All Chapters of 花びらの向こう、君の姿は見えなくて: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

真美の瞳孔がきゅっと縮み、背中に冷や汗がにじんだ。彼女はおびえた声で顔を上げる。「瑛司さん、な、なにを言ってるの?かれんさんがどこへ行ったかなんて、私が知るわけない。このドレス、瑛司さんがくれたんじゃないの?」瑛司はもう考えることすらできなかった。彼は真美の腕を強くつかみ、目に嵐のような怒りを浮かべた。「いつ俺がお前にウェディングドレスをやった?もう一度だけ聞く。かれんはどこだ?」真美はこんな瑛司を見たことがない。止まらないほど首を振り、そのまま力が抜けて床にへたり込んだ。胸を締めつける不安が一気に押し寄せ、瑛司の理性は崩れ落ちた。一歩踏み出し、真美の喉をわしづかみにする。だが力を込める前に、背後から悲しい葬送曲が響いてきた。黒い喪服の一団が、白い棺を担いでまっすぐこちらへ。先頭の男が深く一礼する。「藤原さん、かれんさんはここにいます」瑛司の血の気が引き、体が固まる。次の瞬間、先頭の男の顔面に拳を叩き込んだ。「俺の結婚式なのに、自分が何を言ってるか分かってるのか!?もう一言でもふざけたことを言ったら、全員まとめてあの世送りにしてやる!」それでも男は怯まず、静かに続けた。「信じないなら、ご自分でご確認を」怒りに震える瑛司は、人垣を押し分けて棺へと突き進む。棺の中を見た瞬間、全身の力が抜け、膝から崩れ落ちた。「かれん……かれん」男は襟を直し、低く告げた。「かれんさんは昨日、海に身を投げて亡くなられました。収容の依頼を受け、こちらへ参りました。異議がなければ、死亡証明にご署名をお願いします」その一言で、海辺はどよめきに包まれた。「どういうこと!?」「かれんさんが突然亡くなったなんて!」記者のフラッシュが乱れ、ざわめきが広がる。だが瑛司の耳には何も入らない。うなりだけが残った。彼は棺の中を凝視する。震える手は宙で固まり、触れることさえできない。長く海に沈んでいたせいで、遺体は膨れ上がり、見るに堪えない姿。全身に傷とあざ広がり、薄黄色の液が白い布をじわりと濡らしていた。「ありえない……」後ずさりしながら、必死に首を振る。「そんなわけがない。昨日の朝、玄関で謝って、昨日……」昨日、俺は何をしていた――深く考えるのが怖くて、棺の縁をつかむ
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第12話

そのころ、ICUの病室で、かれんは2度目の緊急処置を受けていた。海に落ちた重傷に海水の浸食が重なり、高熱は下がらない。容体は危険なままだ。8時間後、手術室の灯りがようやく消えた。主治医がマスクを外し、外で待つ人物に首を振る。「患者さんは生きたい気力がとても弱いです。自然に目を覚ます確率は10%に満たない状態です。ただし……」医師は一拍置き、複雑な声で続けた。「電気ショック療法(AED)を積極的に使えば、覚醒の確率は80%まで上がるかもしれません。だが、その場合……二度と目を覚まさず、植物状態になるリスクもあります」扉の前に立つ長身の男が、わずかに身じろぎし、ガラス越しにベッドの上の彼女を見る。血の気のない美しい顔に、彼の目は黙って深く沈んだ。数秒後、男は短く言い置く。「電気ショック療法を使ってください」そして背を向け、歩き去った。――勝手に選んで、ごめん。――でも、生きることが何より大事だ。それからわずか3日で、かれんはまた手術室に運び込まれた。これで3度目だ。強い電流が体を貫いた瞬間、全身を焼くような痛みが襲う。脳が深海へ沈められたみたいにぐらりと揺れ、あのときの落下の浮遊感と重なり、体は勝手に痙攣した。さらにもう一撃。意識が一瞬だけ戻った刹那、過去の光景が津波みたいに押し寄せて弾けた。瑛司が耳元で「ずっと愛してる」と囁く。バージンロードを並んで歩き、指輪を交わす誓いが、いまも耳に残っている。だけど、母は無言のまま背を向ける。かれんが喉を裂くように呼ぶと、母は振り返った――顔の半分は血と肉でぐちゃぐちゃに崩れ、真っ赤な目で「走れ」と急かした。世界が反転する。振り向けば、瑛司の手の花束はいつの間にか鉄パイプに変わっていて、振り下ろされる先は自分だった。「やめて!」かれんは跳ね起き、枕は涙でぐっしょり濡れていた。胸は激しく上下し、息ができない。手の甲で乱暴に涙を拭い、指先が震える。しばらくして、呼吸は少しずつ整ってきた。麻のカーテンの隙間から夕陽が差し込み、ここが西洋国の高級療養施設の一室だと気づく。部屋は静かで穏やかだ。かれんは目を細く開け、乾いた唇を舌で濡らす。ぼんやりと10分は経っただろうか。やっとこれが夢じゃないと理解する。――まだ、生きている。金色の光が頬
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第13話

かれんは、この高級療養施設で暮らし始めた。日々は波ひとつ立たない湖みたいに静かで、どこか現実味が薄かった。バーカウンターの小麦色の女の子が、毎日、湯気の立つコーヒーを笑顔で運んでくる。かれんは午後になると庭で日向ぼっこをした。暖かい光が体を包み、時間はそっと流れていく。胸に刻まれた傷も、こんな柔らかな時間の中で少しずつかさぶたになり、平らになっていった。庭にはいつも野良猫がうろついている。昼のビスケットが余ると、こっそり餌皿のそばに置いてやる。猫たちが夢中で食べる様子を見ると、口元に自然と薄い笑みが浮かんだ。ある午後、茶色の猫が尻尾を揺らしながらズボンの裾にすり寄り、道案内みたいに歩いていった先は、木の柵で囲った日よけの下だった。エリオがキャンバスチェアに腰を下ろし、眉間にしわを寄せてスケッチしていた。足元には丸められた紙がいくつも転がっている。どうやら行き詰まっているらしい。引き寄せられるように、かれんは近づいた。視線は、彼のデザイン画に描かれたブルーサファイアのデザインに落ちる。「この石、重いカットは向かないよ。せっかくの生きた表情が削れちゃう。ダイヤのネックレスに留めたいなら、専用のカッターで自然に割って、角と光沢をそのまま生かしたほうがいい」そう言って、かれんの柔らかな髪が風に揺れ、彼の肩にふわりと触れた。エリオが反応する前に、かれんは彼の手から鉛筆を受け取り、デザイン画に素早く線を走らせた。エリオは固まる。心臓が不意にどん、と跳ね、胸の中で暴れる。脇にいたデザインアシスタントは思わず止めに入ろうとしたが、エリオが手で制した。ほどなくして、思わず息を呑むようなネックレスのデザインが目の前に立ち上がった。サファイアの亀裂が、ダイヤの煌めきと噛み合い、まるで自然に生まれた形のように見える。エリオはデザイン画を見つめ、目に一瞬だけ驚きを宿し、顔を上げた。「かれんさん、すごいセンスだ」少し間を置いて、真剣な声になる。「うちのデザイン会社に来ない?」かれんは一瞬だけ目を見開き、うつむいて笑った。「デザインの経験はゼロだよ。あなたの仕事、台無しにしないって保証、できない」エリオは書き加えられたデザイン画を摘み上げ、口元に生意気な笑みをのせた。「壊れるものなんていくらでもある。ひとつ増
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第14話

藤原グループ本社のビルはがらんとして、瑛司の頭上の白い照明だけが点いていた。デスクの上には調査ファイルが広げられている。目を覆いたくなるチャット履歴、下品な写真と言葉。全部、真美と自分の関係を示す証拠だった。【瑛司さん、こうされるの大好きなんだよ】【今日はもう歩けないかも、瑛司さんて本当に初めてみたい……かれんさんもこんなこと、あった?】まつ毛が勝手に震え、顔から血の気が引く。かれんは、全部知っていた。いつからだ?いつ気づいたんだ?瑛司はファイルをめくり返し、あの番号から送られた最初のメッセージを見つけた。【小犬が溺れてる。ご主人様、助けに来て】そのときの自分の返事は【すぐ行く】あの日にはもう、すべて知っていたのか。翌朝、赤い目でフルハイトの窓辺に立っていたかれんの姿が蘇る。心臓が鷲づかみにされ、息ができない。専用回線が鳴り、秘書の声が落ちた。「藤原さん。あらゆる手を尽くしましたが、かれんさんの身分が……すでに抹消されています。追跡しようにも、足取りがどこにもありません」晴天の霹靂みたいな二言で、視界が真っ黒になる。胸をつかんで大きく呼吸を繰り返すのに、痛みは骨の隙間まで染みてきた。そこへ、古くからの仲間たちが数人、USBを持って入ってきた。「瑛司さん、これ。ブルーグレイスネックレスに仕込んだカメラの映像だ。まずこれを」仲間たちが無言でうなずき合い、USBをノートパソコンに差し込んだ。最初に映ったのは、ネックレスを握るかれん。乾いた笑み。次のカットでは、海から拾い上げたネックレスを手にした真美が、無邪気な顔でこちらを見る。そこから先は、かれんの視点。画面の中の自分の目には、どうしようもない欲と、どこか切なさが浮かんでいた。自分の顔を見つめながら、まつ毛が止まらず震える。握った拳の指先が白くなる。映像は早送りされ、かれんが母を甲板へ引き上げ、部屋で荷造りする場面へ。瑛司の心臓が跳ねた。「見ろ、かれんは死んでない!怒って出ていっただけだ!」「今すぐ探しに行く!行くぞ!」誰も立たず、黙り込んでいた。「どうした?信じられないのか?」言い終える前に、別のモニターから悲鳴が上がり、ジリッというノイズに自分の声が重なる。「俺の人間に手を出すとは、命がいくつあって
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第15話

豪華なオフィスは静まり返っていた。瑛司のまぶたがピクピクする。怒りは鋼の針みたいに胸を刺し、視界が何度も暗くなる。耳に最後の一言が引っかかった。「麻袋の中のゴミは、サメの餌にしろ」ガタン、と倒れたキャビネットがノートパソコンを粉々に潰した。瑛司はその場に立ち尽くし、周囲の空気まで凍りついたようだった。仲間たちは顔を見合わせ、ついに現実を受け入れたと思ったのか、ひとりが肩に手を置こうとする。触れた瞬間、瑛司は「うっ」と血を吐き、よろめいて数歩さがり、そのまま膝をついた。目は底なしに黒く、氷水に浸したみたいに冷たい。「車を出せ。南区の別荘へ行く」命令に逆らう者はいない。ロールスロイスは一直線に飛ばし、屋敷に着いたとき、真美はソファで果物をいじりながら電話で甲高くしゃべっていた。玄関に立つ、地獄から這い出たみたいな影に、まるで気づかない。「クルーズでかれん母娘を縛ってた連中、見つかった?使えないわね。逃がした?死ぬまで叩きのめせって言ったでしょ!殺す勢いでいかなきゃダメでしょ!もし瑛司にバレたら、全員終わりよ!そうよ。私、お腹に彼の子がいるのに、まだあの女を探してるなんて。たとえ遺体が上がっても信じないんだから、笑っちゃうわ……」その一言一言が針になって胸に突き刺さり、瑛司の顔色は一瞬で真っ青になった。彼は真美の背後に立ち、低く笑った。「へえ。全部知ってたんだな」女の体がびくりと固まり、スマホが床に落ちて粉々に割れた。足に力が入らず、振り返った顔は真っ白。甘え声にも震えが混じる。「……瑛司さん、帰ってたの?先に言ってくれればよかったのに。ちょうど、私も赤ちゃんも、会いたかったの……」瑛司は真美の頬をつかみ、指先が震えるほどの力で締め上げた。「かれんの件、お前の仕込みだな?」真美は瑛司の鋭い視線にビクビクし、歯をガチガチ鳴らしながら、震える声で絞り出す。「わ、私……何のことか、わからない。け、瑛司さん」瑛司は彼女の喉をつかんで壁に叩きつけた。「分からない?じゃあこれは何だ?」分厚いファイルを顔面に叩きつける。真美の心臓が凍り、血走った彼の目を見上げてすがる。「違うの、瑛司さん、違う!全部、偽物だよ!」瑛司の笑い声は大きくなり、最後には獣の咆哮に変わった
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第16話

真美は顔を上げた。充血した目に凶暴な光が宿る。「教えてやる。あなた自身だよ。あなたが、自分で一番大事な人を殺したのよ!口では愛してるって言いながら、裏で私のベッドに潜り込んでた!彼女が昏睡してる間は替え玉を山ほど抱いて、最後は私をそばに置いた。そのうえ、私に子どもを産ませて、彼女の養子にするつもりだったんでしょ!かれんさんの母親だって、あなたが殴り殺して海に捨てたじゃない!麻袋に詰めて海に落とされたとき、あの人、どれだけ絶望したと思う?……ははは」瑛司の瞳孔が縮み、また開く。心臓が引き裂かれる。彼は突然、笑った。「そうだ。俺だ。だから、一緒に地獄へ行って、彼女に詫びよう」真美の心臓がきゅっと縮む。刃を振り上げた瑛司の姿が、瞳にくっきり映る。次の瞬間、刃は彼女の顔へ一直線に落ちた。「――っ!」鮮血がはじけ、真美は床に倒れて絶叫した。顔には骨がのぞくほどの深い傷。血と涙が滝みたいに流れる。「やめて!痛い!瑛司さん、私が悪かった!あああ!」瑛司は聞かない。もう一度腕を振り上げ、今度は彼女の腹へ刃先を向ける。「だめ!お腹の子だけは!瑛司さん、お願い、やめて!この子は、あなたの子だよ!私、かれんさんの前で土下座する。何でもする、だから……痛い、お願い……」鋭い刃が肉を裂くビリという音。最後の悲鳴は、ぷつりと途切れた。真美は血だまりに沈み、苦痛で歪んだ顔のまま動かない。「……ふ、じ……わら……くた……ばれ……」瑛司の全身は血まみれで、その瞳は異様な赤に染まっていた。瑛司は血まみれのナイフを放り捨て、床に転がる無残な真美を無表情で見下ろした。そして、淡々とスマホを取り出し、後始末を呼びつけた。「主治医を呼べ。どんな手を使ってもいい、絶対に真美を生かせ。それから、あいつの口を縫って、赤い街に放り込め。生きたまま、地獄を味わわせろ」そう言い捨て、浴室に入り、丁寧に血を洗い落としてから、かれんが好きだったスーツに着替えた。仲間たちが駆けつけたとき、別荘はもう何事もなかったみたいに整っていた。ただ、空気にごく薄く血の匂いが残っている。瑛司は屋上の縁に座り、精気を抜かれた死人みたいになっていた。「お前ら、かれんが落ちたとき、どれだけ痛かったと思う?仇は取った。……じゃあ、
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第17話

かれんはエリオの会社で、初めての給料をもらった。金額は6億円。彼女は太っ腹に、会社のみんなをクルーズに招待した。デザインアシスタントたちは陰でささやいた。エリオはどこからこんな宝物を拾ってきたんだと。顔は抜けて綺麗で、性格まで文句なし。エリオは聞いてもうつむいて笑うだけで、何も言わなかった。表向きの日々は軌道に乗った。けれどエリオは、かれんの少し意地っ張りな横顔を見るたび、胸の奥が重く沈んだ。これで8回目だ。捨てられたデザイン画に、消しゴムで何度も擦られた「瑛」の字の跡。そばには赤いしみ。近づいて鼻を寄せても、鉛筆のにおいしかない。その赤がマーカーなのか、彼女の血なのか、分からなかった。どしゃ降りの未明。エリオが会社に忘れ物を取りに戻ると、遠目にも、かれんがまだデスクで何かを書いているのが見えた。淹れたばかりのコーヒーを持って近づき、数歩手前で声をかける。「こんな時間まで、まだデザインしてるの?」デスクの人影がびくりと震え、慌てて下書きの字を拭った。けれど、あの「瑛」の痕ははっきり残っていた。かれんは振り向き、笑ってみせた。「落書きだよ。次の給料日のために、ちょっとでもネタ貯めとかないと」取り繕いは完璧。けれどエリオは、隠しきれずに滲んだ痛みを、その目の奥に見た。「送るよ。遅すぎる」コーヒーを置き、彼は提案した。かれんは断らず、うなずいた。会社が用意した一戸建ての前に着くと、かれんは礼を言ってドアを開け、降りた。だがエリオは車内でしばらく待った。灯りが、いつまでたっても点かない。眉間にしわが寄り、胸に不安が広がる。彼女の心に踏み込みたかった。何にそんなに張りつめているのか、知りたかった。どうして西洋国みたいに陽射しの強い場所なのに、いつも長袖長ズボンで体を隠しているんだろう。花の盛りの年頃なのに、どうしてあんなに眉間に影を落としてるんだろう。あのデザイン画に繰り返し現れる「瑛」の一字は、過去の何を引き寄せているのか。苛立ちとも焦りともつかない感情が胸に満ち、初めて会った日の情景が浮かぶ。全身傷だらけなのに、唇を噛んで一言も弱音を吐かなかった女。給湯室でこめかみを揉むほど疲れているのに、差し出したコーヒーを静かに避ける、薄い拒絶。雨の日は一歩も出ない。雨粒が窓を叩く
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第18話

エリオがドアノブにかけた手を、ぴたりと止めた。「あれは、私の母よ。父が亡くなってから、母は私の唯一の家族だった。あなたが私を海から引き上げる直前、目の前で、母の息が止まったの」かれんの声は起伏がなく、まるで他人事を語るみたいだった。「母を殺したのは、18年愛した男」エリオのまぶたがぴくりと跳ね、口を開いたが、喉が渇いて声が出ない。彼は、連れ帰った日の診断書を思い出す。「君を連れて戻った日、医者が、体中が粉砕骨折に近かったって」かれんは身を起こして窓辺へ歩いた。「ええ。それも彼がやったこと。たった1か月の付き合いの女のために、彼は母を殺して、私の一生を壊した」ゆっくり振り向いた顔には、乾いた笑み。美しい顔立ちさえ、どこか寂しげな影が浮かんでいた。窓の前に立つ細い背中を見つめながら、エリオは、この痛みが彼女にどれほど重いのか想像もつかず、思わず呟いた。「神さまが、憎しみを手放せば、いつか……」かれんの指が窓枠でぴたりと止まり、ばっと振り向いた。痛いところを踏まれたみたいに、怒りが一気に燃え上がる。「手放す?私に手放せって言うの?藤原瑛司は母を殺して、私の人生を潰した。どうして私が手放すの?私は、私が受けた苦しみを全部あいつに味わわせる!それが公平ってものよ!エリオ、私がひどい女に見える?正直に言うけど、庭に現れたのも、あなたの鉛筆を取ったのも、あなたの会社に入ったのも、全部わざとなの!お金がいる!力もいる!復讐のために。私は藤原グループを叩き潰す!藤原瑛司を、私の目の前で跪かせて謝らせる!」かれんは全身を震わせ、手首の包帯にじわりと赤い血が滲む。言い終えるやいなや、エリオは彼女を抱き寄せた。「違う。君は悪くない。少しも悪くない」かれんは腕の中でもがいたが、すぐ力が抜け、彼に身を預けた。「ごめん。取り乱した。ごめんなさい……少し一人にしてくれる?」「だめだ」エリオは彼女の手首をそっと押さえた。「傷が開いてる。専門の医師に巻き直してもらおう。それに、今日は陽に当たるほうがいい」窓の外、朝日がちょうど昇る。金色に染まるエリオを見て、かれんは肩の荷が少しだけ軽くなった気がした。二人が病院を出るころには、空はすっかり明るい。西洋国の街角では、露店の呼び込みが石畳の路地に
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第19話

かれんが振り向いた瞬間、瑛司は息が止まった。よろめきながら駆け寄り、瞬きもせずに彼女を見つめる。心臓が胸から飛び出しそうだ。もう瑛司は、そんなこと気にしている場合じゃなかった。前はスーツにしわがついただけで着替え直していた男が、今は全身ぼろぼろで、目尻を赤くして、震える手を宙に浮かせたまま、かれんの前に立っていた。「かれん……だよな?かれん、お前だ。どうしてだ?どうして死んだふりなんてして俺の前から消えたんだ?かれん……会いたかった。本当に、会いたかった」やっと見つけた。けれど言葉が出ない。ただ抱きしめたかった。かれんは全力で振りほどき、一歩下がる。瞳は氷みたいに冷たい。陽が髪を金色に縁取る。その眩しさが、逆に瑛司の胸を締めつけた。確かに、彼の「かれん」だ。なのに、どうしてこんなにも冷たい。瑛司は取り乱して彼女の腕をつかむ。「かれん、家に帰ろう。俺と一緒に帰ろう。全部分かってる。真美はもう俺が始末した。ほら……」差し出したのは何枚もの写真。目隠しされ、裸で縛られた真美が、赤い街に吊るされている。「毎日、客取りさせてる。俺が仇を取った」どれだけ言葉を重ねても、かれんは黙って彼を見ているだけだった。狂った人間でも見るような目で。その冷たい視線は、刃物みたいに瑛司の心臓を刺した。彼は胸を押さえ、必死にすがる。「帰ろう、かれん。本当に会いたかった。頼む、帰ろう……」抱き寄せようとした瞬間、脇からエリオが飛び出し、拳で瑛司を弾き飛ばした。「藤原さん。謝ったら、もう消えてくれ。かれんはあなたのところへは戻らない」頬を押さえながらゆっくり振り返ると、瑛司の目が一瞬で赤に染まる。よろよろと立ち上がり、荒い息のまま絞り出す。「かれん。そいつは誰だ?」陽は照りつけているのに、全身が凍るほど寒い。かれんは答えず、エリオの袖を引いて言った。「ここは私に任せて」エリオはその頑なな目を見て、うなずくしかない。かれんはほっと息を吐き、瑛司を見た。「あなたには関係ない」「藤原瑛司、私のことは死んだと思って。この先の一生、あなたと関わることは二度とない」短い言葉が、刃になって瑛司の心を貫く。瑛司は初めて、「心が裂ける」という感覚を味わった。彼はかれんの手首を乱暴に掴む。「なぜだ?ど
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第20話

瑛司は待ちきれない様子でかれんを連れ出し、西洋国のとある別荘へと車を走らせた。ドアが開いた瞬間、かれんは立ち尽くした。中のインテリアが、国内の家とまったく同じだった。瑛司は震える手で背後から抱きしめ、恐る恐る囁く「気に入ったか?ここが好きなら、一緒にここに住もう。どう?明日すぐに式を挙げよう。俺が今まで欠かしてきた分は、全部返すから」かれんは何も言わない。ただ、居間の真ん中で冷ややかに立っているだけだった。瑛司は彼女を離すと、靴も脱がずに台所へ飛び込んだ。「かれん、甘酒を作る。お前の大好物だ。最近は忙しくて、作ってやれなかった。今夜は俺が飲ませる。いいな」米を研ぎ、麹を混ぜ、手元は慌ただしい。それでも彼女が逃げないかと何度も振り返る。熱い湯気に手の甲を何度も焼かれても、気づきもしない。汗だくでお椀を運び、かれんの唇へそっと差し出す。彼女は顔をそむけた。どれだけ頼んでも、口を開こうとしない。ふと、のぞいた首元の傷跡が目に入り、瑛司の胸が強く締めつけられる。彼はそっとお椀を置いた。寝室からゴルフクラブを持ち出し、かれんの前へ差し出す「まだ怒ってるよな?お前が受けた痛み、俺に返してくれ」かれんはクラブを弾き飛ばした「それで足りると思ってるの?甘すぎる。あなたが私に負わせたものは、千回切り刻んでも償えない!」瑛司の顔から血の気が引く。胸のあたりが生きたまま裂かれるみたいに痛んだ。やっと分かった。彼女がどれほどの痛みを抱えていたかを。立ち去ろうとするかれんに、瑛司は無言でナイフを差し出した。かれんは眉をひそめる「何をするつもり?」瑛司は何も言わない。彼女の手を握り、そのまま鋭い刃を自分の胸へ突き立てた。ズブッという手応えと同時に、鮮血が噴き出し、かれんの腕をつたって落ちる。かれんは思わず手を引こうとしたが、瑛司は必死に押さえつけた。「動くな、かれん……」額の血管が浮き上がるほどの痛みに耐えながら、彼は彼女の手を握ったまま、刃先を胸の上で何度も滑らせる――「これは俺の借りだ。返させてくれ」肉を裂く音が耳に刺さり、かれんの全身が震える。瑛司の胸に血が広がり、シャツはすぐに真っ赤になった。上半身は見る影もない。それでも彼は痛みを感じないかのように動きを止めない。最後に
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