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雪が降りしきる頃には、すでに白髪となっていた

雪が降りしきる頃には、すでに白髪となっていた

By:  桃入りCompleted
Language: Japanese
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松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。 冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。 彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。 五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。 真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」

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Chapter 1

第1話

松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。

冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。心音がわざと自分の少女を追い払ったのだと決めつけたのだ。

彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。

五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。

真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」

一分目、心音は、五年間の真一への片想いを思い返す。彼女が真一の秘密の恋人となり、貧しく平凡な容姿の彼女が、立場のないまま、名家の医薬一族に生まれた彼と付き合っている。

二分目、日下家は卒業後すぐに政略結婚を押し付けたが、真一は心音の手を取り、役所で婚姻届を出した。

三分目、心音が妊娠したが、日下家は認めず、真一は心音を連れて家を出て、翔を生んだ。

四分目、真一は友人の姪を養女に迎え、その子が二十歳の誕生日の夜、心音は彼がその少女に注ぐ抑えきれぬ愛情を見てしまう。

五分目、真一と由梨がベッドで絡み合う姿が、心音の脳裏に焼きついて離れなかった……

真一は手を放した。二十年近く身につけていた数珠は、もう彼の手首にはなかった。

その数珠は、かつて心音でさえ触れることを許されなかったもの。それが今、由梨の足首に飾られていたのだ。

真一の瞳は凍りつくほど冷たく、微塵の温もりもない。「心音、最後にもう一度聞く。由梨はどこにいる?」

心音の喉は痛み、耳には翔の泣き声が突き刺さる。「ママ、助けて……」

海風が頬を打ち、彼女が痛みに涙が滲む。

「お前は息子を死なせたいのか?」

胸が痛み、呼吸さえ苦しい。心音は涙に濡れた瞳で彼を見上げた。

「真一、翔はあなたの息子よ。彼の命で私を脅すなんて」

だが彼の唇から吐き出されたのは冷酷な言葉だった。「由梨もまた、俺の命なんだ」

心音の涙が頬を滑る。由梨が彼の命なら、自分と息子は一体なんなのだろう。

「由梨さえ戻れば、お前は変わらず俺の妻だ」

心音は感情を必死にこらえながら言う。「真一、由梨のために翔を殺すなんて、信じられない。それに私は彼女を傷つけてなんていない」

真一は冷たく言う。「五秒以内だ。言わなければ翔は海に投げ込まれ、鮫の餌になる」

「5……4……3……」

男が本気で動こうとするのを見て、心音は耐えきれなかった。「由梨はM国のBK音楽学院にいる」

心音がその場に崩れ落ちた。彼は本当にやるのだ。由梨のためなら、息子すら捨てる。

心音は涙で曇った瞳で、真一がすぐにスマホを取り出して電話をかける様子を見つめた。男は明らかに焦っていた。「ヘリを回せ!M国へ飛ぶ」

彼はもう心音を見ることもなく、ひたすらスマホに目を落とした。

心音は震える手で砂を握る。

この十年間、彼を支えてきたのは自分だった。研究成果も、事業も、彼の背後にはいつも心音がいた。

彼が日下グループを一から築き、研究を捨て、会長となった。その薬の開発のため、心音は24時間研究室に籠もり続けた。

彼女の努力で成功を掴み、日下グループは旧来の日下家と肩を並べる巨大製薬企業となった。

その夜、彼は彼女を抱き寄せ、首筋に愛おしげな口づけを落とした。

「心音、お前は俺の骨だ。血に溶け込んだ存在なんだ」

心音は、すべてが良い方向に向かっていると思っていた。彼女は自分が彼の傍らに立つ資格があることを証明でき、日下家の人々も彼女の成果を認め、近年ようやく彼女を受け入れ始めていた。

しかし、結末はこうだった。真一は再び、自分より九歳も年下の娘に心を奪われてしまった。その娘は何も知らず、世間ずれもしておらず、無邪気で彼にまとわりついては、甘えた口調で際限なく囁く。

「真一、今日は一緒にいて」

「真一、この問題が解けないの。教えて」

「真一、チェロのコンクール、絶対来てね。来なきゃ演奏しないから」

「真一、あなたが大好き」

甘えることも、告白することも、心音は一度もしたことがなかった。

真一はなんと、心音の目の前で、あの日常生活さえまともに送れない由梨に心を奪われてしまった。由梨は彼に捧げられ、寵愛されることを求め、彼もまたそれを苦にすることむしろ喜びとしていた。

ヘリはすぐに到着し、真一は息子の船が戻るのも待たずにM国へ飛び立った。

遠ざかるヘリを見つめながら、心音は彼に電話をかけ続けたが、全て拒否された。

心音は真っ先に彼にメッセージを送った。【息子はいつ戻るの?】

【三時間後だ。心音、由梨は友人に託された娘で、俺をおじさんと呼んでいる。俺には責任がある】

その言葉に、心音は惨めに笑った。

責任?

心音がスマホをしまおうとしたその時、画面にさらにメッセージが表示された。

【心音、私が真一を愛しているって何が悪いの?彼だって私と一緒にいたいって言ってる。それに激しく愛し合っているんだから。とっくにあなたへの情熱は冷め切っているのよ。彼に縋りついて離さないのはあなたの方でしょ】

【今日、彼はまた私を迎えに来た。ホテルで一緒に過ごしたの。彼は私のウサギの衣装をすごく気に入ってくれた】

【……】

添付されたエロ映像。そこには、真一の狂おしい愛が生々しく映し出されていた。

心音はスマホを閉じ、海辺に座り込み、息子の帰りを待った。

涙は海風に乾き、もう流れるものはなかった。

かつては真一を愛してさえいればよかった。

浮気を知った時も、男は刺激を求めるだけだと思った。息子がいる、家庭を守らねばと思った。

だが、もう無理だった。

彼女は幼い頃から孤独で頼るものもなく、父母の愛情も、親族の愛も知らずに育った。本当の愛を見つけられたと思ったのに、今、またすべてが消えた。

彼女はスマホの契約書を開いた。

これはかつて、日下グループの上場のために彼女が署名した離婚協議書だった。

持ち株も、婚姻も、全て放棄するという内容。

当時、上場直前、日下家のお祖父様が彼女に直接言い渡したのだ。「松永さん、これにサインすれば、わしが会社の上場を手伝ってやる。真一がG港での上場を目指しているだろう。わしの助けがあれば、日下家に匹敵する企業に育て上げられる」

心音は日下家の人々を安心させ、真一のためにと、密かにこの協議書に署名した。

彼が自分を見捨てるはずがないと信じていたからだ。しかし今、全てが変わってしまった。

しばらくして、心音はまたメッセージを送る。

【承知しました。オーシャンゲートへの参加を同意します】

そこは世界最高峰の海洋医療研究チーム。選ばれた人材は、海底に30年閉じ込められ、研究に捧げねばならない。

ただ一つの条件は、息子の翔を連れて行くこと。

そうすれば、真一はもう二度と彼女と息子を見つけられない。
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第1話
松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。心音がわざと自分の少女を追い払ったのだと決めつけたのだ。彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」一分目、心音は、五年間の真一への片想いを思い返す。彼女が真一の秘密の恋人となり、貧しく平凡な容姿の彼女が、立場のないまま、名家の医薬一族に生まれた彼と付き合っている。二分目、日下家は卒業後すぐに政略結婚を押し付けたが、真一は心音の手を取り、役所で婚姻届を出した。三分目、心音が妊娠したが、日下家は認めず、真一は心音を連れて家を出て、翔を生んだ。四分目、真一は友人の姪を養女に迎え、その子が二十歳の誕生日の夜、心音は彼がその少女に注ぐ抑えきれぬ愛情を見てしまう。五分目、真一と由梨がベッドで絡み合う姿が、心音の脳裏に焼きついて離れなかった……真一は手を放した。二十年近く身につけていた数珠は、もう彼の手首にはなかった。その数珠は、かつて心音でさえ触れることを許されなかったもの。それが今、由梨の足首に飾られていたのだ。真一の瞳は凍りつくほど冷たく、微塵の温もりもない。「心音、最後にもう一度聞く。由梨はどこにいる?」心音の喉は痛み、耳には翔の泣き声が突き刺さる。「ママ、助けて……」海風が頬を打ち、彼女が痛みに涙が滲む。「お前は息子を死なせたいのか?」胸が痛み、呼吸さえ苦しい。心音は涙に濡れた瞳で彼を見上げた。「真一、翔はあなたの息子よ。彼の命で私を脅すなんて」だが彼の唇から吐き出されたのは冷酷な言葉だった。「由梨もまた、俺の命なんだ」心音の涙が頬を滑る。由梨が彼の命なら、自分と息子は一体なんなのだろう。「由梨さえ戻れば、お前は変わらず俺の妻だ」心音は感情を必死にこら
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第2話
国境のない場所へ行くために、心音は自らの研究成果を持ち出さなければならなかった。だが研究データもサンプルもすべて研究室の中にある。研究室を開けるには、彼女と真一、二人の指紋とパスワードが必要で、同時に認証しなければ扉は開かない。やがて、心音は翔を迎えた。翔の顔は涙に濡れ、疲れ果てて眠り込んでいた。心音はその額にそっと口づけた。「翔、ママと一緒に行く気はある?」翔のまつげが震え、母を見つめて泣きながら答える。「ママ、僕はもう少しで海に落ちるところだったんだよ」五歳の子供であっても、もう分かっている。自分を連れて行ったのが父の秘書だったことも。心音の瞳に涙が滲む。「翔、これからはパパはいないけど、ママと一緒に来てくれる?」小さな腕が母の首に回り、しっかりと抱きついてきた。「ママがいるなら、翔もいる」心音は翔を連れて研究室へ行く。彼女の指紋とパスワードで高層フロアまでは入れる。だが扉は開かなかった。ガラス越しに見えるのは、コンピュータと数々のサンプル。この実験の全てのデータは、彼女ただ一人が開発したものだ。これこそが、彼女がどうしても持ち去らなければならない唯一のものだった。「ママ、どうするの?パパがいないと扉が開かないよ」心音は、研究室を造った当時、真一が、彼女の指紋を登録し、パスワードを教えてくれたあの日のことを思い出す。真一が彼女を抱きしめ、耳元で囁いた。「心音、このパスワードは俺に教えるな。俺のもお前に教えない。ここには会社の宝が眠っている。俺たち二人が揃わなきゃ開かない。そうすれば、俺たちは永遠に繋がって、離れない」愛し合う二人にとって、それは互いに依存する証だった。だが愛が消えた時、それは互いを警戒するための最良の仕組みに変わる。真一、五年前、この日を想像したか。結局、心音は研究室を開けられなかった。彼女は翔を連れて二階の会社の住居へ戻る。長年、由梨が現れるまでは、心音と翔は会社で暮らしていた。その後、彼女たちは別荘を買い、家族らしい生活を始めたのだ。ここにある全てのものは、由梨が現れる前に心音と翔が手ずから整えたものだった。心音は自分の持ち物を片っ端から整理する。真一が買ってくれた物、自分が真一に贈った物、こっそりと買ったペアの品。翔もまた、自分の荷物を整
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第3話
目の前で真一の裏切りを見てしまった瞬間、心音の胸はえぐられるように痛んだ。彼女は翔を抱きかかえて部屋へ運び、ベッドに寝かせる。必死にあやしながら言った。「翔、三日だけ待って。三日後には必ず出て行こう。その間に部屋の荷物を少しまとめてね」翔は真剣にうなずいた。それを見届けてから、心音は静かにドアを閉めた。廊下には真一が立っていた。その瞳は冷たく陰鬱で、声も低く重い。「書斎で話そう」書斎に入った心音の目に映ったのは、以前とはまるで違う光景だった。真一の書斎には由梨の痕跡が残されるようになっていた。ソファやカーペットには由梨の髪飾りやアクセサリー、楽譜やお菓子が散らばっている。かつてここは、彼女と真一が研究データや未来の研究方向を語り合った場所だった。いつの間にか全てが変わってしまっていた。あの頃、妊娠中で疲れ果てて彼の肩に寄りかかり、眠り込んでしまったことがあった。目を覚ました時、真一は彼女の額にそっと口づけて言った。「心音、無理するな。お前と子どもが俺の未来だ。お前たちが元気でいてくれなきゃ、俺も生きられない」あの時、全ての努力が報われると信じていた。なぜなら真一が彼女に家と温もりを与えてくれたから。しかし書斎に入った瞬間、真一が分厚い資料の束を心音に投げつけた。それは、すべて手書きの反省文や供述書。「心音、これは学校から届いた報告だ。由梨をいじめた生徒たちの自白。金を受け取ってやったと。送金元を追ったら、最後に出てきたのはお前の口座だった」心音は一言も発しなかった。真一は冷たい声で言い放った。「離婚はしない。今回の件は由梨を落ち着かせるが、二度と彼女を俺のそばから離すことはない。もしおまだ俺と一緒にいたい、この結婚を続けたいと思うなら、これ以上、邪魔をするな」心音はもはや説明する気力さえ失っていた。彼女は必死に気持ちを押さえ、静かに切り出す。「真一、明日、時間を作れる?研究室に一緒に入ってほしい。前回のデータに不具合が出て、確認が必要なの」仕事の話とあって、真一の眉がわずかに動いた。「午前中は由梨を病院に連れて行く。傷跡が残らないよう治療しなきゃならん。その後、昼食を一緒に食べて、午後なら行ける」なるほど、彼女はずっと最後に回されていたのだ。以前は気づかなかったが、今なら、は
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第4話
心音は動画を再生した。そこには真一にドレスを引き裂かれ、必死に抵抗する自分の姿が、鮮明に映し出されていた。彼の冷酷な仕打ちも、自分の狼狽も、すべてが捉えられていた。画面下には無数のコメントが流れていた。【いつも黒のスーツ姿で堅物ぶってたけど、実は相当だらしない女だったんだな】【この体、この腰の細さ、これなら日下社長が結婚したのも納得だ】【俺はあの脚すき!細くて真っ直ぐで、弄ぶのに最高だろ】【胸は……目測でDかな】【うわ、ヤバ……】下卑た言葉の数々が心を抉る。その時、スマホが鳴った。通話に出ると、耳に届いたのは真一の冷たい声だった。「心音、ネットに出回ってる写真は誰も救ってやらない。方法は一つ。自分の金で一枚ずつ買い取れ」続けざまに彼は言い放った。「これは由梨を傷つけた代償だ。俺は彼女の叔父に説明する義務がある」通話は切られた。心音は震える指で口座を開く。残高は1億円強、それは五年間、日下グループから支給されていた給与の全額だった。そう、ただの給料だ。彼女には会社の株はなく、配当金はすべて真一の元に管理されていた。ただ一枚、彼から預けられたブラックカードがある。彼女は信頼できる友人に、1億円とそのカードを託し、ネット上の写真や動画を買い取ってほしいと頼んだ。しかし、動画を公開しているブロガーたちは法外な値段を要求してきた。彼女の1億円では、わずか7サイト分しか買い取れなかった。友人がブラックカードで支払いを試みる。最初の1回はカードが使用できた。だが、2回目の支払いで、カードは凍結されてしまった。「心音、このカードもう使えない!彼らは応じてくれない。残りの動画は数十億円なければ、買い取れない」心音はそのカードを見つめた。会社が上場した日に、真一が手渡してくれたものだった。「心音、このカードには限度がない。お前がお金に困ることは一生ない。俺が養うから」視界がぼやけ、涙がブラックカードの上に落ちた。この五年間、彼女は会社に住み込みで働き、ほとんど消費はしてこなかった。会社から給与も支給されていたため、心音はこのカードを使うことは一度もなかった。たった一度使おうとしたその時、カードはたった一回の使用しか許してくれなかった。頭の中は由梨の
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第5話
「由梨、翔が高熱を出してるの。真一に代わって!」「ふふ、ちょうどいいじゃない。あんたの息子がバカになってくれれば。言っておくけどね、心音、私もう真一の子を妊娠してるのよ。お腹の子こそが日下グループの後継ぎ。あんたの息子なんて、バカのままでいればいいの」電話は無情に切られた。再びかけ直しても、もう繋がらない。心音は腕の中でますます熱くなる息子を抱きしめ、全身が震えた。すぐに野村へ電話をかける。野村が不安げに言う。「奥様、申し訳ありません。旦那様の命令です。誰一人、あなたや若様に水一杯でも届けたら、即刻解雇されると」通話はまた切れた。彼女の瞳には痛みがあふれていた。スマホのバッテリー残量が残り5%しかないのを見て、彼女は息子をそっと地面に降ろした。全身で馬小屋の木の扉に体当たりした。一度、二度、数え切れないほど繰り返す。骨が砕けそうな痛みに襲われても、決してやめなかった。そして、何百回目かの衝撃で、ついに扉が開いた。指一本持ち上がらないほどに痛みで痺れていたが、それでも息子を抱き上げ、必死に外へ駆け出す。「翔、頑張って、ママがすぐ病院へ連れて行くから」すでに翔の意識は薄れ、返事すらない。心音の涙がこぼれ落ちた。「翔、絶対にママが助けるから」心音は車を運転できない。屋敷の誰も助けてくれない。夜中に頼れるのは真一しかいない。必死に屋敷へ駆け込み、息子を抱いて真一の部屋の扉を開けると、そこには、由梨を優しく抱きしめる真一の姿。一瞬、彼の瞳に動揺が走ったが、すぐに冷たく言った。「由梨が悪夢を見たから、慰めていただけだ」二人のあまりに親密な光景に、心音がもはや心は何も感じなかった。「真一、翔を病院へ、高熱なの」真一にはまだ良心が残っていた。やって来て、翔が本当に高熱を出しているのを見ると、すぐに翔を抱き上げ病院へ向かおうとした。だがその時、由梨が泣き叫んだ。「おばさん、なんて酷い人なの、どうして翔を傷つけるようなことばかりするの?わざと熱を出させて、真一に心配させたいの」この言葉を聞いた真一の顔は曇った。彼はすぐに翔を再び心音に押し戻す。「わざと息子を使って俺の同情を引こうとしたのか?自分で招いた結果なら、自分で連れて行け」真一は頑として聞き入れようとしない。心音の
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第6話
「手術の同意書はすべて署名済みだ。心音の腎臓と由梨のマッチングは成功してる。由梨は急性腎不全で、絶対に失うわけにはいかない」「ですが腎臓を一つ摘出すれば、奥様は気づきます」「なら、永遠に知られなければいい。手術痕について聞かれたら、交通事故の傷だと説明すれば済む」体を動かしたいのに、まったく力が入らない。瞼を開けることすらできない。皮膚が切り開かれ、臓器を奪われ、縫い合わせていく感覚をはっきりと感じ取った。心音の脳裏に蘇ったのは翔を身ごもった記憶だった。真一が膝をつき、優しくお腹に口づけてくれた。その低い声には、深い愛が溢れていた。「心音、お腹に妊娠線なんて残してはいけない。毎日オイルを塗ってやる。俺が必ず守ると誓う」あの時、心音は真一を見つめ、瞳には愛が溢れていた。彼が由梨の腹を撫でるその手つきは、研究よりもよほど真剣に見えた。なのに今、同じお腹は彼の命令で切り裂かれ、醜い傷を刻まれている。やがて、手術室の扉が開いた。心音の耳に、駆けつける足音と共に、ほんの数歩先で真一が話す声が届いた。「由梨の容態は?」「ご安心ください、手術は成功しました。急性腎不全ですから、再び悪化すれば、もう一つの腎臓も必要になりますが」「心音には腎臓が二つある。それでいい」その言葉を耳にしながら、心音の目から涙が溢れ、意識は再び暗闇に沈んだ。手術台の上で、心音は涙を流した。そして再び意識を失った。たとえ由梨が彼女の命そのものを要求したとしても、真一は躊躇うことなく、彼女にそれを差し出させるのだ。心音は目を開けた時、七日が経っていた。翔は熱も下がり、彼女の傍に寄り添っていた。心音が目を覚ますと、その黒い瞳がぱっと輝いた。「ママ、やっと起きたんだね。パパが言ってたよ、僕のごはんを買いに行く途中で車に轢かれたんだって。全部僕のせいだ……」翔は泣き出し、心音の胸にしがみついて悔やんだ。少し離れたところから真一が歩み寄り、低い声で言った。「目を覚ましてよかった。何も心配するな。ただ車にぶつかって腹部を強く傷つけただけだ」心音は何も答えず、静かに言った。「真一、研究室のパスワードはあなたの誕生日よ。中のパソコンを持ってきて。今夜までに修正しないといけないデータがあるの」一瞬、彼の表情
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第7話
ヘリコプターの轟音が、病院中に響き渡る。その頃、真一は由梨を腕に抱きしめている。ヘリコプターの音を聞き、彼はどこか落ち着かない気分だ。胸の奥が抉られるように苦しい。心臓そのものが痛む。由梨は彼に甘えるように囁いた。「真一、私の腰の傷、すごく醜いわ。嫌いにならない?」だが、彼の脳裏に浮かんだのは心音の腰に刻まれた傷跡だった。手術のあと一度だけ見たことがある。あまりに深く、醜く残された長い傷。心音の透き通るように白い肌に、それはなおさら不気味に映った。「真一?」彼の様子がおかしいのを感じ、由梨は腕を伸ばして彼の首に絡めた。だが真一はその手を振りほどいた。「由梨、少し休め。すぐ戻る」真一はどうしても心音を見に行きたかった。だが由梨の涙がぽろぽろと落ちた。「真一、あの夜、酔ったあなたに押し倒されて、私は、あとの人生をどうすればいいの?」彼の瞳が暗くなる。あの夜、彼は人違いをした。由梨を、心音だと思ってしまった。そして、由梨が泣くのを好むからこそ、彼は強く抱いてしまった。「行かないよ。責任は取る。けれど、心音とは十年の絆がある。会社も、彼女なくしては成り立たない。仕事面でも、彼女は最大の支えだ」由梨はわがままっぽく鼻を鳴らした。「でもあなたの愛が欲しいの。ただ私だけを愛して」甘えと涙は、男に効く。真一は結局、由梨のそばに残った。ヘリの音はどんどん遠ざかり、やがて完全に消えた。由梨が眠りについた後、真一は秘書に命じた。「心音がデータを修正し終えたら、パソコンを研究室に戻せ。この数日は由梨の情緒が不安定だ。俺は下に行かない。翔も学校に送っておけ。由梨が退院したら、二人に会いに行く」「かしこまりました」秘書が部屋を出たが、すぐに電話をかけてきた。「社長、奥様と坊ちゃんがいません」真一の目が冷たく光った。「心音がわがままを言っているのか。放っておけ。あの体で行ける場所など病院しかない。気が済めば戻る」「承知しました」真一は本気にせず、病室に戻って由梨の世話をした。だが半月が過ぎても、心音は戻らなかった。彼は直接心音の電話をかける。だが、聞こえてきたのはシステム音だった。「おかけになった電話は電源が入っていません」真一は次に翔の腕時計に電話した。繋がらない
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第8話
上階の炎はますます激しくなり、下の部屋には水が滴り落ち始める。少しずつ、彼と心音の家が壊れていく。真一はその光景を見つめ、再び階段を登っていった。研究室の火はようやく消えた。だが、室内は焦げ臭さと煙の匂いで満ちていた。彼はしばらく、ただ茫然と立ち尽くしていた。消防士が声をかける。「日下さん、中のものは救えませんでした。ただ、人命に被害はありません」真一は一歩、また一歩と研究室に足を踏み入れる。目に映るのは、面影すら失った研究室。数えきれない日々と夜、そこには自分と心音の姿があった。ここで愛し合い、ここで共に働いた。二人の全てが、ここにあった。どうして、俺たちはこんなふうになった?由梨のせいか?そうなのかもしれない。だが、そうではないのかもしれない。浮かぶのは、涙を流す由梨の顔。けれど心の奥に残るのは、心音の顔ばかり。彼は心音が泣くのを見たかった。十年間、彼女は決して弱さを見せなかった。いつも冷静で、静かに彼を支え続けた。最初に彼を想ってくれたのも心音だった。彼女はただ黙って彼のそばにいた。彼がほしいものは、すべて与えてくれた。彼が空腹になれば、心音は黙って察し、わずかな金で、高い弁当を買ってくれた。友人との喧嘩では、彼をかばい、殴られそうになった拳を受け止めた。彼が彼女を求めた夜、慣れていないのに、体を委ね、涙を一度だけ流した。それが彼女の最初で最後の涙だった。その後は、彼と共に起業し、子を産み、決して涙を見せることはなかった。強さは冷酷に見えるほどで、まるで鋼鉄のようだった。彼のために全てをしたのに、一度も「疲れた」とは言わなかった。だから、彼は試したのだ。彼女が自分を必要とするかどうかを。だが、心音の唯一の弱点は息子だけ。彼は忘れていた。自分自身もまた、彼女の弱点だったことを。由梨が現れたとき、本来なら養うつもりなどなかった。金を与えて、誰かに任せればよかった。だが、彼は由梨を家に連れ帰った。案の定、由梨が生活に入り込むと、心音は反応を示した。彼と由梨が親しくなるほど、心音の瞳には変化が現れた。心音が嫉妬している。それが嬉しかった。だが、やがて制御不能となり、由梨の涙に心を乱され、本当に惹かれてしまった。そして心音を
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第9話
「日下さん、松永様はもうすぐあなたの妻ではなくなります」真一の怒りはさらに燃え上がった。「お前なんかただの弁護士だ!北木市で俺と心音の離婚訴訟を受ける奴がいると思ってるのか」弁護士は名刺を差し出した。「日下さん、失礼しました。松永様の事情と、私の立場をお伝えしていませんでしたね」名刺に刻まれた肩書きを見た瞬間、研究畑の人間である真一は、その意味を誰よりも理解した。国の最高レベルの研究チーム。そこに属する者たちは、すべて国家に仕える人間だ。つまり、彼が拒否したとしても、離婚手続きを成立させる権限を持っている。「彼女は、どこへ行った?」「松永様は、これから誰のものでもありません。彼女は海に属する人間です」真一の全身が震えた。そこに入れば、三十年経たなければ出られない。どうしてそんなことができる。どうしてあんな酷い選択を。彼は離婚協議書を握り潰し、引き裂いた。弁護士は一切動じず、立ち上がった。「承知しました。本日中に離婚届を発行します。これで松永様と日下さんは、完全に赤の他人です」立ち去ろうとする弁護士を、真一が遮った。その目には狂気が宿る。「国家だろうが誰だろうが、俺の妻も息子も奪わせない。彼らは俺のものだ」弁護士は淡々と告げた。「松永様は自らの意思で行かれました。誰にも強制されていません。それにあなたは女のために、自分の息子を殺しかけた。法律的に見れば、松永様は殺人未遂の罪で訴えることが可能です。その一点だけで、あなたは永遠に翔君の親権を得られません」弁護士は去っていった。真一は力が抜け、床に倒れ込んだ。鈍い音が響き渡り、部屋中が震えた。彼は夢を見た。初めて心音と出会った日の夢だった。彼女は醜いアヒルの子のように、大人しく隅に座っていた。真一が椅子に腰掛けると、彼女はそっと彼を盗み見た。分厚い眼鏡の奥から覗く瞳には、驚きと憧れが浮かんでいた。そうだ。心音は自分の顔に恋をしたのだ。それ以来、授業のたびに彼女はこっそり視線を向けてきた。その視線に、彼は酔っていた。彼女からの初めての贈り物は、青い海のキーホルダーだった。心音がおずおずと手を差し出した。「今日が誕生日よね。これ、私のお気に入りなんだ。あげる」あの時、真一は気づかなかった。彼女は自
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第10話
真一の手から、由梨のスマホが床に叩きつけられた。冷え切った瞳が彼女を射抜く。その眼差しには殺意しかなかった。「由梨!」真一は立ち上がり、彼女の喉元をわしづかみにする。「言ったのはお前だ。俺の愛人になるって。心音には絶対に知られないようにするって。俺の家庭を壊さないって、誓ったのはお前だ」首を絞められる苦しみに顔を歪めながらも、由梨の瞳には涙と笑みが混じる。「真一、あなたが欲しい。どうして愛人で満足できる?私は妻になりたいの」全身を震わせるほどの怒気を押さえきれず、秘書を呼ぶ。「由梨と心音のLineもInstagramも、すべての監視映像を調べろ」その言葉に由梨の顔色が変わった。「真一、何もしてない。本当に、何も……」だが記録に残されていたのは残酷な真実だった。家での口論、由梨が翔に平手打ちを浴びせ、心音が二度、彼女を叩き返した。ふたりきりのとき、わざと鎖骨をのぞかせたり、体の痕を見せつけたりして、心音に彼の裏切りを直接見せつけていた。さらに、由梨は腎不全などではなかった。彼女の狙いは心音の腎臓。そして真一はその腎臓を移植するため、車を心音にぶつけさせ、気づかれぬまま腎臓を奪った。真一の頬を涙が伝う。「医師に命じろ、心音の腎臓を取り返せ。そして由梨の腹の子も」秘書が由梨の体を押さえ込む。由梨は必死に暴れ、叫んだ。「真一、やめて、お腹の子はあなたの子よ。どうして要らないなんて言えるの?おじさんに、私を守るって約束したじゃない!お願い、傷つけないで」だが真一の瞳は冷たかった。「傷つけないで?お前は俺の妻と俺の息子を傷つけた。雨宮家がまともに育てなかったなら、俺が裁く」泣き叫ぶ声を残し、由梨は引きずられていく。「真一、心音を裏切ったのはあなたじゃないの!私のせいにしないで。最初から私みたいな女が好きだったんでしょ。私が現れたから欲を抑えられなくなっただけ!全部、あなたが心変わりしたからよ」真一の声は冷え切っていた。「違う。愛してきたのはずっと心音だ。お前に重ねていたのも心音の影。お前を愛したことなんて一度もない」「嘘よ。真一、あなたは私に優しかった。全部を与えてくれたじゃない!心音にはそんなふうにしたことない」「それは、心音に振り向いてほしかったからだ。お前を
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