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花びらの向こう、君の姿は見えなくて

花びらの向こう、君の姿は見えなくて

By:  キカイCompleted
Language: Japanese
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椎名かれん(しいな かれん)はICUの病室で98日間、昏睡状態にあった。 その間、藤原瑛司(ふじわら えいじ)は98人の女を病室に連れ込み、長い時間を欲望で紛らわせていた。 99日目、かれんは突然目を覚ました。一瞬目に飛び込んできたのは、ベッドの足元で密着している二人の姿。 全身が震え、怒りで息が詰まるのに、声は出なかった。 やがてその女は、瑛司に腰を抱かれて病室を出ていった。 満足げな表情で振り返った瑛司の視線は、不意にかれんの絶望に満ちた瞳とぶつかった。 心臓が大きく揺さぶられ、呼吸が止まる。 「かれん……お前、目を……」

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Chapter 1

第1話

椎名かれん(しいな かれん)はICUの病室で98日間、昏睡状態にあった。

その間、藤原瑛司(ふじわら えいじ)は98人の女を病室に連れ込み、長い時間を欲望で紛らわせていた。

99日目、かれんは突然目を覚ました。一瞬目に飛び込んできたのは、ベッドの足元で密着している二人の姿。

全身が震え、怒りで息が詰まるのに、声は出なかった。

やがてその女は、瑛司に腰を抱かれて病室を出ていった。

満足げな表情で振り返った瑛司の視線は、不意にかれんの絶望に満ちた瞳とぶつかった。

心臓が大きく揺さぶられ、呼吸が止まる。

「かれん……お前、目を……

違うんだ!そうじゃない!誓う、俺の心にいるのはお前だけだ!」

瑛司はよろけながらベッドに駆け寄り、かれんを抱きしめた。

けれどかれんは、全身を氷で覆われたようで、骨の髄まで冷え切っていた。

涙が頬を濡らし、胸の奥に空いた穴は鋭く痛む。

その後どれだけ瑛司が頭を下げ、必死になだめても、かれんは彼を見ようとしなかった。

やがて京央市に大雨が降った夜。瑛司は病院の玄関で三日三晩、雨に打たれたまま立ち続け、高熱を出し肺炎になっても動かなかった。

藤原家の当主が自ら頼みに来た。憔悴した母の顔を見て、かれんはついに心を許した。

その後、かれんは彼に付き添って注射や薬を受けさせ、瑛司は彼女のリハビリを支えた。

二人は表面上、以前と変わらぬ姿を取り戻したように見えた。

だが、その平穏は退院前夜に崩れる。

かれんの携帯に、知らない番号からメッセージが届いた。

【庭に来て。サプライズがある】

瑛司が仕掛けたサプライズだと思い、まだ完全には治らない足を引きずって庭に向かった。

そこで目にしたのは、瑛司が女を抱きしめ、唇を重ねている姿。

その女は、99日目に病室で見たあの女――篠原真美(しのはら まみ)だった。

心臓が強く締めつけられ、息ができなくなる。

かれんはよろめきながら外へ走り出した。

「かれん!違う、聞いてくれ!」瑛司が追いかけてきて、彼女を強く抱きとめる。

「瑛司……私たちは終わりよ!」

かれんは必死に抵抗しながら叫んだ。

言い争いの最中、背後でタイヤが急ブレーキをかける音が響いた。

振り返ると、一台の暴走車がまっすぐに迫ってくる。

次の瞬間、瑛司はかれんを突き飛ばし、自らはドンという衝撃音とともに車にはね飛ばされた。

「いや!」

かれんは地面に倒れ、全身血まみれで横たわる瑛司を呆然と見つめた。

医師と看護師が駆け寄り応急処置を始めたが、瑛司はかれんを必死に見つめ、治療に従おうとしなかった。

「お前が離れるなら、俺は死ぬ」

心電図モニターがけたたましい警報音を鳴らし、医師も看護師も一斉にかれんに視線を向けた。

血に染まりながらも異様な執念を宿した瑛司の目を見て、かれんは理解した。これは命を賭けた脅しだと。

けれど彼女はもっとよく分かっていた。自分はもう決して彼を許せない。

それでも、命を救ってくれたばかりの男を、見捨てることもできなかった。

指先が掌に食い込み、かれんは全身の力を振り絞って言った。

「……行かない。そばにいる」

その言葉に、瑛司の口元に微かな笑みが浮かんだ。

手術室の灯は丸一日消えず、かれんは叱られた子どものように、外で丸一日立ち続けていた。

やがて医師は告げた。「命は助かりました」

その後、瑛司はかれんを片時も離さなかった。

彼は京央市の上流社会に向かって宣言した。かれんは、自分にとって唯一の妻だと。

彼は数千億円規模の契約を投げ捨て、結婚式の準備に没頭し、ウェディングプランナーと夜通し案を練り直した。

長年仕えてきたボディーガードでさえ、今回ばかりは瑛司が本気でかれんを何よりも大切にしていると、ひそかに囁いていた。

かれんは笑って受け流した。

彼女が待っているのは、ただ一つ。

彼にきちんと別れを告げる機会だった。

退院の日。かれんは手続きを終え、一歩遅れて屋敷に戻った。

玄関の扉に手をかけた瞬間、室内から聞こえてきた会話に血の気が引いた。

「さすが瑛司だな、かれんさんを手玉に取ったもんだ!」

「本当だよ。前に病院で、お前に車突っ込ませてって言われたときは、正気を疑ったぞ!

血だって見るからに怪しい色の輸血パック使ったし、医者も看護師も全部エキストラだったし、バレやしないかヒヤヒヤしたけど、かれんさんは完全にびびってて、まったく気づかなかったな」

「そういえば救急室のあれはどうだった?お前と真美、やること派手すぎて手術台壊したって噂だぞ」

一斉に笑い声が上がる中、瑛司はソファにだらしなく身を預け、白いシャツの襟元を二つ外し、覗く鎖骨にシャンデリアの光が落ちていた。

まるで神様のような端正な顔立ちなのに、口を開けばその言葉は毒を含んでいる。

「この話をかれんに一言でも漏らしたら、お前らどうなるかわかってるな」

「わかってるって。お前がかれんさんを大事にしてるのは誰だって知ってるさ」

誰かが冗談めかして言う。「でもさ、一度ならまだしも、どうして真美をそばに置いてるんだ?かれんさんにバレたら本気で終わるぞ?」

瑛司は手首の数珠を指で弄び、数秒沈黙したあと、低く呟く。

「怖いさ。でも、真美にしか埋められないものがある。

それに十日後のあの結婚式で、十分に償える」

誰かが舌打ちする。「瑛司、それ本気でバレたら、今度こそ車に轢かれてもかれんさんは振り返らないぜ」

「彼女には絶対に知られるわけがない」

瑛司は立ち上がり、冷ややかな視線で全員を見渡した。「もし誰かがかれんに漏らしたら、そのときは覚悟しろ」

扉の向こうで、かれんの指がドアノブをきつく握り締める。

信じられない思いで微笑み、ずっと堪えていた涙がついに頬を伝った。

まさかここまで自分が弄ばれるとは思ってもいなかった。

二人は世間的には政略結婚だが、実際は幼なじみで、十年も一緒に過ごしてきた。

十周年の記念日、かれんが「アフリカの星空が見たい」と言えば、瑛司はすぐにプライベートジェットを手配して連れて行ってくれた。

その旅先で大規模な土砂災害に巻き込まれ、濁流と一緒に石が押し寄せてきたとき、瑛司はかれんを岸へ押し上げ、自分は全身傷だらけになった。

彼がベッドで傷だらけで寝ている間、かれんの白いドレスはほとんど汚れていなかった。

誰もが瑛司はかれんに夢中だと言っていた。

でも――かれんだって、彼を心から愛していた。

半年前、藤原家で権力争いが起きたときも、かれんは決定的な瞬間に瑛司をかばい、命を落としかけた。

ICUで99日間昏睡し、生死の淵からやっと帰ってきたのに――

彼女が目覚めて最初に見たのは、自分の病室で替え玉と抱き合う瑛司、繰り返される裏切りと嘘だった。

かれんは冷たく鼻で笑い、勢いよく涙を拭った。

「くだらない誇りも、瑛司も、もうどうでもいい。あんたの茶番には、もう付き合いきれないから」

あの数千億円もの結婚式なんて、かれんには全く価値がない。

いや、それどころか、彼に何倍もの大きな贈り物を返してやるつもりだった。

高いヒールを鳴らして背を向け、かれんはその足で三つの行動を起こす――
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第1話
椎名かれん(しいな かれん)はICUの病室で98日間、昏睡状態にあった。その間、藤原瑛司(ふじわら えいじ)は98人の女を病室に連れ込み、長い時間を欲望で紛らわせていた。99日目、かれんは突然目を覚ました。一瞬目に飛び込んできたのは、ベッドの足元で密着している二人の姿。全身が震え、怒りで息が詰まるのに、声は出なかった。やがてその女は、瑛司に腰を抱かれて病室を出ていった。満足げな表情で振り返った瑛司の視線は、不意にかれんの絶望に満ちた瞳とぶつかった。心臓が大きく揺さぶられ、呼吸が止まる。「かれん……お前、目を……違うんだ!そうじゃない!誓う、俺の心にいるのはお前だけだ!」瑛司はよろけながらベッドに駆け寄り、かれんを抱きしめた。けれどかれんは、全身を氷で覆われたようで、骨の髄まで冷え切っていた。涙が頬を濡らし、胸の奥に空いた穴は鋭く痛む。その後どれだけ瑛司が頭を下げ、必死になだめても、かれんは彼を見ようとしなかった。やがて京央市に大雨が降った夜。瑛司は病院の玄関で三日三晩、雨に打たれたまま立ち続け、高熱を出し肺炎になっても動かなかった。藤原家の当主が自ら頼みに来た。憔悴した母の顔を見て、かれんはついに心を許した。その後、かれんは彼に付き添って注射や薬を受けさせ、瑛司は彼女のリハビリを支えた。二人は表面上、以前と変わらぬ姿を取り戻したように見えた。だが、その平穏は退院前夜に崩れる。かれんの携帯に、知らない番号からメッセージが届いた。【庭に来て。サプライズがある】瑛司が仕掛けたサプライズだと思い、まだ完全には治らない足を引きずって庭に向かった。そこで目にしたのは、瑛司が女を抱きしめ、唇を重ねている姿。その女は、99日目に病室で見たあの女――篠原真美(しのはら まみ)だった。心臓が強く締めつけられ、息ができなくなる。かれんはよろめきながら外へ走り出した。「かれん!違う、聞いてくれ!」瑛司が追いかけてきて、彼女を強く抱きとめる。「瑛司……私たちは終わりよ!」かれんは必死に抵抗しながら叫んだ。言い争いの最中、背後でタイヤが急ブレーキをかける音が響いた。振り返ると、一台の暴走車がまっすぐに迫ってくる。次の瞬間、瑛司はかれんを突き飛ばし、自らはドンという衝撃音ととも
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第2話
かれんはまず、自分名義の二百億円相当のウェディングドレスとセットのダイヤの指輪を梱包し、真美に送りつけた。添えられていたメッセージには、ただ結婚式場の場所が書かれているだけだった。二つ目は、専門チームに連絡してフルセットの「死亡偽装」サービスを予約した。十日後の結婚式当日、棺桶が現場にきっちり届くよう手配した。三つ目、かれんはずっと準備していた資料を持って、国内の自分のすべての身分証明を抹消した。この世に、もう「椎名かれん」はいなくなった。十日後、瑛司がどこを探し回ったって、もう二度とかれんを見つけることはできない。すべてを片付けてから家に戻ると、すでに深夜になっていた。かつて上流社会の頂点に立っていた瑛司が、いまはエプロン姿でオープンキッチンに立ち、ひたすらお粥を作っている。扉の開く音に、瑛司は思わず振り返り、すぐさま駆け寄ってかれんを抱きしめた。「かれん、どこに行ってたんだ?あと少し帰りが遅かったら、京央中の人間総動員してでも探し出すところだった」彼の胸からは激しい鼓動が伝わり、その音で耳が痛くなるほどだった。かれんはその場で動けなくなり、胸が苦しくてたまらなかった。ふと、大学時代のことを思い出す。瑛司が藤原グループの代表として世界的なビジネスフォーラムで講演していたとき、全世界に中継されている舞台の上、かれんが十分だけ電話に出なかっただけで、彼は講演を中断し、プライベートジェットをチャーターして夜中に帰国していた。ただ彼女が無事かどうか、自分の目で確かめるためだけに。あの頃の瑛司は、本当に心からかれんを愛していた。それなのに、どうして今は他の女がいるの?喉の奥にしょっぱいものがこみ上げ、かれんは唇をきつく噛みしめ、今にもこぼれそうな嗚咽を無理やり飲み込んだ。しばらくしてから、冷たい声で答える。「ちょっと展覧会を見に行ってて、言うの忘れてた。ごめん」瑛司は明らかにほっとした顔で、かれんを抱いたまま思わず笑みを浮かべた。「バカだな、夫に謝る必要なんてないよ。心配してただけ。さあ手を洗ってきて、夜食の支度ができてるよ。かれんの大好物の甘酒も、ちょうど温めてある」そう言うと、彼は優しくかれんの髪を撫でてから、キッチンへ戻っていった。かれんはダイニングテーブルに寄りかかり、黙って彼の後ろ姿を見つ
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第3話
瑛司は自ら、紫檀の数珠を真美の赤い痕だらけの足首にはめた。「これは京央の寺の住職が生前ただ一度だけ開眼した数珠だ。一生お前を守ってくれる」彼は珠を指でなぞり、甘い声で言う。「好きなんだろ?なら大事に身につけろ。これからは俺きついって文句を言うな」真美はしゃくり上げながら、甘えるように彼に抱きついた。「ふん、それって人を痛めつけたお詫びでしょ。こんなダサい数珠、誰が欲しいの」そう言って足を上げて蹴ろうとしたが、瑛司にベッドへ押し倒され、影が重なった。動画は曖昧なもつれの途中でぷつりと途切れた。かれんの全身の血が瞬時に凍りつき、胸が激しく起伏し、目の前のお粥を払いのけた。あの数珠は、彼女の父の遺品だ。父が亡くなった年、彼女は些細なことで父と意地を張り、国外に3か月も身を隠していた。ある日ニュースで訃報を見て、彼女は狂ったようにチャーター機で帰国した。伯父は目を赤くして伝えた。父は目を閉じる前、最後の瞬間までこう呟いていた。「かれんはまだ帰ってこないのか?お父さんが悪かった。もう二度とかれんを怒らせない……」それはかれんが初めて自分のわがままの代償を払った日で、心が砕け落ちて気を失いそうになった。父は生涯信仰深く、最期に遺品はすべて焼却しろと遺言した。ただこの数珠だけは残して「かれんを守ってくれ」と言い残した。それから彼女は昼も夜も身につけ、一度も外さなかった。そして瑛司が土砂災害から彼女をかばったあの日、その数珠を彼の手首に着けた。彼が目を覚ますと、彼女を必死に探し回り、手首の数珠を見つけると涙で誓った。「かれん。この数珠は一生外さない」それから数年、彼はそれを宝物のように扱い、他人に触れさせることすら許さなかった。なのに今、彼は父が託した想いを、別の女の足首に自分の手ではめたのだ。かれんの心の奥が、止めどなくきりきりと縮む。彼女は憎んだ。どうしてこんな仕打ちができるのかと。彼にすぐ説明させようと、彼女は車の鍵を掴んで飛び出した。だが河沿いの高層マンションに着くと、エンジンを唸らせたままブレーキを踏み抜き、もう一歩も動けなくなった。19階のフルハイトの窓の前で、重なる二つの影が目に刺さるように見えた。突然スマホが震えた。差出人は瑛司。「かれん。今夜は会社が忙しい。先に寝てて。
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第4話
スタッフが皆を甲板へ案内し、足元のバラの花びらが夕風に巻かれて渦を描いていた。瑛司は手すりにもたれるかれんを背後から抱き寄せ、顎を頭にのせて、やわらかく囁いた。「気に入ったか?」かれんは伏し目のまま黙っていたが、首元のネックレスがふいに切れ、トップが一瞬で深い海へ落ちていった。かれんがわずかに眉を寄せると、瑛司はその一瞬の惜しさをすぐに察した。「俺が贈ったやつか?」彼女は唇を噛んで小さくうなずいた。巨大なクルーズ船は海面に張り出し、底は底知れぬ濃紺。どこかでサメの低い唸りが聞こえる気がした。瑛司はジャケットを脱ぐ暇もなく、手すりを乗り越えて飛び込もうと身を乗り出す。「心配するな。俺が取ってくる」かれんは彼の腕をつかんで引き止めた。「いい。もういいの。たかがネックレスだよ。そこまでしなくていい」かれんの瞳に広がる、氷のような冷たさを見て、瑛司の胸が不意に詰まった。あれは、かつて彼女が宝物みたいに大事にしていたものなのに。ふたりが18歳のとき、彼は3か月分の小遣いを貯め、自分で磨き上げたシルバーのチェーンに、ふたりのイニシャルを刻んだトップを下げた。彼女が十数年つけてきた、ふたりの証。なのに、どうして今は、いらないと言えてしまうんだ。手の中からこぼれ落ちていく感覚に、瑛司は理由もなく苛立ち、振り返って怒鳴った。「突っ立ってるな。探せ!今すぐ潜って探せ!」ボディーガードたちはその剣幕に青ざめ、慌てて潜水装備を用意した。待つ間、瑛司は直接ジュエラーに電話をかけ、埋め合わせに、すぐ新しい約100億円相当のブルーグレイスネックレスをオーダーした。やがてヘリコプターが轟音を立ててジュエリーボックスを甲板に下ろすと、船内の人々が一斉に息を呑み、驚きの声がわっと広がった。瑛司が彼女の首に慎重にネックレスをかけ、留め具がカチリと合った瞬間、背後からおずおずとした声がした。「瑛司さん、ネックレス……見つかりました」その手がびくりと止まり、ふたり同時に振り向く。濡れた瞳の真美と目が合った。真美は全身ずぶ濡れで、裾から水を滴らせ、切れたシルバーのチェーンを両手で抱えて、真っ青な顔をしていた。瑛司の周囲の空気が一気に冷え、声にも怒りが混じる。「誰が海に入れと言った?藤原家のボディーガードは死んだのか?」
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第5話
海の上で突然、雷鳴が轟いた。かれんの瞳孔がきゅっと縮み、胸のざわめきを押さえつけて、ゆっくり振り向いた。けれど視線の先にあったのは責める目じゃない。十段のシュガーケーキを押して近づく瑛司だった。蝋燭の灯りが、その目にやわらかく揺れている。「もう仕事はやめにしよう。結婚前のラスト3日、独身最後のバカ騒ぎしよう」彼は髪をくしゃりとなで、甘い声で囁く。「3日後には、お前は俺の妻だ」大柄な彼がケーキの横に立ち、熱のこもった視線をまっすぐ彼女に注ぐ。歓声が上がり、紙吹雪が舞った。少女のころのかれんは、こんな場面を何度も夢見てきた。ただ、その男が3分前まで別の女と口づけしていたなんて、あのころの彼女は知るよしもない。かれんのまつ毛が震え、言葉を探す前に、隣のパティシエが涙目で言った。「かれんさん、このケーキ、藤原さんが自分で作ったんです。お好きな甘さに合わせるために何十回も試作して、オーブンの火傷で手が水ぶくれだらけになってました。一番上のシュガープリンセスは、藤原さんが10日かけて彫ったんです。12歳のときにあなたが描いた絵と同じに、って」「かれんのためなら、たいしたことじゃない」瑛司は笑ってジャケットを肩に掛けた。「風が出てきた。ケーキを切ったら部屋に戻ろう。俺のお姫様が冷えるから」「金持ちなのに自分でケーキ作るなんて、藤原さんどれだけ一途なんだ」「『お姫様』だって!何この神カップル」歓声が渦を巻く中、ただひとり、真美だけが人混みの端でケーキを睨みつけ、その目に一瞬だけ毒の色を走らせた。かれんは口角を引きかけた、そのとき。稲妻が海面を裂き、甲板を青白く照らした。巨大な波でクルーズ船が大きく傾き、客たちは悲鳴を上げて手すりにしがみつく。その瞬間、真美はタイミングを狙ってケーキに体当たりした。「ざばっ」十段のケーキが轟音とともに崩れ落ち、クリームと果物が床一面に飛び散った。悲鳴に包まれ、甲板は一気に混乱する。「やめろ!」瑛司の顔色が変わったが、もう遅い。手すりのそばにいたかれんと真美は、崩れたケーキの勢いに引っ張られ、足元のクリームで滑って、そのまま手すりの外へ倒れ込んだ。次の瞬間、瑛司は真美をつかんで抱き寄せ、傾いた甲板を転がるように避難した。かれんは短い悲鳴を上げたき
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第6話
かれんの体はその場で固まり、指先が氷みたいに冷たくなった。まだ自分は海の底に沈んでいるのだと思った。けれど次の瞬間、聞き慣れた声が毒針みたいに耳に刺さった。「瑛司さん、私たちの最初って、今とちょっと似てるよね。まだ……覚えてる?」瑛司は答えず、部屋には衣擦れの音だけがした。さっきより速く、激しく。女がまた口を開くと、泣き声が混じっていた。「全部、私のせい……私がうっかりケーキを倒さなきゃ、かれんさんも手すりから滑らなかったのに……私、世界一バカな小うさぎだよ。罰して、ね。思いきり……」瑛司は苦笑しながらも、彼女を抱き上げて、フルハイトの窓の前へ運んだ。「しゃべるな。罰だけ受けてろ」ふたりの気配は窓際からソファへ、最後はバスルームへ消えた。赤い目の瑛司が、ウサ耳のカチューシャをつけた女を見下ろし、低く言う。「明日はかれんとの結婚式だ。南区に別荘を用意した。これからは月に1日、必ず会いに行く」真美の視線がわずかに揺れ、底に小さな影が走ったが、すぐに消えた。この男のそばに残るには、従順でいるしかない――彼女はそれをよく分かっている。「うん。瑛司さんのそばにいられるだけで、十分しあわせ」そう言って、彼の胸元へさらに身を寄せた。瑛司はその従順さに満足したのか、もう何も言わなかった。病室のもう一方で、かれんはベッドに横たわり、胸が岩みたいに重く、息をするだけで痛んだ。涙は夕陽に乾いて、もう出ない。残ったのは、胃の奥をかき回されるような吐き気だけ。半開きのバスルームの中からくぐもった声がして、かれんは堪えきれず、手を伸ばして点滴スタンドを倒した。ガシャーン!部屋が一瞬で静まり返る。瑛司が真美の口を塞いだのだろう、音は途切れた。しばらくして、服を整えた瑛司が、何事もなかった顔でバスルームから出てきた。目には作りものの心配が宿っている。「かれん、起きたの?具合はどう?どこか痛むか?」少し間を置いて、悔やんでいるふうの表情に切り替える。「悪かった。あの日は甲板がめちゃくちゃで、うまくお前を掴めなかった……」かれんは皮肉に目を閉じ、その穴だらけの嘘を暴こうとはしなかった。ただ顔をそむけ、静かに訊く。「真美さんは?」瑛司の表情がわずかに曇り、声は無意識に冷たくなっている。「船
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第7話
キャンドルディナーは豪華なクルーズの宴会場で開かれた。瑛司が用意した高級ジュエリーが小山みたいにかれんの前に積まれ、きらめきが強すぎて目を開けていられない。彼はホールの中央に立ち、燃えるような目でかれんを見つめ、言葉の一つひとつに想いを込めて告白する。周りでは称賛の声が次々と上がった。「かれんさんは世界でいちばん幸せな女の人だよ」「そうだよ。藤原さんにここまで愛されるなんて、羨ましい」かれんは人混みの中で、どれだけ歓声が飛んできても、ずっと俯いたまま黙っていた。瑛司は胸のあたりが妙に重くなり、ついに堪えきれず、彼女を強く抱き寄せた。「かれん、どうしてそんな目をするんだ?まだ怒ってるのか?誓うよ。あの日は本当に人違いだった。ねえ、俺を許してくれないか?なあ、許してくれるなら、何でもする」かれんはようやく顔を上げ、二歩下がって、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。「じゃあ、命で払って。真美さんを消して。そうしたら許してあげる」軽い冗談みたいな口ぶりなのに、瑛司の目は一瞬で暗く沈んだ。すぐに自分の態度に気づいたのか、半ば強引に彼女を抱き戻し、なだめるように言う。「あの子、まだ大学も出てない。相手にするだけ無駄だ。こうしよう。彼女にここで土下座させる。どう?」かれんが笑って言い返そうとした瞬間、瑛司の携帯が鳴り、勝手に動画が流れ出した。画面の中で、真美が黒服の男二人に床へ押さえつけられ、泣き叫んでいる。「瑛司さん、助けて!誰かが!」三秒後、動画はぶつりと切れた。瑛司の握る指がみしりと鳴り、画面にひびが走る。彼は顔を上げ、怒りを押し殺した声でかれんを見る。「かれん。お前が真美に手を出したのか?」かれんは眉をひそめて彼を見た。「何の話?私がそんなことするわけないでしょ」「ああいうの、手を汚すのも嫌」言い終わるや、瑛司はテーブルのキャンドルディナーを乱暴に払い落とした。「ああいうのって何だ?彼女はまだ20歳だぞ。お前はあの子の一生を台無しにする気か?」かれんは信じられない思いで彼を見つめた。知り合ってから何十年、他の女のためにここまで怒鳴る彼を見るのは初めてだ。取り乱している自分に気づいたのか、瑛司は声を落とした。「かれん、分かってる。あの子がケーキを倒して、お前が
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第8話
かれんは手すりを支えに立ち上がり、こめかみの血が顔中を伝ったが、何も感じないようだった。愛が極まれば痛む。憎しみが心に残れば、それだけで痛い。けれど今の彼女にとって、愛も憎しみも刃の鈍ったナイフ。もう心は波立たない。もう何も要らない。何も気にしない。かれんは震える足で母のそばへ行き、手すりの外にぶら下がる美佐子を全力で引き上げた。「かれん、瑛司さんがサプライズがあるって言うから、来たの」美佐子はまだ息が荒く、娘の手をつかんで震えている。「いったい何があったの?あのクズ、あんたを脅すのに私を使うなんて」美佐子の真っ赤な目と向き合い、かれんは小さく首を振った。「お母さん、何も聞かないで、何もしないで。一緒に行こう。いい?」美佐子は娘の目に宿る死んだような静けさを見て、歯を食いしばり、やがて頷いた。二人は支え合って部屋へ戻り、かれんは素早く荷物をまとめ、身分抹消の機関に電話をかけた。「椎名様、ヘリは30分後に到着します。お客様の全情報は同時に完全消去されます」通話を切って、かれんは精一杯の笑顔を作り、美佐子を見た。「あと30分で、全部終わる」美佐子は痛ましげに彼女の青白い頬を撫で、言葉を探したが、その瞬間、ドアが弾け飛び、黒服の一団がなだれ込んできた。母娘が抗う間もなく、口と鼻を塞がれ、意識が闇に落ちた。目を覚ますと、二人は同じ麻袋の中で縛られ、口には布切れが押し込まれていた。外から雑な足音が近づき、ボディーガードの報告が混じって聞こえた。「藤原さん、真美さん。真美さんを連れ去った連中を見つけました。この麻袋の中です」死んだような静けさのあと、瑛司の冷たい声が麻袋を突き抜けた。「鉄パイプを持ってこい」かれんの瞳孔が一気に縮む。母と二人、麻袋の中でもがく。だが次の瞬間、革靴が正確に彼女の頭を踏みつけた。「俺の人間に手を出すとは、命がいくつあっても足りないな」言い終えるより早く、ドンという鈍い音とともに、美佐子の頭に重い一撃が叩き込まれた。血が一気に麻袋を染み通り、かれんの顔をべっとり濡らす。信じられず目を見開き、喉から嗚咽が漏れるのに、まともな悲鳴は一つも出てこない。耳鳴りが渦巻き、心臓が見えない手でねじ切られるように締めつけられ、口の中に鉄の味が広がった。美佐子は最後の力で
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第9話
同じころ、クルーズの最上級スイートでは、真美の泣きじゃくる声が、途切れ途切れに続いたが、目の前の男の手は少しも緩まない。やがて呼吸が落ち着き、彼の肩に置いていた手が力なく枕に落ちた。「瑛司さん、私、先生に妊娠って言われたのに……そんなに乱暴にしないで」瑛司は軽く笑い、どこか甘やかす声を落とす。「まだ数日だろ。大げさだな」真美は頬を赤くして、ベッド脇のテーブルに置かれた家政婦が持ってきたお粥を指さした。「お腹の赤ちゃん、お腹すいたって。お粥、飲みたいって」瑛司はベッドを降り、テーブルの前に立って、スプーンでそっとお粥をかき混ぜ、ふうっと湯気を散らす。「ほら。朝から煮た甘酒だ。体にいいから」彼はスプーンを唇に運び、さっきより柔らかい声になる。真美はゆっくり上体を起こし、彼の手に合わせて小さく口を開けた。湯気で頬がますます赤くなる。「瑛司さん、ここにいて大丈夫かな?かれんさん、怒らない?」かれんの名が出た瞬間、瑛司の手が一拍止まる。「大丈夫だ。彼女は俺がここにいるのを知らない。大丈夫だから」そう言いながらも、ふいにかれんの姿が頭をよぎる。甘酒は、彼女のいちばんの好物だ。昔、彼は「一生、かれんにしか作らない」と言っていた。言いようのない苛立ちがせり上がる。美佐子の様子を追わせているボディーガードからは未だ連絡がない。掌からこぼれ落ちるような感覚に、落ち着かない。真美は彼の眉間の陰りに気づくと、わざと話題を赤ん坊に戻した。「ねえ、私たち、赤ちゃんができたんだよ。もし、かれんさんが知ったら……嫌がるかな?だったら、私、赤ちゃん連れて、遠くへ行かなきゃ」「そんな必要はない」瑛司は遮り、どこか自覚のない優しさをにじませる。「生まれたら、かれんのそばで育てる。養護施設から迎えたって伝える。彼女は優しいから、きっと可愛がるはず」真美の体が一瞬こわばり、底に黒い影が走る。だが表には出さず、彼に合わせる。「そう……じゃあ、私たちの赤ちゃん、きっと幸せなはず」磁器のスプーンが器に触れて、軽い音が鳴った。胸騒ぎは強くなるばかりだった。その時、携帯に動画が届く。画面の中で、かれんが美佐子を必死に甲板へ引き上げている。手のひらの皮がむけ、麻縄に血が伝って落ちる。「藤原さん、モニターに美佐
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第10話
一方そのころ。瑛司は片手にバラ、もう片手にお粥を持ち、かれんの部屋の前に立っていた。軽くノックして、声をやわらげる。「かれん、謝りに来た。もう怒るなよ。今回は俺が悪かった。でも、真美はグループが支援してる奨学生で、俺とは本当に何の関係もない。誓う。それにあのときは緊急だった。仕方なくお前のお母さんをクルーズに招いたんだ。真美の件でトラブルになって、グループに迷惑がかかるのが怖かった。……分かってくれるか?」中は静まり返ったまま。瑛司は不安に唇を結ぶ。「かれん、お前が好きなジュエリーを用意した。それと、俺が煮た甘酒も。飲みたいでしょ?それに明日は俺たちの結婚式だ。こんなことで、10年以上の関係を否定するのか?」応えはない。瑛司の息には焦りが混じり、胸の不安がまた大きく波立つ。「かれん。中にいるのは分かってる。返事しないなら、扉をこじ開けるよ」その瞬間、背後から呼び声が飛んだ。瑛司は眉をひそめて振り返る。「藤原さん、やっと見つけました。空輸の生花は会場に届きました。かれんさん、ここ数日ずっと花を選んでたのに、さっき連絡したら、なぜかブロックされてました。代わりに見に来ていただけますか?結婚式用のドレスも藤原さんが決められたので……」瑛司はふっと笑って、胸の不安は半分ほど消えた。手で合図してから、扉に向き直り、甘い笑みを向ける。「俺のバカ姫は昔からこうだ。すぐブロックする。他人にも同じか。もうすぐ俺と結婚するのに。母親にもなるっていうのに。いつまで小さなお姫様のまんまなんだ?でも大丈夫。俺がいる限り、お前はずっと俺のお姫様だ」中は動かない。瑛司は手にしたものをそっと置いた。「かれん、静かにしたいなら尊重する。こんな小さい事で、俺たちの関係は揺らがない。時間をあげる。明日、会場で待ってるよ」バラをドアの前に置き、瑛司は去った。まだ始まってもいないこの結婚式は、すでに街中の話題だった。夜が明け、薄い光が静かに差し込む。大きな汽笛が空に響き渡り、豪華客船はゆっくりセンチュリービーチへと寄せた。会場は、かれんが一番好きな純白のローズで一面が埋まっている。どの一輪も、瑛司が自分の手で選んだものだ。10組のバンドが、彼女の好きなピアノ曲を絶え間なく奏でている。各
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