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長亭で振り返れば、故人は遠くに

長亭で振り返れば、故人は遠くに

By:  ラーメンは空を飛ばないCompleted
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木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。 彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。 結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。 権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。 だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。 一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。 二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。

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Chapter 1

第1話

木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。

彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。

結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。

権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。

だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。

一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。

二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。

「木崎さん、本当にいいんですか?抹消手続きには十五日かかります。一度完了すれば、『愛莉』という名前は、この世から完全に消えてしまいます」

「いいんです」愛莉の声は揺るぎなかった。

前世で、皆が羨んだこの結婚は、実際には彼女の父の命と引き換えで成り立っていた。

津波の夜、投身自殺を図った陽平を救うため、愛莉の父は命を差し出した。

父の唯一の願いは「娘が幸せになれるように」ということだった。

その恩を返そうと、陽平は愛莉を妻に迎えたのだ。

皆に祝福されて嫁いだ日は、幸せの始まりのはずだった。

しかし――愛莉が知ったのは、陽平の心の中にずっと早見彩花(はやみ あやか)がいるということだった。

海へ飛び込んだ理由も、チェロの夢を選び自分を捨てた彩花のせいだった。

結婚後、陽平は一度も愛莉に触れず、冷たい他人のように振る舞った。

ただ一度、酔ったときに彼女を彩花と勘違いして抱いたことがあり、その結果が優翔が生まれた。

それからは少しずつ態度が軟らいでいき、ようやく彼女に笑顔を見せ始めていた。

愛莉は「ようやく心を溶かせた」と信じていたが――彩花が帰国した瞬間、全てが終わった。

陽平の瞳には彩花しか映らなくなり、息子すら母親と認めたのは彩花だった。

やがて彩花は家に入り込み、愛莉は「正妻」という名ばかりで、一生家政婦のように扱われ続けた。

五十歳のときに耐えかねて区役所に離婚の相談をしたが、その時初めて知った。

――陽平との婚姻届は偽造で、自分は正式に妻ではなかったということを。

さらに、優翔の戸籍上の母親は最初から彩花になっていた。

つまり、愛莉は最初から「部外者」だった。身分すら与えられない存在だったのだ。

現実を知った彼女は精神が崩壊し、区役所を飛び出した直後、車にはねられ命を落とした。

次に目を開いた瞬間、戻っていたのは二十九歳の時。彩花がちょうど帰国したその日だった。

愛莉は苦い記憶を振り払うように時計へ目を落とし、時刻を確認した。もうすぐだ。

予想通り、次の瞬間スマホに速報が届いた。

【世界的チェリスト彩花帰国、坂井家後継者が子供連れて、高級車を贈り愛を告白。二人は極秘結婚し子どもがいるとの噂】

ニュースを開くと、映し出された映像には陽平が彩花の手を取り、覆い布を派手に剥ぎ取る姿。

そこに現れたのはピカピカのマセラティ。群衆の口が一斉に開いた。

「すごっ!やっぱり財閥って桁違い……あの車、ネットでしか見たことないよ!二千万円は軽く超えてる!」

タイミング良く、陽平の甘い声が響いた。

「彩花、俺の体も車も、全部お前のものだ」

彩花は真っ赤になって慌てて首を振った。

「陽平、これは高すぎるわ。受け取れないよ」

陽平が口を開く前に、優翔が自ら一歩前に出て、彩花の服の裾を引っ張りながら甘えた声で言った。

「彩花おばちゃん、受け取ってよ。パパ、本当は島を買おうとしてたんだけど、びっくりさせちゃうと思って車にしたんだ。

もし受け取ってくれなきゃ、パパも僕も悲しいよ」

それを聞いた彩花は、困ったように微笑んで仕方なく頷いた。

映像が終わると同時に、愛莉は唇を皮肉に吊り上げた。

胸の奥が針で刺されるように痛む。

結婚して七年。陽平からは一度も贈り物など無く、優しい言葉すらかけてもらったことはなかった。

その上、心を込めて育てた息子までもが、自分を召使いのように扱い嫌悪していた。

彼女は「父と子の性格だから」と諦めかけていたが、実際は――二人とも優しさを別の女に与えていただけだった。

愛莉はそれ以上見ず、車を走らせ邸宅へ戻った。

玄関を開けた瞬間、目に映ったのは、自分の服やアクセサリーがすべて外に捨てられている光景だった。

何事か尋ねようとした矢先、彩花の持ち物が次々と中へ運び込まれていった。

彼女が部屋から現れると、申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさいね、木崎さん。この部屋、日当たりがいいって何気なく言ったら、陽平が気を利かせて……無理やり私を住ませてくれたの」

それを聞いた愛莉の声は冷え切っていた。

「早見さんがどこで暮らそうと自由ですが、これは私の持ち物です。あなたが勝手に処分する権利はありません」

彩花が答える前に、陽平の声が背後から飛んできた。

「俺がやらせたんだ」

「彩花には日当たりのいい部屋が必要なんだよ。新居は改装中で住めないし、お前の部屋がちょうど条件に合っていた。それで何か問題あるか?」

「でも、これは私の物です。いくらあなたでも勝手に……」

言い終える前に、優翔が花束を抱えて割り込んだ。

「彩花おばちゃん、ママの言うことなんか気にしないで。家の中でママの言葉なんて、お手伝いさんより軽いんだから」

「先生が言ってたよ。今日は母の日だから、一番大切な人にカーネーションを贈るんだって」

そう言って彼は少し照れながら身をよじる。

「だから僕、この花を彩花おばちゃんにあげたいんだ」

挑発するように愛莉へ笑みを見せた彩花は、すぐに陽平へ困った顔を向けた。

「陽平、これはよくないんじゃない?優翔のことは大好きだけど、でも、木崎さんが優翔の本当のお母さんでしょう?」

陽平は甘さを滲ませた声音で答えた。

「彩花、優翔が渡したいなら受け取ってやれ。子供の気持ちは真っ直ぐなんだ。好きな相手にあげるだけだよ」

彩花は仕方なさそうに花を受け取り、しゃがんで優翔の頭を撫でた。

「ありがとう優翔。まさかおばちゃんが、本当のママより大事だと思ってくれるなんて」

「うんうん!僕にとって彩花おばちゃんこそ本当のママだよ」

陽平は愛莉の顔色を見て眉をひそめ、軽く叱った。

「優翔、お母さんが横にいるだろう?そんなこと言ったら傷つく」

だが優翔は唇を突き出し、声を張り上げた。

「やだ!僕は彩花おばちゃんをママにする!ママは絶対彩花おばちゃんがいい!」

その光景を見ても、愛莉はもう叱りつけはしなかった。

ただ静かに荷物を抱え、玄関へ足を運んだ。

前世でも今世でも、優翔は同じだった。

どれだけ尽くしても、「母」と認めるのはあの女だけ。

愛莉は乾いた笑みを浮かべた。こんな場面は、前の人生で百回以上も見せつけられてきたのだ。

ならば――陽平と優翔が心から望む通りに。

彼ら父子の世界から、完全に消えてやるのだ。
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木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。 彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。 結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。 権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。 だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。 一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。 二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。 「木崎さん、本当にいいんですか?抹消手続きには十五日かかります。一度完了すれば、『愛莉』という名前は、この世から完全に消えてしまいます」「いいんです」愛莉の声は揺るぎなかった。前世で、皆が羨んだこの結婚は、実際には彼女の父の命と引き換えで成り立っていた。津波の夜、投身自殺を図った陽平を救うため、愛莉の父は命を差し出した。父の唯一の願いは「娘が幸せになれるように」ということだった。その恩を返そうと、陽平は愛莉を妻に迎えたのだ。皆に祝福されて嫁いだ日は、幸せの始まりのはずだった。しかし――愛莉が知ったのは、陽平の心の中にずっと早見彩花(はやみ あやか)がいるということだった。海へ飛び込んだ理由も、チェロの夢を選び自分を捨てた彩花のせいだった。結婚後、陽平は一度も愛莉に触れず、冷たい他人のように振る舞った。ただ一度、酔ったときに彼女を彩花と勘違いして抱いたことがあり、その結果が優翔が生まれた。それからは少しずつ態度が軟らいでいき、ようやく彼女に笑顔を見せ始めていた。愛莉は「ようやく心を溶かせた」と信じていたが――彩花が帰国した瞬間、全てが終わった。陽平の瞳には彩花しか映らなくなり、息子すら母親と認めたのは彩花だった。やがて彩花は家に入り込み、愛莉は「正妻」という名ばかりで、一生家政婦のように扱われ続けた。五十歳のときに耐えかねて区役所に離婚の相談をしたが、その時初めて知った。――陽平との婚姻届は偽造で、自分は正式に妻ではなかったということを。さらに、優翔の戸籍上の母親は最初から彩花になっていた。つまり、愛莉は
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第2話
翌朝、愛莉はいつもより早く目を覚まし、念入りに身支度を整えてから慌ただしく階下へ降りてきた。 今日は彼女の親友である赤木紗英(あかぎ さえ)の結婚式の日だった。 この社交界で唯一、彼女に優しさを示してくれたのが紗英である。愛莉は、どうしてもその幸福の瞬間を見届けたかった。 玄関を出て車に乗ろうとした時、助手席に彩花が座っているのに気づいた。 愛莉の視線を察した陽平が説明する。 「彩花は国に戻ってきたばかりで知り合いも少ないんだ。だから少しずつ慣れてもらおうと思ってね」 愛莉の顔色は一瞬で硬直し、礼服の裾をぎゅっと握りしめる。 A市の人間なら誰でも知っている。彩花こそが陽平の本命であり、彼がずっと忘れられずにいる女性だということを。 その彩花を今日のような場に同伴させるなんて――それは正妻である愛莉の顔に泥を塗るも同然だった。 けれど愛莉は何も言わず、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。 今日は紗英の大切な日。つまらないことで水を差したくはなかった。 …… 午前十一時、数千万円はするマイバッハが披露宴会場の前に停まった。陽平は赤い靴底の薄い革靴を履き、運転席から降りた。彼は後部座席のドアを開け、少し身をかがめて、紳士的に彩花に手を差し出した。彼は愛おしそうに微笑んだ。「お姫様、どうぞ」 彩花は頬を赤く染め、陽平の手を取る。二人は腕を組み、仲睦まじく会場へと歩いて行った。 それを見た優翔が慌ただしく割り込み、二人の手を引っ張った。 「パパ、優翔のこと忘れちゃだめだよ、僕もいるよ!」そう言って、三人はいっしょに笑いながら会場に入っていった。車の後部座席にまだ愛莉が残っていることなど、誰も思い出しもしなかった。愛莉の心には悲しみがこみ上げてきたが、すぐに気持ちを切り替えた。二十一年間、こうして無視され続けてきた。もう慣れっこだ。 警備員が同情の色を浮かべる中、愛莉は細いヒールを鳴らし、ひとりで会場へ入った。 中に足を踏み入れた途端、ひそひそ声が耳に突き刺さる。 「えっ、今入ってきた人が本物の坂井夫人?じゃあさっき坂井社長と腕を組んでた女は?」 「ありゃ坂井社長の本命の女だよ。ずっと特別扱いしてるんだ」 「うわ、坂井夫人かわいそう……正妻を差し置いて堂々と本命の女を連れてくる
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第3話
昼食会が始まると、宴席に集まった人々はグラスを手にし、次々と社交を始めた。 陽平と彩花の関係がただものではないと察した人々は、彩花に次々とグラスを差し出す。 「早見さんは本当に若くして有能ですね。世界中を魅了するチェロ演奏、ずっと拝見したいと思っていたんですが、まさか今日こうしてお会いできるとは」 「どうぞ、この一杯は私から。いつか生の演奏を聴ける日を楽しみにしています」 彩花は丁寧に微笑み、差し出された酒を受け取ろうとしたが、その瞬間、陽平が横から奪い取り、一気に飲み干した。 「彼女はお酒が飲めない。彼女への乾杯は全部俺が代わりに受ける」 陽平の一言に、彩花へ酒を勧めようとしていた人々は一斉に息を呑んだ。あの坂井家だ、誰がそんな相手に無理を通そうとするだろう。 だがすぐに獲物を変えたように、今度は愛莉へと視線が向けられた。 「坂井夫人、坂井社長がこれほど立派なのは、きっとあなたのような優秀な内助の功があってこそでしょう。よろしければ、この一杯、お付き合いいただけませんか?」そう言うと、無意識に陽平の顔色をうかがった。だが今回は、陽平はまるで何も聞こえないかのように、席に座ったまま彩花の皿に料理を取り分けている。 その様子に男は胸をなで下ろした。 愛莉はその光景を見て、自嘲気味に唇を歪めた。見て見ぬふりをするだろうとは思っていたが、まさか表面すら取り繕おうともしないとは。 愛莉は咳払いすると、手を振って断った。 「すみません、私、アルコールアレルギーで飲めないんです」 グラスを差し出していた男は眉をひそめる。 「そんな言い訳しなくてもいいじゃないですか。たった一杯だけでいいんです、顔を立ててくださいよ」 愛莉は怯まずに答えた。 「本当に飲めないんです。申し訳ありません」 言い終える前に、陽平の顔に不快そうな色が走った。彼はグラスをゆっくりと回し、氷のような声を低く響かせる。 「外に出れば、坂井家を背負っているんだ」 「たかが一杯だ、飲めばいい。坂井家に恥をかかせるな」 愛莉は思わず反論しかけたが、そのとき優翔が声を張り上げた。 「ママ、ウソつくなよ!本当は飲みたくないだけでしょ?優翔だってそんなママは情けなく思うよ!」 その声は多くの客の耳に届き、周囲の視線が一斉に愛莉へ注が
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第4話
愛莉は言い終えると部屋に戻って眠りについた。陽平は愛莉の言葉に、ただ立ち尽くしていた。こんな愛莉を見たのは初めてだった。彼女は嫁いで来てから、感情を一切表に出さなかった。まるでロボットのようだと思っていたが、今日の彼女を見て、彼はようやく思い出した。彼女も人間で、感情があるのだと。……翌朝早く、陽平は市内で最大規模のオークションの招待状を受け取った。招待状を見た彩花は、興奮して彼の腕を組んだ。「わあ、オークションだなんて、楽しそう!海外に行ってから、もうずっとオークションに行ってないわ」優翔も声を上げた。「パパ、今回のオークションには、僕と彩花おばちゃんを連れて行ってよ。ママは連れて行かないで。連れて行くと恥ずかしいよ。うちはあんなにお金持ちなのに、この前一緒に行った時、ママは入札さえしなかったんだ」それを聞いた愛莉は、手のひらを強く握りしめた。彼女はただ、坂井家のお金を使いたくなかっただけなのに、息子にそんな風に思われているとは知らなかった。普段は子どもを甘やかす陽平だが、今回はすぐには頷かなかった。昨日のアルコールアレルギーの件を思い出したのだ。陽平はしばらくためらった後、愛莉に声をかけた。「支度をしろ。一緒にオークションに行くぞ」愛莉は断ろうとしたが、陽平はすでに車に乗り込んでいた。愛莉は仕方なく服を着替え、オークション会場へ向かった。オークション会場では、彩花が少しでも目を向けたものは、陽平がためらうことなく全部落札した。たとえそれが億単位の価値があるものであっても、陽平は躊躇なく手を挙げた。彩花は得意げに愛莉を見て、甘えた声で言った。「木崎さん、こんなに長く見てるのに、一つも落札してないじゃない?お金が足りないって心配してるの?心配しないで。もし気に入ったものがあったら、私に言ってね。陽平に頼んで入札してもらってあげるわ」彩花の親切ぶった様子を見て、愛莉は淡々と言った。「早見さん、お気遣いなく。坂井家の夫人を何年もやっているから、この程度のお金は持っているよ」彩花の顔は青ざめた。まもなくして、一つの出品物が運び込まれてきた。それは、とても古びた翡翠のペンダントで、苔の跡までついていた。誰にも落札したいという気持ちを起こさせないような代物だった。彩花はペンダントを
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第5話
愛莉はそう言い終えると、ためらうことなく優翔の手を振り払って、足早に去っていった。 陽平の顔は怒りで引きつっていたが、それでも彩花を慰めることを忘れなかった。 「彩花、辛い思いをさせて悪かったな。安心しろ、今日の仕打ちは必ず償わせる」 その言葉から三十分も経たないうちに、愛莉は何者かに拉致されていた。 頭に袋を被せられた愛莉は、鉄パイプを持った何者かに、力任せにその手を叩かれた。一瞬にして、愛莉の柔らかい手のひらは裂け、血まみれになった。愛莉の声には、隠しきれない恐怖がにじんでいた。「あなたは誰?恨みもないのに、どうしてこんなことをするの?」次の瞬間、ボイスチェンジャーを通した声が響いた。「お前は怒らせちゃいけない相手を怒らせたからだ」「入札するのが好きだったんだろ?手が使えなくなったら、どうやって入札するか見ものだな!」その言葉を聞いて、愛莉が考える間もなく、冷たく骨まで突き刺さるような鉄パイプが愛莉の手に振り下ろされた。一回、二回、三回……九十九回叩かれた後、愛莉の手は完全に感覚を失っていた。地面には、彼女の手から流れた血が広がっていた。彼女自身も、その血肉が飛び散った手を見る勇気がなかった。愛莉が完全に意識を失う直前、彼女は不意に、その人物の薬指にはまったダイヤモンドの指輪を見た。その指輪のデザインは、どこかで見たことがあるような、とても見覚えのあるものだった。次の瞬間、彼女は自分の手にはまった指輪を無意識にちらりと見て、すべてを理解した。なんと、彼女のてのひらを九十九回も叩きつけたのは、他でもない。七年間連れ添った夫、陽平だった。そして、彼が彼女にそんな酷い仕打ちをした理由は、ただ、彩花が欲しがっていた出品物を、彼女が落札したという、それだけのことに過ぎなかったのだ。彼は彼女の手を使いものにならなくさせ、二度と入札できないようにしようとしたのだ。愛莉の心には、限りない悲しみがこみ上げてきた。とめどなく涙が流れた。陽平、私が最も後悔しているのは、あなたと結婚し、名ばかりの妻になったことよ!愛莉が目を覚ますと、彼女は自分の部屋のベッドに横たわっていた。手は消毒され、包帯が巻かれていた。意識が朦朧とする中、自分の髪が何度も引っ張られているのを感じた。完全に目を覚
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第6話
愛莉はその場に凍りついた。優翔がこんなことをするなんて、こんな言葉を口にするなんて思いもしなかった。 たった一回、彼女が彩花の欲しがっていたものを落札しただけで、父と子が揃って彼女に報復してくるなんて。 かつては何よりも大事に思っていた人たちが、迷いなく次々と刃を突きつけてくる。 愛莉は自嘲気味に笑い声を漏らし、涙で赤くなった目で優翔を掴んだ。 「優翔、どうしてママにこんなひどいことをするの?今日はちゃんと教えてあげないといけないわね!」 そう言って愛莉が手を振り上げた瞬間、彩花が慌てて飛び込んできた。 「木崎さん、何をしているの?どんなことがあっても子どもを叩いちゃいけないよ」 だが今度の愛莉は昔のように従順ではなく、冷たく言い放った。 「どいてください。 これは私の家のことだ。早見さん、これはあなたが口を出すことなの?」 彩花が返す暇もなく、背後から陽平の声が飛んできた。 「愛莉、何してるんだ? 怒りがあるなら俺にぶつけろ。彩花や子どもに八つ当たりをするな」 愛莉は震える体で叫んだ。 「あなた、自分の息子が何をしたか知ってるの?! 私の髪をめちゃくちゃに切ったのよ!ただ私が彩花の欲しがるものを手に入れただけで!」 「それでも子どもに手を上げていい理由にはならない!」 愛莉は鼻で笑い、皮肉を込めて言った。 「さすが親子、そっくりね」 陽平の眉がピクリと動き、瞳が見開かれた。 「今……なんて言った?」 彼は愛莉が何かに気づいたのだと思った。けれど愛莉はただ彼を冷ややかに見つめるだけで、一言も発さなかった。 そんな目を、愛莉が彼に向けたことなど一度もなかった。 そこには温かさも、信頼もなく、まるで底知れない死の水面みたいに冷たいだけだった。 陽平は弁解しようとしたが、すぐに優翔の泣き叫ぶ声にそらされた。 「ママなんていらない!僕は彩花おばちゃんにママになってほしい!こんな悪いママなんていらない!」 愛莉は冷たい笑みを浮かべて言った。 「いいよ、あんたの望み通りよ。今日から私はもうあんたのママじゃない」 その言葉に、陽平はただただ呆然と愛莉を見返した。 誰だって知っている。この家で一番子どもを愛しているのは愛莉だということを。 普段だって、優翔の服まで
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第7話
愛莉が髪を切り終えて別荘に戻ると、彩花が目を真っ赤にして、陽平の腕の中で泣いているのを見つけた。「陽平、あのペアリング、私が十八歳の誕生日にあなたがくれた成人祝いなのに、ずっと身につけてきたのに、、なくなってしまったの。洗面台に置いたはずなのに、急に消えちゃって……」陽平の目には、愛莉が見たこともない優しさが宿っていた。「彩花、なくしたならまた買ってあげるから、悲しまないで」「嫌よ、あの指輪がいいの。私たちの大切な思い出の品なのよ、私にとっては特別な意味があるの」それを聞いた愛莉は立ち止まらず、まっすぐ二階へ上がった。しかし、彩花が彼女を呼び止めた。「木崎さん、私のペアリングを見なかった?もしかして、うっかり間違えて持って行っちゃったとか?」愛莉は冷たく答えた。「見てないよ」彩花は立ち上がって愛莉の行く手を阻んだ。「それなら、木崎さんのお部屋を探させてもらえますか?」愛莉は冷笑して彩花を見た。「早見さん、私が盗んだって思ってる?悪いけど、中古品には興味がないの」それを聞いた彩花の顔色は、一瞬にして悪くなった。陽平は眉をひそめた。「お前が取ってないなら、なぜ彩花に探させないんだ?」「私の部屋はプライベートな空間だ。私には権利が……」愛莉が言い終える前に、彩花は彼女の手を払い、部屋に入っていった。彼女は愛莉の枕をひっくり返し、ちょっと探しただけで、枕の下からダイヤモンドの指輪を見つけ出した。彩花は指輪を手に取り、怒った様子で愛莉を見た。「木崎さん、これが興味がないってこと?」愛莉は潔白だったので、毅然として言った。「これは私が取ったんじゃない。どうしてここにあるかも分からない。信じられないなら監視カメラを調べればいいわ。誰が入ったのかはすぐに分かるから」彩花は愛莉が反論するとは予想していなかった。彼女は目を赤くして陽平の元へ走り寄り、非難するように言った。「陽平!私は木崎さんのために顔を立てようと思ったのに、あまりにも酷すぎる!私がわざわざ罠を仕掛けたとでも言うの?」陽平は少し目に涙を浮かべた愛莉を見て、表情をためらわせた。しかし、次の瞬間、優翔がドアを開けて入ってきて、愛莉を指差して大声で言った。「パパ、僕、この目で見たんだ!指輪はママが盗んだんだよ!マ
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第8話
エルメスの店で、彩花が気に入ったデザインは、どれであろうと。 たとえ百万円以上する物でも、陽平はカードを切って買い与えた。 店に並んでいるバッグがほとんど売り切れそうになった頃、陽平は笑顔を浮かべる彩花を見つめながら、胸の奥に妙な感情が湧き上がってきた。 レストランに向かう道中、機嫌よさそうな彩花を見て、陽平は思わず問いかけた。 「女ってみんなバッグ好きなのか?」 「当たり前じゃない。女なら誰だってバッグは好きだよ。そうじゃないなら、もう女じゃないってこと」 そう言いながら彩花は陽平の肩にもたれ、「陽平、今日はほんとにありがとう。私にここまでよくしてくれるの、あなただけだよ」と囁いた。 陽平は頷いたものの、心ここにあらずだった。――気づいてしまったのだ。 愛莉と結婚して七年、自分は一度も彼女にプレゼントを贈ったことがなかった、と。 愛莉も一度たりとも何かをねだることはなかった。だから陽平は、彼女はバッグのような物に興味がないんだと思い込んでいた。 だが今日、彩花の言葉を聞いて初めて分かった。愛莉が欲しくなかったんじゃない。ただ我慢して無駄遣いを避けていただけなんだと。 レストランに着くと、陽平は彩花に優翔を連れて先に店に入り、注文しておくように頼み、自分は車のドアにもたれて煙草に火を点けた。 横に控えていたボディガードに顔を向けて尋ねる。 「夫人はもう出されたか?」 「坂井社長のご命令どおり、三日経った時点ですぐに夫人を解放しました」 陽平は煙を吐き出し、目の奥は読めないままだった。 手を上げて指示を出す。 「お前、エルメスの店に行って、もう一つバッグを買ってこい。このカードで払え」 ボディガードは思わず口を開いた。 「夫人への贈り物ですか?」 「余計なこと言うな」 陽平は眉をひそめ、きっぱりと答えた。 煙草を吸い終えると、袖についた灰を払ってから、ようやく店内に入っていった。 そこで目にしたのは、片手にアイスクリーム、もう片手に熱々のフライドチキンを持ち、頬をいっぱいに動かしながら楽しげに笑っている優翔の姿だった。 陽平は眉を寄せて彼に近づいた。 「ママがなんて言ってたか忘れたのか?そんなジャンクフードばっか食べたら、病気になるぞ」 しかし優翔はアイスを大口
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第9話
陽平は眉をひそめて言った。「やりすぎ?指輪を盗んだ時、こんな日が来るなんて思わなかったのか?彩花、俺はただ彼女に小さな教訓を与えただけだ。君が自分を責める必要はない」陽平はそう言うと、優翔の手を引いて別荘に入った。別荘に入った瞬間、陽平は愛莉の姿を探し回ったが、結局見つけることはできなかった。以前は陽平がどんなに遅く帰宅しても、愛莉は果物を切ってソファで待っていてくれた。しかし今は果物どころか、人の姿すら見えない。彼は冷たい顔で執事に尋ねた。「夫人は?まだ地下室にいるのか?三日の期限が来たら解放しろと言ったはずだが?」執事の声は恐縮そうだった。「坂井社長、夫人は、夫人は……出て行かれました。午後にスーツケースを持って別荘を出られて、それっきり戻っていらっしゃいません」陽平は聞いた後、目の奥に隠しきれない驚きを浮かべた。「何だと?!」「こんな大事なことを、なぜ俺に一言も言わなかった?」執事は恐れおののいて声を震わせた。「坂井社長、あなたがおっしゃったのです。夫人のことは私に任せて、あなたと早見さんの買い物の邪魔をするなと」陽平の拳は固く握られ、そして彼がふと目を向けると、テーブルの上に置かれた親権放棄の契約書が見えた。彼の瞳は氷のように冷たく、恐ろしい霜に覆われた。契約書の内容を読み終えた後、彼の脳内に雷が落ちたかのようで、目を見開いた。契約書の内容には、愛莉が自発的に優翔の親権を放棄すると明確に書かれており、契約書の最後には力強く愛莉の名前が署名されていた。彼は注意深く確認し、確かに愛莉の筆跡に間違いないことを確認した。そして次の瞬間、執事が床から指輪を拾い上げて陽平に差し出した。「坂井社長、これは契約書から落ちていました」陽平は指輪を手に取り、勢いよく顔を上げ、目を大きく見開き、唇を軽く震わせた。これは……これは彼と愛莉の結婚指輪だった。当初彼らは結婚式を挙げず、彼は適当にこのペアリングを買った。しかし愛莉は、彼が適当に買ったこの指輪をずっと宝物のように大切にしていた。長年にわたって、彼女は入浴時以外は一度も外したことがなかった。しかし今、それが彼女の手によってテーブルの上に置かれ、親権放棄の契約書と一緒に。陽平の首筋に青筋が浮かび、もう我慢できずに
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第10話
陽平の声は再び落ち着きを取り戻した。「いらない、俺が彼女を探したりしたら、かえって思う壺だ。家出が好きなら、その通りにしてやる。何日持つか見てやろうじゃないか!」その後の半月間、家の大小さまざまな事はすべて彩花の肩にかかった。すべてが以前愛莉がいた時と変わらないように見えた。しかし陽平だけは、すべてが以前とは違うことをはっきりと知っていた。もう誰も陽平のために彼が好きな料理を作ってくれる人はいない。夜家に帰っても、もうリビングで待っていてくれる人はいない。あるのは真っ暗な照明だけだった。もう誰も優翔に幼稚な寝る前の物語を飽きもせずに話してくれる人はいない。優翔の通学服も以前のような清潔さはなく、あるのはしわくちゃで洗っていない制服だけだった。そして陽平の胃病も、愛莉の世話がないために再発した。夜、彩花が注文した辛い出前を食べた後、陽平の胃がひっくり返るように痛み始めた。彼は薬箱を指差し、彩花に胃薬を取ってもらったが、持ってきてみると胃薬はとっくに底をついていた。以前はこれらすべて愛莉が用意していたが、愛莉がいなくなってからは家の胃薬を買う人もいなくなった。それを見て、彼は胃を押さえながら彩花にホットミルクを作ってもらった。しかしミルクを口にすると、隠しきれない焦げた味がした。陽平は仕方なく手を振って、彩花に先に休むよう言った。そして、陽平が愛莉の重要性を最も痛感したのは、優翔が急性胃腸炎で病院に運ばれた時だった。優翔がベッドに横たわり、小さな顔が真っ青になっている様子を見て、陽平は眉間を押さえながら尋ねた。「彩花、優翔が病院に運ばれる前に、優翔に何を食べさせた?」彩花の声は震えていた。「いつも優翔に食べさせているもので、フライドチキンとかアイスクリームとか」陽平はそれを聞いて、感情を抑えて言った。「優翔は胃腸が弱いから、そういうものを食べさせるなって言ったじゃないか?」「優翔が病院に運ばれるなんて思わなかった。子供が楽しく食べられればいいと思って」陽平がまだ何か言おうとした時、優翔が目を開けて陽平を見て言った。「パパ、お腹がすごく痛いよ」陽平の声には心配と責める気持ちが混じっていた。「普段から好き嫌いしないで、ママの言うことを聞かないからだ。今になって痛い
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