All Chapters of 夢醒めて、ふたりは散る: Chapter 1 - Chapter 10

25 Chapters

第1話

「江口さん、あなたは国内屈指の夢療師です。本当に私たちのプロジェクトに参加されるのですね?」江口結衣(えぐち ゆい)の声は揺るぎなかった。「ええ、決めました」「ではすぐにビザと手続きを整えます。最長でも七日あれば完了するでしょう。ただ一点ご注意していただきたいことがあります。この研究には、A国に長期滞在していただく必要があります。ご家族とも事前に話し合うようお願いします。とりわけご主人の園田教授は特別な立場にありますから、一緒に渡航することは難しいかもしれません」結衣は夢療師だ。彼女の研究を支えるため、夫の園田清志(そのだ きよし)は、彼女が設計した「夢装置」の最初の体験者となった。結衣は信じていた。清志の夢の中で、二人の幸せな未来を目にするはずだと。ところが彼女が見たのは――清志が熱を帯びた表情で、ある女性を強く抱きしめる姿だった。「澪......本当に戻ってきてくれたんだな。一生、君を守り続ける」「澪......俺は結婚したけれど、あの女は君と比べ物にならない。顔が君に少し似ていて、それに両親に急かされたから......仕方なく結婚しただけなんだ。澪、もし君が戻ってきてくれるなら......」あまりに突然の光景に、モニター越しに見守っていた結衣は、身体を硬直させた。交際三年、結婚して二年。それが結衣にとって、初めて知る「橋本澪(はしもと みお)」という存在だった。――彼と出会ったのはA国。清志は教師、結衣は彼の生徒だった。初めて顔を合わせたときから、彼は激しい想いを隠さず、結衣にぶつけてきた。冷徹で孤高の物理学者として知られた男が、留学生の少女を追いかけるために、驚くほど低姿勢になった。結衣が少し咳をしただけで、彼は教室中の学生の前で風邪薬を用意し、自ら飲ませてくれた。「家が恋しい」と何気なく漏らせば、現地のスーパーをくまなく巡り、地元料理を作ってくれた。ある日、グループ課題で意見が対立したとき、数人の外国人男子学生に差別的な言葉を浴びせられた。結衣は異国の地で差別に耐えようとしたが、その背後から清志が飛び出し、リーダー格の学生を地面に押さえつけて殴り倒した。そのせいで、彼は一年分のボーナスを失った。だが学校は、彼の研究成果に期待してい
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第2話

清志が背後から結衣を抱き寄せ、頬にそっと口づけた。「誰からの連絡?」結衣は慌てることなく携帯を閉じ、彼の腕をすり抜けて話題を逸らした。「夢装置のテストは順調に終わったわ。もうすぐ市場に出せる。――最初のモルモットになってくれてありがとう」彼の横顔を見つめながら、結衣の脳裏には夢の中の光景がよぎる。清志が何度も思い描いた、澪との再会の場面。帝都タワーの屋上で、二人は激しく口づけ、荒い息遣いが夢の中で溶け合っていた。清志は澪の耳もとに顔を寄せ、囁く。「澪......戻ってきてくれ。あの女は結局、君じゃない」胸が締めつけられるように痛み、悲しみが押し寄せる。――では、これまでの愛の言葉も、指輪を差し出したプロポーズの瞬間さえも。彼が思い浮かべていたのは、澪の顔だったのか。「結衣、今日はバレンタインだ。零時に屋上へ行こう」彼のサプライズは簡単に予想できた。夢の中で見た、澪のために用意した花火での告白だったからだ。結婚当初、清志は愛情を表に出すことが少なかった。だがあるとき、結衣が喘息で倒れて入院した夜、目を覚ますと彼が傍らに座っていた。頬に光る涙はまだ拭われぬまま。「ずっとそばにいる。君を愛し、守るから」冷ややかな態度で知られる彼にしては、不器用ながらもその言葉は十分すぎるほど心を打った。けれど彼の夢を見てしまった今では、その言葉ひとつひとつが澪を思い浮かべていたのでは、と疑念が拭えない。やがて零時が近づくころ、結衣のもとに彼の姿はなかった。「悪い、結衣。研究室で急ぎの用ができた。すぐ行かなきゃ」――ひと突きすれば破れる薄い嘘を、清志は滑らかに口にした。結衣がスマホを開くと、澪の新しい動画が更新されていた。「記憶が戻ったの。早く帰国してファンの皆さんに会いたい......でも失った時間が多すぎる。私の人生で一番大切な人さえも。彼が待っていてくれなくても責められない。ごめんなさい......」顔を覆い、堰を切ったように泣き崩れる姿。瞬く間に動画はトレンドを席巻した。#橋本澪の元婚約者は誰#橋本澪と園田清志の悲恋の美学#園田清志の現妻その拡散ぶりは、本人の意向なくしてはあり得ない。いくつか結衣を擁護するコメン
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第3話

結衣はこれ以上見ていられず、ふらつく身体を支えながら、背を向けて歩き出した。だが、その行く手を澪が塞いだ。「もしかして......あなたが結衣さん?やっぱり!すぐわかったわ。だって――あなたの瞳、私とよく似てるから」そのころ清志は車を取りに向かっており、背後の二人に気づいていなかった。「私が悪かったの。清志のことを忘れていた。でも、私たちは小さいころから一緒に育ったの。だから彼の心は今でも私にあるはず。でなければ、あなたなんかと結婚するはずないでしょう?」清志への信頼をすでに失いながらも、結衣は歯を食いしばり、自尊心だけは守ろうとした。「私たちはもう二年間も夫婦なのよ。今さら間に入るつもり?」「先に想い合っていたのは、私と清志よ。周りから見れば、第三者として間に入ってきたのはあなたの方じゃない?」澪は意に介さず、さらに一歩一歩と迫ってくる。結衣は嫌悪を隠さず、手を上げてそれ以上近づけまいとした。「澪、どうした!」振り返った清志の視線を受け、澪は鋭い悲鳴を上げて、どぼんと川に身を落とした。「澪!」清志は一瞬の迷いもなく、すぐさま川に飛び込んだ。川の水は深くはない。けれど、そのためらいのなさが、結衣の胸を氷のように冷やした。「大丈夫だ、澪。俺がここにいる」びしょ濡れの澪は小鹿のように震えながら、清志の胸にしがみつく。「清志......ごめんなさい。私なんて、いてはいけない人間なのに、戻ってきた途端、結衣さんを怒らせてしまったわ。ごめんなさい、結衣さん。明日には出ていくから。あなたたちを邪魔することはしないから......」清志は事情も確かめず、結衣を鋭く睨んだ。「いい加減にしろ」その低く冷たい声に、思わず身が竦む。「前にも言ったはずだ。澪は妹同然だ。彼女が嫌だからといって、川に突き落とすなんて――」結衣は気丈に顔を上げた。夫に他の女がいると悟っても、取り乱したことはなかった。だが、根拠もなく責め立てられる屈辱は、堪えがたかった。「私はそんなことする人間じゃない。誰が嘘をついているか、本人が一番わかっているはずよ」澪が清志の袖を掴む。清志は目にあふれるほどの哀れみを込め、濡れていない上着をそっと彼女
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第4話

結衣は必死に身体を支え、自分でタクシーを呼んで救急外来を受診した。すべての検査を終えたころには、もう翌朝になっていた。だが彼女は家に戻って休むこともせず、「夢装置」の資料を整え、すぐに控えている学術会議へ向かう準備をした。この装置は、結衣が五年間、昼夜を問わず仲間と研究し続けてきた努力の結晶だった。今日、各方面の専門家から認められれば、正式に成功品として市場投入へと進められる。だからこそ、気を緩めることはできなかった。病院を出ようとしたとき、ふと病棟の前を通りかかった――そこで目にしたのは、朝食を持参した清志が病室のベッドに横たわる澪に、朝食をスプーンで口へ運んでいる姿だった。――愛する人と、名ばかりの愛人は違うのだ。彼にとって結衣は「妻」という肩書きにすぎず、本当に心にいるのは澪。「澪、昨日のことは怖かったろう。彼女の代わりに、俺が謝る」清志は罪悪感を浮かべながら、澪の髪を優しく撫でた。「大丈夫、清志。確かに怖かったけれど......」澪がそう言いかけたとき、ふと驚いたように声を上げた。彼らの視線の先には、ガラス越しに立つ結衣。結衣は足早に立ち去ろうとしたが、清志が腕を掴んで引き止めた。「結衣、昨日澪をいじめただろう。俺が止めなければ、気が済まないのか?」さきほどまでの優しさとは一変し、清志の眉は険しく吊り上がっていた。「清志、結衣さんを責めないで。私が不注意で落ちただけよ」澪は首を振ってかばう。清志は澪を驚かせまいと声を抑えつつも、鋭い視線を結衣に投げた。「澪は心が広いから追及しないと言っている。だから君は彼女に頭を下げ、許しを請え。そうすれば、この件は終わりだ」「絶対に嫌」結衣は強く顔を上げた。「彼女自身が自分の不注意だと認めているわ」「まともな人間が、理由もなく水に落ちるものか!」怒気を含んだ清志の瞳が結衣を射抜く。彼は彼女の肩を掴み、力強く揺さぶった。「離して!」結衣が腕を振り払うと、抱えていた病歴ファイルが床に散らばった。清志の表情に、一瞬の戸惑いが走る。「これは......誰の病歴だ?君、病気なのか?」そのとき、結衣の携帯が鳴った。学会のスタッフからの電話で、発表開始が迫っていることを告げられる。
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第5話

その言葉に、会場全体がざわめいた。「まさか......それは彼女が盗んだ成果だっていうのか?」「そういえば前から不思議だった。心理学の課程博士に、こんな複雑な装置が作れるのかって」結衣は拳を固く握りしめ、爪が掌に食い込むのも構わず、必死に怒りを抑えた。今は感情に呑まれている場合ではない。冷静に言葉を整え、反論を準備する。「澪さんの指摘には何の根拠もありません。なので私が答える必要はありません」マイクを握り、議論する専門家たちへ向き直った。「夢装置は私ひとりのものではなく、チーム全体の成果です。心理学を専門とする私のほかにも、多くの技術者が参加しています。どうか私たちを信じてください」「それに、開発の初期には夫である園田教授の助言も受けました。彼なら必ず、皆さまの疑念を払拭してくれるはずです」その瞬間、視線は一斉に清志へ注がれた。結衣も息を詰めて、彼の言葉を待った。――彼が口を開き、自分の正しさを証明してくれさえすれば。業界における彼の影響力があれば、批判も和らぐはずだ。「結衣は俺の妻だ」清志は金縁の眼鏡を押し上げ、ゆっくりと口を開いた。「だからこそ、彼女に肩入れすることはできないし、夢装置の研究について、俺たちは深く話し合ったことがない。なので申し訳ないが、現時点で彼女を擁護することはできない」「どういう意味だ、それは!」「言外に盗作だと認めたも同然じゃないか!」「夫婦なのに、突き放すなんて。少しは体面を考えたらどうだ」「そうか......だから園田教授は江口と距離を置いて、澪さんと一緒に入場してきたのか」「寝食を共にした相手が盗作犯だなんて、さぞ失望しただろうな。けど、澪さんが戻ってきたんだ。まだやり直せる......」会場のざわめきは雪崩のように押し寄せ、結衣の耳にはもう断片しか届かなかった。視界が揺らぎ、足元が崩れそうになる。――人生で最も大切な舞台で、夫が自ら嘘をつき、自分の五年の努力を踏みにじるなんて。どうして?彼女には理解できなかった。たとえ愛がなくとも、二年間夫婦として過ごしてきたというのに......耳鳴りが響く中、清志の低い声が落ちてきた。「ただの歌手、だと?結衣、俺は君のその尊大で、人を見下す
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第6話

結衣は、清志が仕事に出ている時間を狙って家に戻った。玄関脇の宅配棚には、彼女宛てのビザの書類と並んで、999本のピンクのバラの花束が置かれていた。そこには「橋本澪さんのファンミーティングの成功を祈って」と書かれたカードが添えられていた。その鮮やかなピンクの花々が、結衣の瞳を鋭く刺す。――結婚して二年。清志は一度も彼女に花束を贈ったことがない。「花なんてすぐに枯れる。無駄なことは嫌いだ」と、いつもそう言っていた。だが今ならわかる。嫌いだったのは「花を贈ること」ではなく、「花を贈りたい相手が結衣ではなかった」だけなのだ。結衣は視線を逸らし、黙って部屋に入り、自分の荷物をまとめ始めた。清志の趣向に合わせ、部屋はどこまでも簡素に整えられていた。かつてはベッドの上にぬいぐるみを山ほど並べていた結衣だったが、清志が嫌がるので、一箱分をまるごと和也の家へ送ってしまった。だから今、片付けは驚くほど簡単だった。宝石箱を開けると、中に黒い白鳥を模したパールのネックレスがあった。持っていくかどうか、一瞬迷う。それは著名なジュエリーデザイナーの新作で、結衣が一目で心を奪われたものだった。価格が高すぎて口に出せなかったのに、清志は彼女の気持ちを見抜き、婚約の贈り物として買ってきてくれた。あの瞬間の驚きと幸福を、結衣は今も忘れられない。「やっと帰ってきたな」突然、部屋の入口に清志の姿があった。額に細かな汗を浮かべ、息を弾ませている。急いで駆け戻ってきたのだとわかる。――そうだ。玄関の監視カメラが、彼女の帰宅を映していたのだ。「たかがこんなことで家出するとは......結衣、君もいい大人だろう。どうしてそんな子供じみた真似をするんだ」不満げに眉をつり上げる彼の顔。ここ数日、彼女はもう何度もその表情を見てきた。結衣の胸に、あの日の記憶がよみがえる。学術会議の壇上で、彼は全員の前で澪を庇い、結衣を盗作犯扱いした――胸の奥がひりつき、瞳が赤く染まる。「......まあ、戻ってきたならいい」清志の声が少し柔らぐ。「この数日、澪は怯えて眠れない夜を過ごしている。自分が悪いんだと責め続けてたんだ......それで君が帰ってこないんだろう?」「彼女がいなければ、私は盗作犯
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第7話

和也の家に戻ると、結衣は急いで自分のための弁明文を書き上げた。学者として、彼女は本来、世間での評判を気にする性格ではない。だが澪のやり口があまりに卑劣で、黙っているわけにはいかなかった。同じ舞台に立つなら、同じ手段で反撃するしかない。「カメラに映っても緊張するなよ。俺が横に座ってるから」和也は励ますように肩を軽く叩いた。彼は人気のインフルエンサーで、動画チャンネルの再生数はどのプラットフォームでも多い。結衣は、自分の弁明動画が公開されれば、必ず大きな反響を呼ぶと信じていた。「橋本澪さんが夢装置に対して行った疑惑の発言について、すでに私は明確に反論しました。澪さんには買収によるデマ拡散などの行為をただちにやめていただきたく思います。同時に、自らの発言に責任を持ち、ネット上での公開謝罪を求めます」和也の拡散力もあり、この動画は瞬く間にトレンド入りした。【えっ、これが園田教授の謎めいた奥さん、江口結衣?】【思ったより優しげな雰囲気の人だし、話も筋が通ってる。ただ学術界のことは外からじゃ判断できないよな......】【心理学科の学生です。江口先生が業界で残した功績を知ってます。全力で支持します!】もちろん、押し寄せるコメントの中には、澪の支持者も少なくなかった。【自分の評判が地に落ちたから、澪ちゃんを巻き込んで道連れにするつもり?】【よりによって澪ちゃんのファンミのときに動画を出すとか、露骨に便乗してるじゃん!】【誰かこいつを業界から締め出せ!】さらにコメントを読み続けようとした結衣の手から、和也がさっとスマホを奪った。「気にするな。俺だって毎日罵詈雑言を浴びてる。ひとつひとつ気にしてたら生きていけないぞ」慰めてくれているのだとわかり、結衣はわずかに笑みを浮かべた。「大丈夫よ。どうせ三日後にはA国へ飛ぶわ。目に入らなければ気にもならない」「......で、清志は?」「今や国内のトップ学者よ。特別な立場だから、そう簡単には国外へ出られない」和也は胸を撫で下ろした。「それは朗報だな。あんな男、遠くに置いてきた方がいい」そのとき、結衣の手元の電話が鳴った。相手が誰か、考えるまでもない――清志だ。「出な。何を言うつもりか、聞
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第8話

病院のVIP病室。清志は二日二晩、眠ったまま目を覚まさなかった。「脳のCTはすでに確認しましたが、明らかな損傷は見られません」医師は首を振り、ため息をついた。「恐らく事故のショックで強いPTSDを起こし、ストレス反応から昏睡に陥った可能性があります」「全部、私のせい......清志を苦しめてしまった」車椅子に座った澪は、涙に濡れた顔を両手で覆い、声を詰まらせた。「きっと清志は、昔、私が事故に遭ったのを見ているから......その記憶で発作が出たんだわ」「澪、あなたのせいじゃないのよ」清志の母は優しく澪の涙を拭った。だが次の瞬間、結衣に向けられた眼差しは刃のように鋭く変わる。「清志をこんな目に遭わせたのはあなたよ。自分でもわかっているはずよね。あの子を追い詰めるように動画なんか出すから、澪を連れて病院へ急ぐ途中で事故に遭ったんじゃない!」「おばさん、結衣さんを責めないで......」澪が弱々しく口を挟んだ。結婚して二年。清志の母は、結衣の平凡な出自を決して認めなかった。今や幼なじみの澪が戻り、母子と澪の三人でまるで本物の家族のように寄り添っている。その輪の外に、結衣は居場所をなくしていた。「患者が目を覚まさないことに、皆が焦っています」医師が清志の母をなだめ、ふいに結衣へと視線を向けた。「江口さんは夢療師だと伺っています。このようなケースで、夢に入り込んで呼びかけることは可能でしょうか?」清志のように事故による急性のストレスから昏睡状態になった患者に、結衣はまだ出会ったことがなかった。だが――夢治療は唯一の望みと言えた。「清志をこんな目に遭わせた責任はあなたにある。だから必ず治してもらうわ!」清志の母の声は強硬で、反論を許さなかった。「忘れていないでしょうね?留学の学費も、研究資金も、全部清志が工面してあげたことを」それは確かに事実だった。結衣の家は裕福ではなく、全額奨学金でなんとか学費を賄った。海外に出てからも、実家に迷惑をかけまいと、授業後は家庭教師をし、夜は心理相談室で深夜勤務。一日三、四時間しか眠れない日々を過ごしていた。そんな彼女を清志は不憫に思い、生活費の一部を立て替え、「いつか返せばいい」と支えてくれた。「...
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第9話

結衣が夢装置を抱えて病室に戻ると、澪と清志の母が、左右から清志のベッドに寄り添っていた。澪が何かを囁くと、清志の母は嬉しそうに笑い、彼女の手を清志の手の上に重ねた。――どうせ皆、私が早く身を引くのを望んでいる。澪に妻という席を譲ることを。そう思うと、結衣の唇に自嘲の笑みが浮かんだ。「患者との対話に部外者は不要です」淡々と告げると、澪は慌てて清志の母の手を握った。「おばさん......清志をひとり病室に残しても大丈夫ですよね?」「私たちが外にいるなら、彼女も勝手な真似はできないでしょう」清志の母は冷たい視線を結衣に投げつけ、澪に支えられて部屋を出ていった。病室には、結衣と清志だけが残された。――二人きりで静かに向き合うのは、一体いつ以来だろう。胸の奥にふっとそんな思いがよぎる。「いいわ。今日で、全ての騒ぎに終止符を打とう」結衣は清志に夢装置を装着させ、自らもその夢へと身を沈めていった。前回とは違い、今回は清志が無意識のまま見ている夢。そこには彼の心の最深部、最も強く求めているものが映し出されるはずだ。――彼らは道を挟んで向かい合っていた。清志はスーツ姿で、手を差し伸べてくる。「澪......君なのか?」夢の混濁の中で、彼は結衣を澪と見間違えていた。結衣は唇をきつく噛み、現実を壊すまいとただ静かに頷いた。五年の恋の果て、結衣はついに妥協した。彼の幻想の中で、愛する人の代わりになることを受け入れてしまったのだ。清志は感極まり、彼女を抱き締めようと駆け寄る。だが二人の間を、途切れることのない車の列が阻んでいた。――この光景は、澪との婚約披露の場なのだろう。あの事故が澪の記憶を奪い、代わりに自分が妻となった。それこそが清志の心のしこりであり、深層に刻まれたトラウマだった。「澪!危ない、車が!」結衣が駆け出した瞬間、猛スピードのバイクが彼女をはね飛ばした。全身を襲う激痛。夢とわかっていても、その痛みは現実のように結衣を苛んだ。歯を食いしばり、地面に手をつくが、脚も膝も力を失い、立ち上がれない。「清志......清志......」嗄れた声で名を呼ぶと、清志は目を赤くして駆け寄ってきた。「澪、どうか俺を忘れないでくれ!今度こそ君
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第10話

清志がゆっくりと目を開けた。まるで長い夢から覚めたように、現実が遠い世界のように思えた。「清志、やっと目を覚ましてくれたのね。みんな心配でたまらなかったのよ。特に澪なんて、目が覚めてからずっと枕元に付き添って、やつれてしまったくらいだわ」澪は涙に顔を濡らし、泣き崩れていた。「清志......私が悪かったの。病院まで付き添わせたりしたから......全部私のせいだわ」すすり泣きが病室を満たす中、清志は澪の頬を撫で、指先で涙を拭った。昏い夢の中で――たしかに誰かが、涙に濡れた瞳で必死に自分の名を呼んでいた気がする。「清志、目を覚まして」と。あれは誰だった?澪か、それとも結衣か?思い出そうとしても、記憶は霞のように指の間から零れ落ちる。「結衣は......どこだ?どうして彼女の姿が見えない」清志は病室を見回し、問いかけた。「清志、怒らないで......結衣さんはね、あなたがずっと目を覚まさないって知ってここを出て行ったの」澪は涙目で清志の母親に視線を送る。清志の母が重く瞼を下ろして口を開いた。「結衣は泣きながら園田家を出ると言ったわ。私はそれを受け入れた。清志、今こそ澪を大切にするのよ。彼女はすべてを投げ打って、あなたのために尽くしてくれているのだから」「でも......夢の中で俺を呼んでいたあの声は誰なんだ?」清志が問い返すと、母は断言した。「澪が夢装置をつけて、必死にあなたを呼び戻したのよ」その言葉が、清志の最後の疑念を打ち砕いた。彼は冷たい笑みを浮かべた。「夫婦だから、せめて最低限の情くらいはあると思っていた。だが俺はとうに気づくべきだったんだ。あの女には心なんてない」母はすぐに退院手続きを進めた。澪は「一緒に園田家へ戻って世話をしたい」と願ったが、清志はそれを拒んだ。ひとりで車を走らせ、家に戻った。庭の花壇は、結衣が手をかけなくなったせいで、草木がしおれ、力なく首を垂れていた。家に入ると、リビングも寝室も塵ひとつなく片づけられている。だが結衣の持ち物はほとんど残されたまま。唯一、机の上の宝石箱だけが空になっていた。そこに収められていたのは、彼が結衣に贈った婚約のネックレス――彼女が一目で気に入り、清志が研究のボ
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