉を大切にされる方だ。誰かが書いた原稿どおりに話しても、ご自身が本当に伝えたいことは伝わらないから、きちんとご自分の言葉で伝えたいのだと。お父さまも生前そうされてきたように。――それが彼女の信条なのだという。「かしこまりました。では、簡単な内容の原稿だけ、僕の方で作成しておきます」 とはいえ、すべて彼女に丸投げでは僕の仕事がなくなってしまうし、彼女も負担が重いだろうと思ったので、僕はそう答えた。すると、「ありがと。じゃあよろしく」という感謝の言葉が返ってきた。  電話を終えると、ちょうどケトルのお湯が沸騰していた。僕は昼食のうどんをすすり終えるとすぐ、座卓の上でノートPCを開いた。さっそく絢乃さんのためのスピーチ原稿を作成しようと思い立ったからだ。「善は急げ」というヤツである。 彼女がどんなお気持ちで会長就任を決められたのか、またどういう覚悟を持って高校生活との二刀流に挑まれるのかを僕はすでによく理解していたので、それを文字に落とし込めばいいだ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-30
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新しい日々の始まり PAGE9

   * * * * ――その翌日の朝、珍しい人物から連絡があった。同期入社の久保である。僕が異動してからも同じ社内にはいるのだが、こうして連絡を取り合うことはなくなっていたのだ。『――よう、桐島! 久しぶり!』「久しぶり、ってなぁ。先代の社葬の時にも会ったじゃん」 僕は呆れてツッコんだ。三日前に会ったばかりなら「久しぶり」とは言わないだろう。『ん……、まぁそうなんだけどさぁ。あん時はゆっくりしゃべるヒマなかったじゃん? お前忙しそうだったし。おたくの小川先輩から聞いたよ、お前が会長秘書になったって』 小川先輩と久保は入社当時から顔見知りだったので、ヤツが彼女から聞いたことも僕は不思議に思わなかった。「うん、そうなんだよ。で、明日が俺と絢乃会長の初陣』『らしいな。でさ、その就任会見の司会進行、オレがやることになったからよろしく』「……………………はぁっ!? なんでお前が?」 僕は自分の耳を疑った。記者会見の司会は普通、広報課の仕事のはずなのに。なぜ総務課所属の久保が!? まさか、あの課長が仕事を横取りしたのか!?『うんまぁ、こっちにも色々と事情があんのよ。細けぇことは気にすんな?』「……………………あっそ」 ところが、久保には答えをのらりくらりとはぐらかされたので、僕には何だかそれ以上追及する気が失せた。『――とにかくそういうことだからさ、明日はよろしく。新会長さんにもよろしく言っといてくれよ』「へいへい、伝えとく。じゃあな」 僕は一方的に電話を切ったが、久保からの折り返しはなかった。 この時、僕は出かけようとしていたのだった。クリスマスプレゼントに絢乃さんから頂いたネクタイに合う色のスーツを新調しに、紳士服店まで。 僕が持っていたグレー系のスーツに、あのネクタイは合わない。せっかく正式に秘書就任が決まったので、新しいスーツ姿でビシッと決めて初陣に臨もうと決めていたのだ。 愛する人の側で、カッコいい僕でいるために――。 
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オフィスラブ、スタート! PAGE1

 ――そして迎えた、絢乃会長就任会見の当日。僕はおろしたての真っ白なワイシャツとまっさらな濃紺のスーツ、そして絢乃さんから贈られた赤いストライプ柄のネクタイでビシッと決め、黒いコートを羽織ってアパートを出た。足元はこれも新品の、ブラウンの革靴だ。  この日は朝九時ごろに、篠沢邸まで絢乃さんと加奈子さんの親子をお迎えに行くことになっていた。 すでに愛車となっていたシルバーのセダンを運転して、篠沢邸のカーポートに到着したのは九時少し前だった。「――おはようございます。桐島です。お迎えに上がりました!」 インターフォンを押し、「はい」と彼女のキレイな声で返事があったので張り切ってそう伝えた。「すぐに出られるから待ってて」と言われて待っていると、ほんの数分でお二人が出てこられた。……が、コートの下はおそらくグレーのパンツスーツである加奈子さんに対して、絢乃さんの黒いピーコートの下からは裾に赤い一本線の入った膝丈のブルーグレーのスカートが見えていた。このスカート、見覚えがあるけどまさか……?  それを確かめる前に挨拶を交わすと、絢乃さんが「あ、そのスーツ……」と僕の新品のスーツに気づいて下さった。「ああ、これですか。絢乃さんがプレゼントして下さったネクタイに合わせて新調したんですよ。どうです、似合いますか?」 僕は気づいてもらえたことが嬉しくて、彼女からのプレゼントだったネクタイに手をやった。彼女は「すごくカッコいい」と褒めて下さったが、まさかスーツを新しく買うとは思っていなかったと驚かれ、「それ高かったんじゃない?」と心配して下さった。  僕は「量産品なのでそんなにかからなかった」と答えたが、実はそれでも三万円くらいかかっていた。ちょっとばかり痛い出費である。一応、ダメもとで経費で落としてもらえないかと領収書はもらっておいたのだが。「それならいいんだけど。桐島くん、その時の領収書かレシートがあったら、その分絢乃に清算してもらえるわよ」 加奈子さんがサラッとすごいことを教えて下さった。目からウロコが落ちるとはこのことかと思った。というか、小川先輩が言っていた「会長秘書だけの特別待遇」ってこのことだったのか……!  でも、特別待遇はそれだけではなかった。送迎にかかった交通費やガソリン代も、経理部を通さず会長から直接清算されるのだという。つまり、僕の
last updateDernière mise à jour : 2025-10-01
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オフィスラブ、スタート! PAGE2

 このシステムは、今は亡き源一前会長が始められたらしい。が、それ以前の歴代会長も社員たちのために色々な工夫をして下さったと聞く。たとえば、秘書室と会長室からそれぞれ伸びる給湯室への通路。これも、絢乃会長のお祖父さまが秘書の負担を軽減するために設計してもらったのだとか。 きっと絢乃会長も、この先僕たち社員が働きやすくなる工夫を色々として下さるに違いない。「へぇ……、それは助かります。会長秘書って仕事量も多そうですけど、それに見合ったメリットもあるわけですね」 僕は彼女に心から感謝している。もちろん会長秘書だけの特権に関してもそうだが、僕にここまでやる気を漲らせて下さったことにも。 思えば僕が男女問わず、誰かのために一生懸命に何かをしようと思ったのは、絢乃さんに対してが初めてだった。本気で恋をしたらそう思えるようになるのだと、この時初めて分かったのだ。 クルマを買い換えたのも、スーツを新調したのも、すべては絢乃さんをお支えするためだったのだから。「そう。たからこれから一緒に頑張ろうね!」「はいっ! では、車内へどうぞ。ここでは寒いですから」 僕はお二人を、暖房を効かせたクルマの後部座席へ誘導した。 そして、実は内心、早く絢乃さんに助手席にも乗って頂きたいなぁと思っていた。   * * * * 僕はクルマをスタートさせる前に、絢乃さんたちにIDカードを手渡した。それはネックストラップ付きのパスケースに入れてあって、それぞれ絢乃さんと加奈子さんのカタカナ表記のお名前と十二ケタのナンバーが刻字してある。 僕たち社員が携帯している社員証とほぼ同じものだが、社員証に入っている顔写真がないところが大きな違いだろう。 絢乃さんの会長ご就任が決まってすぐ、我がグループ傘下の〈篠沢セキュリティ〉から発行されたもので、僕はその前日、スーツを買いに行った帰りにカードができたと連絡を受け、その足で受け取りに行ってきたのだった。「紛失されると再発行の手続きが面倒なので、くれぐれも失くされないようにお願いします」 お二人に言ったこの言葉は、実は僕自身の本音でもあった。受け取りに行った時、セキュリティ会社の担当の人からイヤというほど念を押されてウンザリしたからだ。「分かりました。失くさないように気をつけるね」 絢乃さんが苦笑いしながらもそうおっしゃって
last updateDernière mise à jour : 2025-10-03
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オフィスラブ、スタート! PAGE3

 ふとルームミラーに視線を移すと、絢乃さんは視線を落としてスカートの裾のラインを見つめておられた。車内ではコートを脱がれていたので、僕にも彼女の制服姿の全身がはっきりと見え、彼女がどんな想いでこの日、この服装を選ばれたのか僕にも理解できた。 彼女は意志の強い女性だが、やっぱり少なからず迷いや心配はあったのだろう。それは少し憂いを帯びた彼女の表情から窺い知ることができた。「――ところで絢乃会長。そのお召し物は……、通われている学校の制服……ですよね」 僕がそのことを指摘すると、彼女は「ん? そうだよ」と顔を上げられた。きっと、僕からご自分の服装がどのように見えているのか気にされていたのだろう。もしかしたら、批判的な目で見られているのではないか、と。 でも、僕には彼女の覚悟が手に取るように分かったし、お亡くなりになった彼女のお父さまと約束したのだ。僕はいつでも絢乃さんの味方でいると。「……それが、あなたの並々ならぬ覚悟の表れということですね。どんな批判も甘んじて受け止める、と」 もちろん、そうなった時は彼女一人に非難を浴びせるつもりはなく、秘書である僕も一緒にと思っていた。それくらいしか、彼女をお守りする術を知らなかったのだ。 彼女は僕に「理解してもらえて嬉しい」とおっしゃった。やっぱり、秘書である僕に反対されたらどうしようかと気を揉まれていたらしいので、ご自身の信念を受け入れられたことを喜ばれたのだと。「まぁ、いくら反対したところで無駄なんだけどね。この子、あの人に似て頑固だから」 加奈子さんのこの辛辣なコメントに絢乃さんは困惑し、僕も「何もそこまでおっしゃらなくても」と思ったが、絢乃さんからの反論がないところを見るにこれは図星だったのだろうか。 僕も正直心配ではあるが、秘書の立場でボスがお決めになったことに異議は唱えられない。だからできる限り応援はしたいと自分の気持ちをお伝えすると、絢乃さんは花が咲いたような明るい表情で「ありがとう!」と言って下さった。「――では、そろそろ参りましょうね」 出発まで少し時間がかかってしまったが、僕は丸ノ内へ向けてクルマを発進させたのだった。 しばらく走らせたところで、僕は練習していた秘書らしい口調で、ちゃんとスピーチの原稿を用意しておいたので会見前に確認してほしい、と絢乃会長に言った。 僕とし
last updateDernière mise à jour : 2025-10-03
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オフィスラブ、スタート! PAGE4

「大丈夫ですよ。僕はこう見えて、けっこうメンタル強いんで。そうでもなければ、僕はとっくに会社を辞めてます」 絢乃会長を安心させたくて、ついそんなことまで言ってしまった。 前の部署で、あんな上司の下で散々こき使われてきて、お前はよく会社を辞めずにいられたなと自分で自分に感心してしまう。何人もの同僚や先輩たちが退職していくのを身近で見てきたにもかかわらず、だ。やっぱり僕はメンタルが強靭にできているのだろうか。 でも、大好きな女性のためならどれだけ大変な仕事も苦に思わない。これはもう、愛の力としか言いようがないだろう。 それに対して絢乃さんが「桐島さん、前の部署で相当ひどい目に遭ってたんだね」と表情を曇らせておられると、加奈子さんが横から「なになに、何の話?」と口を挟まれ、首を傾げられた。加奈子さんはどうやら、総務課のパワハラの事実をご存じなかったらしい。ということは亡き源一前会長もそうだったということになる。 絢乃さんからその話を一通りお聞きになった加奈子さんは「う~ん」と唸った後、「あら……、あなた苦労してたのねぇ」と眉をひそめられた。「多分、あの人も知らなかったんじゃないかしら。知っていたらもっと早く助けてあげられたのに」 加奈子さんのこの言葉から、やっぱり先代はパワハラのことを把握されていなかったのだと僕は理解した。そして、彼がご自宅では会社や仕事に関する話題を避けておられたのだとも。 とはいえ、僕は異動したことで島谷課長との接点がほぼなくなり、完全に彼のターゲットからは外れたようなので、僕の中ではもう終わったも同然だった。「いえいえ、お気になさらず。もう終わったことですから」 少なくとも自分ではそう思っていて、自分にそう言い聞かせていたので、もう蒸し返してほしくなかったというのが本音だった。 それよりも、この先絢乃会長の姿勢が世間からどのように評価されるのか、ということの方が僕には重要だった。「――そういえば、今日の会見はTV中継されるだけでなくネットでも同時配信されるそうですよ。そしたら絢乃会長は一躍有名人になりますね」 そうなのだ。僕もその朝、久保から電話で聞かされて驚いた。 ネットで配信されるということは、TV中継だけされる場合よりも世間的に注目を集めるということ。ネット社会の現代では、昨日まで一般人だった人が一
last updateDernière mise à jour : 2025-10-04
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オフィスラブ、スタート! PAGE5

 加奈子さんも「母親として鼻が高い」と悪ノリして盛り上がっていらっしゃったが、絢乃さんはそのことに苦言を呈しておられた。「グループの評判が上がるのはいいけど、わたし個人まで有名になっちゃうのはちょっと……」と。 そして、それは僕も同感だった。彼女が大企業のトップとして表舞台に立つことは僕も秘書として大賛成だったが、有名人になってしまうことで彼女が妬みの対象となることは避けたかったのだ。 ボスである絢乃さんのスケジュール管理は、僕の仕事になる。万が一捌ききれない数の取材を受けてしまうとその皺寄せは僕に来てしまう、つまりは自分で自分の首を絞めてしまうということを意味していた。 だから、彼女から「受ける取材の数は最低限に絞ってほしい」と懇願された時、僕はこう答えたのだ。 「分かってますよ。あなたが忙しくなりすぎたら、秘書である僕自身の首も絞めることになってしまいますからね。そこはこちらでどうにか調整します」 「よかった! ありがとう!」  絢乃さんは満面の笑みで僕にお礼の言葉をおっしゃった。……そう、僕は彼女がこうしていつも笑顔でいられるようにしたいと思っていたのだ。お仕事中でもそれは変わらない。小川先輩の請け売りだが、それこそが僕の会長秘書としての〝愛〟なのだから。 「僕は秘書として、あなたに気持ちよくお仕事をして頂けるよう、これから色々な工夫をしていこうと考えてます。――絢乃さん、コーヒーお好きですよね?」  これも先輩から仕入れた情報だったが、僕は絢乃会長にこんな質問をしてみた。 彼女がそれに対して「どうして知ってるの?」と首を傾げられたので、僕は小川先輩から聞かされた
last updateDernière mise à jour : 2025-10-05
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オフィスラブ、スタート! PAGE6

 絢乃さんは顔を綻ばせながら「それは楽しみ」とおっしゃったが、その前に少しの間があった。もしかしたら、これが僕の夢だったのだとお気づきになったかもしれない。 そうこうしているうちに、窓の外にJR東京駅の赤レンガ造りの駅舎が見えてきた。篠沢商事の本社ビルまではあと数分、というところだった。   * * * * ――入構ゲートをくぐった後、記者会見の行われる二階大ホールへ向かうエレベーターの中で、僕は絢乃さんにさりげなく司会進行役が久保であることを伝えた。「……ああ、何となく憶えてるかも。ちょっと軽い感じの人だよね、確か」 彼女もお父さまの社葬の時、彼が司会を務めていたことを憶えておられたようで、その時のヤツに対する彼女の評価がコレだった。……久保、お前、絢乃さんからもチャラチャラしてるって思われてるぞ。「……う~ん、確かにアイツはちょっとチャラチャラしてますよね。特に妙齢の女性に対しての態度が」 僕もその辛辣なコメントに賛同した。入社した時からの長い付き合いなので、ヤツの女性遍歴はよく知っていた。今の彼女と付き合うまでにも色々あったのだ。そんな男なので、絢乃さんにも色目を使ったりしやしないかと、僕は不安で仕方がなかった。「――っていうか、司会って広報の人がやるんじゃないんだね」「確かに、そこは僕も不思議なんですよね。もしかしたら元々は広報の仕事だったのに、総務課長が手柄を横取りしたのかもしれません。あの人ならやりかねない」 絢乃会長も僕と同じ疑問を口にされた。 久保は結局そのあたりの経緯を話してくれなかったので、僕は一番あり得るだろう可能性を持ち出して苦々しく吐き捨てた。 彼女に島谷課長の話をしたことは一度もなかったが、僕のこの毒舌から彼が一体どういう人物なのかを彼女も想像できたのではないだろうか。 ただ、あくまでもこれは可能性の問題であって、後から違うと分かったのだが。「目立ちたがりの久保が自分から名乗りを上げたかもしれない」と僕が言うと、絢乃さんは「なるほど」と曖昧に頷かれただけだった。 そこで僕が彼女について分かったことは、彼女が親族を除く誰かのことを、決して悪く言わない人だということだった。 彼女は相手を貶したり、傷付けるようなことを決して言わないのだ。それは彼女の生まれ持った性
last updateDernière mise à jour : 2025-10-06
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オフィスラブ、スタート! PAGE7

 ――僕は絢乃会長と加奈子さんのお二人をステージ側面のドアからホール内へ誘導し、バッグとコートをお預かりした。 スピーチの原稿は「この内容で大丈夫」とすぐにOKを頂いたが、絢乃さんはカーテンで仕切られた向こう側にズラズラと詰めかけていた大勢のメディア関係者に緊張されているようで、制服のスカートの裾をギュッと握りしめられていた。「――絢乃さん? もしかして緊張されてます?」 僕はあえて「会長」とはお呼びせずにお名前で呼び、彼女に声をかけた。会長としてのプレッシャーと必死に戦っておられる人を追い詰めてしまうようなことはしたくなかったのだ。 すると、彼女は会場にあるカメラの向こうにいるであろう何万人、何十万人という人たちのことを気にされているようだった。元々人前に出ることがあまり得意ではなく、パーティーの締めの挨拶で少しは克服できたものの、さすがにあの時とケタ違いの人々から注目されている状況は怖くてたまらなかったのだろう。「う~ん、なるほど……。僕、こういう時によく効くおまじないを知ってますよ。よろしければお教えしましょうか?」 子供の頃から極度のあがり症だった僕にも彼女の気持ちはよく理解できたので、僕は彼女に母直伝のおまじないを伝授して差し上げようと思い立った。大人になった今では、ちょっとバカバカしいとも思っているので少々恥ずかしくもあったが。「はい。子供の頃に、母から教わったベタなおまじないなんですけど。『目の前にいるのは人間じゃなく、カボチャだと思え』だそうです」「カボチャ……。確かにベタだね」 それを聞いた途端、彼女は朗らかに笑い出した。母さん、やっぱりこのおまじない、ベタベタすぎるって……。でも、絢乃さんが笑って下さったからいいか。 そして多分、彼女の中で僕の好感度は爆上がりしたはずだ。別に計算したわけじゃないが。「ありがと、桐島さん。もう大丈夫! 貴方のおかげで、おまじないなしでもやれそうな気がしてきた」 僕の想定とは違う形ではあるものの、彼女の緊張を解すことができたので、僕の秘書としてのスタートは上々と言っていいだろう。特別何をしたというわけでもないが。 司会進行を務める久保の呼びかけを受け、加奈子さんとお二人でステージへ向われる新会長の背中はすごく頼もしく見えた。
last updateDernière mise à jour : 2025-10-06
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オフィスラブ、スタート! PAGE8

 絢乃新会長の就任スピーチを、僕はステージ横で見守っていた。 時に原稿どおりに、時にはご自身の言葉で語られる彼女の姿は本当に凛々しく、それは彼女だけでなく僕も待ち焦がれていた瞬間だった。彼女はまさに、この瞬間のために生まれてきた人なんだと思えた。 僕が驚いたのは、亡き源一氏が絢乃さん個人に宛てた(後から知ったことだが加奈子さん宛てのもあったそうだ)遺書を遺されていたことで、その存在については僕も知らされていなかった。 そこには、絢乃さんのご意志で会長の職を誰かに譲ってもいいと書かれており、まだ高校生だった彼女が会長としての重責に縛られることを源一氏は望んでいなかったのだと僕も初めて知った。彼女はそれでも会長としての責務を立派に果たしていくと明言され、加奈子さんも母親としてそんなお嬢さんを全力で支えていきたいと語られていた。 その後の質疑応答でも、絢乃会長は一つ一つの質問に――時には少々意地の悪い質問もあったが――丁寧に受け答えされていた。その姿からは、二刀流を果たしていくことへの覚悟がポーズだけではないことをひしひしと感じ取れた。 そんな彼女に、僕は「お疲れさまでした」の気持ちを込めて心からの拍手を送った。   * * * * ――会見が終わった後、加奈子さんは「今後の打ち合わせがあるから」と、先に村上社長とご一緒に重役フロアーである三十四階へ上がって行かれ、僕と絢乃さんは二階にしばらく留まっていたのだが。絢乃さんは無事に司会の任務を終えた久保のところへ駆け寄って行った。 ……一体、ヤツに何をおっしゃる気だろうか。僕は彼女が他の男に声をかけに行ったのが正直面白くなかったので、半ばイヤイヤながら彼女について行った。「――あ、久保さん。司会進行お疲れさまでした!」「会長! お疲れさまです。桐島も。わざわざどうされたんですか?」 突然雲の上の人から声をかけられた久保は、普段の彼からは想像もつかないくらいピンと姿勢を正していた。お前、普段はそんなんじゃないだろ。っていうか桐島「も」って何なんだ。人をオマケみたいに言いやがって。「貴方の進行がよかったおかげで、記者会見がスムーズにできました。ありがとうございました。父もよくこうして社員の頑張りを労っていたそうなんで、わたしもそれに倣ってみたんです」 彼女がどうしてコイツに声をか
last updateDernière mise à jour : 2025-10-08
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