松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。 冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。 彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。 五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。 真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」
View Moreその眉と目は心音にとてもよく似ていた。真一の喉からかすれた声が漏れる。「翔!」翔は静かに言う。「ママは風馬おじさんと中で結婚したんだよ。パパ、北木市に帰って」真一の瞳には深い苦痛が浮かぶ。分厚いガラスを何度も拳で叩きつけた。「ありえない。心音は俺を愛してる。翔、頼む、扉を開けてくれ。パパはママに会いたいんだ、どうしても会いたい」だが翔は首を振った。「パパ、ここには入れないよ。扉を開けたのが僕の限界なんだ。まさか七年も諦めずにママを探し続けるなんて思わなかったけど」翔は真一が信じないと思い、タブレットを取り出した。そこに映っていたのは心音が風馬の胸に抱かれ、顔を伏せた彼女に、風馬が口づけを落とす映像だった。その瞬間、真一の目は鋭く痛みに歪んだ。激しく咳き込み、血が口からこぼれ落ちる。そうか。愛する人が他の男と一緒になる。それを映像で突きつけられることが、これほどまでに苦しいとは。心音が感謝から風馬を受け入れるかもしれない、そう考えたことはあった。だが本当に心を失い、風馬を愛するようになるとは思いもしなかった。彼女が風馬を見つめる目の輝きは、彼にとってあまりにも見覚えのあるものだった。そのきらめくような眼差しで、彼女はまる九年もの間、彼を見つめ続けてきた。けれど由梨が現れてから、少しずつ、少しずつ消えていったのだ。真一は咳を止められず、血がガラスに飛び散った。翔は慌てて叫ぶ。「パパ!パパ」朦朧とする意識の中、真一は幻のように心音を見た。どうにか目を開けようと力を振り絞る。心音が顔を上げ、真っ直ぐに彼の瞳を見返した。七年、それは二人が七年ぶりに視線を交わした瞬間だ。翔は今度は母に懇願した。「ママ、お願いだよ。パパを中に入れてあげて」「駄目よ。ここは研究室だから」「じゃあ僕が外に出る」心音は気づいていた。七年の間、翔がひそかに監視映像を開き、真一の姿を見ていたことを。だがそれを口にすることはなかった。「翔、外に出たらもう二度と戻って来られないのよ。わかってるの?」翔の瞳に涙がにじむ。「ママ、僕はパパを許したんだ。彼をこれ以上放っておけない。外に出て一緒にいるよ。あと二十三年したら、ちょうど大人になった。僕がママを迎えに来る」結局、心音は翔を引き止められなか
研究室の中、心音はやって来た風馬を見つける。「どうしてあなたまでここに来たの」翔は嬉しそうに手をぱちぱち叩いた。「わかった、わかったよ。風馬おじさんはママに会いたくて来たんだ」風馬は口元をわずかにゆるめた。「賢い子だな。翔、ママにちゃんとご飯を食べるよう言ってるか?」「もちろん言ってるよ」風馬は視線を上げ、心音を見つめた。「真一が来てる」心音はその言葉を静かに聞き流した。「風馬、私は彼と離婚したの。もう何の関係もない。あなたがここに入ったら、もう二度と外へは出られないのよ」風馬は頷いた。「うん、俺にとって一番大切なものはここにある。だからもうどこへも行かない」心音の鼻先が震え、胸が痛んだ。告白の言葉を聞いても、どう受け止めればいいのかわからなかった。あの頃、彼女の目には真一しか映っていなかった。幼い頃から一緒に育ってきた風馬が、ずっと密かに想ってくれていたことなど考えもしなかった。心音は風馬の胸に身を寄せた。「ありがとう、風馬くん」その呼び方が胸に刺さる。心音が真一と出会ってからは、もう二度と呼ばれることがなかった。真一が彼女と彼との距離を近づけることを許さなかったから。そのうち二人の関係は自然と遠のき、彼は分を守り続けてきた。真一が目を覚ましたのは、北木市の病院だった。爆発のせいで鼓膜が破れ、耳がまったく聞こえなくなっていた。祖父が必死に話しかけても、真一には何も聞こえなかった。なんと自分の孫が耳が聞こえなくなってしまった。やがて医師が来て診察を終えると告げた。「お祖父様、真一さんの鼓膜は完全に破れ、さらに内耳まで傷が及んでいます。残念ですが、聴力は回復しないでしょう。外の音を聞くには人工内耳をつけるしかありません」かすれた声で真一が呟いた。「じいちゃん、俺はもう耳が聞こえないんだな。けど、心音を見つけたんだ。俺は行く」真一はベッドから降り、ふらつきながらも病室を出ていった。祖父の部下たちが止めようとする。だが真一は赤く充血した目で祖父を見据えた。「止めないでくれ、心音を失ったら、俺にはもう何もいらない。会社だって」そのまま真一は去り、すべての覚悟を決めていた。ヘリに乗り込み、あの島へ直行する。だが再び島に着いてみると、あの鉄の扉は消えていた。残っていたのは
「彼女の両親は海洋研究者だった。研究のために命を落とした。二人の願いはただひとつ、娘が平穏に生き、結婚して家庭を築くことだった。お前に出会い、結婚して子を授かったのは、まさにその願いどおりだ。だが心音は、この十年間、一度も海洋研究を諦めていない。彼女が決してお前に触れさせなかった研究があった。それは海洋を浄化する薬だ。あの子の決意と冷静さ、そして強さは、お前には到底及ばぬものだ。北木市でお前と暮らすことを選んでくれたのは、すでにお前の幸運だった。それを、お前は大事にできなかった」真一の涙は痛みに濡れていた。喉が焼けつくように苦しい。「じいちゃん、頼む。心音をあそこに行かせたくない。三十年なんて、あまりにも長すぎる」「助けられん。わしもその場所がどこか知らんのだ」真一が必死に縋りつく。「じいちゃん、お願いだ。方法があるはずだ、助けてくれ!」だが祖父は深く息を吐く。「真一、お前はすでに心音を裏切った。なぜこれ以上、縛ろうとするのだ」「彼女は俺の命だ」それでも祖父は首を縦には振らなかった。真一は地に膝をつき続ける。広大な人脈を持つ祖父に、どうしてもすがるしかなかった。三日三晩、ただひたすらに跪き続けた。ついに祖父は一本の電話を入れる。だが、通話を終えるとただ首を振った。「真一、無駄だ。彼女はもう去った。翔も連れてな。そこは完全に隔絶された世界だ。外界の通信も届かず、扉は閉ざされる。三十年後にしか開かん。仮に見つけても、その海に続く道を開くことはできん」真一は狂気に堕ちた。会社の莫大な資金を投じ、心音の行方を追った。だが三か月も経たぬうちに会社の資金繰りは悪化し、かつて二人で研究した特許の半分以上を心音が担っていたこともあり、火事で研究室を失ってから、彼ひとりでは成果を再現できなくなっていた。日下グループは急速に傾いていく。祖父は売却を迫ったが、真一は拒み続けた。そんな折、「心音の消息と引き換えに、持つ株式を要求する」という人物が現れる。真一はその条件を呑んだ。現れたのは目黒風馬(めぐろ ふうま)だった。「真一。俺は心音の友人、目黒風馬」真一はその名を知っている。かつて心音を想っていた男だ。風馬は静かに言い放つ。「彼女は話さなかったのか?俺と彼女は幼馴染で、この十年、
真一の手から、由梨のスマホが床に叩きつけられた。冷え切った瞳が彼女を射抜く。その眼差しには殺意しかなかった。「由梨!」真一は立ち上がり、彼女の喉元をわしづかみにする。「言ったのはお前だ。俺の愛人になるって。心音には絶対に知られないようにするって。俺の家庭を壊さないって、誓ったのはお前だ」首を絞められる苦しみに顔を歪めながらも、由梨の瞳には涙と笑みが混じる。「真一、あなたが欲しい。どうして愛人で満足できる?私は妻になりたいの」全身を震わせるほどの怒気を押さえきれず、秘書を呼ぶ。「由梨と心音のLineもInstagramも、すべての監視映像を調べろ」その言葉に由梨の顔色が変わった。「真一、何もしてない。本当に、何も……」だが記録に残されていたのは残酷な真実だった。家での口論、由梨が翔に平手打ちを浴びせ、心音が二度、彼女を叩き返した。ふたりきりのとき、わざと鎖骨をのぞかせたり、体の痕を見せつけたりして、心音に彼の裏切りを直接見せつけていた。さらに、由梨は腎不全などではなかった。彼女の狙いは心音の腎臓。そして真一はその腎臓を移植するため、車を心音にぶつけさせ、気づかれぬまま腎臓を奪った。真一の頬を涙が伝う。「医師に命じろ、心音の腎臓を取り返せ。そして由梨の腹の子も」秘書が由梨の体を押さえ込む。由梨は必死に暴れ、叫んだ。「真一、やめて、お腹の子はあなたの子よ。どうして要らないなんて言えるの?おじさんに、私を守るって約束したじゃない!お願い、傷つけないで」だが真一の瞳は冷たかった。「傷つけないで?お前は俺の妻と俺の息子を傷つけた。雨宮家がまともに育てなかったなら、俺が裁く」泣き叫ぶ声を残し、由梨は引きずられていく。「真一、心音を裏切ったのはあなたじゃないの!私のせいにしないで。最初から私みたいな女が好きだったんでしょ。私が現れたから欲を抑えられなくなっただけ!全部、あなたが心変わりしたからよ」真一の声は冷え切っていた。「違う。愛してきたのはずっと心音だ。お前に重ねていたのも心音の影。お前を愛したことなんて一度もない」「嘘よ。真一、あなたは私に優しかった。全部を与えてくれたじゃない!心音にはそんなふうにしたことない」「それは、心音に振り向いてほしかったからだ。お前を
「日下さん、松永様はもうすぐあなたの妻ではなくなります」真一の怒りはさらに燃え上がった。「お前なんかただの弁護士だ!北木市で俺と心音の離婚訴訟を受ける奴がいると思ってるのか」弁護士は名刺を差し出した。「日下さん、失礼しました。松永様の事情と、私の立場をお伝えしていませんでしたね」名刺に刻まれた肩書きを見た瞬間、研究畑の人間である真一は、その意味を誰よりも理解した。国の最高レベルの研究チーム。そこに属する者たちは、すべて国家に仕える人間だ。つまり、彼が拒否したとしても、離婚手続きを成立させる権限を持っている。「彼女は、どこへ行った?」「松永様は、これから誰のものでもありません。彼女は海に属する人間です」真一の全身が震えた。そこに入れば、三十年経たなければ出られない。どうしてそんなことができる。どうしてあんな酷い選択を。彼は離婚協議書を握り潰し、引き裂いた。弁護士は一切動じず、立ち上がった。「承知しました。本日中に離婚届を発行します。これで松永様と日下さんは、完全に赤の他人です」立ち去ろうとする弁護士を、真一が遮った。その目には狂気が宿る。「国家だろうが誰だろうが、俺の妻も息子も奪わせない。彼らは俺のものだ」弁護士は淡々と告げた。「松永様は自らの意思で行かれました。誰にも強制されていません。それにあなたは女のために、自分の息子を殺しかけた。法律的に見れば、松永様は殺人未遂の罪で訴えることが可能です。その一点だけで、あなたは永遠に翔君の親権を得られません」弁護士は去っていった。真一は力が抜け、床に倒れ込んだ。鈍い音が響き渡り、部屋中が震えた。彼は夢を見た。初めて心音と出会った日の夢だった。彼女は醜いアヒルの子のように、大人しく隅に座っていた。真一が椅子に腰掛けると、彼女はそっと彼を盗み見た。分厚い眼鏡の奥から覗く瞳には、驚きと憧れが浮かんでいた。そうだ。心音は自分の顔に恋をしたのだ。それ以来、授業のたびに彼女はこっそり視線を向けてきた。その視線に、彼は酔っていた。彼女からの初めての贈り物は、青い海のキーホルダーだった。心音がおずおずと手を差し出した。「今日が誕生日よね。これ、私のお気に入りなんだ。あげる」あの時、真一は気づかなかった。彼女は自
上階の炎はますます激しくなり、下の部屋には水が滴り落ち始める。少しずつ、彼と心音の家が壊れていく。真一はその光景を見つめ、再び階段を登っていった。研究室の火はようやく消えた。だが、室内は焦げ臭さと煙の匂いで満ちていた。彼はしばらく、ただ茫然と立ち尽くしていた。消防士が声をかける。「日下さん、中のものは救えませんでした。ただ、人命に被害はありません」真一は一歩、また一歩と研究室に足を踏み入れる。目に映るのは、面影すら失った研究室。数えきれない日々と夜、そこには自分と心音の姿があった。ここで愛し合い、ここで共に働いた。二人の全てが、ここにあった。どうして、俺たちはこんなふうになった?由梨のせいか?そうなのかもしれない。だが、そうではないのかもしれない。浮かぶのは、涙を流す由梨の顔。けれど心の奥に残るのは、心音の顔ばかり。彼は心音が泣くのを見たかった。十年間、彼女は決して弱さを見せなかった。いつも冷静で、静かに彼を支え続けた。最初に彼を想ってくれたのも心音だった。彼女はただ黙って彼のそばにいた。彼がほしいものは、すべて与えてくれた。彼が空腹になれば、心音は黙って察し、わずかな金で、高い弁当を買ってくれた。友人との喧嘩では、彼をかばい、殴られそうになった拳を受け止めた。彼が彼女を求めた夜、慣れていないのに、体を委ね、涙を一度だけ流した。それが彼女の最初で最後の涙だった。その後は、彼と共に起業し、子を産み、決して涙を見せることはなかった。強さは冷酷に見えるほどで、まるで鋼鉄のようだった。彼のために全てをしたのに、一度も「疲れた」とは言わなかった。だから、彼は試したのだ。彼女が自分を必要とするかどうかを。だが、心音の唯一の弱点は息子だけ。彼は忘れていた。自分自身もまた、彼女の弱点だったことを。由梨が現れたとき、本来なら養うつもりなどなかった。金を与えて、誰かに任せればよかった。だが、彼は由梨を家に連れ帰った。案の定、由梨が生活に入り込むと、心音は反応を示した。彼と由梨が親しくなるほど、心音の瞳には変化が現れた。心音が嫉妬している。それが嬉しかった。だが、やがて制御不能となり、由梨の涙に心を乱され、本当に惹かれてしまった。そして心音を
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