All Chapters of 霞に迷う夕暮れの舟: Chapter 21 - Chapter 23

23 Chapters

第21話

結衣が顔を上げると、その声の主は静香だった。結衣は思わず拳をぎゅっと握りしめる。「先輩、私、何かあなたの気に障ることをした?」「は?笑わせないで」静香の声が一気に尖る。「私はプロの目であなたの踊りを評しただけ。私に気に入られてるかどうかなんて一切関係ない。それとも結衣、あなたは人にに持ち上げられないと受け入れられないの?」静香の言葉の一つ一つが、棘のように結衣の胸に突き刺さった。鈍いはずの彼女でも、そこに怒りが込められているのはすぐに分かった。思い当たる理由は一つしかない。結衣はまっすぐに静香を見据え、落ち着いた声で問いかける。「私が誠と付き合っているから、それが、気に入らないの?」「黙りなさい!」図星を刺された静香は、怒りに任せて手を振り上げる。だが、ちょうどその時、その手を制する声が飛んでくる。「静香、やめなさい!」冷ややかな顔のニナが横から歩み出た。彼女はこのスタジオの創設者であり、静香の成長をずっと見守ってきた師でもある。一部始終を見ていた彼女には、静香がわざと事を荒立てているのが明らかだ。静香はなおも不満げに手を下ろし、結衣を憎々しげににらみつけながら、小さく吐き捨てる。「何がそんなに偉いのよ。私が橋渡ししてあげなかったら、あなたはここに来ることすらできなかったくせに」ニナは鋭い視線で静香を制し、それ以上言葉を吐かせなかった。そして結衣と静香に向き直り、口を開く。「あなたたち二人は、私が見てきた中でもっとも才能に恵まれた子たちよ。確かに結衣は最初、基礎が弱くてそれが短所になっていた。けれど、そのぶん努力で補ってきた。近々、大きなダンスコンテストが開かれるの。どちらを出場させるか考えていたところなのに、こんな言い争いを始めるなんて。踊りで始まった争いなら、踊りで終わらせよう。いまから私がランダムに曲を流す。二人とも踊りなさい。実力で、どちらが上か示すのよ。いいわね?」静香はそれを聞いて、鼻先でせせら笑った。「いいわ。受けて立つ」結衣もまた、小さくうなずいた。ニナは周囲に目配せし、舞台を二人に譲らせると、ランダムに一曲を流し始めた。静香は少しも動じることなく、自信満々で腕を掲げ、そのまま軽やかに舞い始めた。彼女は知っている。結衣には心の壁があり、難しい動
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第22話

「どうしてここに?」結衣は振り返り、警戒を隠さずに裕也を見据えた。その反応が、裕也の胸を鋭く突き刺した。彼は一拍置いて、低い声で口を開いた。「お前の先輩の静香が自分から俺のところに来たんだ。お前に会わせてやるって言ってな。それに、二人きりになれるようにって、わざわざこんな場を仕組んだんだ」結衣はわずかに眉をひそめた。すると、裕也がポケットから小さな瓶の薬を取り出し、続けざまに言う。「それに、こんな薬まで渡された。お前をだまして飲ませて、一夜を共にしろってな。そうすれば俺はお前を手に入れられるし、そして、彼女は、お前と誠を引き離して、うまく入り込めるって」結衣の頭の中で、「カンッ」と乾いた音が鳴った。なるほど――だから静香は、自分と誠の交際を知ってから、執拗に突っかかってきたのか。すべては、こんな思惑だったとは。結衣にとっては実の姉同然の存在だったのに、その静香が裕也と手を組み、こんなやり口まで自分に向けてくるなんて。結衣は何歩も後ずさりし、床にあったスピーカーを拾い上げて胸の前に構えた。「近寄らないで。たとえ死んでも、そんな薬は飲まない。離れて!」裕也は一歩も近づかなかった。ただ、唇を震わせるほど恐怖に駆られた結衣をじっと見つめ、その顔には隠しようのない失望が浮かんでいた。「そんなに俺が嫌いか? 結衣、前の人生で、俺たちは夫婦だった。なのに今は、俺がそばに寄るだけで怖いのか」しばし沈黙のあと、裕也はかすかに苦笑し、手にしていた薬の瓶を床に投げつけて砕いた。「安心しろ。俺はこれまで散々間違いをしてきたが、もう二度とお前を傷つけるようなことはしない。結衣、今日ここへ来たのは、本当にただ、お前に会って、ちゃんと話をしたかっただけなんだ」結衣はようやく手にしていたスピーカーをゆっくりと下ろした。だが声はなおも硬くて冷たく響く。「もう今さら、あなたと話すことは何もない」裕也が口を開こうとした、そのとき、壁際の監視カメラがいきなり音を発した。響いてきたのは、静香の狂気じみた声だ。「役立たず!どうせあんたには無理だと思ってたわ。いいわ、彼女を傷つけないって言うなら、二人まとめて死ねばいい!」彼女がそう言い終わった途端、スタジオの灯りがふっと落ち、場内は闇に包まれた。間を置かず、鼻を
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第23話

続いて、スタジオの中から爆発音が響いた。「裕也!」結衣の目が大きく見開かれ、張り裂けんばかりの叫びが胸の奥から迸った。だがその直後、力尽きて、彼女は意識を手放して崩れ落ちた。結衣が再び目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。まぶたを開けると、そばに目を赤くした誠がいた。結衣は丸七日、昏睡していた。そのあいだ、誠もまた彼女のそばを離れず、つきっきりで見守っていたのだ。幸いにも、結衣の怪我は軽い外傷にとどまり、昏睡の原因も外的なショックによるものだった。体を支え起こされると、あの炎の中での出来事が、胸の奥に一気によみがえった。結衣の呼吸はたちまち荒くなり、思わず誠の手をぎゅっと握る。「誠、意識を失う前に、爆発音が聞こえたの。裕也は? 生きてるの?」「慌てないで、深呼吸して」誠は結衣の手を包み込み、やさしくなだめた。「裕也は死んでいない。ただ、全身に火傷を負っていて、医者は、何度か皮膚移植の手術を経れば、日常生活に戻れるだろうと言っている。僕が現場に駆けつけたとき、彼はちょうど救い出されたばかりで、まだ完全に意識を失ってはいなかった。そのとき、僕に言づけたんだ。君には彼のことを忘れてほしい、会いに行かなくていい、醜い姿を見せたくないって。でも、どうするかは君次第だ。いま裕也は階上の病室にいる。結衣、会いに行くか?」結衣はそこでようやく大きく息をついた。伏し目になり、しばらくしてから小さく首を振った。「会わない。私と彼は、とっくに終わってる。これから先、二度と会わないのが、私たちにとって一番いい終わり方だ」誠は静かにうなずき、そして話題を変えた。静香は殺人未遂の容疑で警察に逮捕され、これから先は長い獄中生活を強いられることになりそうだという。それから、この件を知った裕也の両親もM国へ飛んできており、結衣に一度会わせてほしいと望んでいる。裕也のこととは別に、二人はずっと結衣を娘のように思ってきたからだ、という。そして最後に、誠は揺るぎない想いを宿した声で口を開く。「結衣、僕と結婚してくれ。君がなかなか目を覚まさなかったこの七日間、ずっと不安で、恐ろしくて、永遠に君を失ってしまうんじゃないかと怯えていたんだ」結衣は彼の真剣な眼差しを見つめ、胸の鼓動がふいに速まった。……半年後、結
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