夢醒めて、ふたりは散る のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

25 チャプター

第11話

十一時間のフライトを経て、結衣は無事にA国へ到着した。「ジェイソン教授!お迎えはあなたでしたか」到着ロビーの出迎えの列に、懐かしい顔を見つけて、結衣は思わず声を上げる。それは博士課程の指導教授、ジェイソン教授だった。白髪の頭に穏やかな笑みを浮かべ、教授は結衣を迎えた。「久しぶりだね!君と園田は元気にしているか?結婚したと聞いたよ、おめでとう」結衣は引きつるような笑みを返すしかなかった。かつてA国で博士号を取得していた頃、清志はこの教授の下で助手を務めていた。二人が出会い、愛を育んだのも、この教授の講義がきっかけだったのだ。結衣の表情を見て、国内の噂を耳にしていた教授は、すでに状況を察していた。「江口、君が夢療法の分野で大きな突破を成し遂げたことを、僕は心から嬉しく思う」珍しく真剣な顔で、教授は言葉を続けた。「だが忘れないでほしい。夢は人を欺くこともある」「でも......夢の中の人は無意識のはずです」結衣は首をかしげた。「夢とは潜在意識の投影だ。だが人の感情は複雑だよ。人は強く信じ込んでしまえば、自分自身すら欺ける。夢だって同じことさ」教授は苦笑し、首を振った。「園田は長く僕の側にいた。正直な男ではない。だが、彼が君にまったく愛情を持っていないとは思わない」ホテルへ向かう車中で、結衣は教授の言葉を反芻した。――清志の夢にも「嘘」が混じっているということだろうか?だが、彼の夢の中に現れるのは澪ばかり。あれでどうして「愛していない」と言えるのか。結衣には信じがたかった。新しいSIMカードを差し込むと、結衣はSNSのトレンドを開いた。そこには、またしても清志の話題がトップに上がっていた。公開オークションで、彼が十五億という高値でブルーサファイアのネックレスを落札したのだ。【澪ちゃんはインタビューで青が一番好きって言ってたし、さすが園田教授、気が利く!】【これって澪ちゃんの誕生日プレゼントじゃない?やっぱりプロポーズ近いんじゃ?】【誕生日会で渡すに決まってる!】そんな書き込みは、結衣がこれまで何度も目にしてきたものだ。けれど、実際にその高価なネックレスの写真を見た瞬間、心臓が小さく震えた。――自分はただの代用品な
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第12話

配信画面が切り替わると、そこに映っていたのは澪の楽屋だった。彼女は何事もなかったように化粧を整え、これから始まる誕生日会に備えていた。まるで配信されていることに気づいていないかのようだ。だが――彼女以外に、楽屋から勝手に生配信を始められる人間がいるはずもない。ノックの音とともに、清志がドアを押し開けた。瞬く間にコメント欄が弾ける。【やっぱり園田教授だ!】【美男美女カップル爆誕!】【清志&澪、最強の推し!】清志は画面の隅の配信機材に気づく様子もなく、鏡の前に立った。澪は自然に振り向き、彼の唇にそっと口づける。「澪......」清志は一歩退こうとしたが、澪がしがみついて離さなかった。「清志、お願い、私を放さないで。舞台に立つ前はいつも怖くて......」清志はもう拒まなかった。「大丈夫だ。俺がそばにいる。薬はちゃんと飲んだか?」「薬なんて......」澪は思わず口を滑らせたが、すぐに言い直した。「......この前の発作は一時的なものだったって医者に言われたの。もう飲まなくて大丈夫」「それならいい。再発したら困るからな」「でもあの時、本当に怖かったの。結衣さんが......」結衣の名が出た瞬間、清志の胸の奥がふっと揺らいだ。「心配するな。彼女はもう君を悩ませることはない。離婚届を出した。もうすぐ完全に他人になる」澪は満足そうに微笑んだ。彼女が姿を引くと、カメラの前にジュエリーケースが映り込む。サファイアのネックレスが柔らかな光を浴びて、眩く輝いていた。【おめでとう澪ちゃん!教授もやっとあの女から解放された!】【やっぱりあのネックレスは澪への誕生日プレゼントだ!】【元妻に贈ったものより何倍も高価だって。教授の本命はやっぱり澪ちゃんよ!】清志は眉をひそめ、結衣にはわかった。――疑念が芽生えている。「このネックレスは......」「清志が私に用意してくれたサプライズでしょ!」澪は明るく笑って清志の腕を引き、ドレッサーの前へと連れていく。「この前あなたの家に行ったとき、ちょうど届いたのを見つけたの。だから勝手に持ってきちゃった」彼の顔が曇るのを見て、慌てて付け加える。「ちゃんとおばさんにも
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第13話

「......結衣、あの時俺を救ったのは君だったのか」清志は頭を裂かれるような痛みに襲われ、よろめきながら二歩後ずさり、そのまま背後のソファへと崩れ落ちた。「清志、思い出したの......?」澪が不安げに問いかける。忘れていた夢の光景が、鮮明に蘇る。道路に弾き飛ばされ、口元から血を滲ませ、全身を震わせる結衣の姿。「清志......清志......」かすれた声で名を呼び、全身の力を振り絞って手を伸ばす。「もう眠らないで、早く目を覚まして......」掠れるように弱い声なのに、一語一語が心臓を突くほど強かった。その瞬間、清志を絡め取っていた夢は音を立てて崩壊した。「澪......俺を欺いたな」鋭い眼差しを向ける清志。憎悪がこもり、今にも彼女を引き裂かんばかりだった。「違う!私じゃないのは確かよ、でも結衣さんは......!彼女があなたを裏切って家を出たのは事実よ!」――そうだ。なぜ結衣は、自分を命がけで救ってまで、それでも去って行ったのか。そのとき。「新しいフォロワーさん、注目!俺は今、楽屋に潜入中。さあ、このクズカップルの正体を暴いてやる――」化粧室のドアが勢いよく開き、和也がライブ配信の自撮り棒を掲げて飛び込んできた。澪は悲鳴を上げ、清志に縋りつく。「清志、この人は誰?」清志はすぐに彼を見て取った。――結衣の幼なじみだ。ただ、清志は以前から、結衣が彼のような軽薄な人間とつるむのを快く思っていなかった。だから結衣も彼の話をほとんど持ち出さなかったのだ。「君は......結衣の友人か。彼女がなぜA国へ行ったのか、知っているのか?」怒りよりも切迫した声音だ。先ほど浴びせられた「クズカップル」の言葉すら無視して。和也は冷笑を浮かべた。「なぜ結衣が出て行ったかって?お前に心をズタズタにされたからだ!お前の澪が帰国してから、結衣がどれほどの屈辱を受けたか知ってるか?人が普通に歩いてていきなり水に自分から落ちて、心臓病でもないのに発作のふりをされる。澪、歌手より女優の方が似合ってるんじゃないか?」「そんなはずは、明らかに結衣が......」「違う!澪はただ水に落ちただけで、お前は丸一晩つきっきり。結衣は哮喘を起
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第14話

「清志、お願いだから無茶はやめて。上の許可なしに、あなたが勝手にA国へ行けるはずないじゃない」澪は縋りつくように清志の前に膝をつき、媚びるような笑みを浮かべる。「まだわからないの?結衣さんはもうあなたに愛想を尽かしたのよ。わざわざA国に行ったのは、あなたを避けるためじゃない?今、あなたのそばに残っているのは私だけ。私は絶対に離れないわ」「君が邪魔をしたからだ!でなければ結衣が俺の元を去るはずがない!」清志は澪の腕を乱暴に振り払った。「その通りだ。結衣がA国へ行ったのは、二度とお前に会いたくなかったからさ」二人の姿を見て、和也はほくそ笑む。「いいや、まだ方法はある」清志の脳裏にひらめきが走る。そうだ、一週間前に佐藤教授からA国で働く話を受けていた。「空港へ行けば、まだ間に合うはずだ!」「清志、気でも狂ったの?」澪が慌てて立ち塞がるが、清志は容赦なく彼女を突き飛ばした。澪の身体はよろけ、背中を壁に強く打ちつけた。彼女の口から苦しげな吐息がもれる。だが清志は一瞥もくれず、駆け出して行った。「清志、研究チームは今日出発だ。メンバーもすでに決まっている。今さら加わるなんて無理に決まっているだろう」電話の向こうで佐藤教授の声が不機嫌に響く。「プロジェクト立ち上げのとき、真っ先に君に声をかけたのは私だ。それなのに君は澪の誕生日会があるとか言って断ったじゃないか」「俺が間違っていました、佐藤教授......!」清志は早口で食い下がる。「渡航費用はすべて自費で負担します。チームに迷惑はかけません。どうか、お願いします......!」しかし佐藤教授は冷たく拒んで通話を切った。――いや、まだだ。飛行機が離陸する前に直接会って頼めば......清志はアクセルを踏み込み、空港へと車を飛ばした。無理なスピードでの走行のせいで、車を降りたときには目眩に襲われた。だが息を整える間も惜しみ、出国ゲートまで走り抜けた。「佐藤教授!」すでに搭乗口へ向かっていた佐藤教授が振り返る。コートも着ず、真冬にシャツ一枚で駆けつけた清志の姿がそこにあった。骨ばった指先は真っ赤に凍え、息は荒く、言葉さえまともに出てこない。「佐藤教授、どうか..
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第15話

ちょうどその時、チェックインカウンターで一人の旅行客が航空券のキャンセルを申し出ていた。清志は運良く、その最後の一枚――A国行きの航空券を手に入れることができた。搭乗してから、ようやく全身がひどく冷えていることに気づく。客室乗務員にブランケットを二枚頼んだが、それでも震えが止まらなかった。「お客様、大丈夫ですか......?」不安そうに覗き込む声。清志が額に触れると、すでに焼けつくような熱がこもっていた。「まだドアは閉まっていません。いまのうちに降りて病院に行かれた方が......薬をお持ちでないと、長時間のフライトはかなりお辛いですよ」CAは気遣いを込めて忠告した。「大丈夫です」清志は疲弊したように首を振る。――もしこの便を逃したら、また状況が変わるかもしれない。そうなればもう二度と結衣に会えないかもしれないのだ。うつらうつらとした意識の中で、結衣との日々の記憶が次々と蘇り、繰り返し頭の中を巡った。結衣が去る前までは、自分は澪を好きなのだと思い込んでいた。澪は初恋の相手で、婚約式に急ぐ途中で事故に遭い、記憶を失った――その罪悪感から、いつも彼女に償おうと必死だった。だが記憶を取り戻して戻ってきた澪を前にしたとき、清志ははっきりと悟った。彼の胸にあるのは「幼馴染としての情」でしかなかったのだ。楽屋で彼女から不意に受けたあの口づけも、彼の彼女に対する嫌悪だけを呼び起こした。本当に自分は澪を愛していたのか?それとも結衣に似た面差しに惑わされ、区別がつかなくなっていただけなのか。脳裏に浮かぶのは結衣との些細な日常。ある日、課題に行き詰まり、リビングのソファで頭を抱えていたとき――ふと見上げると、庭で水やりをしていた結衣が、陽だまりを纏いながらピンクの薔薇を一輪摘み取り、気づかれぬよう彼のパソコンの横にそっと置いた。その鮮やかな花は、一瞬にして清志の重苦しい心を晴らしてくれた。またある時は、結衣が夢装置のことで眉を曇らせていた。彼女を笑わせたくて、清志はわざと頭を彼女のパソコンの後ろに隠し、蓋を閉じる瞬間に身を乗り出して、唇に軽く触れた。佐藤教授の言葉は正しかった。二人は互いに寄りかかり合い、苦境にあっても支え合うことで、家庭という小さな港を守ってきた。な
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第16話

学術フォーラムの会場には、各国・各分野の俊英たちがひしめき合っていた。「こちらがC国からいらした江口結衣さん、夢装置の発明者です」壇上で教授が熱心に紹介する。「ぜひ皆さんに、その活用例をお話しいただけませんか?」思いがけない問いに、結衣はしばし口を閉ざした。「私は患者に対して、プライバシーを守ると約束しましたので」学者たちの顔に落胆の色が広がるのを見て、結衣は小さく嘆息し、言葉を継いだ。「ただ、かつて夫――いえ、もう元夫ですが――園田清志に治療を試みたことはあります」「何?二人は離婚したのか?」「どうして?あれほど学術界でお似合いの夫婦だったのに」「ニュースを見ていないのか?江口結衣は不倫の果てに、園田教授に捨てられたんだよ......」ざわめく声を振り切り、結衣は壇上へと歩み出る。「元夫の園田清志は、交通事故のあとPTSDによる昏睡状態に陥りました。その原因は、婚約式の場で、愛する人が事故に遭うのを目の当たりにしたことです」「江口さんが事故に遭ったのか?」「違う、歌手の橋本澪だ。彼と幼い頃からの幼なじみらしい」胸に込み上げる痛みを押し殺しながら、結衣は続けた。「私は夢装置を用い、澪の姿を借りて夢の中で彼を呼び戻しました」――やはりそうだったのか。ちょうど会場に駆けつけた清志は、その言葉を耳にした。「結衣......違うんだ!」震える声で群衆を押し分け、彼女へと進む。「どうして夢があんなふうに現れたのか、俺にもわからないんだ。澪に欺かれ、自分でも自分を欺いていた......」「確かに、かつては澪を愛していると思っていた。だが君が去ったとき、息をしないより苦しかった。あの時初めて知ったんだ。――俺が本当に愛しているのは、ずっと君だったんだと」「結衣、俺たちは二年を共に過ごした夫婦だ。君を最も近しい家族と思ってきた。澪に対する負い目を、愛情と錯覚していただけなんだ。夢の中の俺を信じるな、今の俺の言葉を信じてくれ」会場に響く必死の懇願。結衣は呆然とした。――彼が本当にA国まで追ってきたのだ。「結衣......俺が悪かった。罰を受けてもいい。ただ離れないでくれ、離婚なんて言わないでくれ」清志はそっと手を伸ばし
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第17話

「秦か?彼もフォーラムに?」「珍しいな、あの人はこういう場には滅多に顔を出さないのに」ざわつく声の中、結衣は誰のことか分からなかった。だが人々の反応から察するに、この場に現れたのは滅多にお目にかかれない大物らしい。しかし現れた「大物」は驚くほど若く、美しい眉目に笑みを湛え、結衣に軽く会釈をした。「初めまして、秦真也(はた しんや)と申します」「秦さん」清志はただならぬ敵意を感じ取り、声を荒げた。「これは俺と結衣の私事だ。君が口を挟む必要は......」「私事?」真也は結衣に向けてウィンクする。「園田教授は、まだ君の夫ですか?」「もう離婚しました」結衣が静かに応じる。「では、私事とは言えませんね」真也は気ままな仕草でブルーサファイアのネックレスを手に取った。「十五億円?では三十億出しましょう。これを僕に売ってくれませんか?」「それを結衣に贈るつもりか」清志の顔は怒りに歪んだ。「残念だが、彼女はそんなもので喜ばれません」「美しい女性が気に入らない物は、ゴミ箱に入れるべきです」そう言うや、真也は何でもない動作のように、その超高額のネックレスをゴミ箱に放り込んだ。「三十億円は園田教授の口座に振り込んでおきます。それでは」颯爽と去っていく姿は、まるで風のようだった。「秦は一体、何を狙っているんだ......?」周囲がざわめく。結衣も頭が混乱していた。彼女は急いで教授に尋ねる。「秦さんとは、一体どんな方なのですか?」「知らなかったのか?」教授も意外そうだ。「秦テクノロジーの御曹司だよ。もっとも、ここ数年はA国で活動していたから、国内ではあまり姿を見せなかったが」「では、あの行動は......」「夢装置に関心があるのだろう」教授は意味ありげに笑みを浮かべた。――真也の素性については様々な噂が飛び交っていたが、結衣がホテルで調べても核心は掴めなかった。「彼は連絡先も残していない......どうやって繋がればいいのよ?」思案に沈んでいた時、ホテルの外で二度、甲高いクラクションが響いた。結衣がバルコニーから見下ろすと、真紅のスーパーカーが停まっており、運転席の真也がこちらに向かって手を振っていた。「江口さん、
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第18話

結衣と真也が並んでピアノの前で弾き語りをしている、その光景を、店の片隅で清志はじっと見つめていた。彼女を取り戻すことが難しいのは分かっていた。だが想像もしなかった――再会した結衣の態度は、愛でも憎しみでもなく、ただの「無関心」だったのだ。その冷ややかな距離感は、罵られるよりも、殴られるよりも、百倍も胸を抉った。ありえない。結衣はかつて――あんなにも自分を愛していたのに。清志の脳裏に、結婚当初の記憶が鮮やかに蘇る。研究室に籠もって粗末な食事で済ませていた彼に、結衣は手作りの軽食を整え、わざわざ会社まで届けてくれた。彼が学会のために連日連夜飛行機で飛び回ると、結衣は必ず後を追い、一歩も遅れずについてきた。病に倒れ、輸血が必要になったときには、身体の弱い結衣がためらいなく自らの血を差し出してくれた。――そんな愛情が、本当に跡形もなく消えてしまうものなのか。信じられない。結衣はきっと自分に腹を立てているだけだ。ならば問いたださなければ。そう思い立って立ち上がった瞬間、全身から力が抜けていった。治りきらぬ熱に加え、やけ酒を重ねたせいで視界が暗転し、そのまま意識を失った。かすかな意識の中で見たのは――歌い終えた結衣に、真也が紳士のように手を差し伸べ、彼女が自然にその手を取る姿だった。そこから先の記憶は途切れている。病院の白い天井。清志が目を覚ましたとき、ベッド脇には佐藤教授が腰掛けていた。とっさに結衣の姿を探したが、病室には他に誰もいなかった。やはり来てはいないのだ。「明日の朝にはチームが帰国する。君はここで休むんだ」そう言い残し、佐藤教授は病室を後にした。残された清志は、針を抜きに来た看護師にたまらず尋ねた。「俺が倒れたあと、誰がここまで運んでくれたんですか?」「救急車で搬送されましたよ。――ただ、一人の女性が付き添っていました」結衣だ!清志の胸に小さな希望の火が灯る。明日の朝まで――まだ一晩残されている。挽回できるはずだ。「園田さん、まだ体調が......!」看護師の制止を振り切り、清志は病院を飛び出し、結衣が滞在しているホテルへと駆けた。だがフロントの対応は冷たかった。「申し訳ございませんが、お客様の宿泊情報をお伝えすることは
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第19話

「園田教授、僕はどう見ても善人には見えないでしょう?」真也は眉をわずかに吊り上げ、清志を上へ案内する気配など微塵もなかった。「それでも構わない。このロビーで待つ。結衣は必ず降りてくる」清志の声は頑なだった。もう残された機会は一度きり。「あなた方はすでに他人です。何度もしつこく付きまとえば、彼女は警察に通報する権利があります」「いいや、まだ離婚届に署名していない。彼女は今も、俺の妻だ」「なるほど、離婚訴訟を望んでいるわけですか」真也は軽く見下ろすように目を細め、飄々と笑う。「僕の会社には優秀な弁護士が揃っていますよ」怒りで清志の体は震えた。――真也と結衣はいったいどんな関係なのか。なぜ彼が結衣のすべてを取り仕切り、自分の方が外野のように扱われるのか。「君の狙いは結衣じゃない、夢装置だろう!」「その通りです」真也はあっさりとうなずく。「彼女の研究成果に惹かれました。いや、彼女そのものに夢中になったんです。それに僕は一人っ子ですからね。途中で妹が現れて彼女を不快にさせる、なんてこともありませんよ」「なんだとっ!」血が逆流するような激情に突き動かされ、清志のこめかみに青筋が浮かぶ。拳を振り上げ、真也の顔を狙って振り下ろした。だが真也は落ち着き払ったまま身をかわし、体格差と力の差で清志をいとも簡単に制した。「やめろ、秦!」「やり過ぎるのは初めてじゃないですよ。園田教授、少し我慢してくださいね」悪びれもせず、彼は不敵に笑う。「二人ともやめて!」エレベーターが一階に到着し、結衣が慌ただしく駆け寄った。眉をひそめ、二人の間に割って入る。「公共の場で取っ組み合いなんて、恥ずかしくないの?」真也は小さく咳払いをし、乱れた髪を丁寧に整え直すと、抱えていた花束を結衣に差し出した。「君の好きなピンクの薔薇です。わざわざ選んできましたよ」結衣は一歩後ずさり、その花を受け取らずに清志へと向き直った。「言いたいことがあるなら、今夜すべて話して。これが最後よ。今後、あなたと私は何の関わりも持たない」真也は不満げに花を抱え直し、しぶしぶエレベーターへと戻っていった。清志は結衣を連れ、ホテル最上階のエグゼクティブフロアへ向かう。
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第20話

――一年後。山腹に建つ独立型の邸宅、その玄関を真也が結衣の手を取って豪快にノックし、ずかずかと入っていった。「父さん、母さん。結衣を連れてきたよ」結衣が真也の両親に会うのは、これが初めてだった。彼女は緊張して念入りに準備していたが、思いがけないことに、国内屈指のテクノロジー企業を築き上げた夫妻は驚くほど気さくで、かつての堅苦しい園田家とはまるで正反対だった。「真也から聞いているわ。明日には夢装置の発表のため帰国するんですってね」真也の母は結衣の手をぎゅっと握り、目を輝かせる。そして息子に意味ありげなウィンクを送った。「それで真也、あなたはいつになったら結衣さんのご両親に挨拶に行くの?その後のことも話し合わなくちゃ」「母さん、僕は毎日結衣にプロポーズしてるよ」真也は悪びれもなく結衣の髪を撫でながら笑う。「でもこれは焦っちゃだめだ。結衣の気持ち次第だからな」夕食の席では、互いに気を利かせて結婚の話題には触れなかった。ただ真也はどこか心に引っかかるものを抱えているようで、笑顔を見せながらもどこか上の空だった。帰りの車中、結衣は優しく問いかけた。「真也、私たち約束したでしょう。隠し事はせず、何でも正直に話すって」短い沈黙ののち、真也は深く息を吐き出した。「結衣、正直に教えてほしい。君が僕と結婚したがらないのは......まだ、あいつを忘れられないからなのか?」その目は寂しげで切実だった。もし結衣が「そう」と答えれば、その瞬間にでも車を引き返し、二度と彼女を国に戻さないつもりでいた。結衣は小さくため息を漏らした。「確かに清志が関係しているわ」「彼との結婚生活は、私に深い傷を残したの。いまだに、あの時のことが忘れられない。大勢の専門家の前で、高圧的に私を非難した彼の姿が......だから真也、私は時間をかけて少しずつ立ち直りたい。あなたと次の一歩を踏み出すために。わかってくれる?」真也は彼女の沈んだ表情を察し、身を寄せて唇にそっと深い口づけを落とした。「すまない......辛いことを思い出させてしまった」結衣は首を振り、微笑む。「大丈夫。どうせ帰国しても、彼に会うことはないのだから」――やがて飛行機は無事に着陸した。短い
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