江口結衣(えぐち ゆい)は、夢を通して人を癒やす「夢療師」。 だがある夜、彼女自身の夢に現れたのは、夫・園田清志(そのだ きよし)が幼なじみの女性と密かに愛を交わす姿だった。 裏切りの真実を夢で知った結衣は、静かに決意する。 ――一か月後には清志のもとを去り、ただひとりA国へ旅立とう、と。
View More結衣は、自分がどれほど眠っていたのか分からなかった。再び目を開けた時、まだあの果てしない夢に囚われているのではないか――そんな恐怖が胸をよぎる。「結衣、怖がらなくていい。もう目を覚まして」遠くの谷から響くようなかすかな声。けれどその声には、不思議な力強さが宿っていた。彼女は思い切って目を開けた。病院のベッドの上。傍らでは真也がうたた寝をしていた。蒼白な顔に濃いクマが浮かび、その姿に結衣は胸を痛めた。そっと頬に手を伸ばす。――そして気づく。彼の腕が包帯で巻かれていることに。「......結衣、やっと目が覚めたんだな!」真也は目を開け、重い石を下ろしたように安堵の笑みを浮かべた。「いったい何があったの?」「澪だ」真也は一部始終を語った。「心配するな。彼女は傷害罪で逮捕された」テレビのニュースには、警察に取り押さえられる澪の姿が映っていた。最後まで血走った目で暴れ、罵声を吐き散らすその様子は、もはや狂気そのものだった。「私を......そこまで憎んでいたなんて」結衣は身震いし、そして思い出したように尋ねた。「清志は?彼はどうなったの?」「外で待っている。会いたければ呼ぼうか」少し迷った末に、結衣は頷いた。「一度......直接お礼を言わなきゃ」不満げな表情を隠せない真也に、結衣は柔らかく笑みを向ける。「一緒にいてくれると嬉しいな」そうしてしばらくして、真也と清志が病室に入ってきた。結衣が言葉を探すより早く、清志が口を開いた。「結衣......夢の中で、ようやく気づいたんだ」声は掠れ、うつむいたまま続ける。「俺は君をあまりに傷つけすぎた。許しを望む資格なんてない。君が俺を見るたび、過去を思い出して苦しむなら......俺はもう、君を追いかけない。研究に専念する。秦さんと、A国で幸せになってくれ」思いがけない言葉に、結衣は言葉を失った。「でも......今回助けてくれたことは、本当に感謝してる」「違うんだ」清志は苦しげに首を振った。「これは償いだ。だから礼なんて言わなくていい」それ以上は語らず、彼は小さく頭を下げて病室を後にした。「変わったのね、彼」背中を見送りながら、結衣はぽつりと
結衣は、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。周囲には人影が行き交い、いつもと変わらぬ日常のように見える。だが彼女には分かっていた――ここにいるのはただの夢の住人、現実ではない。これほど孤独を感じたことはなかった。どれだけ叫んでも、声は反響すら返さない。「もしかして一生、目覚められないの?」絶望的な想像が次々と押し寄せ、人生がこのまま唐突に終わるのではと胸を締めつけた。――まだ家族と一緒に食卓を囲んでいない。――和也と約束していたホラー映画だって観ていない。――そして......真也にきちんと告白していない。「愛してる」と一度も伝えられていない。彼女の心には、やり残したことがあまりに多く、その多くが真也に関わるものだった。「真也......会いたい......」結衣は身を丸め、声を張り上げて泣いた。まるで外の真也に届くことを願うように。そのとき――「結衣!聞こえるか?」真也の声だ!「怖がるな、いま君の手を握ってる。どこへも行かない。ずっとそばにいる」眠る幼子をあやすように、彼は彼女の腕を優しく撫で続ける。「警察がもう来た。すぐに君を夢から現実に戻す。あと少しだけ耐えてくれ」その声は結衣の心に沁み込み、不思議と涙は止まっていた。「うん、信じてる」夢と現実の狭間で、ふたりは自然に言葉を交わす。「こんなに長く夢に留まるなんて、ある意味で新しい体験だろ?」「でも、今回は危険すぎた。これからは必ず安全な場所で夢装置を使わなきゃ。敵に狙われるなんて、二度と許さない」「なぁ結衣、夢の中で飛べたりしない?もし飛べるなら教えてくれ。そうしたら、僕は一生夢から出ないでいるかもしれないな。子どもの頃からずっと、空を飛ぶのが夢だったんだ」おどけるような口調で緊張を和らげていた真也が、突然「っ......」と息を呑む。「どうしたの!」結衣が慌てて問う。彼の腕の傷だった。戻ってから手当てもせず放置していたため、裂け目は広がり、血が溢れ出している。「大したことない。君を心配させたくて芝居したんだ。そのほうが、目が覚めた後、僕に優しくしてくれるだろ?」場違いな軽口に、結衣は呆れながらも、胸の強張りが解けていくのを感じ
結衣の目には映らない発表会の会場は、その瞬間で大混乱に陥っていた。夢から引き戻された清志は、結衣の肩を激しく揺さぶる。「結衣!目を覚ましてくれ!」だが彼女は深い昏睡に落ち、いくら呼びかけても反応はない。「いったい何が起きたんだ!」司会者は慌てて警察に通報しながら、状況を説明した。「江口さんと教授が夢に入ってすぐ、一人の女性が警護を振り切って乱入しました。彼女は結衣さんの頭から夢装置を奪い取り、ナイフで警備員二人に怪我を負わせたんです!」夢装置を失った今、結衣は夢の世界から目覚められない。「そいつは誰だ?」「見覚えがあります......芸能人の橋本澪さんに似ていました。秦さんがすぐに追いかけていきました。二人は川辺のほうへ......」それ以上、清志は聞いていられなかった。司会者が指差した方向へ駆け出す。澪が結衣を憎んでいることは知っていた。だが――まさか命を奪おうとするとは。狂気としか言いようがない。夢装置をどこへ持ち去ろうと、必ず取り返す。結衣を現実に戻すために。「川辺で争いが起きてるぞ!警察を呼べ!」通行人の叫びに導かれ、清志は人だかりのある川岸へと走り込んだ。群衆の前で、橋本澪がナイフを振りかざしている。誰も近づけずに、ただ息をのむ。「澪!狂ったのか!装置を返せ!」真也の目は血走り、刃物を恐れる素振りもなく、じりじりと澪を追い詰めていく。彼女を川辺の欄干まで追い詰めた。長い髪を振り乱した澪は、甲高い声で笑った。「装置は私の手の中よ。欲しいなら、跪いてお願いしてみなさい。でもね――江口結衣を目覚めさせるつもりはないわ!」憎しみに満ちた瞳で睨みつける。「どうしてあの女ばかりが特別なの?あんたたち二人揃って命懸けで守るなんて......きっと男をたぶらかすのが得意なのね!」「――ッ!」乾いた音が響き、真也の手が澪の頬を叩いた。「この私を殴った?」澪の目が狂気に染まり、ナイフを胸の前に突き出し、滅茶苦茶に振り回す。布を裂く音。真也の左腕のシャツが切り裂かれ、赤い血が滲み出した。群衆が一斉に息を呑む。それでも真也は怯まない。逆に腕を伸ばし、澪の手首を掴んでねじ伏せた。ナイフは一切動かない。
眼下に広がる光景に、結衣は強烈な既視感を覚えた。ここはA国の某大学。彼女が博士課程のために留学していた場所――そして、清志と出会った場所でもある。ジェイソン教授の講義室だ。階段教室の片隅で、清志は助教として論文に目を通していた。灰色のスウェットをまとい、パソコンに向かって眉を寄せ、ときおり眼鏡を外してこめかみを揉む。怠惰でありながら、どこか禁欲的なその姿。「清志」結衣はそっと彼の傍らに歩み寄り、か細い声で名を呼んだ。清志はしばらく呆然と彼女を見つめ、次の瞬間、衝動に駆られたように立ち上がって抱きしめた。「結衣......!どれだけ恋しく思ったか、わかるか。いつも思い出すんだ、この場所を。俺たちが初めて出会った教室を」当時、清志は学内でも名の知れた存在だった。多くの女子学生が憧れて彼の講義に顔を出したが、その冷淡さに打ち砕かれ、すぐに引き下がった。けれども結衣だけは彼の隣に腰を下ろし、授業で理解できなかった内容を尋ねる勇気を持っていた。「覚えてるか?クリスマスの日、君は全校生の前で突然俺に告白した。あの時の俺は完全に度肝を抜かれたよ。あんなに大胆で、天真爛漫な女の子は初めてだった。本当は恋愛なんて考えていなかったけど......君を拒むなんて考えた瞬間、自分が自分を許せなくなると思ったんだ」「結衣......俺は感情に鈍い人間だ。君が去ってから初めて、魂を引き裂かれるような思いを知った。お願いだ、もう二度と俺から離れないでくれ......」清志の抱擁はさらに強まる。結衣は必死に身をよじって抜け出した。「清志、これは夢よ」冷静に告げる。「わかってる!夢だと知っている......けど目覚めたくないんだ。目が覚めれば、君はまたいなくなるから」「時間よ。夢に潜るのは十五分だけ」結衣はあらかじめ設定していた時間を思い出し、そろそろ夢が崩れるはずだと待った。だが――いくら経っても景色は揺らがない。外で何か起きている?「結衣、どうした......」清志が言いかけたとき、彼女は人差し指を唇に当てて制した。「しっ。聞こえる?」耳を澄ますと、講義の声に混じって、場違いなC語が紛れ込んでいる。これは夢の中の音じゃない――外の現実
「それでは盛大な拍手でお迎えください――夢装置の開発者・江口結衣さん、そして投資元である秦テクノロジーのCEO・秦真也さんです!」スポットライトの光に包まれながら、真也は自然に結衣の手を取り、二人並んで発表会のレッドカーペットを歩いた。集まった記者たちはざわめき、二人が席に着くより早く、矢継ぎ早に手を挙げた。「江口さんと秦さんのご関係は?」「ノーコメント」と答えようとした結衣からマイクを奪い、真也は微笑んだ。「交際関係です」その一言に、会場がざわついた。「では、江口さんと園田教授は......?」「彼はもう過去の人です」結衣は会場を見渡し、軽やかに言った。「ご覧のとおり、今日は招待もしていませんから」軽妙な質疑応答のおかげで、発表会の雰囲気は一気に和んだ。司会者の誘導で、結衣は来場者に夢装置の体験を呼びかける。「しかし......安全性は保障されているのですか?」「江口さんは新しいテクノロジー分野の旗手とはいえ、元は心理学出身でしょう。果たしてその発明品を信じていいものか......」熱気を帯びた会場の空気が一気に冷え込む。夢装置は革新的であるがゆえに、保守的な学者たちには受け入れがたかった。頭部に装着する機器となれば、安全面への懸念も募るばかりだった。場内は静まり返り、誰一人壇上に上がろうとしない。「これまで数百回にわたって安全実験を繰り返し、問題は一切ありません。どうかご安心ください」結衣は必死に訴えるが、それでも会場は沈黙を崩さなかった。「仕方ない、僕が一緒にやろう」真也が結衣の手を強く握り、温もりを伝える。結衣は小さく首を振った。「私たちは仲間内でしょう。事前に打ち合わせたと思われるだけよ」二人で相談していたままで時間が過ぎたその時、会場入り口で騒ぎが起こった。「結衣!俺だ!」扉を押し開け、警備員に押しとどめられながらも声を張り上げる男――清志だった。目を赤くし、周囲を顧みず叫ぶ。「結衣、俺がやる!夢装置、俺に試させてくれ!」「まさか......園田教授?」「元夫と新しいパートナー、これは面白いことになりそうだ」記者たちが色めき立つ。結衣は唇を噛み、逡巡した。彼を入れれば、この空気を打開できる。だが、
――一年後。山腹に建つ独立型の邸宅、その玄関を真也が結衣の手を取って豪快にノックし、ずかずかと入っていった。「父さん、母さん。結衣を連れてきたよ」結衣が真也の両親に会うのは、これが初めてだった。彼女は緊張して念入りに準備していたが、思いがけないことに、国内屈指のテクノロジー企業を築き上げた夫妻は驚くほど気さくで、かつての堅苦しい園田家とはまるで正反対だった。「真也から聞いているわ。明日には夢装置の発表のため帰国するんですってね」真也の母は結衣の手をぎゅっと握り、目を輝かせる。そして息子に意味ありげなウィンクを送った。「それで真也、あなたはいつになったら結衣さんのご両親に挨拶に行くの?その後のことも話し合わなくちゃ」「母さん、僕は毎日結衣にプロポーズしてるよ」真也は悪びれもなく結衣の髪を撫でながら笑う。「でもこれは焦っちゃだめだ。結衣の気持ち次第だからな」夕食の席では、互いに気を利かせて結婚の話題には触れなかった。ただ真也はどこか心に引っかかるものを抱えているようで、笑顔を見せながらもどこか上の空だった。帰りの車中、結衣は優しく問いかけた。「真也、私たち約束したでしょう。隠し事はせず、何でも正直に話すって」短い沈黙ののち、真也は深く息を吐き出した。「結衣、正直に教えてほしい。君が僕と結婚したがらないのは......まだ、あいつを忘れられないからなのか?」その目は寂しげで切実だった。もし結衣が「そう」と答えれば、その瞬間にでも車を引き返し、二度と彼女を国に戻さないつもりでいた。結衣は小さくため息を漏らした。「確かに清志が関係しているわ」「彼との結婚生活は、私に深い傷を残したの。いまだに、あの時のことが忘れられない。大勢の専門家の前で、高圧的に私を非難した彼の姿が......だから真也、私は時間をかけて少しずつ立ち直りたい。あなたと次の一歩を踏み出すために。わかってくれる?」真也は彼女の沈んだ表情を察し、身を寄せて唇にそっと深い口づけを落とした。「すまない......辛いことを思い出させてしまった」結衣は首を振り、微笑む。「大丈夫。どうせ帰国しても、彼に会うことはないのだから」――やがて飛行機は無事に着陸した。短い
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