All Chapters of 彼氏が幼なじみとキスしていたので、私は弟と結婚しました: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

友人の結婚式に招かれると、彼女が冗談めかして聞いてくる。「紗月(さつき)、あなたはいつ結婚するの?」「半年後だ」「もう少し待ってくれ」私と深沢慶人(ふかざわ けいと)の声が重なる。その瞬間、彼の視線には苛立ちと問い詰めるような色が宿る。「そんなふうに俺を追い詰めて、楽しいのか?」その夜、彼は「独身最後の夜」を口実に、幼なじみのもとへ行き、帰ってこない。――最初から、私と結婚するつもりなんてなかった。けれど私は引き留めなかった。スマホを取り出し、冷静に指示を飛ばす。「式は予定通り進めて」幸いなことに、私が本当に嫁ぎたい相手は、彼ではないから。……深夜零時、私のスマホに一本の動画が届く。見知らぬ番号からのものだ。タップして再生する。画面の中では、男も女もダンスフロアで体を揺らしている。その中で、私がずっと守ってきた慶人の白い肌が、ひときわ目立って映る。音楽のリズムに合わせて狂ったように踊る彼は、まるで場末のカラオケにいるホスト気取りだ。女が体を寄せても拒まない。むしろ素直に、腰へと絡みつく手を受け入れる。曲が盛り上がる瞬間、女が彼の顎を掴む。慶人は口元をわずかに歪め、身を屈めて――ためらいもなく唇を重ねる。その女を私は知っている。いや、私たちの周りなら誰でも知っている。それは、慶人の初恋の相手――篠宮悠里(しのみや ゆうり)だ。友人から聞いたことがある。二人は大学時代、模範的なカップルだったと。校内では、いつも一緒に歩く姿をよく見かけたそうだ。ただ、なぜかその恋は突然終わりを迎えた。当時の私は、さほど気に留めなかった。学生時代の一瞬のときめきに過ぎないと思っていたから。幼なじみだろうと関係ない。今、彼の隣にいるのは私――そう信じている。だが今。動画を見つめるうちに、胸の奥に残っていた最後の希望が音もなく消えていく。慶人の顔が目の前で歪んでいくように見える。私は慶人に電話をかける。……出ない。その番号の持ち主から、さらに挑発的な一文が送られてくる。【たとえあんたが彼と結婚しても、彼の心にいるのは私よ】私は返信しない。ただ無言でその番号をブロックする。少し考え、慶人の仲間に電話をかける。通話が繋がると、私は単刀直入に言う
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第2話

夜の十一時、慶人からの電話が鳴る。約束通りの時間だ。受話器の向こう、弾んだ声が響く。「紗月、今夜は待たなくていい」私は何も言わない。慶人は少し焦ったように、慌てて付け足す。「仲間がさ、俺が結婚するって知って、独身最後の夜を祝おうって」――その口ぶり、前にも何度も聞いた気がする。仲間の結婚式が終わったあとも、いろんな口実をつけてはあちこちの集まりに顔を出し、それらを言い訳にして一週間まるごと家に帰らなかった。電話の向こうからは、音楽の轟音と人々の叫び声が流れ込んできて、夜の静けさを容赦なくかき消す。私が黙ったまま返事をしないでいると、慶人がもう一度呼びかけてくる。「どうした?紗月。怒ってるのか?」探るような、慎重な声色。彼は私の返事をじっと待っている。私は手首の時計に視線を落とし、ふと口をついて出る。「……十一時よ」他人には意味がわからない言葉かもしれない。けれど、それは私たちだけの暗黙のルール。私は知っている。そして慶人も知っている。あれは、まだ熱烈に愛し合っていた頃、彼が決めた決まりだった。当時、彼は社会に出たばかり。私は仕事が波に乗り、毎晩のように会食や接待で遅く帰っていた。ある日、ほとんど夜明けに近い時間になって帰宅すると、ソファで丸まっていた彼が、まるで子猫のように眠っていた。私の姿に気づくと、半分夢の中のまま駆け寄ってきて、おずおずと尋ねた。「紗月、十一時までに帰れないの?」あの頃は、まだ付き合い始めて間もなかった。彼は明るく快活な性格だったのに、私の遅い帰宅が続いたせいで、少しずつ疑い深く、敏感になっていった。潤んだ瞳に、バースデーケーキのクリームが口元に残っていた。彼の誕生日のその日、私はどうしても断れなくて――頷いた。「二週間だけよ」それからの彼は、堂々と電話をかけてきては言った。「紗月、十一時だぞ。帰ってこいよ」まるで小さな管理人みたいな口ぶり。やがて、彼が「十一時だ」と口にするだけで、私は反射的に答えるようになっていた。「帰らなきゃ」私たちだけの暗黙のルールだった。けれど――あまりにも暗黙の了解になりすぎて、ふと気づく。あの二人だけのルールは、いつの間にか終わってしまっていた。いったい、いつか
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第3話

私は友人の険しい表情を見て、気まずさを誤魔化すように言葉を足した。「たぶん下半期になるかな。結婚式の準備って面倒だから」その場では、私の体面を考えたのか、慶人は黙り込み、それ以上反論しなかった。けれど帰宅すると、彼は怒りをぶつけてきた。「紗月!なんで俺を追い詰めるんだ?!俺はまだ二十五だぞ!」――だから何?私は彼を一瞥し、可笑しさすら覚えた。付き合い始めて三年。最初の頃の彼は、いつも私の腕にしがみつき、夢見るような顔で「早く結婚したい」と言っていた。誕生日に願ったことも、二年続けて「紗月と結婚したい」だった。それが、たった一年で忘れてしまったのだろうか。その夜の口論は結局、何の結論も出なかった。彼が一方的に怒鳴り散らし、私はただ疲れ果てていただけだった。頑なな表情を見つめながら、私はもう議論する気力すらなく、自分が本当に彼を追い詰めているのかどうかさえ考えるのをやめていた。慶人は怒りに任せて家を飛び出し、そのまま夜明けまで帰ってこなかった。――きっとあの日、悠里が彼を探しに来たのだろう。でなければ、翌日すぐに「独身最後の夜に行く」と言い出すはずがなかった。そして今日もまた、独身最後の夜。電話口で悠里の催促が急かすように響き、私が言葉を発する前に、慶人は慌てて通話を切る。深夜になってようやくメッセージが届く。【紗月、俺はお前を一番愛してる。明日の夜は帰るから】以前、ネットでこんな言葉を読んだことがある。――夜遊びして帰ってこない男が、深夜に突然愛を囁くとき。それは、一緒にいた女が用済みになった証拠だ。そして案の定。また別の番号から写真が送られてくる。写真には、頬を染め、虚ろな眼差しを浮かべる慶人の姿が写っている。【あんたが面倒見てくれるおかげで、私は楽させてもらってるわ。ありがとう】相手の挑発は、私にはただ滑稽に映るだけだ。スマホを閉じ、私は慶人へのメッセージにすぐには返事をしない。結婚式まで、もう半年もない。私が何も言わなければ、彼はその期間を「独身最後の夜」で埋め尽くすに違いない。欲望を満たすために。そして、私への不満を示すために。三年の関係で、彼はずっと私が離れられないと信じ込んでいる。でも、それは間違いだ。私はずっと冷静だった
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第4話

夜風に混じって、男の声とかすかな酒の匂いが漂ってくる。私は思い出す。初めて慶人の家に行ったとき、この男がじっと私を見つめていたことを。その視線に戸惑い、いくら考えても覚えがなく、知らない人間だと確信した。今も同じだ。慶人と出会う以前、私はこの男と何の接点もなかった。けれど今、彼は目の前に立ち、再び口を開く。「紗月……考えてみてくれ」私は腕を組み、慶人よりもずっとがっしりした体つきの男を見上げる。「私、まだ彼と別れてない」彼はうつむき、身をかがめて私を覗き込む。鋭い輪郭をした顔が視界にさらされる。視線が交わり、彼は平然と事実を述べる。「でも、君たち結婚してないだろ」「準備してる」「結婚したって、離婚はできる」私は笑って、首を傾げながら彼を見る。「そんなに兄を不幸にしたいの?」彼は黙り込み、うつむいたまま、かすれるような声でほとんど懇願するように呟く。「……俺のことを考えてくれ」男の弱さは、ときに女の同情を誘う。けれど私は知っている。美しいものには、決まって棘が潜んでいる。まして、自分から転がり込んでくるような相手なんて、私には手に余る。拒もうとしたその瞬間、彼は言葉を遮るように、手にしていたケーキを強引に私に押し付ける。それは、私が大学時代によく食べていた店のものだ。「……考えてくれ」私と彼が向き合ったその時、スマホが鳴り響いた。深夜の静けさに刺さるような着信音。慶人からだ。通話を繋ぐと、さっきまでの余裕はなく、慶人の声が慌てて飛び込んでくる。「紗月、どうした?何か誤解してないか?すぐ帰るから、会って話そう」私は何も言わない。その間に、目の前の男が一歩踏み出す。酒の匂いに、彼の体から漂う木の香りが混じり、鼻腔を刺激する。彼は通話中だというのに全く気に留めず、平然とした顔で、とんでもない行動に出る。私を押しのけ、自分から部屋の中に入り込む。「君と慶人が別れる必要はない。すべては俺が選んだことだ」慶人がどこまで聞いていたのか分からない。次の瞬間、声が強張る。「誰だ?そばに誰がいる?」通話を切ろうとした瞬間、男が代わりに口を開く。「……俺だ」慶人はその声に気づき、一瞬黙った後、叫ぶ。「篤志(あつし)?」
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第5話

男は小さくうなずき、何も言わずに私の裁きを待つように立っている。私は深く息を吸い込み、皮肉っぽく口を開く。「……帰りなさい。年下には興味ないの」――自分でも信じていない言葉だ。篤志は、間違いなく多くの女が好むタイプだ。年下で、整った顔立ち。寡黙で、自分の判断を持ち、愛のためなら何もかも捨てられる。かつて慶人と付き合っていた頃、私は甘えてくる男が好きだと思っていた。だが今になって、その考えがいかに愚かだったかを思い知る。私が欲しいのは彼氏であって、崇める対象じゃない。けれど、どれほど道徳も良心も失っていたとしても、元彼の弟とそのまま繋がることはない。私の拒絶を前にしても、篤志は一歩も引かず、むしろ視線をぶつけてくる。「君には関係ない。全部、俺が仕掛けてることだ」その眼差しは鋭く、全身を突き抜けて、心の奥を射抜こうとしている。私は数秒考え、それから黙ってドアを閉じる。慶人が先に裏切った。私は彼に別れを告げる。そして彼の弟が、私の独り身の時に自らやって来た。私たちが一緒になるのは――理屈としては合っている。私の道徳心なんて、もともと低い。だからこそ、大抵の時間を私は自由に、気楽に生きてこられたのだ。部屋の中。緊張のせいで落ち着かず、所在なげに立ち尽くす少年を前に、私は指を立てる。「……三つ、約束して」篤志が顔を上げる。私は人差し指を揺らしてみせる。「一つ目。しばらくは関係を公にしないこと。おばあちゃんが受け止められないと思うから」彼は静かに聞き、何の異論も挟まない。私は中指を伸ばす。「二つ目。おばあちゃんが亡くなったら、私たちは離婚する」篤志は口を開きかけたが、やはり言葉にはならない。「三つ目。結婚しても、私の自由は縛らないこと」彼はその場に立ち尽くしたまま。私は近づき、つま先で立って、三本の指先で軽く彼の額を突く。――ドクン、ドクン。誰の心臓の音なのか分からないほど、激しい鼓動が空気を震わせている。篤志の頬が一気に赤く染まる。慌てて平静を装い、強がった声を絞り出す。「……俺にも一つ条件がある。できるだけ早く結婚すること」「いいわ」彼の焦りは本物だった。私が頷いた瞬間、すぐにソファに腰を下ろし、結婚式のプランを調べ始める。その手際の良
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第6話

【母】からのメッセージは続いている。【慶人の性格は分かってるでしょ。弟なんだから、もっと兄を思いやりなさい。年初に買ったあのマンションは慶人の結納に回しなさい。嫁入り道具ももっと揃えられるでしょ】それ以上は読まない。私はスマホを伏せ、寝室へと足を向ける。――表では愛想のいいあの年寄りが、裏ではこんなにも醜く口を利くのか。翌朝、私は空腹に目を覚ます。昨夜はケーキをひと口、ふた口食べただけで、ほとんど何も口にしていない。何か作ろうとキッチンに向かう。だがドアを開けた瞬間、最初に目に入ったのは篤志だ。彼はソファにきちんと腰掛け、昨夜と同じ姿勢で、眼鏡をかけたままパソコンに視線を落としている。私に気づくと、静かに眼鏡を外し、立ち上がってキッチンへ。戻ってきたとき、手には二つのビニール袋。中には、まだ湯気の立つ肉まんと豆乳が入っている。「食べなよ。温かいうちに」私は彼の隣に腰を下ろし、口に運びながらじっと彼を見つめる。あまりにも長く見つめすぎたのか、篤志はパソコンの画面をこちらへ向ける。「招待状、このデザインでいい?」ようやく、彼が何をしていたのかを知る。そこにあったのは――結婚式の流れをまとめたパワポのスライドだ。真剣な顔の裏に、どこか古臭ささえ漂う。使っているのは、ありふれたテンプレート。口に含んでいた豆乳を危うく吹き出し、私は腹を抱えて笑い転げる。――どうしてこんなに堅物なんだろう、この男は。篤志の耳がわずかに赤く染まる。それでもパソコンを差し出したまま、返事を待っている。私はどうにか笑いを収めるが、再び画面に目をやった途端、また笑いがこみ上げる。それを見た篤志も、つられて笑い出す。彼は切れ長の目にくっきりとした二重のラインを持ち、黒目と白目の対比がはっきりしていて、少しきつい印象を与える顔立ちだ。けれど笑った途端、その弧を描く上瞼が柔らかさを増し、不思議と深い情を帯びる。私が彼を見つめ、彼も私を見つめ返す。一瞬、空気が熱を帯びていく。このまま何かが起こるのではと思った瞬間、ドアが乱暴に開かれる。空気は一気に破られた。「紗月、俺だ。帰ったぞ」慶人。一週間以上の口論の後、初めて彼が家に戻ってくる。「篤志、まだいたのか」慶人は自然に篤志
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第7話

私は肉まんを頬張ったまま。代わりに篤志が答える。「……一か月後だ」肉まんを飲み込んだとき、初めて慶人の体にかすかな煙草の匂いを感じ取る。私が吸ったことのない種類。どこか甘い香りを帯びている。「そんなに早めるのか?!」慶人は驚いたように声を上げる。またしても篤志が返す。「早く決めたほうがいい」弟に何度も口を挟まれて、慶人は不機嫌そうに眉をひそめる。「篤志、お前の兄貴はまだ二十五だぞ」口では篤志に向けているが、その視線はずっと私に注がれている。――まるで私が言い出したかのように、責める色を宿して。篤志が冷静に言い返す。「それで?」慶人は答えられず、話題を逸らすように低い声で続ける。「仲間たちで旅行の計画を立てたんだ。今日の午後出発で、二週間くらい遊んでくる」「行きたいなら行けば」私は淡々と告げる。もう彼と私の間に、何の繋がりもないのだから。意外にもあっさりした返事に、慶人は嬉しそうに顔をほころばせる。そのまま、甘えるように私の胸元に頭を寄せようとする。――だが、またしても篤志の声が割り込む。「紗月、これを見て」私は立ち上がり、彼の背後に回る。肩越しに画面を覗くと、そこに映っていたのはパワポではなく、ただの文字列。――【羨ましい】怒りでもなく、嫉妬でもない。ただ、それは羨望の言葉だ。慶人はすでに部屋に入り、荷物をまとめている。私はキッチンに向かう途中、彼がスマホで誰かに音声を送るのを耳にする。「午後出発だ。独身旅行、行くぞ!」冷蔵庫から半玉のスイカを取り出す。その横を慶人が通り過ぎる。私の存在など目に入らない。――いや、たとえ気づいたとしても、きっと何も変わらない。私と彼の関係は、いつだって私が甘やかすばかりだった。篤志がパソコンを閉じ、私の横に来てスイカを受け取り、手際よく切り分けて皿に盛る。さらに葡萄を取り出し、水で洗う。慶人はまだ電話を続けている。声を潜めていて、内容までは聞き取れない。切り分けられた果物の香りが、部屋いっぱいに広がる。篤志の「羨ましい」が何を指しているのか、私には分からない。私はただ感覚に導かれるまま、篤志をソファに押し倒し、唇に軽く触れた。――それで少しでも彼の心が慰められればと願いながら
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第8話

おばあちゃんの様子は前より良くなっているが、それでも人の顔を覚えられない。記憶は曖昧で、私の手を握りしめて言う。「紗月、一緒に家に帰ろう」そして篤志の手も握りながら呼ぶ。「慶人、紗月をちゃんと守るんだよ」おばあちゃんの目には、私はまだ庇護が必要な子供のままらしい。間違って名前を呼ばれても、篤志は訂正しない。ただ目の前にしゃがみ、おばあちゃんが握りやすいように手を差し出す。濁った瞳を見つめながら、篤志は真剣に答える。「分かってるよ、おばあちゃん。俺が必ず、必ず紗月を守る」おばあちゃんの記憶は良くなったり悪くなったり。慶人のことだけを覚えているのが、一番厄介だ。けれど篤志は私に言う。心配するな、方法があると。慶人にできたことなら、彼にもできる。いや、もっと上手くやれる。「おばあちゃんを安心させてみせる。俺は慶人なんかより、ずっといい男だから」篤志はそう断言する。それから彼はますます忙しくなる。式の準備をし、おばあちゃんを世話し、合間に家へ戻っては私の意見を聞く。体を三つに分けなければならないほどなのに、彼の口から愚痴は一度も出ない。これまでは、私が忙しいときは慶人がおばあちゃんを世話している。けれど今、その役目は突然、別の男に入れ替わる。病院では慶人の連絡先を知っている誰かがいて、電話が入ったのだろう。そのせいで――一週間も音信不通だった慶人から、ようやく電話がかかってくる。「紗月、篤志がおばあちゃんを見てるのか?」「そうよ」彼の声が少し乱れる。後ろめたさが滲む口調で続ける。「どうして篤志に任せるんだよ。あいつは不器用なんだ。俺が帰ったら、毎日俺が世話する」彼が正社員になってから、私は仕事が楽になり、おばあちゃんのもとへ通う時間が増えた。その代わり、慶人はますます忙しくなった。きっと彼自身も気づいていないのだろう。もうどれだけ長く、おばあちゃんの顔を見ていないのか。――おかしな話だ。私が最も忙しかった頃が、二人にとっていちばん幸せな時期だったなんて。「もういいわ。必要ない」私は短く返す。慶人は話題を変える。「結婚写真は、俺が帰ってから撮ろう。明日は母さんと一緒に新居を見に行け。気に入らないところはメモしておいて」「慶人、誰と話してるの?
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第9話

慶人の母は一瞬固まる。「明後日?明後日なら、慶人はまだ帰ってこないじゃない」誰も答えない。私と篤志は、ただ黙って彼女を見つめる。何かに気づいたのか、彼女は篤志を引っ張って寝室へ。私は良心なんて持ち合わせていない。だから、ドアに耳を当てて盗み聞く。「弟のくせに、兄貴の相手を横取りするつもりなの?この部屋だって、慶人に譲るって約束したでしょう。変な気を起こすんじゃない!あんたが昔から彼女に憧れてたのは知ってる。でもあの子はあんたの義姉になる人なんだよ!」篤志は黙ったまま。母の叱責をただ受け止めている。――母親って、どうしてここまで偏れるんだろう。私はドアを叩いて止めようとした。けれど篤志の声が先に響く。「……言いたいことは終わった?終わったなら、俺は行く」「どこに行くの!」「病院だ。紗月のおばあちゃんを看る」その一言で、全ての仮面が剥がれ落ちる。「篤志!」彼女の声は鋭く尖る。「あんたの義姉なんだよ!」けれど篤志は感情を揺らさず、静かに告げる。「……すぐに、そうじゃなくなる」――そして、ついに婚姻届を出す日が来る。その日、篤志は珍しくスーツを着て、私を急かすように玄関へ連れ出す。出かける直前、スマホが鳴る。慶人だ。受話器の向こう、怯えたような声。「紗月……最近、動画を見てないか?」「見たわ」篤志は隣に立ち、黙って待っている。私は一歩進み、彼の手を握りしめて、電話口に言う。「用がないなら切るわ。今から婚姻届を出しに行くから」一瞬、沈黙。――きっと、部屋を見に行った日のことを察したのだろう。それでも慶人の声は軽い。「また冗談ばかり言って。俺はまだ帰ってないのに、婚姻届なんて」署名して、婚姻届を提出する。ただそれだけで、結婚は成立する。けれど、今私の隣に立っているのは――三年間を共にした慶人ではなく、まだ一か月も経たない篤志だ。篤志は、受理印の押された婚姻届の控えを掲げ、何度も写真を撮る。やがて慎重に仕舞い込み、その書類を何度も見返しながら、小さく呟く。「……本当に?」私は笑って答える。「本当よ」ドレスショップで、篤志は何着ものウェディングドレスを選んでくれる。どれも美しく、その中から私は一つを選ぶ。カーテン
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第10話

篤志は、あまりにも多くの、途方もない理不尽を背負ってきた。私はティッシュを差し出しながら、途切れた言葉をただ聞き続ける。スマホに鳴り止まぬ着信が続いていたことにも、気づかないほどに。写真が仕上がると、私はSNSに投稿する。――【結婚】添えたのは二枚の写真。一枚は、私を見つめる篤志の赤く潤んだ瞳。もう一枚は、受理印の押された婚姻届の控え。控えに私と篤志の名前が記されている。私は家へ戻らず、そのまま篤志の部屋へ。玄関を入ると、彼は自分の感情を持て余しているのか、俯いたまま私を見ようとしない。私は先にシャワーを浴び、リビングに戻る。そこにあったのは、居間の飾り棚に端正に置かれた婚姻届の控え。顔を上げて眺める彼の姿は、まるで突然飴玉を与えられた子供のようで――けれど口にする勇気は持てずにいる。私に気づくと、彼は横顔を向ける。複雑な色を宿したまま。「……紗月。俺は、慶人が羨ましい。三者面談に母さんは来なかった。冬に編まれたマフラーも、俺には一度も渡されたことがない。みんなが好きなのは、いつだって慶人……君もそうだろ」自嘲気味に笑みを浮かべて、彼は続ける。「俺が欲しいものは、全部兄貴に取られた。子猫を拾って育てても、慶人が欲しいと言えば渡すしかなくて、三日もしないうちに死骸がゴミ箱にあった。高校の時、推薦枠を取れるはずだったのに、腹を壊して試験を受けられず……その席を取ったのも慶人だった。この部屋も、必死に貯めて買ったのに、母さんは慶人に譲れと言った。俺はずっと、君に片想いしてた……慶人には別に好きな女がいたのに、それでも先に君の隣に立った」篤志の言葉は途切れず、思いつくままに溢れ出す。私は隣に座り、静かに耳を傾けるだけ。やがて彼は、ため息のように呟く。「……俺が欲しいものは、最初から一度も、本当に俺のものになったことがない」その言葉は、掠れるほど小さな声。けれど確かに私の胸に響いてくる。――それは同情なのか、それとも別の感情なのか。私は彼に口づける。まるで、もう一人の自分に触れるように。そして彼の指をそっと握り、その薬指に指輪をはめる。彼は明らかに動揺している。胸が上下に大きく揺れ、視線を上げたときには、すでに涙で瞳が滲んでいる。「紗月……紗
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