All Chapters of あなたに私の夫を差し上げます: Chapter 11 - Chapter 20

48 Chapters

漂う小舟

睡蓮の胎児は順調に育ち、安定期に入っていた。かつて華奢で儚げだったその姿は、今やふくよかで柔らかな曲線を描き、誰の目にも明らかに妊婦であることが見てとれた。睡蓮の顔には、愛情に満ち溢れた聖母マリアのような微笑みが浮かんでいた。彼女の手は無意識に膨らんだ腹に触れ、胎動を感じるたびにその微笑みが深まった。 「どうしてこんなことに……」 木蓮はそんな睡蓮を目の当たりにするたび、胸の奥で鋭い痛みが走り、絶望に打ちのめされた。睡蓮の幸福な姿は、木蓮の心に冷たく突き刺さる刃のようだった。本来なら、自分が将暉と結ばれ、その隣に立つはずだった。 二人で過ごした日々、交わした約束、未来への夢……全てが木蓮の心の中で温かな光を放っていたはずなのに、今は色褪せた幻のように感じられた。けれどそれは、まやかしだった。将暉の心が求めていたのは、いつも睡蓮だったのだ。 木蓮がどんなに愛を注ごうとも、将暉の視線は睡蓮の柔らかな微笑みに吸い寄せられていた。その事実は、木蓮の心を静かに、しかし確実に蝕んでいった。 「ねぇ、将暉さん。そろそろ叔父様に赤ちゃんのことを話して?」睡蓮の声は穏やかで、愛に満ちていた。彼女の言葉には、未来への希望と信頼が込められていた。彼女の手は将暉の腕にそっと触れ
last updateLast Updated : 2025-08-31
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別々の道

木蓮のつわりもようやく落ち着き、心にわずかな余裕が生まれていた。吐き気や倦怠感に苛まれた日々を乗り越え、彼女は少しずつ自分を取り戻しつつあった。しかし、その平穏は脆く、胸の奥には依然として重い不安が巣食っていた。 そんな中、今日は睡蓮の妊婦健診に付き添う日だった。木蓮にとって、睡蓮の幸せな姿を間近で見ることは、喜びと同時に心を抉るような痛みを伴う試練だった。 閑静な住宅街に、黒い高級車が音もなく滑り込んだ。運転手の島田が、恭しく後部座席のドアを開けた。睡蓮は、幸せに満ちた笑みを浮かべ、ふくらんだ腹にそっと手を添えながら、革の匂いが漂う車内にゆっくりと乗り込んだ。その姿は、聖母のような穏やかさと、母となる喜びに輝いて見えた。 次いで、木蓮が静かにシートに身を預けた。彼女の動きは控えめで、睡蓮の輝きとは対照的に、どこか影を帯びていた。島田は木蓮を見つめ、気の毒そうな表情を浮かべた。その視線には、言葉にならない同情が込められていた。 木蓮は、毎月の妊婦健診の送迎を任せている島田にだけ、自分の妊娠を打ち明けていた。誰にも言えなかった秘密を、島田の静かな理解に委ねたのだ。彼はただ黙って耳を傾け、木蓮の重い心をそっと受け止めていた。しかし、その秘密は、睡蓮の幸福な姿を前にすると、なおさら木蓮の心を締め付けた。車が動き出すと、窓の外を流れる街並みが、木蓮の揺れる心を映し出すようだった。睡蓮の笑顔と、島田の同情の視線が、彼女の中で交錯し、複雑な感情の波を呼び起こした。
last updateLast Updated : 2025-09-01
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白い天井

病院のベッドで木蓮は交通事故の衝撃に思いを巡らせた。運転手の島田の叫び声、睡蓮とそのお腹の胎児の安否。それらに動揺していると、看護師が将暉の手を遮った。「患者様は絶対安静です!ご身内の方以外の入室はお断りしています!」と一喝する。 将暉は「婚約……」と言いかけて口を噤んだ。彼はゆっくりと木蓮の襟首を掴んでいた手を離した。その目には、苛立ちと怒りが滲んでいた。 (もう将暉にとって私は婚約者じゃない………) 将暉が愛しているのは睡蓮、自分ではない。木蓮は感情のない目で彼を見上げた。ベッドの硬いシーツが背中に食い込み、消毒液の匂いが鼻をつく。彼女の胸は、事故の記憶と将暉の冷たい視線で締め付けられるようだった。あの事故の瞬間、睡蓮を庇うように島田がハンドルを切った光景が、木蓮の脳裏に焼き付いていた。 睡蓮の華奢な体が揺れ、彼女のお腹を守るように両手が置かれていた。その姿は、木蓮にとってあまりにも鮮明で、胸を抉るような痛みを伴った。将暉の苛立った視線が、木蓮の心に突き刺さる。彼の瞳に宿る感情は、かつて彼女に向けられていた優しさとは別物だった。 彼女の指は無意識に左手の薬指を撫でたが、そこにはもう何もなかった。アクアマリンの婚約指輪は、事故の衝撃でどこ
last updateLast Updated : 2025-09-03
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ティディベア

木蓮は鎮痛剤を打たれ、浅い眠りを漂っている。 全身の痛みから解放された彼女の意識は、まるで羽を広げた鳥のように幼い日へと羽ばたいていた。叶の父親は度々海外へ出張に出掛け、双子の姉妹のために心のこもった土産を買って来た。それは揃いのオルゴールや、ティディベアだった。オルゴールは柔らかな音色で姉妹の夜を彩り、ティディベアは姉妹の小さな手を握るように寄り添った。だが、そのティディベアには、子供心に深く刺さる悲しい思い出があった。 ティディベアは、木蓮の胡桃色の髪と、睡蓮の亜麻色の髪を模したような対になっていた。父親が土産の箱を開け、ふわふわのクマを手に取って見せると、睡蓮は一目散にソファに駆け寄った。 「私、このクマがいいの!」 睡蓮は胡桃色のティディベアを手に取り、満面の笑顔で抱き締めた。その瞬間、木蓮の胸に小さな棘が刺さった。彼女は自分の髪と同じ胡桃色のティディベアが欲しかった。心の中でその願いが渦巻いたが、口に出すことはできなかった。睡蓮の笑顔があまりにも眩しく、木蓮の小さな勇気を飲み込んでしまったのだ。 その夜、木蓮は亜麻色のティディベアを抱き締め、布団の中で静かに泣いた。クマの柔らかな毛に頬を寄せても、心の空虚は埋まらなかった。父親は「同じ色のクマを買えばよかったな」と後悔の声を漏らし、母親は「その色のク
last updateLast Updated : 2025-09-04
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島田の死

木蓮は泣き腫らした目の父母の顔を交互に見つめ、息を呑んだ。まさか、自分も将暉の子供を妊娠していることが知られてしまったのではないか?その疑念が、冷たい波のように彼女の心を襲った。医師や看護師が口を滑らせた可能性も考えられた。 喉が窄まり、声が出ない。いや、何をどう尋ねれば良いのか、頭が混乱して言葉が見つからなかった。病室の空気は重く、父母と将暉の両親の視線が木蓮を縛るようだった。睡蓮が将暉の子供を宿しているという事実は、すでに彼女の心に深い傷を刻んでいた。だが、もし自分の妊娠も明らかになれば、この茶番のような状況はさらに複雑になるだろう。 将暉の母親が木蓮の手をそっと握り、「木蓮さんは大丈夫?検査は終わったの?」と優しく微笑んだ。その笑顔は、まるで何も知らない無垢なもののように見えたが、木蓮にはそれが余計に胸を締め付けた。 「検査は終わったみたいです、腕の骨折だけで……済みました」 木蓮はかろうじて答えた。声は震え、言葉の端に力がなかった。彼女の妊娠を知っていたのは、島田だけだった。彼は木蓮の秘密を胸に抱き、事故の瞬間、身を挺して彼女を守ってくれた。その島田の顔………穏やかで、いつも木蓮を静かに見つめる眼差しを思い出すと、涙が頬を伝った。島田は彼女の唯一の理解者だった。彼の死は、木蓮の心にぽっかりと穴を開けた。 
last updateLast Updated : 2025-09-05
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両家の決断

 事故から数日が経過したが、将暉は一度も木蓮の病室を訪れることはなかった。彼の不在は、木蓮の心に冷たい空白を刻んだ。看護師たちの間では、木蓮が将暉の婚約者ではないかとひそひそ話が広まり、誠意のない将暉を白い目で見るようになっていた。彼女たちの同情と好奇心が入り混じった視線が、木蓮に向けられる。   だが、将暉はそんな周囲の目を気にもせず、毎日睡蓮の集中治療室に通い続けた。意識のない彼女の口の中を丁寧に拭き、髪を整え、甲斐甲斐しく世話を焼く姿は、まるで木蓮の存在など最初からなかったかのようだった。   「名前だけの婚約者なんて気の毒ね」   看護師たちの囁きが、病室の薄いカーテンをすり抜けて木蓮の耳に届いた。その言葉は、鋭い針のように彼女の心を刺した。木蓮は両耳を塞ぎ、ベッドのシーツを握り締めたが、声は容赦なく響き続けた。   そんな将暉の姿を目の当たりにした叶家と和田家では、連日緊迫した話し合いが続いた。睡蓮が将暉の子供を宿している事実が、両家の間に重い影を落としていた。ある者はこのまま睡蓮と将暉を結婚させるべきだと主張し、またある者は睡蓮が出産した子供を叶家の養子にする案を提案した。木蓮の妊娠という秘密を知らない両親たちは、彼女の将暉への切実な思いを実らせてやりたいと願っていた。木蓮の母は、娘が二年間も婚
last updateLast Updated : 2025-09-06
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憎悪

 木蓮の退院の日が近づいた。医師が腕のギプスを丁寧に外し、「ゆっくりと動かしてみて下さい」と柔らかな笑顔で微笑んだ。木蓮は母親が見守る中、恐る恐る腕を曲げ、指先を折り、握り拳を作った。微かな違和感は残るものの、痛みは消えていた。彼女の頬が緩み、小さな笑みがこぼれた。久しぶりに見る娘の明るい表情に、母親は思わずハンカチで涙を拭った。「よかった、木蓮。本当に……」その声は、愛と安堵に震えていた。   「お母さん、睡蓮のお見舞いに行ってもいい?」木蓮の声は穏やかだったが、心の奥では波が立っていた。「もちろんよ。お母さん、退院の手続きをしてくるわね。」母親の優しい言葉に背中を押され、木蓮は覚束ない足取りで廊下に出た。手すりに掴まり、ゆっくりと階段を上る。久方ぶりの睡蓮との対面に、彼女の胸は不安と恐れが交差し、早鐘のように波打った。   チラチラと揺れる白い蛍光灯、消毒液の匂いが漂う静かな廊下、規則正しいビープ音が響く。ネームプレートに「叶 睡蓮」と書かれた文字を見上げ、木蓮は唾をゴクリと呑み込んだ。   (将暉さんがいたらどうしよう)   その考えが頭をよぎり、彼女は一瞬立ち尽くした。深呼吸して目を瞑り、木蓮は扉の取っ手に手をかけた。軋む音とともに扉が開き、薔薇の花の香りが彼女を包んだ。
last updateLast Updated : 2025-09-07
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身代わりからの決意

懐かしい我が家。御影石のエントランスに立つと、執事が恭しく頭を下げ、木蓮からキャリーケースを受け取った。敷居を跨ぐのを一瞬躊躇うと、「どうしたの、あなたの家じゃない。おかしな子ね」と母親が軽やかに笑い、背中を押した。 「そ、そうだよね」 木蓮はショルダーバッグの肩紐をぎゅっと握り、唇を噛んだ。家の中は、かつての温もりと変わらぬ匂いに満ちていたが、彼女の心は冷たく重かった。リビングでは、革のソファに身を沈めた父親が木蓮の姿を見るなり、表情を明るくして立ち上がった。 「木蓮、辛かったな。よく頑張った」 颯爽と駆け寄り、大きな手で彼女を優しく抱き締めた。その手は胡桃色の髪をそっと撫で、温かさに木蓮の緊張の糸がプッツリと切れた。大粒の涙がポロポロと溢れ、彼女は恥ずかしさも忘れ、いたいけな子供のように嗚咽を漏らした。 「もう我慢しなくて良いんだぞ、将暉くんと幸せになりなさい」 父親は目を細めて微笑んだ。木蓮は一瞬、言葉の意味を理解できず、その場に立ち尽くした。「どういうこと?」彼女の声は震えていた。父親は穏やかに説明した。両家の話し合いで、木蓮と将暉が結婚し、
last updateLast Updated : 2025-09-08
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突然の来訪

木蓮の部屋は屋敷の二階、南向きの角部屋にあった。二年前まで過ごしていたその部屋は、かつて彼女にとって安らぎの場所だったはずなのに、今はなぜか他人行儀で落ち着かない。窓を開けて空を見上げれば、陽光は優しく白いカーテンを揺らし、そよ風が頬を撫でる。春の柔らかな光が部屋に差し込み、床に淡い影を落としていた。けれど、木蓮の心はまるで氷のように冷えていた。彼女の胸の奥では、抑えきれない不安と苛立ちが渦を巻いていた。 将暉との縁談は木蓮の意思を無視して進んでいた。睡蓮の子供を叶家の養子にするという話も、木蓮には受け入れがたいものだった。そもそも、昏睡状態での帝王切開など、本当に安全なのだろうか。睡蓮の命が危ぶまれているのではないかという思いが、木蓮の心を締め付け、眠れない夜が続いた。彼女の命が薄氷の上にあるような不安が、木蓮を苛んでいた。 睡蓮は妹であり、かつては互いを深く理解し合った存在だった。それなのに、今、将暉という存在を間に、弥次郎兵衛のように揺らいでいる。 木蓮は窓辺に立ち、遠くの山並みを眺めた。春の陽気とは裏腹に、彼女の心は凍てついたままだった。睡蓮と将暉の笑顔が、かつてのあの家で響き合っていた光景が、木蓮の脳裏に焼き付いて離れない。あの家は、木蓮にとって、もはや自分の居場所ではない。将暉が睡蓮を愛していたように、木蓮を愛することはないのだ。彼女はただ、睡蓮の代わりとしてそこにいる…………その事実が、木蓮の心をさらに冷たくさせた。 
last updateLast Updated : 2025-09-09
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