松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。心音がわざと自分の少女を追い払ったのだと決めつけたのだ。彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」一分目、心音は、五年間の真一への片想いを思い返す。彼女が真一の秘密の恋人となり、貧しく平凡な容姿の彼女が、立場のないまま、名家の医薬一族に生まれた彼と付き合っている。二分目、日下家は卒業後すぐに政略結婚を押し付けたが、真一は心音の手を取り、役所で婚姻届を出した。三分目、心音が妊娠したが、日下家は認めず、真一は心音を連れて家を出て、翔を生んだ。四分目、真一は友人の姪を養女に迎え、その子が二十歳の誕生日の夜、心音は彼がその少女に注ぐ抑えきれぬ愛情を見てしまう。五分目、真一と由梨がベッドで絡み合う姿が、心音の脳裏に焼きついて離れなかった……真一は手を放した。二十年近く身につけていた数珠は、もう彼の手首にはなかった。その数珠は、かつて心音でさえ触れることを許されなかったもの。それが今、由梨の足首に飾られていたのだ。真一の瞳は凍りつくほど冷たく、微塵の温もりもない。「心音、最後にもう一度聞く。由梨はどこにいる?」心音の喉は痛み、耳には翔の泣き声が突き刺さる。「ママ、助けて……」海風が頬を打ち、彼女が痛みに涙が滲む。「お前は息子を死なせたいのか?」胸が痛み、呼吸さえ苦しい。心音は涙に濡れた瞳で彼を見上げた。「真一、翔はあなたの息子よ。彼の命で私を脅すなんて」だが彼の唇から吐き出されたのは冷酷な言葉だった。「由梨もまた、俺の命なんだ」心音の涙が頬を滑る。由梨が彼の命なら、自分と息子は一体なんなのだろう。「由梨さえ戻れば、お前は変わらず俺の妻だ」心音は感情を必死にこら
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