All Chapters of あなたに私の夫を差し上げます: Chapter 21 - Chapter 30

48 Chapters

ハーブティー

チラチラと瞬く白い蛍光灯と、鼻をつく消毒薬の匂い。木蓮は毎月の妊婦健診でこの病院を訪れていた。待合室の硬い椅子に座り、ざわめく他の患者たちの声を聞きながら、彼女の心は重く沈んでいた。 亡くなった島田の代わりに雇われた新しい運転手はまだ若く、無口で、島田のような温かさや気遣いは微塵も感じられなかった。かつて島田が運転する車内で、穏やかな会話と流れる街並みが木蓮に癒しを与えてくれたあの時間は、もう二度と戻らない。窓の外をぼんやりと眺めながら、木蓮は島田の突然の事故死を悼み、胸にぽっかりと空いた穴を意識した。彼の笑顔、彼の優しい言葉、それらが今は遠い記憶となってしまった。 「叶さん、叶木蓮さん」 名前を呼ばれ、木蓮は重い足取りで診察室の扉を開けた。冷たく無機質な診察室の空気が、彼女の心をさらに冷たくさせた。前回の検診での医師の言葉が、頭の中で反響する。「胎児の心音が弱いですね」と、医師は慰めるような表情で言った後、「大丈夫、ゆっくりリラックスして過ごして下さいね」と穏やかに微笑んだ。しかし、木蓮にとって「リラックス」などという言葉は空虚に響いた。島田の事故死、妹の睡蓮が昏睡状態で目を覚まさないこと、そして将暉との縁談が彼女の意思とは裏腹に進んでいること………。 この数ヶ月、木蓮の周囲は嵐のように騒がしく、緊張と不安の連続だった。ベッドで休息を取る時間など、彼女には到底考えられなかった。診察室に入ると、医師はいつものようにカルテを手に
last updateLast Updated : 2025-09-10
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睡蓮の指先

木蓮がハーブティーに口をつけ、カウンセラー室の鳩時計が厳かに正午を告げたその瞬間だった。木蓮のショルダーバッグの中で、スマートフォンが振動とともに着信を告げた。まさか、睡蓮の容体が急変したのかと心臓が跳ね上がり、木蓮は慌てて電話を取った。画面に表示された発信元は、案の定、病院のナースステーションだった。彼女の指が震え、ティーカップをテーブルに置く手が一瞬止まった。 「すみません、ちょっと…………」 呟いた木蓮は席を立つと廊下へ急いだ。南向きの大きな窓から差し込む温かな日差しの中、キラキラと埃が舞い、まるで時間が一瞬止まったかのようだった。スマートフォンを耳に当てた瞬間、木蓮の顔つきが一変した。「妹の意識が……………!?」その声には、希望と不安が交錯する震えが込められていた。田上がただならぬ気配を感じ、心配そうにカウンセラー室の扉から顔を出した。「どうしたんですか?」と尋ねると、木蓮は震える声で答えた。 「妹の意識が………指先が動いたらしいんです!」 彼女の瞳には、驚きと期待が混じり合い、涙が滲んでいた。田上は即座に反応し、デスクへと踵を返した。散らばった書類を掻き分け、内線電話を手に取る。「ご親族の方がカウンセラー室にいらっしゃいます、すぐに向かいます」と、慌てた声でナースステーションに連絡した。木蓮は
last updateLast Updated : 2025-09-11
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スーツケース

将暉が今、睡蓮の病室を見舞っている隙をついて、木蓮は自宅から必要な書類や身の回りの物を持ち出そうと決めた。 運転手は病院の受付で、のんびりと雑誌をめくっていた。木蓮の姿を遠くに見つけると、慌てて雑誌を閉じ、足早に車をフロントの車寄せにつけた。「お待たせしました」と、新人の彼は顔を赤らめ、恭しく後部座席のドアを開けた。そのぎこちない仕草に、木蓮は一瞬だけかつての島田の温もりを思い出したが、すぐに現実に戻った。 「お願い、今日は家に寄ってくれる?」と、木蓮は静かに告げた。家……それは、彼女が将暉と三年間を過ごした、思い出と痛みに満ちた場所だった。運転手は小さく頷き、車を緩やかに発進させた。木蓮は本革のシートに身体を預け、窓の外を流れる街並みに視線を投げた。車内は静かで、エンジンの低いうなり音だけが響く。島田なら、こんな時、木蓮の沈んだ気配を敏感に察し、「大丈夫ですか、木蓮様?」と穏やかな声で話しかけてくれただろう。彼の温かい言葉は、木蓮の凍てついた心をいつも少しだけ溶かしてくれた。しかし、今運転席にいる若い運転手は無口で、ただ黙々とハンドルを握るだけだ。木蓮の目尻に、涙がじんわりと滲んだ。彼女はそれを悟られまいと、そっとハンカチで拭い、深呼吸して気持ちを落ち着けた。 「しばらく待っていて下さい」「かしこまりました」 木蓮は車を駐車場に待たせると、玄関の鍵を開けた。ドアが
last updateLast Updated : 2025-09-12
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別れましょう

玄関のドアが閉まる重い音に、木蓮は身体を強張らせた。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。鍵を持っているのは、木蓮と睡蓮……そして将暉だけだ。彼女は震える手でカーテンをそっと開け、駐車場を見た。そこには、将暉と木蓮の黒い車が2台停まっていた。木蓮の胸に絶望が押し寄せた。リビングには荷造りを終えたスーツケースが無造作に置かれ、彼女がこの家を去ろうとしていることが一目瞭然だ。睡蓮の身代わりとして木蓮を家に縛り付けようとする将暉が、そんなことを許すはずがない。彼女は咄嗟に子供部屋のドアを音を立てないようゆっくりと閉め、部屋の片隅に身を縮めて息を潜めた。 「木蓮、帰ってるんだろ! あの荷物はなんだ!」  将暉の怒りと困惑に満ちた怒鳴り声が、リビングに響き渡った。その声は、木蓮の心を鋭く抉り、凍てついた恐怖を呼び起こした。彼女は膝を抱え、子供部屋の薄暗い片隅で震えた。床に落ちた胡桃色のクマのぬいぐるみが、まるで彼女の孤独を嘲笑うようにそこにあった。木蓮は下腹をそっと押さえ、お腹の中の命に囁くように思った。「大丈夫、守ってあげるから。」だが、将暉の足音が近づくにつれ、彼女の心は恐怖と葛藤で締め付けられた。 リビングの床がきしむ音が聞こえ、将暉が部屋を歩き回っているのが分かった。 「木蓮! どこだ! 話がある!」 
last updateLast Updated : 2025-09-13
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発覚

次の瞬間、将暉は握り拳で勢いよくテーブルを叩いた。ドンという激しい衝撃音がリビングに響き、彼の怒りに満ちた鋭い目が木蓮の決意を切り裂くようだった。木蓮は息を呑み、スカートを握る手が震えた。「そんなことが許されると思っているのか!」将暉の物凄い剣幕が、まるで嵐のように木蓮を捲し立てた。 彼女の心は一瞬怯んだが、田上の穏やかな言葉が脳裏をよぎった。「どんな気持ちも、木蓮さんの大切な心の声だよ」その言葉が、凍てついた彼女の心に小さな勇気の灯をともした。 木蓮は足に力を込め、床に根を張るように踏ん張った。「将暉さん、もう別れましょう」と、震える声で、だがはっきりと繰り返した。「木蓮!」将暉の声は怒りと困惑に震え、彼女を呼び止めるように響いた。「別れてください」と、木蓮はさらに強く、目をギュッと瞑り、眉間にシワを寄せて頭を下げた。その仕草には、決意と痛みが混じり合い、彼女の全身から溢れ出していた。 「そんな勝手なことは許さない!」 激しい怒りに突き動かされた将暉は、勢いよくソファから立ち上がった。「将暉さん!?」木蓮の声が驚きに震えたが、彼は一瞬で彼女に詰め寄り、跨がるようにしてブラウスのボタンに手をかけた。自分のこれまでの過ちを棚に上げ、こともあろうか田上の名前を口にした。 「あの男か! あの男と付き合っているのか!
last updateLast Updated : 2025-09-14
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結婚するわ

 元婚約者の将暉の手で子供部屋に軟禁された木蓮は、スマートフォン越しに田上に助けを求めた。狭い部屋の中、かつての思い出が詰まったぬいぐるみやベビーベッドが、木蓮の心を一層重くした。将暉は木蓮の妊娠が親族に露呈することを恐れ、衝動的に彼女を閉じ込めたのだ。だが、その行為は彼自身の混乱と恐怖を映し出す鏡でしかなかった。   「将暉さん!鍵を開けて!こんなことをしても何も解決しないわ!」   木蓮の声は、ドア越しに鋭く響いた。だが、廊下に座り込んだ将暉は、頭を抱えて動けない。双子の妹、睡蓮を妊娠させ、さらに姉の木蓮まで妊娠させたという事実は、彼の心を締め付けた。和田コーポレーションの若き社長としての立場、親族の期待、そして何より自身の愚かさが、将暉の頭の中で絡み合い、出口のない迷路を作り上げていた。   「……まさか、木蓮が妊娠していたなんて」と呟く声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。実家の両親にどう説明すればいいのか。木蓮の父母にどう詫びればいいのか。睡蓮との関係をどうやって清算すればいいのか。後悔と恐怖が渦巻き、彼の思考は麻痺寸前だった。なぜこんな事態に至ったのか。将暉自身にも答えはなかった。   「田上さん!助けて!」 
last updateLast Updated : 2025-09-16
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偽りの結婚式

大安吉日、木蓮と将暉の結納の儀式が厳かに執り行われた。 木蓮の腹は、元々の細身の体型ゆえに妊娠の兆候をほとんど見せず、つわりも既に収まっていた。彼女と将暉は、この妊娠を当面二人だけの秘密とし、時が落ち着くまで両家の親族に明かさぬよう密かに約束していた。 儀式の場では、誰もが微笑みを浮かべ、祝福の言葉を交わしたが、木蓮の心は複雑に揺れ動いていた。毛氈の上に「結納品」が恭しく並べられ、上座に座る木蓮と将暉の姿が映えた。 和田家の父親が、重々しい口調で挨拶を始めた。「この度は、木蓮さまと息子将暉に、素晴らしいご縁を……」その言葉は、木蓮の耳を右から左へと素通りした。彼女の心は、今も病院のベッドで昏睡状態の睡蓮へと飛んでいた。双子の妹の青白い顔、かすかな寝息。あの笑顔がもう見られないかもしれないという恐怖が、木蓮の胸を締め付けた。 和田家の母親が一歩進み出て、丁寧に結納品を木蓮の前に置いた。金屏風の前で、扇子や熨斗が整然と並ぶたび、木蓮の心には将暉への憎しみと、睡蓮へのやり場のない感情がせめぎ合った。 将暉の裏切り、睡蓮との関係、そして自分の妊娠、全てが絡み合い、彼女を内側から押し潰しそうだった。「……幾久しくお納めください」との言葉に、木蓮は緊張を押し隠し、深
last updateLast Updated : 2025-09-17
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戸籍上の夫婦

戸籍上、木蓮と将暉は夫婦となった。だが、その絆は書類の上にしか存在しなかった。木蓮は、かつて将暉と睡蓮が笑い合い、愛を育んだ「家」に足を踏み入れた。 和田家の豪邸は、広々としたリビングや洗練されたインテリアが並ぶ一方、冷たい空気が漂っていた。木蓮はゲストルームに寝床を定め、将暉は主寝室で眠る。同じ屋根の下にいながら、二人の間には触れ合うことのできない深淵が横たわり、温もりも、会話も、まるで存在しなかった。 朝、玄関で木蓮が「行ってらっしゃい」と声をかけると、将暉はネクタイを整えながらそっけなく答えた。「今夜は会合で遅くなる、待たなくていい」その言葉に、木蓮は静かに「分かったわ」と応じた。 表面上は穏やかなやり取りだが、木蓮の心には氷の棘が刺さったままだった。かつて愛した将暉の優しさは、今や睡蓮との裏切りの記憶に塗り潰され、彼女の胸を締め付けた。妊娠した自分の体を抱えながら、木蓮はこの家が睡蓮の影に支配されていると感じていた。 日中、木蓮は一人で過ごす時間が多かった。リビングの窓から見える庭の木々は、秋の色に染まり始めていたが、その美しさも彼女の心には届かなかった。睡蓮が昏睡状態の病院にいる今、木蓮は彼女を想い、複雑な感情に苛まれた。妹への愛と憎しみ、将暉への失望と諦めが交錯し、彼女を孤独の淵に沈めた。 夜、将
last updateLast Updated : 2025-09-18
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睡蓮の目覚め

その日は突然やって来た。昏睡状態だった妹の睡蓮に明らかな反応があったと、母親から連絡が入った。震える声で「すぐに病院に来て」と告げる母の言葉に、木蓮の心臓は激しく鼓動を刻んだ。静かな住宅街に黒い車が滑り込み、白い手袋を履いた運転手が「おはようございます、木蓮様」と恭しく後部座席のドアを開けた。「県立中央病院まで!出来るだけ早く!」木蓮の声は鋭く、いつもより高く響いた。運転手は一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに頷き、車を発進させた。 木蓮はルームミラーに映った、睡蓮と同じ顔を見た。その顔は血の気が引き、期待と不安で組んだ指先が小刻みに震えていた。睡蓮とは双子だった。二人は顔だけでなく、声や仕草まで瓜二つで、幼い頃は互いの服を交換して周囲をからかったものだ。しかし、今、睡蓮は病院のベッドで長い眠りについている。事故から数ヶ月、医師は「回復の可能性は低い」と告げていた。それでも、家族は希望を捨てず、毎日病室を訪れ、睡蓮の手を握り、話しかけ続けた。 睡蓮の出産予定日まであと僅かだ。意識が戻れば身体にメスを入れることなく、自然分娩で赤ん坊を産むことができるかもしれない。母子ともに健康であって欲しい。木蓮の手はきつく握られた。掌に爪が食い込み、痛みが走った。車窓の外を流れる街並みはぼやけ、心は睡蓮の病室へと飛んでいた。睡蓮が目を覚ましたら、まず何を話そうか。赤ん坊の名前か、それとも昔の思い出か。木蓮の胸は熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。車は病院の正面玄関に滑り込んだ。「早く、早く」と心の中で繰り返しながら、木蓮はドアを開け、息を切らしてロビーへと駆け込んだ。 その時、木蓮の足は止まった。エレベーターホールには、自分の夫
last updateLast Updated : 2025-09-19
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