All Chapters of あなたに私の夫を差し上げます: Chapter 51 - Chapter 60

 木蓮は切迫剥離（切迫早産）の予兆があり、緊急入院が決まった。ビープ音が響く白い病室には、緑の波形がモニター上で木蓮の心拍数を淡々と描き出していた。点滴の滴が規則的に落ち、透明なチューブを伝う音が、静寂の中でかすかに響いた。眠る木蓮の頬には、うっすらと赤みがさしていたが、その顔は依然として儚げで、まるで壊れそうなガラスのようだった。彼女の胸は浅く上下し、腹部に巻かれたベルトが双子の微かな鼓動を捉えていた。緊張の糸が切れた父親は、安堵の溜め息を吐き、軋む椅子に重たく腰掛けた。額の汗をハンカチで拭い、目を閉じて呟いた。「まだ、間に合った…」母親は木蓮の華奢な指先を優しく握り締め、涙を流した。涙は彼女の手の甲に落ち、冷たい床に小さく染みを作った。木蓮の指は、わずかに動いたように見えたが、それは母親の願いだったのかもしれない。   病室の外では、将暉が壁にもたれ、両親を待った。廊下の蛍光灯が彼の影を長く伸ばし、革靴の先が神経質に床を叩いていた。手に握られたスマートフォンは、何度も点いたり消えたりした。睡蓮からだった。彼は通話ボタンを押すことなく、ただ画面を見つめていた。木蓮の二冊の母子手帳の桜色が、頭の片隅でちらついた。それは彼の胸を締め付けた。   三十分もかからず、和田夫妻が木蓮の病室のドアをノックした。控えめな音が、廊下の静寂を破った。和田の義母は、ドアが開き、ベッドに横たわる木蓮の変わり果てた姿を見た瞬間、言葉を失った。彼女の目には驚愕と悲しみが混じり、手に持った小さな花束が震えた。義父は木蓮の両親に向かい、深々とお辞儀をした。その背中は重く、愚息の過ちに失望した色が滲み出ていた。「申し訳ありません…」彼の声は低く、掠れ、まるで床に沈むようだった。木蓮の父親は無言で視線を逸らし、母親は唇を噛んで

将暉と睡蓮の生活が破綻し、泥舟のように沈みかけている頃、木蓮の容体は落ち着きを取り戻していた。白い病室に温かな日差しが差し込み、生成色のカーテンが空調のそよぐ風に軽やかに揺れた。窓枠に沿って光が柔らかく広がり、部屋の隅に積もった埃がキラキラと舞い、静かな時間を刻んだ。モニターのビープ音は穏やかに響き、まるで小さな命の鼓動と調和しているようだった。木蓮はベッドに横たわり、穏やかな毎日に思わず微笑んだ。彼女の頬には、ほのかな赤みが戻り、かつての血の気のない顔は遠い記憶のようだった。木蓮は膨らみの目立った腹を優しく撫でた。その手は、まるで双子の存在を確かめるように、ゆっくりと円を描いた。彼女にとって、この二つの小さな命は、唯一の生きる証だった。病室の無機質な壁も、彼女の心には柔らかな光で満ちていた。かつての「花梨」の喪失、将暉との冷え切った結婚、睡蓮の裏切り、それらの痛みは、双子の鼓動に触れるたびに薄れ、希望に塗り替えられた。田上伊月の声が、遠くで響いた。「木蓮さんの幸せはなんですか…」その問いに、彼女は初めて答えを見つけつつあった。この子たちを守ること、それが彼女の幸せだった。窓の外では、晩秋の空が澄み渡り、遠くの木々が淡い金色に輝いていた。木蓮の微笑みは、まるでその光と共鳴するようだった。 木蓮があくびをした時、病室のドアを軽やかな音を立ててノックする人物がいた。「はい、どうぞ」木蓮はゆっくりと身を起こし、枕にもたれた。生成色のカーテンが揺れる中、温かな日差しが彼女の頬を柔らかく照らした。「失礼します」ドアが軽く軋みながら静かに開き、消毒液の匂いがふわりと漂った。「木蓮さん、こんにちは」そこには、白衣を着た田上伊月の姿があった。銀縁眼鏡の奥の瞳は、変わらぬ優しさで木蓮を見つめた。木蓮の脳裏には、金沢港のフェリーターミナルで語り合ったあの夜が瞬いた。冷たい海風と、遠くで鳴る船の汽笛。田上の「木蓮さん、あなたの幸せはなんですか……」という言葉が、まるで波のように彼女の心に寄せては返した。あの夜、彼女は答えられなかった。だが、その言葉に支

 「田上先生！手を離してください！」看護師の鋭い声が響き、田上伊月の手は冷たくなった木蓮の指先から引き剥がされた。木蓮はベッドに乗せられたまま、慌ただしく病室から運び出された。彼女の青白い顔、ダラリと垂れた手が、危機の逼迫感を無言で訴えていた。モニターの乱れたビープ音が遠ざかり、生成りのカーテンが窓辺で寂しげに揺れた。秋の陽光は薄れ、病室に冷たい影を落とした。田上は看護師の呼びかけや医師の喧騒が廊下の奥に消えていくのを聞きながら、力なく軋む椅子に腰掛けた。銀縁眼鏡の奥の瞳は、木蓮の運ばれた方向を見つめ、動揺と無力感に揺れていた。彼女の腹に宿る双子の鼓動、金沢港の夜に交わした「あなたの幸せはなんですか」という問いが、頭の片隅で重く響いた。   黒い薔薇を手にした睡蓮は、そんな田上の憔悴しきった顔を見下ろし、クッと小さく笑った。その笑みは、まるで彼の動揺を嘲るように冷たく歪んでいた。「何がおかしいんですか」田上は銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を投げかけた。睡蓮は黒い薔薇をベッドサイドのテーブルに無造作に置き、腕を組んだ。彼女の乱れた髪が額に張り付き、滲んだ化粧が頬に不気味な影を刻んだ。「あなたが木蓮の新しい恋人なのね？」思いがけない問いかけに、田上の心臓が跳ねたじろいだ。彼の指がカルテを握る手に力が入り、わずかに震えた。「そんな関係ではありません」彼の声は低く、否定の言葉に決意を込めた。だが、睡蓮の目は探るように細められ、不敵な笑みが広がった。「嘘よ、手なんて握っちゃって、すごい慌てっぷりだったわ」彼女の言葉は、まるで毒の矢のように田上の心を刺した。病室には、黒い薔薇の花びらが床に散らばり、木蓮の不在を際立たせていた。田上は唇を噛み、睡蓮の視線を正面から受け止めた。「彼女は…ただの患者さんです」だが、その言葉は彼自身の心に虚しく響いた。   

 木蓮の両親は、睡蓮の精神状態を案じ、田上伊月に会釈すると、彼女の後を追うように病室から出て行った。廊下に響く足音が遠ざかり、病室には静かな時が流れた。柔らかな秋の陽光が生成色のカーテンを揺らし、壁にあたたかな陰影を刻んだ。窓の外では、晩秋の風が木の葉をそっと揺らし、かすかな音が病室に届いた。   ベッドサイドの黒い薔薇の花びらは、まるで睡蓮の憎悪の残響を閉じ込めたように、静かに光を反射していたが、それも今は遠い。   田上は椅子を軋ませ、木蓮のベッドの隣に腰掛けた。彼の手に握られたヒナギクの花束はそっと脇に置かれ、銀縁眼鏡の奥の瞳は木蓮の眠る顔に注がれた。その時、木蓮の瞼がピクピクと痙攣し、華奢な指先が微かに動いた。「......木蓮さん？」田上がその手を優しく握ると、彼女は弱々しく、しかし確かにその手に力を込めて応えた。「木蓮さん、大丈夫ですか？」田上の声は穏やかに木蓮を包み込んだ。彼女の閉じていた瞼がゆっくりと開き、潤んだ瞳に田上の不安げな微笑みが映った。木蓮の胸に熱いものが込み上げ、涙となって頬を伝った。「良かった、あなたが無事で」田上の銀縁眼鏡の奥には、安堵の表情とともに光るものが滲んだ。彼の声は、木蓮の心に温かな光を投じた。   「私......夢の中で田上さんの声を聞きました」木蓮は彼の手を握り返し、かすかな微笑みを浮かべた。彼女の声は弱々しかったが、確かな希望に満ちていた。「どんな夢だったんですか？」田上が静かに尋ねると、木蓮は小さく息を吸い、呼吸を整えた。「汽車がホームに入って来て.

 規則正しいビープ音と点滴の雫が落ちる音が、白い病室の壁に吸い込まれてゆく。窓枠でキラキラと舞う埃を眺め、木蓮は一人寂しく吹き荒ぶ木枯らしに耳を澄ませた。晩秋の冷たい風が窓を叩く音に、将暉との冷え切った過去や睡蓮の憎悪が蘇り、胸に微かな痛みを刻んだ。だが、時折検温に訪れる看護師の笑顔が、木蓮を現実に引き戻した。彼女はそっと腹に手を添え、双子の胎動を確かめた。ここ数日、双子の動きが静かになり、まるで出産の日が間近に迫っていることを告げるようだった。ベッドサイドのヒナギクの花束は、散らばった花びらがなお可憐に光り、木蓮の希望を静かに支えていた。生成りのカーテンが秋の陽光に揺れ、病室に柔らかな陰影を落とした。     田上伊月は連日のように、退勤時間を迎えると慌てて白衣を脱ぎ、カウンセラー室から早足で木蓮の病室へ向かった。エレベーターを待つ間、彼の革靴は忙しなく上下し、箱の中では鏡を見て乱れた髪を整えた。廊下を急ぐ田上は、度々看護師から「走らないでください！」と注意され、照れ臭そうに笑って頭を下げた。木蓮の病室のドアの前に立つと、彼は大きく息を吸い、胸のときめきを落ち着けてそっとノックした。「......はい」木蓮の柔らかな声が響くと、田上の心は温かな波に揺れた。微かに軋むドアを開けると、頬を薄っすらと染めた木蓮がベッドにもたれ、微笑んでいた。「木蓮さん、調子はどうですか？」田上は軋む椅子にそっと腰掛け、彼女の手を優しく握った。「今日は二人とも静かです」木蓮が腹を撫でると、田上はその手に手のひらを重ね、双子の命を感じるようにそっと触れた。「......木蓮さんはどうですか？」彼は必ず彼女自身を気遣い、その声はまるで金沢港の夜の波音のように穏やかだった。その些細な優しさが、木蓮の心をあたたかく包み込んだ。「元気です」「良かった」田上は微笑み、木蓮を妻とし、双子の父親になる未来を心から楽しみにして