木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。 彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。 結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。 権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。 だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。 一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。 二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。 「木崎さん、本当にいいんですか?抹消手続きには十五日かかります。一度完了すれば、『愛莉』という名前は、この世から完全に消えてしまいます」「いいんです」愛莉の声は揺るぎなかった。前世で、皆が羨んだこの結婚は、実際には彼女の父の命と引き換えで成り立っていた。津波の夜、投身自殺を図った陽平を救うため、愛莉の父は命を差し出した。父の唯一の願いは「娘が幸せになれるように」ということだった。その恩を返そうと、陽平は愛莉を妻に迎えたのだ。皆に祝福されて嫁いだ日は、幸せの始まりのはずだった。しかし――愛莉が知ったのは、陽平の心の中にずっと早見彩花(はやみ あやか)がいるということだった。海へ飛び込んだ理由も、チェロの夢を選び自分を捨てた彩花のせいだった。結婚後、陽平は一度も愛莉に触れず、冷たい他人のように振る舞った。ただ一度、酔ったときに彼女を彩花と勘違いして抱いたことがあり、その結果が優翔が生まれた。それからは少しずつ態度が軟らいでいき、ようやく彼女に笑顔を見せ始めていた。愛莉は「ようやく心を溶かせた」と信じていたが――彩花が帰国した瞬間、全てが終わった。陽平の瞳には彩花しか映らなくなり、息子すら母親と認めたのは彩花だった。やがて彩花は家に入り込み、愛莉は「正妻」という名ばかりで、一生家政婦のように扱われ続けた。五十歳のときに耐えかねて区役所に離婚の相談をしたが、その時初めて知った。――陽平との婚姻届は偽造で、自分は正式に妻ではなかったということを。さらに、優翔の戸籍上の母親は最初から彩花になっていた。つまり、愛莉は
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